あの日夢見た10年先へ【2nd season】 -5ページ目

新しい病室の入口には、患者の名前も記載されない。

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化、

現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

****

 

入院して1週間が経った。

 

 

緩和ケア病棟に空きがなかったため、

しばらくは呼吸器病棟で過ごしていたが、

 

空きが出たと医師から告げられ

午前中に、緩和病棟に移った。

 

 

8階から10階に移り、

方角も東棟から西棟に変わる。

 

 

末期がん患者が入院するこのフロアは

他の病棟とは様子が異なる。

 

 

廊下はタイルではなく絨毯が敷かれ、

患者を偲んでなのか、

病室の入口には患者の名前も記載されない。

 

 

ボランティアスタッフが駐在し、

毎日、生花を持ってきてくれる。

 

 

15時からは談話室で毎日ピアノ演奏があり

お茶や紅茶をもてなしてくれる。

 

 

牧師さんが、悩みを聞くために

定期的に病室を訪れ、精神的ケアも担ってくれる。

 

 

聖路加は医療行為を医師のみに行わせることを

主張する日本医師会の立場に対し、

 

新米の医師より治療に精通した看護師がいるとして

医療行為を広く医療従事者に行わせることを

認めるスタンスを取っている。

 

 

これは、どの病棟でもその理念は同じだと思うが

看護師の知識量や対応が、何だかこれまでとは違い

洗練されているようだった。

 

 

患者の立場になって考えてくれる

慈悲の心は病院全体にあり、

ここで良かったねと母と話していた。

 

 

心優しい主治医と担当医だけではなく、

副医師が何人もいるような気がして、

母の状況は良くなることはなくとも、

少しだけ安心していた。

 

 

それは母も同じだったのか、安堵した母は

1週間ぶりに、頭を洗ってもらった。

 

 

1週間前は自宅で、苦しみながらも、

自力で入っていたのに

ここではプロに介護してもらえる。

 

 

洗髪後には

体も拭いてもらえてスッキリしたようだった。

 

 

髪も伸びてきたので、カットしたいけど

1階の美容室に行く体力のなさを懸念する母。

 

 

しかし、この病棟は、部屋まで

直接カットしにきてくれるらしい。

 

それを聞いて少し安心しているようだった。

 

 

 

母の食欲は日々低下し、殆どの物が食べれないけど

食べたい物は何でもリクエストを聞いてくれる。

 

 

ここは、これまでの病棟よりも色んな我儘を

受け入れてくれるようで、少しだけ気が楽になった。

 

 

「明日、元気だったらピアノ演奏を聴きたいわ…」

 

歯を磨きながら小さく呟く母。

 

 

明日も母と一緒に、少しでも

穏やかな1日が過ごせるように。

 

 

 

 

「血が混じっている…」吐き出された内容物を見て呟いた。

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化、

現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

****

 

 

 

日が暮れると、病室の窓から見える月島の街は

黄色やオレンジの光で色付き始める。

 

 

林立するオフィスビルには明かりが灯り、

その光を受けた隅田川は、怪しく揺らめいていた。

 

 

入院してからの母は、病院食のみで、

大好きなパンの味は、忘却の彼方だった。

 

 

家では食欲がなくても、パンなら食べれたので

 

 

「パンは最後の砦だねぇ」

 

 

と、寂しそうに笑いながら言っていた1週間前。

 

 

難病の皮膚筋炎になった2年前より、

医師から糖質は制限され、

大好きだったパンを食べれなくなった母。

 

 

それが2ヶ月前に余命宣告をされた後、

 

好きな物を好きなだけと言われてからは

毎日のように食べていた。

 

 

そうはいっても、膵臓ガンのため、

好きな物を好きなだけ食べれるはずはなく、

パン一切れくらいが、関の山だった。

 

それが唯一、些細な楽しみだった。

 

 

 

病院の健康管理と、体調管理で

若干、食欲が戻ってきていたので

 

僕は、築地のパン屋でクロワッサンを買ってきた。

 

 

家に居る時は、あんなに美味しそうに

食べていたパン。

 

 

焼きたてだと喜びながら、頬張っていたのに

今は、ボソッと、美味しいの一言を出すだけ。

 

 

