あの日夢見た10年先へ【2nd season】 -3ページ目

太陽光が差し込んでも、母はもう昼か夜かも分からない。

母は現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。


入院してから26日、余命宣告から76日が経ちました。


****


今日も引き続き、30℃を超える夏日になった。


夏を予感した蝉の鳴き声が所々で聞こえ始める。

けれど、台風6号の影響で未だ梅雨は明けていない。



予報では、明日からまた雨になるようだ。




昨日、母が病室に居なかったのは、

寝たままで浴槽に浸かれる

お風呂に入っていたからだった。



ここ最近、母がいなくなってしまう予感が

至る所に押し寄せていて、不安は隠せない。



お風呂に入って血行が良くなったのか、

その後、少しだけ母は言葉を発した。



遅れて駆けつけた僕に



「何しにきたのよ!」



不機嫌そうに言い放つ。




「役立たずが!」



母の気に触る発言をしてしまい、怒らせる。



末期癌患者の殆どに現れるせん妄状態。

興奮は冷めやらない。




昨夜も明け方まで、20分毎に1回の感覚で



「お水…   喉が渇いた… 」


と呟く。



その度に僕は冷凍庫の氷つぶを出して

口に運んであげる。



そして2時間に一度「苦しい…」とこぼす。



その度に僕は酸素吸入器の値を

少しずつあげてあげる。



トイレはこれまで僕が連れて行っていたが、

ここ数日、1人ではサポートできなくなった。



1人ではトイレに行けなくなった母を

看護師2人がかりで、起き上がらせ

トイレへ連れて行く。



母は1人にしがみつき、

1人がズボンを下ろす弱り果てた母の様子を


僕は、暗闇の中、ただ、ただ、見ていた。





明け方、


「たっちゃんが居てくれて



そこまで言いかけて、母は眠ってしまった。




「安心してね、ずっと傍にいるからね」



そう言葉を返しても、反応しなかった。




それからは、今に至るまで、18時間、

母は一切口を聞かなくなった。



こちらからの問いかけにも

頷く程度しか、反応しなくなった。



日に日に意識が戻る時間が少なくなっている。



もう身体中の筋肉が弱っていて、

目も口も閉じれず、開けっ放しで、

開かれた目の焦点は定まらない。



声帯の筋肉も弱っているせいで、

吐く息と一緒に唸り声が漏れる。



何度かに一回咳込んでいる。



何度かに一回、雄叫びをあげる。




そんな状態の母の

隣に居るのは辛く、胃がキシキシと痛む。



お別れはもう近くまで迫ってるのかもしれない。





ここ最近、ぴくぴくと痙攣し始めた僕の左瞼。




母は手だけではなく、足まで小刻みに揺れ始めた。



僕らはまるで、連動しているようだった。



病室の外には綺麗な夕暮れの景色が広がっていた。





母を死に追いやった東大病院の医師の名を一生、忘れることはないだろう。

母は現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。


入院してから25日、余命宣告から75日が経ちました。


****



今日の日中気温は33℃まで上昇した。



蝉の鳴き声が、時折耳に入り、

梅雨は明けたかのように思えたが、


台風6号の影響で、今週末も雨続きの予報。




今年の梅雨明けはいつになるんだろうか。



苦しみの霧雨の中で彷徨い続ける母は

いつになれば楽になるんだろうか。




そんなことを移動中の電車で考えていた。




この3ヶ月、

殆どの仕事はキャンセルして母と一緒に居るが、

今日はどうしても外せない打ち合わせがあった。



1本目は10月、品川に設立予定の2店舗目になる

僕が経営するKitchen Studioの施工打ち合わせ。



2本目は来年度、放送予定の僕が出演する

TV収録の打ち合わせだ。



そのため、宿泊しない日は午前中に訪問してるが

今日は夕方くらいになってしまった。



気がかりに思いながら、病室の扉を開けると、

ベッド上に、母の姿は、なかった。



まさか、そんな



シーツのへこみ方など、微かに残る痕跡で

ついさっきまでは居た形跡がある。



僕は部屋を飛び出し、

ナースステーションに行くが、誰もいない。



16:30以降、日中の3分の1まで看護師が減る。

そのため、各病室へ出向いてるのか。




病室に戻ってナースコールを押す。

何十秒、鳴り続けただろう。



中々応答しない。



ベルが鳴り続ける間、

僕の記憶は、2ヶ月半前に戻っていた。




あれは忘れもしない5/9日、母の難病治療で

通院していた東大病院から電話が入る。



“ご家族の方に、重要なお知らせがあるので

緊急で病院に来れますでしょうか?”


