あの日夢見た10年先へ【2nd season】
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「母と過ごした77日間」最後のブログ(後編)

今日は小・中学時代を過ごした岡山市を訪れる。



もう何年行ってないのだろう。


思春期の8年間を過ごした町は

今もまだ、形を残しているだろうか。



昨日は幼少期を過ごした広島の江波本町と

高校時代を過ごした広島の尾長町を訪れた。



母と過ごした時代を回想しながら、

ここまで育ててくれた感謝の気持ちを持って

歩きまわった。



江波本町にある母と良く食べにいった

お好み焼き屋は今もまだ残っていた。


家のすぐ裏にあった海の上には

防波堤が立ち、高速道路が走っていた。



尾長町のマンションの近く、

母と良く行ったうどん屋は潰れていた。


一緒に花火をした公園はまだ残っていた。



変わってしまったものと

変わらず残っているもの。



母と過ごした思い出だけは、

自身がどれだけ変わっていっても、

変わらず、残り続ける。



大切な人を失うことは

“喪失”ではなく“獲得”だと

友人が教えてくれた。



母が自分を犠牲にして、この数ヶ月間で

僕に獲得させてくれた多くの気付き。


多分これからも母は、

様々なものを与え続けてくれるのだろう。





1日中歩き回り、気がつくと夕暮れ時。


広島駅前のデパートのトップにある

フードコートに来ていた。



母とこの景色を見ながら話していた

1年前の日のことを思い出す。



「もう、お父さんと離婚してもいいかなぁ?」



窓の外を見ながら涙を流していた。


あの時の会話が頭の中で、反芻する。




不意に横から「たっちゃん!」と

女性の声が聞こえてきた。



母の機嫌が良い時、僕に声をかけるのと

同じ呼び方とトーンだった。



驚きながら横を向くと、

母親が、息子と楽しそうに話している。




僕の目から一気に涙が溢れ出した。


昨日からずっと我慢していたのだろうか。



“納骨を期に、もう涙は流さない”



そう決めていたのに、

母と子どもの声が耳に入ってくるたびに、

次々と涙は溢れてきた。



そのうちに、子どもが大きな声をあげると

しっ!静かにしなさいと怒られる。



その言葉は、


「いつまでもめそめそしないの!」


そう僕が言われているようで、

持参していた母のハンカチで涙を拭った。



母は向こうの世界から、

僕がたくさん笑える毎日を送れるように

見守ってくれてるはず。



もう泣くのはやめよう。




沢山幸せになって、


毎日、産んでくれてありがとうって


空に向かって呟こう。




お母さん、


産んでくれてありがとう。



ずっと見ていてね。



今まで、本当に、色々とありがとう。





___________________________________




明日からの1週間、奄美大島に

自身の気持ちをリフレッシュする旅に出ます。


「母と過ごした77日間」のブログは

今日を境に不定期になりますが、

奄美大島で写した写真はあげていくので、

興味がある方は見ていただけば幸いです。

http://Instagram.com/tatsuro.tt


ブログに何度も登場したまろんも

隔日で更新しているので覗きに来て下さいませ。

http://instgram.com/maron_japanesebobtail



今まで、拙い文章で綴られた稚拙なブログを

読んでいただき、ありがとうございました。


「母と過ごした77日間」最後のブログ(前編)