俯き、魂の抜けたよう顔でパンを食べる姿は

見ていて辛かった。

 

 

むしゃむしゃと無機質な音だけが病室に鳴り響く。

 

 

僕は見てられなくて、窓の外に目を向ける。

 

 

夜の隅田川の早い流れを目で追っていた。

 

 

 

 

「気持ち悪い、吐きそう

 

 

痛みだけではなく、薬の後遺症で

吐き気と、胃のムカつきにも苦しみ続ける毎日。

 

 

それでも食事の後に吐くことはなかった。

 

 

それが、今日はとても苦しそうだった。

 

 

「吐く、吐きそう

 

 

僕が、ポリ袋を持ってきた時には遅く、

数分前に食べた食事も、パンも、薬も

全部、吐き出していた。

 

 

吐き出されたビニル袋の中には、

赤い液体のような物が浮かんだいた。

 

 

「血が混じっている

 

 

 

最近、鼻をかむと、血が混じるようになり

そのことを危惧していた母。

 

 

口から血を吐き出すようになったら、

もう終わりだねと話していた。

 

 

看護師は、これは血ではないですよ、

夕食の梅干しですよと言っていたが…

 

 

吐き気は止まらず、その後、

3度に渡って吐き出した。

 

 

人が吐くシーンをこれまでの人生、

間近で見たことのなかった僕は

母のそんな姿を見て動揺を隠せなかった。

 

 

僕は母の背中をさすりながら、

その間、看護師が2名がかりで後片付けをする。

 

 

 

「あんたがせっかく買ってきてくれたパンも

  美味しく食べることができないよ」

 

 

悔しそうに俯き、

一点を見つめながら呆然とする母。

 

 

自宅に帰る準備をしていた僕を

足止めしてしまったことに対し

吐く前に帰してあげればよかったねと母。

 

 

 

「今日も泊まって行こうか?」

 

 

「あんたは帰って、自分のことをやりなさい。」

 

 

 

いつものような力強い声色はなくなり、

消え入りそうな、か細い声でつぶやく。

 

 

窓の外、霧雨だった雨は、次第に雨脚を強め、

オフィスビル群は蜃気楼の中に消えていった。

 

 

「お母さん、体がしんどいから、あんたに酷くあたってごめんね」

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選んでいましたが、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

6月末から体調は悪化、現在、ホスピスに居ます。

 

****

 

 

8階の病室の窓の外に立ちはだかる高層マンション、

そこから出てくる住民は皆、大きな傘をさしている。

 

 

今朝から降っている雨の影響か、

病室の窓から見える隅田川の流れは早かった。

 

母の病状もこの流れのように加速してるのだろうか。

 

 

時折、屋形船が通りすぎる様子を見て、

ここは別世界のようだと母は呟く。

 

 

僕は先週末から連日、

病室の簡易ベッドを使用して泊まり込んでいる。

 

 

急な入院のため、緩和ケア病棟は空いておらず、

通常病棟の個室で過ごす3日間。

 

 

入院先に選んだ聖路加病院は、

医師も看護師も誰もが優しく、

入院当日の夜は、安心して眠れているようだった。

 

 

家にいるよりは若干の笑顔もあった。

 

 

 

しかし、翌日からは体の倦怠感、

だるさが顕著になり、

 

僕とも言葉を交わすことはなくなっていった。

 

 

起床から就寝まで、寝る以外は18時間向き合うので

僕は、何かしらの楽しい会話を試みようとする。

 

 

けれど、少し黙ってと怒られる。

 

 

「してほしいことはこちらが言うから」

 

 

しかめっ面にさせて、怒らせる。

 

 

親子でも、異性でこれだけ歳が離れていたら

全てを分かってあげられるはずはないんだろうか。

 

 

少しでも何かしてあげたいけど、

死を目前にし、毎日、痛さや辛さや悔しさと

戦う親の気持ちに、完全同化できずにいた。

 

 

「お母さん、体がしんどいから

      あんたに酷くあたってごめんね」

 

 

数日前に言っていた母の言葉を思い出す。

 

 

 

 

次第に僕も口数が減り、

静かすぎる個室では

 

母のうめき声だけが鳴り響く。

 

 

 