その物言いに、嫌な予感がした。



母の月に1回の外来日が、5/9

そこで撮ったCTに問題があるとのことだった。



翌日、仕事終わりに母と病院へ向かう。



指定された時間に伺うも、病棟のロビーで

4時間も待たされ、時間は22時をまわっていた。



なにやら不吉な予感がする。



僕と母の2人は医師のいる面談室に通される。



医師は遠回しに、

のらりくらりと病状を説明した後、



「今日撮ったCTでステージ4(末期)の

       膵臓癌が見つかりました。」


「肺にも転移しています。

    もって、夏まででしょう。」



余りにも突然で、予想だにしなかった報告。



母の、困り果てたように、僕の顔を見つめた

あの悲しげな表情は、忘れることができない。



母は2年前から東大病院で治療を受けていた。



2017年の8月〜12月まで、5ヶ月間の入院後、

20181月〜20195月までの1年半、

毎月、外来に来ていた。



昨年末から、下腹部の痛みを訴えるようになり

外来のたびに医師に痛みを訴え続けた。



なのに、医師は、


“やれやれ、また言ってるよ“


的な態度で、一向にCTを撮ってくれなかった。



それを半年間言い続けて、

やっと今年の5月に映写。



結果、悪性腫瘍が見つかり、余命宣告された。



僕は、東大病院、アレルギー・リウマチ化の

“ナガブチ”という医師の名を一生忘れないだろう。



難病が癌化しやすいことは医師なら周知の事実。



何故、半年もの間、CTを撮ってくれなかったのか。



その間にこちらがセカンドオピニオンなどで

別の病院に行けば良かったのか。



もし、酷い痛みを訴えた今年の初めに

CTを撮っていれば、ステージは3くらいで、

余命はこんなにも早くなかったのではないか。



色々な疑念が残る。


60代という若さで、これからの人生を切望する中で

命を絶たれる、母の悔しい気持ちが痛切に染みる。



母と二人三脚で東大の医師に向き合えなかった

苛立ちが、じわじわと、込み上げる。



病室内には、無情にもベルが鳴り続ける。



もぬけの殻になったベッドサイドから


夕日が差し込むその景色は、


儚く、蜃気楼のように、揺らめいていた。




あんなにも気高く、聡明な母は、もうここには居なかった。


母は現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。


入院24日目、余命宣告から74日が経ちました。

 

****



母はこの2,3日で殆ど言葉を発しなくなった。



目の筋肉が弱っているからなのか、

目を閉じていても、きちんと閉じれていない。



手は、まるでリズムを取っているかのように

左右に大きく震えている。



昨日は時折、驚いたように目を開けていたが、

今日の開ける回数はめっきり少なくなった。



たまに目を開けても視点は定まっておらず

魂がぬけたような瞳の色をしている。




そんな母の全てが痛々しくて、朝から夜中まで

毎日その様子を見続けるのは胸が苦しい。





昨夜、看護師が母の爪を切ってくれる間に

少し息抜きをしようと、隣接している

聖路加タワーのレストランに行った。



朝、昼、晩、いつも病室で食べていたので

30分ほどの軽い気晴らしのつもりだった。



しかし、注文してから出てくるまで

30分以上待たされたせいで、

食べ終わった頃には1時間以上経っていた。



これはマズイなと思っていると、

ふいに携帯が鳴る。母からだ。



この2,3日は携帯を触ることすらできないくらい

症状が進行していたのに、驚く。



出てみると、



「たっちゃん?たっちゃん?

    どごにいるの??


    何度たっちゃんの名前を呼んでもいないし、

    どごにいるの?!