僕は今、母の遺骨を持って広島に来ている。


いよいよ四十九日を迎えた。



毎日、母の仏壇に手を合わせ

話かけてきた日々が終わろうとしている。



四十九日は、それまで喪に服していた遺族が

日常生活に戻る日。


忌明けになるので、悲しみは薄れ、

これまでの笑顔が戻ってくるとされている。




今日を境に、母の遺骨とも

お別れしなければならない。



同時に、今までの悲しみの感情とも

お別れしようと決めて

今日まで僕は、考え、悩み続けてきた。





羽田空港まで高速バスで行き、

母の遺骨を持って飛行機に乗り込むと

ちょっとした、奇跡が起きた。




“本日は満席です”と機内に

お詫びとお願いのアナウンスが流れる。



母の遺骨は何処に置いたら良いかと

CAに尋ねると、膝の上にお抱え下さいと。



肉体があった時よりは軽いものの、

骨壷の重さもあり、ずっしりとくる。



1時間半もこの状態で耐えれるだろうか

不安に思っているとCAがこちらに来て


お隣の席がキャンセルになりましたので、

どうぞ遺骨をお隣にシートベルトで留めて

お置き下さいと告げられた。



立ち上がり周りを見渡すと、

1つ足りとも他で、空き席はなかった。



まるで母が僕に負担をかけまいと

魔法をかけてくれたようだった。




1時間後、広島空港から直接、

懇意にしているお寺に行く。



御坊さんに念仏を唱えてもらい

今までの母との記憶を思い起こす。



その後、ご先祖様の墓前に行き、

母の遺骨を持って、お墓の蓋をあける。



そこには祖父母の骨壷があった。



その間に母の骨壺を挟んで置いてあげる。



「お母ちゃん


「お父ちゃん



闘病中、母は天井を見上げ

幾度も涙を流しながら呟いていた。




“お母さん、やっと一緒になれたね”