うっうっという、咳を我慢する声と、

はぁ、はぁという、息苦しさに耐える音。

 

 

マシンガンのような咳が幾度となく母を襲い、

僕は母の背中をさする。

 

 

辛い3日間だった。

 

 

もう、穏やかに楽しく話すことなんて

できなくなっていた。

 

緊急入院。「今日は今までで1番苦しいよ…」

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。


****


朝、うちの猫・まろんが、僕の顔を

手で何度も撫でる合図で目を覚ました。



目前には、少し怒ったような顔のまろんと

お昼をまわっていた時計の針がぼんやりしていた。



〝しまった寝すぎてる


ソプラノ張りの美しい声と賞賛されるまろんが

急かす感じで3回続けて鳴く声に僕は飛び起きた。



昔から最低でも8時間は睡眠を取らないと

言動が通常運転をしてくれない僕の脳は


定期的に10時間以上の睡眠を求めてくる。



これまでの介護疲れと、一昨日の母の言葉で


なかなか寝付けなかったことは、

言い訳にはできない。



携帯には、午前中に母からの着信と

往診の先生からの着信が何件か残っていた。



胸をざわつかせたまま、

タクシーに乗り混み、母の家路を急ぐ。




到着すると、訪問医を始め、

看護師、ケアマネジャーが母の家に来ていた。



これまでにないほど、母の辛そうな顔と

周りの人の険しい顔があった。




僕の心臓音が頭の中で鳴り始める。




母の酸素吸入器の値を見ると

更に1.0まの値を上回り、

3.0にまで上げられていた。




先週にこれまで常用1.0だった値が2.0になり

不安を感じていた数日前。



酸素吸入器の最大の流用値は3.0を示し、

酸素を送り出すボンベは、キュイーンと

今までとは違う歪な音を出していた。



僕の胸もボンベと同じように

軋む音を鳴らしながら、縮みはじめる。




「今日は今までで1番苦しいよ


母の消え入るような声。



午前中に苦しみに耐えかねた母が

医師に緊急連絡をしたようだった。



医師は入院の必要性を僕に投げかける。



1度入院してしまえば、もうこのまま

日常生活には戻れないかも知れない。




けれど、薬飲んで調整をして、また戻ってこようね。


僕は状況を察し、母を優しく誘う。




母は緊急入院をすることになった。





やはり、一昨日夜、母は、

何らかの悪い予感を感じていたんだろう。



今週は毎日のように、


「今日は今までで1番苦しい


と辛さを更新していく1週間だった。




先生は病院の入院ベッドの確保や

移動用の介護タクシーの手配を早急に進める。




予定時刻より少し早めに到着した介護タクシー、


介護免許を持ったドライバーが

ストレッチャーに母を固定させる。



僕も同乗し、車は急ぎ気味に家を出発した。




移動の疲労を軽減するため、時間短縮を狙って

目黒ICから首都高速に乗り入れる。



緩やかな蛇行路が続く、西麻布付近。


天現寺ICから乗り入れる高級車が

どんどん僕らの車を追い抜いていく。




母の車椅子の金具は、携帯用酸素ボンベにあたって、

カチカチと気味の悪い音を鳴らしている。




白金高輪付近に差しかかり、

大きく旋回したところで、


固定していた車椅子の金具が外れ、

大きな音と共に倒れてしまった。



その様子に驚いたのか、

 


「また手を握ってくれる?」


母は小刻みに震えた手を差し出してきた。




僕は母の右手を両手で包み込み、



“大丈夫だからね”



不確かで不安定、

不揃い過ぎるほど、安直な言葉しか出てこなかった。



ドライバーがバックミラーで

僕らの様子を見ていたのか

車は更にスピードを上げていく。




汐留JCの看板が、降り始めた雨に濡れ

不気味な青の発色をしている。



浜離宮の恩賜庭園を右目に確認しながら

もう少しだからねと母の手を強く握った。



10人乗りの大きなワゴン車は

1人分の体重にも満たない小さな母を乗せ、

もうすぐ銀座ICを降りようとしていた。




「こっちに来て手を握って」母は何かを悟っていたんだろう。

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

 

*****

 

昨日も母は辛そうだった。

 