    何時間もの間、一体どごいってるの?!


    いづもいづも、勝手に動いて!」



と泣き叫ばれた。



僕の多動性は母の苛立ちの原因のひとつで

これまでもこんな風に怒られることはあった。



しかし、今の母は

癌末期癌患者に見られる“せん妄”状態なので、

過度の不安と、過度の興奮状態に陥る。



幼稚園児のように泣き叫んでいた。



脳に酸素は行き届かないせいで、

脳は眠った状態で、呂律は回らない。



まるで、赤ん坊のように、喚き続ける。



あんなにも淑女で、気高く、聡明な母は、

もうここには居なかった。



とてもショックだった。



母のお漏らしした下着を洗ったり、

スボンをずらしてトイレを手伝ってあげる。



初めはそれすらショックだったが、

そんなことはとても小さいことだと今は思う。



24時間一緒に居続け、

見えてしまう、見たくないこと。



親だからこそ、距離を置きたいこと。



そんなようなことは序の口だった。



癌が進行した時のこういった症状の患者は

病院内では日常のようだった。



肝臓の働きが悪くなり、有毒物質が排出されず

脳が眠るような状態になるらしい。





いくらか興奮状態が落ち着いた頃に、

音楽療法士が訪ねてくる。



ここのところ、しんどいからと言って

マッサージも音楽も断り続けていた母が頷いた。



今日は電子ピアノで、バッハを選曲。



演奏中、母は寝ているのか、聴いているのか

分からなかった。



バッハの、悲しげな音色は、

霧雨にマッチして消えていくようだった。



窓から見える街路樹を歩く人達、

信号待ちで列をなす人達は


皆、虚ろな表情をして

何処に向かって行くんだろう。




三曲目の“Fly me to the moon



母はリズムを取りながら

小刻みに揺れていたようだった。



“私を月に連れてって”




母は何を思いながら聴いていたんだろう。




演奏が終わった頃、晴れ間が差し込む。



母の顔は少しだけ、安らいでいるように見えた。






深夜の静まり返った病院で、他者の死を目の当たりにして 僕は急に不安になった。

母は現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。


入院して23日目、余命宣告から73日が経ちました。

 

****



「喉がからから



昨夜1時過ぎ、母の声で目が覚める。



母はこの1,2日で、殆どの言葉を発しなくなった。




喋れたとしても

“トイレに行きたい” “喉が渇いた”


2センテンスのみ。



こちらが話かけても、怒ることも、

笑うことも無くなっていた。



僕は母の喉を潤そうと、

いつものように給湯室へ氷を取りに行く。



すると、何だか向かいの部屋が騒がしい。



空いた扉の隙間から見えた中の様子は

中年夫婦が荷物をまとめているようだった。



部屋を変わるのかな?



こんな夜中に何故?