きっと母は、祖父母と共に

笑っているはずだ。





この時から空はゴロゴロと鳴り始め

黒い雲が広がり始める。



今日の広島は36℃を記録し、

驚くほど暑かった。



僕は慣れないネクタイを締め、

喪服を着ているせいで

物凄い量の汗をかいていた。


和尚さんが、この1週間、雷は鳴っても

雨が降らないから蒸し暑いと話してくれた。



汗かきの僕はふらふらしながら

ハンカチで汗を拭っていた。




その後、また不思議なことが起きた。



母が好きだったお好み焼きを

食べさせてあげようと、

遺影写真を持って所縁のお店に歩いて向う。



着く頃には、ジャケットは脱いだもの

長袖のせいで脱水症状を起こしそうだった。



お店に着くと、店主はお昼休憩中で

扉は閉まっていた。



次第にポツポツ雨が降り始める。



これはタイミングが悪かったなと思っていると

店主の奥さんがドアを開け

お店を開けますから入って下さいと

招いてくれた。



お店をくぐった瞬間に、滝のような雨。



こんな豪雨は、この季節には珍しいと

店主が驚き、笑っていた。



母の前に、お好み焼きを小皿に取り分け、

置いてあげる。



“美味しいね”と写真に話しかけながら

食べる僕以外の客はいない。



人気店でいたも混んでいるのに

今日は僕と母の貸切だった。



食べ終わって、外に出ると雨は止んでいた。



気温も下がり、涼しくなった野外は

とても心地良かった。



お好み焼きを食べさせてくれ

雨にも降られず、気温だけを下げてくれた。



母がまた、魔法をかけてくれたようだった。



更に驚くことに、空を見上げると

虹がかかっていた。



まるで、母が、今までありがとうねと

感謝を伝えてくれているようだった。





もうそんなに悩まないでと写真の中の母が言ってくれてるような気がした。

母が逝去してから来週で四十九日になる。



この世と来世とを彷徨う中陰の日。


49日を境に、自宅に祭壇している

母の遺骨ともお別れしなければならない。



来週の今日には、広島にある

祖父母のお墓に、納骨をしに行く。


そこで1週間に1度に縮小した

このブログもこれまでのように

不定期に戻そうと思う。



1か月が経ちその間、様々な世代の人達に

これまでの自分と母との関わり合い方や

後悔してること、悩んでいること、


今後の身の振り方を聞いてもらい、

少しづつ気持ちは浄化しようとしている。



周りからは、悩みすぎだし、

考えすぎだと言われることもある。


悲しみや苦しみはこの四十九日が

終わるまでに整理をつけようと


母へしてあげれなかった様々な後悔を胸に

毎日、自分を省みている。




数年前から母に冷たくしていた自身の姿は

あんなにも憎んでいた父親が母にしてきた

その様と似たものがあると気が付いた。




自分の体内には、彼の血が半分流れている。


そのことを考える時、血液を半分

抜き取りたい衝動に、今でも駆られる。




母は最後まで自分の生き方に後悔していた。




あんな父親を選んでごめんねと

何度も謝っていた。




どうしようもなく悔やみながら

弱っていく母を見るのが辛かった。




4ヶ月前、余命宣告を受けて直ぐ、


母がずっと行きたいと言っていたのに

連れていってやれなかった

プラハに行く覚悟を決めた。



しかし時既に遅し、

その体力は残っていなかった。


代わりに選んだ長野旅行。



僕が中学2年の時、

母と2人で訪れた上高地や松本に

最期の旅行をしようということになった。



片道3時間の車移動は体に負担が掛かり、

30分起きに休みながら、

車内でも横になりながら

5時間以上をかけて、訪れた。



質の高い温泉宿に泊まり、制限はあったが

食べれる美味しいものを食べさせてあげた。



2泊3日、母との最後の旅行。

人によっては、充分の親孝行だよ

そう諭してくれる。



しかし、僕が母にしてもらった

深愛を考えれば最後に、ほんの少しの

親孝行しかしてあげられなかった。



これを期に残された時間は国内の

色んな旅館に2人で泊りに行こうと

話していた。



母を避けていたこの数年間を取り戻そうと

これまで真っ当に育ててくれた

恩返しをしていこうと思っていた。



しかし、悪性腫瘍の進行は早く、

これっきりになった。





今日までは、辛くなる気持ちを避けるため

母関連の写真を見るのも避けていた。


しかし四十九日までに整理しないといけない

避けては通れない様数々のこと。



やっと見返す気持ちの余裕が出て

開いた長野旅行写真。



母が笑顔であればあるほど、

まだ、胸は苦しくなる。



49日を境に、僕の迷えるこの気持ちとも

お別れしなければならない。



もうそんなに悩まないでと

写真の中の母が言ってくれてるような気がした。






会いたくても会えなかった、まろんとやっと会えた。

未だ、ほぼ毎日のように母が夢に出てくる。



今日見た夢は、あと1日で命が無くなるから、

それまで精一杯楽しいことをしようと

2人でショッピングをしている夢だった。



昨日は、母がずっと行きたいと言っていたのに

とうとう連れていってあげれなかった

プラハの街を一緒に散歩していた。



夢でいくら毎日のように会えても、


夢の中の母はいつも笑っていっても、


実際には、何もしてあげられなかった。



僕の無念は残り続ける。




これまでの夢は生前の設定のことが多かった。



しかし最近では、亡くなった現実の世界で

夢が始まることもある。