緩和ケア病棟の見学で外出したことで

悪化したと思われる容態は、

 

何日経っても一向に回復しなかった。

 

 

そもそも、先週末より、

体調は優れなかったので心配になって、

1週間で5日も泊まり込んでいた。

 

 

沢山の時間を過ごしたので、

僕の介護不手際で、相当母をイラつかせたり

余分なストレスを与えたことが原因だろうか。

 

 

自分の不出来さに思い悩みながらも、

 

これまで知らなかった母の幼少期話や

祖父母のことなど聞けて楽しい時間だった。

 

 

嬉しそうに話す母の姿を見て、

自分の居る意味を感じた1週間でもあった。

 

 

 

 

21時を過ぎ、自宅に帰ろうとすると

 

 

「こっちに来て手を握ってほしい」

 

 

 

母がそんなことを言うのは初めてだった。

 

 

母の気持ちを察し、僕は荷物を降ろし

側に腰掛け、手を握る。

 

 

何秒くらい経っただろうか。

 

 

「色々とありがとうね。」

 

 

もう視力が殆どなく閉じている

母の目からは、次々に涙が溢れてきた。

 

 

ここ数日で、急激に蝕まれている体。

 

何かを悟っていたのかもしれない。

 

 

 

僕も涙ぐんでいた。

 

 

 

「最期までずっと、そばにいるからね。」

 

 

「1人じゃないからね、不安じゃないよ。」

 

 

弱っている母を一人にはできないと

今日も泊まることを伝えると、

 

 

「あんたも睡眠不足になるから、帰りなさい」

 

 

自分の気持ちよりも先に

僕の身体を、誰よりも気遣ってくれた。

 

いつも母はそうだった。

 

 

僕はその場を離れられなくて、

母が離す手を、何度も繋ごうとした。

 

 

「大丈夫だから、帰りなさい」

 

 

 

母の気遣いを有難く取り、帰るために

いつものように電気を消そうとする。

 

 

「今日は暗くしないで」

 

 

いつも真っ暗にしないと寝れなかった母が

明るいままで良いと言った。

 

 

過去にこんなことはない。

 

 

僕は何か安心させるような言葉を探していた。

 

 

「ごくうと、まろんと3人で、

    後からお母さんの夢に遊びに行くよ。

                         だから寂しくないよ。」

 

 

 

子どもみたいなことしか言えなかった。

 

僕はそう言い残して、部屋を出る。

 

 

 

 

中目黒駅から、渋谷に戻る道のりで、

母の前で、堪えていた涙が溢れ出した。

 

 

一向に止まってくれない涙を気にして、

山手通りより、人気の少ない目黒川沿いを通った。

 

 

川沿いには満開の紫陽花が咲き誇る。

 

 

花が好きな母。

 

 

 

紫陽花を見て、

 

まぁ綺麗ねと

無邪気に笑う顔が

 

何度もフラッシュバックする。

 

 

 

「こっちに来て手を握ってほしい」

 

 

消えそうなほど、か細い母の声が、

いつまでも耳奥に残っていた。

 

 

「色々とありがとうね。」

 

 

 

その2つのフレーズが

幾度となく頭の中でこだまし、

 

 

涙はいつまでも止まってくれなかった。

 

 

「生まれ変わったらそんな風に生きたい。」

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

 

*****

 

母は昨日、いつもより早い時間に眠りについた。

 

 

「何でこんなに眠いんだろう…」

 

 

この数日、目に見える形でどんどん

衰弱していく身体を引きずりながら、

 

今朝の軽食を取り、またすぐに横になった。

 

 

ベッドに入っても目をつむっているだけで、

一向に眠ることはなかった母が、

 

最近はすぐに、眠り始める。

 

 

酸素吸入器の値を上げたことにより、

酸素が脳に行き過ぎ、二酸化炭素との交換が

ちゃんとできないからなのだろうか。

 

 

時折、目を覚まし、母は、

 

 

「ううん…んんん…うぅっ…」

 

 

とうなされてるように声を上げる。

 

僕はその様子を見守りながら、

昨日の夜の会話を思い出していた。

 

 

 

「もっと楽に生きたかった、、」

 

 

周りにいる、陽気に、

楽しく生きれる人が羨ましいと話していた母。

 