そう思って氷の給餌に廊下を行き来していた。



すると、中から、全身白布をかけられた

故人が運ばれていく様子が目に入る。




そういうことだったのか




深夜の静まり返った病院で、

他者の死を目の当たりにして

僕は急に不安になった。




そういえば昨日、 

廊下で泣きじゃくる女の子を見た。



お母さんも悲痛な形相で

子どもの手を握りしめていた。



きっと、そういうことなんだろう。



ここでは、多くの方の人生が幕を綴じる場所。





僕は、この3ヶ月近く、色々な覚悟をして、

毎日、母と向き合ってきた。



僕が崩れ落ちてしまったら

誰が母の葬いを満足にしてあげるんだ。



自分を奮い立たせながら、弱音を隠して

私事は勿論、仕事の殆どを制限して、

毎日、母の隣にいた。



だけど、今正に、命を絶たれて、泣き崩れる

向かい部屋の家族を見て、


僕の気持ちは

荒れ狂う風の中、帆を畳まず直進する船のように

左右に大きく、揺さぶられていた。



沈没してしまうかもしれない

不安が波のように押し寄せて来る。




これまでの僕は世界を旅してきて、

自身の死の恐怖と何度も対面してきた。



南アフリカのサバンナで深夜に1人、

バスから降ろされ、身の危険を暗示ながら

彷徨ったこと。


南米のスラム街で

強盗にピストルを向けられ、死を覚悟したこと。


東アフリカの高地で

コレラに感染し、毎日うなされ続けたこと。




自分のメンタルは強固に鍛えられてるし

これまでの経験から比べたら今回のことだって

きっと乗り越えられると思っていた。



これまでの世界旅で経験した辛さよりも

辛いことなんて、この先有り得ないだろうと。



けれど、これは違った意味で、

それ以上の試練なのかもしれない。




薄暗い病室のベッドで青白い光に照らされる

母の苦しそうな顔。



もう、そう遠くない未来に、

僕の元にも、こんな日がやってくる。



その後は、なかなか寝付くことができなかった。





「たっちゃんが後ろにも前にも、色んなとこにいるけど、どうしてかしら」

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

****



今日も朝から霧がかっていた。



午前中、小雨が降る肌寒い中、

纏わりつく湿度を跨いながら、


いつものように病院へ向かう。



例年ならとっくに梅雨は明けている時期。



今年はいつ明けるのだろう。




病院に着くと、母はベッドを起こし

くたびれ果てた様子で、もたれかかっていた。



目を閉じているが、全てを閉じれておらず

少し半目になっている。



もう瞼の感覚も弱くなっているのか

目を閉じきれないその姿に、僕の胸は痛む。



隣に座っていると、時折はっと目を覚まし、

突然、辻褄の合わないのことを喋り出した。




「たっちゃんが後ろにも前にも、

   色んなとこにいるけど、どうしてかしら」




まるで痴呆老人のような口調で

スローペースに話し出す。



3日前までは、あんなに毅然と話をしていたのに

余りの変化に、僕の気持ちは追いつかない。



話かけてもないのに、

ん?どうしたの?と、突然聞いてくる母に、

僕は、かけてあげる優しい言葉を探していた。




お昼になり、教会の音色が

いつものように3分程、鳴り響く。



今日も出された食事に、母は首を横にふった。


もう食事が取れなくなって5日目になる。




最終投与薬の耐性が1週間程でつけば

また食事を取れるようになると言っていたが



薬の耐性の前に、もう臓器が弱り果てていて

食べれるようにならないかもと医師は告げる。




水やお茶を飲んでも、吐きそうになる母が

唯一、食べれるのが、細かく刻まれた氷。



僕が食べさせてあげようとしても、

自分で食べようとする。



こんな状況になっても、最後まで自分に厳しい。



氷を上手く掬えず、何度も掬う素振りをする。



掬えても目は見えないので、

スプーンの中に氷が入ってることさえ分からず

口に運んでは、何も入らない状態を繰り返す。



その様子を何分も何十分も横で見ていた。



すると、口にやっと入った氷を舐めてる間に

眠ってしまい氷が口からこぼれ落ちた。



昨日までは、こんなことはなかったのに

ここ2,3日で一気に症状が進んでいる。



1日経つごとに5歳ほど老化が進んでいるように

ここ数日で、どんどん歳を取っていく。




昨晩、荒川の花火が病室の窓の外に見えていた。



ベッドに横たわる母と少しでも一緒に見たくて