1ヶ月が過ぎ、ようやく母の死を

受け入れるようになって来たのだろうか。





今週、母のマンション部屋の解約をした。



都立大学駅の家からタクシーで

僕の家までの道のりを辿っていた。



遺骨を座席シートに置くと、

母がすぐ隣に座っているような気がした。



17年間、目黒区で過ごした思い出。


目黒通り沿いの様々な箇所がアバターになり

次々に思い起こされる。



当分はこの界隈に来ることもないだろう。


苦しみが思い出に変わる時は

いつか来るのだろうか。



そう思って、走馬灯のように

これまでのことを、車内で思い描いていた。



30分程で、戸建ての自宅に着いた。



ずっと猫のまろんに会いたがっていたのに

とうとう会えずに、逝去してしまった母。



あんなにもまろんを愛でていたのに

会いたくても会えないから、

携帯越しに様子を見せてやるだけだった。



今日はやっと、まろんと対面できる。




僕は母の入院する病院から戻って来ると

いつもまろんに母の病気のことを伝えていた。



余命宣告前までは、

1ヶ月に1度くらいしか会わなかったのに

毎日居るようになれば、言い争いにもなる



そんな愚痴もまろんに聞いてもらっていた。



話しかけると、様々なトーンと鳴き方で

実際に話をしているような気になるので

随分、話込んだ時もあった。


つい1ヶ月前のこと。



だからなのか家に母の遺骨を設置すると

いつもは3階にいるまろんが

1階まで降りて来て、祈る僕の横に座った。



まるで、今日、母が戻ってくるのが

分かっていたかのようで、僕は驚く。



今まで無かったものが、

置かれてあったからなのか


目を細めて、母の遺影写真を見ていた。




49日が終わるまでは

お母さんはずっとここにいるからね。



まろんに告げると、こっちを振り向き、

にゃぁっと短く鳴いてから、

しばらく、母の方を見続けていた。



まろんは、僕が知り得ない色んなことを

知っているようだった。



その日の夜は、いつもよりも

僕の腕に体をくっつけ、寄り添って

眠ってくれたまろん。



まるで母の魂が宿っているようだった。








あんたが生き甲斐だと、繰り返し言っていた母の持ち物

母が逝去してから、1ヶ月が経ちました。



週1回、毎週木曜日の午前更新と煽って

いながら先週はお休みしてしまいすみません。


先週分を含め、今日、明日と連続更新します。


未だここに書けていない母との出来事などを

綴っていこうと思います。


 

****



先週、母の住んでいた部屋の引越しをした。



シンプルで荷物の少ない生活をしていた母。


引越し作業は、業者ではなく友達に頼み

半日もあれば2人で済むくらい楽だった。



買いだめはしない。


必要最低限のものだけを持つ。



衣類など、良いもの1点主義なので、

女性なのに驚くほど、枚数が少ない。



きっと僕がシンプルに生きていけるのも

母の影響を受けたんだなと思いながら

様々なものを箱に詰めて行く。



ストックルームを借りることも考えていたが

この量なら今の僕の部屋で充分保管できる。



押入れを開けると僕の幼少期の写真が

何冊ものアルバムにまとめられていた。



写真の横に、丁寧にコメントを付けて

僕の成長を楽しみにしている記録が

何十年と綴られている。



ページをめくるたびに、胸が苦しくなり、

様々な感情が熱くこみ上げてきた。




僕が初めて雑誌に掲載された

写真コンテンストの切り抜き。



初めて受賞した写真賞の記事など、

丁寧にファイリングされている。



あんたが生き甲斐だと、繰り返し言っていた

母の心情が胸に刺ささった。




余命宣告を受けてから整理した

宝石箱を最後に取り出す。



ダイヤや金、パールなどのアクセサリーは

知り合いの業者に頼み引き取ってもらったが

そのうちのいくつかは


「あんたが将来、結婚する人にあげなさい」


そう言って大切な宝石を見せてくれた。



最後に指輪をはめた、母の姿が蘇える。




それと同じくらい、大切にしていると

出しきた僕が学生時代に作った美術作品。



東京で一緒に過ごしてきた17年間、

8度もの引越しをし多くの物を捨てて来た。


しかし母は、未だ全ての作品を持っていた。



僕は荷物を少なくするために多くの物を

撮影して、デジタル化し保存している。



こんな昔の作品なんて、かさ張るし、

写真に撮って捨てれば良いのにと言うと



「写真だと、手垢感がないでしょ、

    このまんま、残しておきたいのよ」



少しはにかみながら、作品を手に取った。



不意に母の声が聞こえた気がした。



つい2ヶ月前の出来事。



まるで母も一緒に引越しの荷詰めを

しているかのような錯覚に陥った。



母は嬉しそうに笑っていた。





あれからほぼ毎日のように母が夢に出てきて笑っている。

母が逝去してから、3週間が経った。

 

 

あれからほぼ毎日のように母が夢に出てくる。

 

 

夢の中の母は、生前の元気な姿だったり

病気を患っている頃の姿ではあるけど

話ができる状況が多い。

 

 

不思議なことに、目が覚めた後は、

夢の内容を克明に覚えていた。

 

 

それゆえ、現実に一瞬で引き戻され、

目が覚めた後の僕は、良く泣いている。

 

 

 

そんな中でも、銀行や区役所などに

母の様々な手続きをしに行く日が続く。

 

 

心を平常に保とうと思っても、

死亡届を出さないといけない場面も多々あり、

 