 

「やっと気がついたよ…」

 

 

大したストレス負荷が掛からなくても、

すぐに、解消といって快楽を得ようとする人、

 

 

「そんな生き方は自分には魅力的ではないけど

    自分が楽なら、それでいいんだね…」

 

 

自分にはそれができなかった、

 

それをしなかったから辛かった。

 

 

「そんなことも今まで気がつかなかったよ…」

 

 

自制心が強く、楽な方には決して逃げず、

自分を犠牲にすることが常だった母の人生。

 

 

あんな夫でも、楽な方には逃げず

僕を今日まで、一生懸命に育ててくれた。

 

 

母が夫以外、別の男性に走った時の

息子の気持ちを察し、離婚せずに、

 

父の行いの数々にずっと耐えながら、

ずっと僕の面倒をみてくれた。

 

 

男の子は父親がいて指標を示してくれた方が

大成しやすいと思っていた母。

 

 

父親代わりも自分がしないといけないと言って、

父親的な厳しいことも僕は沢山言われてきた。

 

 

僕の学費や、いじめのことを気にして、

ずっと籍を置き続けてくれた。

 

だからこそ、僕はグレずにやってこれたんだ。

 

 

僕はこの先、母のように強い意思で

子どもを育てることができる伴侶を娶るだろうか。

 

 

そして僕も母のように強い意志で

家族を守れるだろうか。

 

 

 

「楽に生きたかった。」

 

 

「生まれ変わったらそんな風に生きたい。」

 

 

涙ぐみながら

母は遠い目をして呟いていた。

 

 

「世の中にはそういう人が溢れて幸せなのに。

    けど、お母さんにはできそうもないなぁ…」

 

 

不器用な生き方しかできなかった母。

 

だからこそ、僕がもっと二人三脚で、

立ち向かっていかなきゃいけなかった。


 

 


昨日まで降り続いた雨は上がり、

これから色づき始めようとしている紫陽花。

 

丸く可愛らしい形になるまで

あとどれくらいの時間が必要だろうか。

 

 

 

母が目を覚ましたら優しく微笑んであげよう。

 

 

明日も母と一緒に、少しでも

穏やかな1日が過ごせるように。

 

 

「何で死ぬと分かってるのに、 こんなにも沢山の薬を飲まなきゃならないの…」

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

 

 

*****

 

 

今朝、子供が泣きじゃくるような、

ひどい嗚咽で目を覚ました。

 

 

「お母さん、大丈夫?!」

 

 

余りにも、苦しくて殆ど眠れなかった様子で

尋常ないほど、苦しそうだった。

 

 

急遽、訪問医に電話をかける。

 

 

すぐには来れないので、

取り敢えずは看護士だけでも来てくれる事に。

 

 

 

到着後、母の容態の悪化を危惧し、

酸素吸入器の値を

.0まで引き上げることになった。

 

 

現在使用の吸入器は最大で3.0ℓ。

 

0.25刻みの値を一気に1.0も上げるなんて

とても不安になった。

 

 

もう自分では呼吸ができなくなるほど

肺は急速に悪化してきている。

 

 

難病の皮膚筋炎と、

間質性肺炎だけでも苦しかったのに、

 

膵臓がんより転移した肺がんで、

もう母の肺は通常の機能を果たしてない。

 

 

医師が来て、2.0の値を、

これからはキープすることになった。

 

 

酸素吸入器を着けた母が

更に小さくなっているように見えた。

 

 

 

昨日は一昨日より5℃も高く、蒸し暑かった。

 

日中は更に3℃程上がり、30℃を記録した。

 

 

今日は蒸し暑いのかしらと言いながらも

母は寒がり、セーターを羽織る。

 

 

「もう体温調整ができないよ

 

 

 

「体がもう自分の体じゃないみたい

 

 

 

今日の医師訪問で更に増えた薬。

もう薬箱のひと枠では入りきらない量になった。

 

新たな薬を仕分ける僕の横で、

 

 

「何で死ぬと分かってるのに、

 こんなにも沢山の薬を飲まなきゃならないの

 

 

虚しく、か細い声は消えて行く。

 

迫りゆく死を目前にしながら、

絶望に打ちひしがれる母に

 