窓の外の花火が綺麗だよと伝えても、

目を閉じ起き上がることはできない。



音だけでも聴こえる?と聞いても、

耳も聞こえづらくなった母には


花火の音は届いていなかった。




病室の窓から見える

次々に弾けては消えていく花火に


母の命の儚さを感じていた。



もうすぐ梅雨は明け、夏が来ようとしている。




僕が写した母の遺影写真。

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

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昨晩から、最終投与薬の量を増やした副作用で

強力な睡魔が母を襲い続けていた。



膵臓と肺に悪性腫瘍があるため、寝ても、

斜めにもたれ掛かっても、どんな体勢でも

身体の何処かが痛み、安らぐ時間はない。



それゆえベッドに横になることが出来ず、

ベッドサイドで足を下ろして、座っている毎日。



今も隣で、睡魔と戦いながら、コクコクと

何度も前に倒れそうになる母を心配しながら

ブログを書いている。



数分に一回、はっと目を覚まし、

辺りを見渡して、また眠りに落ちる。



耳も聞こえなくなっているようで、

話しかけても、届かないし、

届いても内容が理解できない。



昨日までは、こちらの問い掛けに対して

もう1回言ってと理解しようとしていたのに。



意識が朦朧としている様子は

焦点の合ってない虚ろな目線で見て取れる。



日毎、時間毎にどんどん弱っていく姿。



もはや可愛そうとかの感情では計れない。


僕の胸はきゅーと締まって潰れてしまいそうだ。



膵臓の悪性腫瘍に圧迫され、

肝機能もどんどん低下。



母の顔は、日に日に黄疸が強くなる。

今では白眼の部分も真っ黄色だ。



母の視力はステロイドの影響でもう殆どない。


それゆえ鏡に映る自分の顔を見れないのは

不幸中の幸いかも知れない。



今では顔だけではなく、身体中に黄疸が出始め、

先端は赤褐色になってきている。




24時間、母の姿を見ながら、

僕は祖父のことを思い出していた。



僕の今の写真家人生の道標になった、母の父は

25年前、72歳で肝臓癌によって逝去している。



祖父が大好きな僕は、その時、中学1年生だった。



全身真っ黄色になって横たわっていた祖父の姿が

今の母と重なり、胸が締め付けられる。



祖父が昏睡状態になっても、

お見舞いに行く度に話しかけていた。



祖父に想いを伝え続けた時、祖父の目から流れた

黄色い涙が今でも忘れられない。



「お祖父ちゃんが死んだなら、

     僕は生きてる意味がないよ



最後、命を引き取った後、

僕は病院の屋上で泣き叫んでいた。



その横に僕をなだめる母が居た。



今、あの時の祖父と同じような状況の母が居る。




祖父の死で僕は写真家になる決意をし、

中学で写真部に所属、祖父の形見のカメラを操り

様々な瞬間を切り取り、今に至る。



広島から母を連れて東京に飛び出し、

多くの仕事の中で、美容広告の仕事があった。



40代モデルを探していた中で

60代の母を提案したところ、何と審査に通り

親子関係を隠して仕事で母を撮ったことがある。



その広告が数千万円の売り上げを出したらしく、

そこから4年間、毎年母がモデルを務めた。



その僕が写した母の5-10年前の写真を見ながら、

遺影写真をどれにするかと話していたのは3日前。



祖父が母を頻繁に撮ろうとすることが

嫌だったという母。



祖父からの覚醒遺伝だと言われている僕は

祖父と同じ気持ちで、これまでに随分沢山の

母の瞬間を撮ってきた。



3日前、最終期投薬をする前に、意を決した母が

僕に写真を出すよう促した。



これが1番自分らしくていい、

これを遺影写真に使って欲しいと笑っていた母。



この時の顔はもうこの先、見れないのだろうか。




「あんたは望まれて生まれてきたの。産んで良かったよ」

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

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投薬を医療麻薬に切り替えたことにより、

痛みと苦しみが、これまでよりは多少取れ、


入院前のように穏やかに話ができたのは

昨日の日中、ほんの少しの時間だけだった。



今日は一日中、いつものように苦しむか

それ以外は眠っていた。



時間経過と共に辛さは増してきているようで、