相手方に、母が亡くなりまして…と

伝えてからの手続きには心が折れそうになる。

 

 

こんな時に、兄弟や父が居れば…

 

どれだけ考えてきただろう。

 

 

けれど、今となっては僕が選ぶことができない

生まれ持って定められた家族構成だから

仕方ないと思えるようになった。

 

 

むしろ、僕に奥さんや子どもが居れば、

気持ちが紛れたのになと考える。

 

 

けれど、僕は未だ夢を叶える期間の最中、

結婚は40代でと昔から考えていた。

 

それも20代の時から決めていたことだから

仕方がない。

 

 

最近は考えることが多くて、

独り言が増えた気がする。

 

 

否、独り言ではなく、母や、祖父に

話しかけているだけだ、

そう気を強く持つようにしている。

 

 

 

先週、母の家の介護ベッドや車椅子、

酸素吸入器などの用品を

業者に引き取りに来てもらった。

 

それに伴い、様々な母の衣類や小物も処分。

 

 

気持ち悪いけど、引き取りに来る前に

1泊して、母が眠っていたベッドで寝てみる。

 

 

捨てる前に

母が着ていたパジャマを着て布団に横たわる。

 

 

こんな着心地だったんだと、

母の気持ちを知る必要があると思ったから。

 

 

少し前まで母が寝ていたベッドに

横になって、天井を見上げていると、

僕の記憶は1ヶ月半前に戻っていた。

 

 

 

 

母が緩和ケア病棟に入院する前夜

1日起きに泊まっていた少し肌寒い日、

 

 

“床で眠るのは寒いからベッドで寝ていい?”

 

 

母が眠るベッドの横に寄り添い

眠ったことを思い出していた。

 

 

 

“今のうちにお母様に沢山、甘えておいてね”

 

周りからの言葉を真に受けて

母の寂しさを緩和する意味でも

隣で眠ろうとした。

 

 

しかし気恥ずかしさと、狭さから全く眠れず

結局、下に降りて別々で眠った。

 

 

 

僕がわざとらしく、冷たかった母の手を

厭いながら握ってあげた手を母は、

幾らかの時間が経った後、そっと離した。

 

 

あの時の母はどう感じていたんだろうか。

 

 

この数年間、母のことを毛嫌いして、

電話も素っ気なかったり、会っても

口も聞かなかった息子からこんなことをされ

気持ち悪がったのだろうか。

 

 

 

母をサポートしてくれていた

様々な介護用品がなくなり

広くなった部屋は、とても寂しかった。

 

 

つい何日か前まで、

母の遺体を安置していたベッドがなくなる。

 

つい数か月前まで、

母が使用していた介護用品がなくなる。

 

 

この場所で自分は取り残され、苦しくなった。

 

 

 

 

母にプレゼントした香水。

 

 

結局一度しか、つけることのなかった香水を

自身にふりかけ、母の香りを思い出してみる。

 

 

この香りも、思い出も、何もかも、

母に関する全ての事柄を遠ざけたいと思った。

 

 

けれど、49日が終わるまでは、

この辛さと悲しみを胸に置き続けよう。

 

 

いつまでも嬉しそうに香水を見ていた

数ヶ月前の母の顔が残っていた。

 

 

 

 

 

親の死は最後の子育てと言われる意味が分かった。

母が火葬され、2週間が経とうとしています。

 

余命宣告をされたのが、3ヶ月前の5/9。

ちょうど3ヶ月が経ちました。

 

この期間、毎日落ち込んだり、怒ったり、

泣いたり笑ったり、気持ちの高低がありすぎて

それ以上の時間が経っているような気がします。

 


先日に煽った通り

今日のblogで、毎日の更新はStopします。

 

今後は、週1回、毎週木曜日の午前更新で

書いていこうと思います。

 

未だここに書けていない、

母の介護を始めてからの出来事や


家族が亡くなった後の様々な手続きなど

その後を綴っていこうと思います。

 

 

****

 


火葬式が終わった翌日は驚くほど夏空だった。


そして29日には関東でも梅雨が上がり、

気温は35℃まで上昇。


本格的な夏がやってくる。

 