僕はかけてあげる言葉を、探していた。

 

 

「毎日辛いけど、頑張って飲んで、延命して

    1日でも長く一緒に居れるなら嬉しいよ」

 

 

果たして上手く言えたのか、

言葉の座列は覚えてないけど、

そんなようなことを言っていた。

 

 

母は聞こえるか聞こえないかの声で

うんとうなづく。

 

 

明日も母と一緒に、少しでも

穏やかな1日が過ごせるように。

 

 

 

辛そうな母を、隣でただ見ているだけの自分が無力に思えた。

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

 

*****

 

 

「苦しい、苦しいよ」

 

机につき、俯いたまま、そう呟く母。

 

 

今日は自宅での用事があったので

いつもより遅い時間に、母の家に着いた。

 

 

母は、いつものようにやってきた

僕の顔を見ることもできない。

 

 

「薬を飲まなきゃ行けない…」

 

取り憑かれたように

僕が前日に用意した昼食を

無理に口に運んでいた。

 

 

食べたくないけど、何も食べなくなったら、

終わりだと、無理にでも押し込んでいた。

 

 

「痛いよ… 苦しいよ…」

 

そう言いながら、

お腹と背中を抑えながら、

咳き込みながら。

 

 

 

何もできない自分が惨めに思えた。

 

 

「食べさせてあげようか?」

 

 

「自分でするからいい」

 

 

辛そうな母を、隣で

ただただ見ているだけの自分の無力さ。

 

 

何もしてあげれない。

 

 

 

ずっと泣いてるようだった。

 

嗚咽とともに食事は口に運ばれる。

 

 

食べることが大好きな母が

こんなにも苦しそうに食べなきゃいけない。

 

 

見てられなかった。

 

 

一口、口に入れるたびに、

走った後の人のように、息切れをする。

 

 

 

「今日は今までで1番辛い…」

 

 

何の話もできない一日だった。

 

 

僕にとっても、今日は特に辛い1日だった。

 

 

 

先ほど、夜ご飯も何とか食べ終えた。

 

一緒に居てあげたからか、日中よりは

多少、気分と体調が落ち着いていた。

 

 

 

「今日のご飯も美味しかったよ」

 

 

ため息を吐き出すのと同時に言った。

 

 

 

「今日も薬の洗礼を受けなきゃ…」

 

 

1日5回、何十錠という薬を飲む

辛い儀式がこれから始まる。

 

 

明日も母と一緒に、少しでも

穏やかな1日が過ごせるように。

 

 

「本当はあんたと一緒に歩きたかったな。」

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

 

*****

 


今日は母と一緒に渋谷区広尾にある

緩和ケア病棟の見学に行ってきた。

 


10日前に、築地に位置する

ホスピスの見学に行った時は

 

酷く冷え込む日で、肺をこじらせてしまい

その後、数日間の母は殆ど体を動かせなくなった。

 

 

最近は暖かくなってきたので

気温の心配はしてなかったのに

 

今朝の温度は20℃を大きく下周り

日中も温度上昇はさほどなく、

母は始終、車内で震えていた。

 

 

僕は暑さで半袖になり、汗を流すほど

車内の暖房をあげても、母は凍えていた。

 


車の中だと閉塞感があるようで

 

携帯用の酸素吸入器の数値も、

家と同じ1.0では苦しいらしく2.0まで上げる。

 

 

家からはそう遠くないはずの病院が

朝の渋滞でとても遠くに感じた。

 

 

 

母は歩くことが大好きだった。

 

目黒区内にこの17年間住んできたが、

区内でとても長い距離を歩く。

 

学芸大学駅付近に住んでいた時は

目黒駅まで歩いたこともあったし、

 

反対方面の、自由が丘まででも歩いていた。

 


池尻大橋駅付近に住んでいた時なんて、

目黒区を越えて、代官山や渋谷にまで歩いた。

 

 

「あんたのお陰で、

  色んなところを歩けて楽しかったよ。」

 


 

僕は度々、引っかかる信号でブレーキを踏み、

レバーをニュートラルに入れながら

 

昨晩、ケーキを食べながら母が言っていた

過去回想の言葉を思い出していた。

 

 

 