弱々しい、途切れ途切れの声で、痛みを訴える。



呻き声がビブラートのように強弱をつけて、

発せられる。



その頻度の高さと辛さを見た医師は

早くも薬の流用度を上げる提案を促した。




「もう、そんなに長くはないと思う。」



母は呟く。



「そんなことないよ、薬の耐性が付くまでの

1週間は辛いけど、それを乗り切れば楽になるよ。」



僕は医師の説明を繰り返し伝える。



母は、目を閉じ、こくりと頷いた。





今日の夜ご飯は、じゃがいもとブロッコリー。



「どちらも大好きだったのに食べれない


虚ろな顔の母。



夕食を目の前にして、

いつものように、時間が過ぎていく。



止まらない吐き気に、

強度の吐き気止めも点滴で追加。




1時間、2時間と過ぎていく。


時間と共に薬が効いてきたのか、



「スイカを一口食べてみようか


吐くことを恐れながらも口にした。




3日ぶりに固形物を食べれた。



「大収穫だったわぁ



はにかみながら、とぼけた様子で言う母を横に



偶然居合わせた医師と僕は笑いあう。



意識は朦朧として、虚ろ虚ろになっているけど、

それを機に、多くの会話ができた。



僕の幼少期の話や、生まれた時の話。



逆子だったせいで、出産に何十時間も要し、

膣内には僕が暴れた沢山の傷が付いたこと。



今でもその後遺症で、トイレの度に

痛み、苦しんでいること。



「こんなデリケートなこと、

    言うつもりはなかったけど、

     3ヶ月近くも一緒に居たら、あんたも疑問に

     思ってるんじゃないかと思ってね」



母のトイレが異常な程、長くかかるのは

僕を出産した時の後遺症のせいだった。




「あんたは望まれて、生まれてきたの」



「産んで良かったよ。」



母と共に、沈みゆく夕日を病室から見ていた。



「可愛い夕日だね。」



「昨日のオレンジのバラの花みたいだね。」



元気な時の母が、夕暮れ時に一瞬、

戻ってきてくれたようだった。





気丈で気高く、神経質な母のネジが一本抜けたような姿は辛かった。

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

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昨日も今日も、母は何も食べていない。


水を飲んだだけでも、吐き出す状況が続いている。



このままでは薬も体内に取り込めないということで、

昨晩から早くも、点滴投与になった



太ももから、腕から、鼻から、何本ものチューブで

繋がれている母の姿を見るのは辛かった。



副作用の強度の眠気で、今も隣で眠り続けている。



これまでは3度の食事と、それに伴うトイレ、

5度の薬、歯磨き等で、度々起き上がっていた。




しかし、点滴になった今日は、1日中、

数少ないトイレでしかベッドから起きなくなった。



「とうとうきたね…」


「これを一番恐れていた…」



「このまま眠り続けてしまうんだろうか…」



まるで、泣いているような弱々しい、

途切れ途切れの声でつぶやいた。



「なんでこんなに進行が早いんだろう。」



「眠くて仕方ないわ。」





思えば今朝は、強度な薬の副作用で、

喋る言葉が、ちぐはぐだった。



あんなに苦しそうだった母が、

とてもすっきりした顔をして、



「布団がぐちゃぐちゃで、

     何がどうなってるか分からないわ」



「この子が、また悪戯をしたのかと思った」



何だかトンチンカンなことを

医師にも、看護師にも、満遍の笑みで話す。



線が一本外れたような、

子どもみたいな母が居た。




辛さが緩和されているからこその

軽快なトークは嬉しかった反面、


全てのことを自分で把握して、

1から10まで事細かく支持をしてきた


気丈で気高く、神経質な母の

ネジが一本抜けたような姿を見るのは辛かった。




けれど、過去を振り返ると、こういった

純真無垢な面も、元々持っていたことを思い返す。



それが母ひとりで、子どもを育てようとすると、

ここまで鬼にならなくては成し得なかったのか。




体調の良さそうな母を見て、僕は母がしたいと

言っていた院内の庭園散歩の話をふる。



「お母さん、車椅子で散歩にいけたらいいね」



「そうだね、晴れたら行きたいねぇ〜」



優しい母の微笑みが帰ってきた。




これまではそんなことを言うと


「こんな状況でいけるはずないでしょ!