母は、言ってたように霧雨に身を隠し、

月に帰っていったようだった。

 


そして、梅雨が去ったんだから、

あんたの心の霧雨もいい加減に晴らして

 

夏の訪れと共に頑張りなさい

そう言われているようだった。

 



 

先々に気を回し過ぎて、自分だけでなく、

周りも疲れさせてしまうこと。

 

小さなことで利を得ようとして

大きなものを失ってしまうところ。



自分本位な部分を直しなさいと

この2ヶ月半で、改めて母に怒られた。

 


反抗したかったけど、

もう母に怒られることはこの先2度とこない。

 


そう思って受け入れ、少しずつ、変えてきた。

 

 

30歳を越えて、未だこんなこともできないのか

きっと母を沢山、落胆させただろう。

 

 

 

“親の死は最後の子育て”


心配してメッセージをくれた人が教えてくれた。

 

 


母は、僕に嫌がられようと、


拗ねられようと、命をかけて、


最後の教育を施してくれたんだ。

 

 


親の死で、良い方向に変わってきた

仲間や身内をこれまで多く見てきた。

 

 

自分がその立場に立ったからこそ分かること。

 

 

僕は変えたくないものを守るために

変わり続けようと思う。

 

 

 

僕は母の家のマンションの屋上に上る。

 

 

悲しかったり、辛いことがあると

いつもここから東京の空を眺めていた。

 


数日前まであんなにも曇っていた空が

隅々まで晴れ渡っている。

 

 

本当に母は、梅雨明けと共に去って行った。




早く今までの生活に戻りなさい

そう言われている気がした。

 

 


「お爺ちゃんと一緒に、ずっと見てるからね。」

 


 

空の彼方から、

また母の声が聞こえてくるようだった。

 

 


※次回は8/15(木)に更新します。


素直になろうと決めて、側に居続けた78日間も、今日で全て終わる。

母が逝去してから、2週間が経とうとしています。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。


弔事で書き損じていた逝去後、最後のブログです。


 