桜並木が綺麗だった碑文谷の話。

 

池尻大橋の並木道の途中で、泳ぐ鯉の話や

道端に咲いていた可愛いらしい花の話。

 

 

些細なことだけど、

小さな発見を喜ぶ少女のように、

 

母は頻繁に、目黒区内を冒険していた。

 

 


「本当はあんたと一緒に歩きたかったな。」

 

 


母は無理に明るくするように微笑んでいた。

 

 

 

僕が東京に呼び寄せた15年間は

使命を感じて、日にちを決め、

 

東京のお店や関東近郊の

景色の綺麗な場所へ

定期的に連れて行ってあげたりしていた。

 

 

けれど、その回数もだんだん減り、

特にこの2年間はその機会も無くなり

深い言葉を交わすことも少なくなった。

 


呼び寄せたからには責任を持って

面倒をみようという誓いが

 

15年目を越えた辺りから、

希薄になっていた。

 

 

父も兄弟も友達も居ない母は

ひとりぼっちで寂しかったと思う。

 

 

「お母さんはひとりで居るのが好きなよ。」

 

 

度々言っていた、その言葉の真意は

僕への重荷を減らしてくれようとしていただけで

 

本当はもっと一緒に居たかったのが

本音だったんじゃないかと思う。

 

 

そんな気持ちに、やっと気づけたから

遅すぎるけど、

余命宣告を受けた後に、

この1ヶ月は毎日一緒に居る。

 

 

 

また明日も母と一緒に、少しでも

穏やかな1日が過ごせるように。


 

 

僕は今日の母の横顔を一生、忘れることはないだろう。

母は現在、残された余命を病院ではなく、

 

家で過ごす緩和ケアの道を選び、

(末期がん患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

毎日を自宅で過ごしています。

*****

 

 

徐々に明るくなっていく薄暗く青白い空。

 

カーテンの隙間から差し込む光を見て

早く朝になってくれないかと、

眠れないまま、朝の光を仰いでいた。

 

 

昨晩、夜通し降り続いていた雨は

顔色の悪い雲を残しながらも上がっていた。

 

台所でお茶を淹れていた母が、

 

「昨日も一緒に居てくれてありがとね」

と微笑む。

 

 

今日は少しだけ体調が良さそうだ。

 

 

朝は薬用に軽食をお腹に入れ、

 

昼ご飯は昨日、あらかじめ用意をしていた

煮物を2人で一緒に食べる。

 

 

「あんたは何を作っても美味しいねぇ」

 

 

話が弾んだまま

 

「今日は食欲があるみたいだから

  買って来たデザートを出すよ」

 

僕は密かに、プレゼントの準備をする。

 

 

「ちょっとだけ電気を消してもいい?」

 

 

暗闇からろうそくの炎に照らされ

ゆらゆらと浮かび上がる

香水と薔薇とケーキ。

 

母は驚きながらも喜んでいた。

 

 

母は、出されたケーキのローソクを

消そうとする。

 

 

しかし、たった5本のローソクの火でさえ

消すことができない。

 

息を軽く吸い込んだだけで、

途端に蒸せて過呼吸になる。

 

苦しそうに肩で息をし

うめき声のような声がもれる。

 

 

僕が代わりに消そうとすると

 

 

「嬉しいから、お母さんに吹き消させて」

 

 

ローソクを、苦しみながらも

吹き消そうとする母の横顔。

 

 

どれだけの秒数が過ぎていただろう。

 

 

 

母は嬉しさと悲しみが同居した

複雑な表情をしていた。

 

 

薄暗い部屋で、赤く照らされ

浮かび上がる母の横顔。

 

 

瞳に溢れていた涙は

嬉し涙だったのか

 

こんなこともできなくなってしまった

悔し涙だったのか

 

 

僕は隣で母の姿をずっと見ていた。

 

 

何故、もっと元気な時に

楽しさと、喜びの中だけで、

 

誕生日を祝ってあげれなかったんだろう。

 

 

母がこんな状況になるまで

ちゃんと構ってあげられなかったんだろう。

 

 

僕は今日の母の横顔を

多分、一生、忘れることはできない。

 

 

 

また明日も明後日も、

母と一緒に

穏やかな1日が過ごせるように。