「あんたはまだ状況が分かってないの?!」



と眉間に皺を寄せて怒られていたのに。




もちろん、病気の辛さで性格が変わっている

部分は多々あるけども


全ての物事に対して、このくらいフランクで

肩の力を抜いたような気構えで接していれば


ストレス過多でこんな病気にならなくて

済んだのになと考えていた。



関東は今日も昨日と同じ30℃を記録した。



冷夏続きの先週から一転、

高湿度の中でも、暖かな気候が戻ってきた。



母の体調も一転、

眉間に深く刻まれていた皺は薄れ、

いつもの穏やかな顔つきに戻っていた。




「たっちゃんの人徳で最後に、良い想いをさせてれてありがとう。」

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

****


今日の東京は昨日とは一転、

30℃近くにまで迫る程の暑さを見せた。



外を歩く人はハンカチで汗を拭い、

半袖シャツを着ている人が足早に

冷房の効いた涼しい建物内に流れ込んで行く。




ここ数日で母の体調は急激に悪化している。



もう最後の砦である医療麻薬を使わないと

息苦しさ痛みに耐えられない段階まで来ていた。



実は1週間前に、

医師から医療用麻薬の使用を提案されていた。



しかし、母はそれを拒み続け、

1段階弱い薬で、痛みに耐えてきた。



拒み続けた理由は、それを飲むと頭は朦朧とし、

思考力は落ち、眠り続けてしまうから。



しかし息苦しさと臓器の痛みはピークに達し、

もうその決断をするしか道はなかった。



先月まで、死ぬと分かってるのに何故こんなにも

薬を飲まないといけないのかと言っていた母。



しかし、今は苦しみの余り、

薬を飲まないと生きれない。




昨晩、止む終えず決断し、投与が始まった。




副作用で、強烈な眠りが襲うため、

何故こんなにも眠いのと言いながら



このブログを書いている現在も、

母は隣で寝息を立てている。



痛みや、咳込み、呼吸困難も少しは緩和され

昨日よりも幾分、穏やかに会話が出来た。




しかし、副作用のひとつである吐き気も強烈で、

今朝も昼も、一口食べただけで、吐いてしまう。



せめて、水分だけでもと水を飲んだだけでも

吐き出してしまう。



その姿はとても残酷で、僕自身も吐き気を催しながら

ずっと母の背中をさすっていた。



薬を飲むための水でさえ、吐き出す。



何度も嗚咽する母の苦しむ姿と、

喋る言葉の呂律がまわらなくなった姿。




1週間くらいで耐性がつき、状態は今より

緩和されると説明を受けたが…気が気でない。



このまま吐き続ける状態が続けば、

摂取できない薬を点滴で投与し続けることになる。




母はそんなことが分かっていたのだろうか。




前々日の夜、天丼を食べたいと言ったのは

この状況を予想していたからなのだろうか。



実は昨日、このブログを見て母の容態を危惧した

実業家の先輩が、自社の広島風お好み焼きを

病院へ持ってきてくれた。



母は広島出身で無類のお好み焼き好きということを

前々から知っており、手伝えることがあれば言ってと

優しい手を差し伸べてくれていた。



しかし、僕からは頼みにくいと分かっていた先輩は、

お見舞い申請も断られることが分かっていた。


結果、機転を利かせてアポなしで来てくれた。




お陰様で、天丼一口で、お腹を壊し気味だった母は

その日は、美味しい!とお好み焼きを3口も平らげた。



更には、僕のブログを見て、体調を危惧した

京都の知り合いが送ってくれたニシン蕎麦。



昼食に食べていた僕を見て、一口頂戴と言った。



うどん派の母が、お蕎麦がこんなにも美味しいとは

知らなかったと言っていた。



「たっちゃんの人徳で、最後に、

    色々良い想いをさせてれてありがとう。」



そう笑っていた。



病院の冷蔵庫内には母の名前シールが貼られた

関西風お好み焼き ぼてじゅうが入っている。



先週に母が食べたいと言ってネットで注文した物が

ようやく今日、関西から届いた。



また、母の美味しいと笑う顔が見れるように。



少しでも穏やかな時間が過ごせるように。





僕も母の一部だった、母の苦しみの中から生まれてきたんだ。

母は残された余命を、家で過ごす緩和ケアの道

(末期癌患者の心身苦痛を和らげる終末期医療)

 

を選んでいましたが、6月末から体調悪化。


現在、ホスピス(緩和ケア病棟)に居ます。

 