****



火葬式を執り行う日の朝、目覚めた直後から、

涙が止まらなかった。



一昨日は母の魂とのお別れ。


昨日は自宅から

霊安室へ母の肉体との一時お別れ。


そして今日は肉体との永遠の別れの日だから。




母を霊安室に送り出した後の天気は常夏だった。



天気は母の門出を祝福してくれたのだろうか。




それから夜にかけて大雨が降った。


関東は台風の影響で、明けたか明けてないのか

分からないような不安定な天気が続く。



僕の中の霧雨も、後どれだけ降り続くのだろう。





今日は母が逝去する前日にプリントに出した

遺影写真を青山の現像ラボまで取りに行った。




帰り道、母と一緒に歩いた道をひとりで歩く。


まるで、まだ隣にいるような錯覚に陥った。



そのたびに、悲しみの現実に、 引き戻される。



これから一生、

僕は母の幻想を、見続けていくのだろうか。




斎場には、遺影写真と、母の大好きな赤い薔薇、

小川軒のロールケーキ、ブラックコーヒーと、

まろんの写真を大きくプリントした物を持参。




一人きりで執り行うと思っていた火葬式。


斎場には母の友達と、母と面識のある僕友達、

僕が所属するプロダクション社長が来てくれた。



時間になり、火葬場の前に母の棺が到着する。



上から顔を覗き込むと、

優しそうに微笑む母の姿があった。



僕が準備した、母の大好きなものを

お櫃にそれぞれ詰めていく。



僕は母に声をかける。


これまでのことをもう一度、話し始める。




「今まで、一緒に居て楽しかったよ。」



「もっと色んな所に連れて行けなくてごめんね。」



「また、来世では楽しい人生にしようね。」



「また違った関係性で会おうね。」




周りに人がいるのに、涙が止まらなかった。



恥ずかしいとか、迷惑だとか考えられないくらい

涙は次々と溢れ出た。



泣きながら、僕は母に喋り続けた。



だって、母はこの後、肉体は焼かれ、

この世から姿を消してしまうんだから。




僕はこれまで、何度話しかけたんだろうか。




母が息をひきとる前の病室のベッドで。


亡くなった後に、自宅のベッドで。


そして今、棺に横たわっている母の前で。





想いの丈を、全部伝えた。



御坊様が、母に念仏を唱えてくれ、

僕らに優しく心ある言葉を投げかけ諭してくれる。




ーお母さん、今まで本当にありがとうー




1時間後、

母は骨になり、再び僕の前に戻ってきた。





骨を小壺に入れる、骨拾い作業をしていく。



更に軽くなってしまった母の姿を見て

また涙が出てくる。




骨壷を持ち上げてみる。



命を引き取った時、30kg程だった母の体重は

骨壷を入れても、もう5kg程しかなくなっていた。



こんなにも軽くなってしまうなんて悲しかった。




僕は母の遺骨を大切に抱えて

自宅に戻り、用意していた祭壇に飾る。



笑顔で微笑んでいる母の顔を見て

この2ヶ月半が走馬灯のように脳内を駆け巡った。




母の余命宣告日から、今日の火葬式まで、

少しでも恩返しができないかと考え続けた。



素直になろうと決めて、側に居続けた

78日間も、今日で全て終わる。




いつまでも落ち込んで、足踏みしている

僕を見たら、きっと母はまた叱ってくるだろう。



これから色んな気持ちを少しずつ

切り替えていかないといけない。




静かに手を合わせて、

遺影の前で、母の安らかな来世を、

静かに祈った。




瞳を閉じると、2ヶ月半前、家の前の緑道で、

2人で写した最後の写真の記憶が浮かんでくる。




「あんたのこと、ずっと見てるからね。」




笑顔で僕に話しかけてくる母の声が、

どこからともなく、聞こえたような気がした。




ーお母さん、今まで本当に、ありがとうー







※毎日更新のブログは今日で終了させて頂きます。


明日を最後に、

今後は毎週木曜日に週1回更新の予定です。






葬儀屋が母の遺体を自宅に引き取りに来た日。

母の火葬式から、10日間が経ちました。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っています。

 


****



昼食を食べ終わった頃、母の中学時代の女友達が

母の顔を見に来てくれた。



現在、横浜で夫と娘家族と住んでいる女性だ。



母が余命宣告を受けた後、逝去後は

何かあったら彼女に頼りなさいと、

母の計らいで先月に顔合わせをしていた。



介護ベッドに横たわる母に手を合わせ、涙ぐむ。



母を横目に、色んな学生時代の話をしてくれた。



母が英語の教師をしていた時のこと。


コカコーラ会社の秘書をしていた時のこと。



今まで知り得なかった僕が生まれる前の

母のことを幾つか教えてもらった。



母はベッド上で薄っすらと笑みを浮かべていた。




それから僕の友達で、母と面識のある

仲間や知り合いが、立て続けに来てくれた。



今日までずっと一人で母と向き合ってきて

何処にも吐き出す場所がなかった僕は


皆の訪問に安堵したのか、一言口を開く度に

わんわん泣いてしまっていた。



皆、よく頑張ったねって、お疲れ様って

どんな話も優しく聞いて、受け入れてくれた。




あっという間に夕方になって、

葬儀屋が母の遺体を引き取りに来た。



スタッフが2人がかりで、母を持ち上げ、

玄関先のストレッチャーに乗せて車に積み込む。




“安全に運転して霊安室に保管しておきます”