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一昨日、酸素吸入器の値が5.0まで上がった。

この数値は鼻呼吸の最大値だ。


家庭療養中から、呼吸が苦しくなるにつれ

1.0から始まり、1週間毎に0.25ずつ上げていった。


それが一昨日は、1日で一気に1.0も上がり、

母の肺は悲鳴をあげていた。



しかし、その値にしても苦しみは改善されない。


もう窒息して死んでしまうのではないかという

恐怖と戦っていた。



トイレに行くだけ、歯を磨くだけ、

そんな些細なことで、全力疾走後のような

症状になる。咳込み、嗚咽する。



24時間、隣で見続ける僕も苦しかった。



もうこれでは延命が利かなくなることが懸念され

昨日、もっと大掛かりな器具を付け替えた。


昨日だけで、付け替えた酸素吸入器の値は

5.0から7.0まで引き上げられる



もう肺の機能は半分以上が失われていた。



母は肺癌で、呼吸が苦しいだけではなく、

膵臓癌で、臓器の痛みも、過酷さが増している。



昨晩の夜も、母は痛みで眠れなかった。


メインの薬3錠を、4錠に増やしたのが数日前。


しかし昨日は夜中にこれまでで

一番の痛みを訴え、5錠目を服用した



看護師は痛みレベルを聞いてくる。


我慢強い母はいつも8程の痛みを訴えていた。


それが昨日は10を申告。



痛みで、入院してから初めて夜、

歯を磨くことができなかった。



痛みを取る薬を処方してもらい、

ようやく眠りについたと思ったら、



130分過ぎに、



「たっちゃん、ベッドから起こして」



「いたぁぃぃ…いたぁいよぉ…ぃぃたぁいよ…



明らかにこれまでとは違う悶え方だった。



その姿はこれまでで、一番悲痛な声だった。



ナースコールを押し、5錠目を飲む。

そらでも効いてくるまで時間はかかる。



その間、僕はどうしようもできないまま

時間が過ぎるのを待っていた。


これまでで一番、母は

辛そうで痛そうな顔をしていた。



それでも


「あんたは昨日も寝てないんだから、寝てなさい」



連日、付き添う僕の体調を心配する母。



こんな人生最大の危機みたいな状況でも

自分を抑えて、気丈な母。



僕は、いたたまれなくなって、

肩か手をさすろうか?と聞く。


先日、勝手にさすって怒られたばかりだから、

それ以来、気安く撫でてあげられずにいたけど

母の余りの様子に、僕は思わず問いかけた。



すると、母は震える手を差し出していた。


相当、苦しくて辛かったんだろう。



薬が効き始めるまで何十分も、母は震える手を抑え

一向に離そうとはしなかった。



暗い病室の中、母の酸素吸入器の

ヒューヒューという音だけが鳴り響く。



それが子守唄のように聞こえてきて

連日、睡眠不足だった僕はうとうとしていた。



母の心臓音が僕の手から伝わってくる。



どれくらい経ったのだろう。



夢なのか、現実なのか、ふわふわとした

感覚の中に僕は居た。



母の手から伝わる心臓音で、

僕は母の一部になっているような錯覚に陥った。



薄暗い部屋。生暖かい体感がある。



ここは何処なんだろう。



懐かしい感じがした。



生まれてくる前の記憶




僕は母の胎内の中に戻っていたのだろうか。




薄暗い病室。



30分近く手を握りながら、意識は乖離し、

僕は半分眠りに落ちていた。



自分がこの世に産まれて来る前、


母の胎内にいた記憶が、


母の手から伝わる心臓音から呼び戻されていた。



温かな胎水に浸かり、肉壁で守られてる、

あるはずのない胎内に居た頃の記憶。



「ちゃんと布団で寝なさい。今寝ておかないと

     これからどんどんしんどくなるよ。」



母の声で僕は現実に引き戻される。



「痛みが強くなったら呼ぶから寝てなさい。」




僕は子どもの頃に戻っていた。



僕も母の一部だった。



そんな当たり前で、忘れてはいけないことを

この瞬間に、天がお告げをくれたようだった。



僕は、母の苦しみの中から生まれてきたんだ。



何もしてあげられなくてごめん。


全然、親孝行してあげられなくてごめん。




目を覚ました僕の頬は、涙で濡れていた。