そう残して、母は居なくなった。




さっきまで、皆が居て、母も居たのに

部屋に、ぽつんと残された僕は

急に寂しさに襲われた。



だって、3ヶ月近く、毎日一緒に居た。



急に1人になった僕は、空虚感に包まれる。





母はどんな気持ちで過ごしてきたんだろう。



難病診断されてから2年近く、

この部屋で、このベッドで、1人で過ごしてきた。



両親も居ず、夫も友達とも疎遠で、唯一の

心の支えだった僕からも素っ気なくされていた。




「旅行に連れて行って欲しい。」


「2人で食事に行きたい。」




様々な願望を電話や会う度に言われ続け、

その時間を作ろうとするも、


母の圧力に耐えきれなくなり、

僕は母を避けるようになっていた。



周りは口を揃えて言ってくれる。


親の要望に全て応えなくても良いし、

応えれなかったことに、悩み続ける必要はない。



十分に親孝行をしてきた。



3ヶ月近くも、仕事や私事をセーブして

毎日一緒に居た、それだけで喜んでるよ。



僕を慰めるように、周りからは散々そう言われた。




けど、僕にしか分からないこともある。



もっとしてやれたという後悔は拭えない。



母はきっと、そんなことくらいでは、

心から喜ばないのは僕が良く知っている。



この3ヶ月の介護は、これまで母の想いに100%

応えれなかった、せめてもの償い程度に過ぎない。



母の寂しかった気持ちを味わうために、

母が寝ていたベッドで寝てみる。



悲しかった、胸が痛かった。




母が過ごしてきた辛さや、やるせなさ、

色んな気持ちを自己投影させてみる。



今日はここで、この気持ちと向き合いながら

火葬式の時間まで、寄り添おうと思った。



それが母に対する、せめてもの償い。



僕は頭が変になっているのだろうか。



永遠に報われることがない

無限ループに陥っていくようだった。








母と食べる最期の手作り料理、肉じゃが。

727日に、母の肉体が火葬されてから

1週間が経ちました。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っています。

 


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母が逝去した25日、

西日本では、梅雨が明けた。



関東は台風6号の影響で梅雨明けはないが

26日、今日の天気は夏模様だった。



僕は中目黒のスーパーで食材を仕入れて

目黒川沿いを歩いて帰る。



蝉の鳴き声が梅雨明けを象徴していた。



広島生まれの母は、西日本の梅雨明け前に

霧雨に身を隠しながら、

本当に月へ昇っていったようだった。



緩和ケア病棟に入る前の2ヶ月間は

自宅介護で、毎日のように僕が

母の食事を作っていた。



じゃが芋が好きで、ポテトサラダなど

料理を好んでいた母。



僕が作る料理の中でも、お気に入りだった

肉じゃがを、最期に作ってあげようと思った。



薄味で、育ってきた母。


関西の味に慣れているグルメな母の口は

多少のことでは美味しいと言わなかった。



僕もまた、母の薄味に育てられてきたので、

上京時、甘すぎる関東の味に驚きながらも

いつの間にか、こちらの味覚になっていた。



しかし、母と過ごしたこの3ヶ月で

素材の味を生かした料理作りを

改めて教えられたような気がした。



肉じゃがでも、砂糖は一切使わない。

白麹と、みりんとらっきょ酢を砂糖代わりにする。


玉ねぎを良く炒めれば、更に甘みは増す。


じゃが芋と人参はしっかりと水に浸け、

母のために、かなり柔らかくなるまで煮込んだ。



お肉は、母が指定していた霧島豚を使用。



最近は、煮込む前に電子レンジで温めれば

煮込む時間を短縮できる

タッパーウェアがあるので便利になった。



昼からは僕の仲間や母の友達が、

最期の挨拶へ来てくれるので、時短で作る。



最期の2人で過ごす食事の時間。



母のベッドの横に小さな机を置いて

肉じゃがを盛りつけ手を合わせた。



“いただきます”


僕の声しか聞こえないけど

きっと母も一緒に言っているだろう。




僕は口にじゃが芋を入れる。



今日も美味しくできた。



否、今までで一番おいしいのではないか。




「星5つです★」




母が僕の料理を口に含みながら、

無邪気に言い放つ声が聞こえて来る。



ベッドに横たわった母が今にも起きて

笑い出すようだった。



これから何度も思い出すんだろう。



思い出さない日はないんだろう。




鍋に残された肉じゃがは、母の無念を

訴えてくるようだった。




「元気だったら、ペロリと食べるのにねぇ」




体調のせいで、食べきることができず、


いつも残念そうに言っていた母の声が


聞こえてくるようだった。







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