(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「神から授かった人生の終わりが悲しみであるはずがない!」

 

母を亡くしてもう三年以上経ちました。

 

でも、母に呼びかけない日は一日もありませんでしたし、もちろん今でも毎日、多分100回くらいは母に呼びかけています。

 

母の霊が永遠に生きていると確信しているので、実際の呼びかけをしているのです。

 

前にもお伝えしたかと思いますが、私は大人になってから、親しみを込めたいために、ある時から、「お母さん」ではなく、子供の頃に呼んでいた「かあちゃん」と呼ぶようにわざと戻しました。

 

ですから、今も、毎日、「かあちゃん」と呼びかけています。

 

語りかければ、すぐに母の返事が私の心の中に響きます。

 

母が亡くなって間もない頃、お墓に納骨する前だったので、まだ母のお骨の入った骨壷を母が寝ていたベッドの上に置いていたある日のことでした。

 

私と妹を母の胎内から取り上げて下さったお産婆さんの娘さんが、母の訃報を聞いて不祝儀袋を現金書留でお送り下さいました。(お産婆さんはかなり前に100歳で亡くなっていました。この方はとても親切な方で、出産費用をまけて下さったり、出産直後の母に栄養のある食べ物を下さったりした、と母から何度も聞きました。)

 

私がその封書をベッドの上の母の骨壷のそばに置きながら、

 

「かあちゃん、これ、〇〇さんから頂いたよ」

 

と母に話しかけた瞬間、

 

間髪を入れずに、

 

「お礼しといっちょうだい」

 

という母の言葉が私の心に響いたのです。

 

標準語では「お礼しておいてちょうだい」という言葉なのですが、

 

母独特の言い回しで、「しておいて」は「しといっ」という縮まった発音になります。

 

その母の発音どおりに私の心に母の声が聞こえたのです。

 

本当に間髪を入れず、瞬間的だったので、私は「うん、わかったよ」と返事をしてから、

 

ハッとしたのです。

 

「あれ、今、母が生きていた時と同じように会話してた!」

 

ということに気が付いたからです。

 

一瞬のことでしたから、私が独り芝居のように、母の役割を演じて話し、それに自分で答えるというような時間は有りませんでした。

 

また、「人へのお礼を母から頼まれる」という場面は私の過去の生活に無かったので、「お礼しといっちょうだい」という母の言葉は母の生前に私は聞いたことがありませんでした。

 

ですから、聞き慣れた言葉が私の記憶の中から蘇ったのではありませんでした。

 

私は喜び驚いて、妹にすぐに電話をして話しました。

 

「骨になっているかあちゃんが返事したよ!」と。

 

この事以外にも、以前私のブログ「サハラ砂漠とアマゾン川とニューヨークの高層マンション 母はどこにでもいる」でお話したように、間違いなく母が生きていて私の語りかけに答えてくれている例があります。

 

毎回のブログの冒頭でご紹介している母の声のYOUTUBE録音以外にも、私は、このように母の霊が永遠に生きている証拠を体験しているのです。

 

もし、霊の永遠性、死後の生命の存在を信じられなければ、人は下記のような短歌を作って母の死の悲しみに浸ることでしょう。

 

これらの短歌は、母の死後、私が、仮にそのような人の立場に立って作ってみた作品です。

 

一年前の7月、母が使用していた車椅子を、引越し準備の為に、奇しくも母生誕100年に当たる日、自治体の資源ごみ回収置き場に廃棄しました。

 

10年間、私が老老介護して来たのをご存知の近所の方がもしそれをご覧になったら、こんな短歌を作られるかなあ、という想像で詠みました。

 

車椅子「不用」と貼られ集積場置かれて在るを見るも悲しき

 

車椅子「不用」のゴミの出処は老女と息子住まいし古家

 

また、母の生前は、腰が痛かったり、熱が出たり、重いセキが出たりで、再三救急車の出動をお願いしました。

 

でも、もうその心配はありません。

 

あわてて119番に電話することもなくなりました。

 

そんなことを詠んだのが次の一首です。

 

救急車呼ぶのも絶えしこの頃は気楽にもなり悲しくもあり

 

・・・・でも、これらは私の心からの歌ではないのです。

 

あくまで、永遠のいのちを信じられなかったら、こんな悲しい歌を詠むだろうな、という気持ちで作ってみた歌にすぎません。

 

私の真の心境で作った歌が次の歌です。

 

死後もなお霊のいのちは永遠と説かれし君を吾は信ぜむ

 

私も母もクリスチャンなので、信仰による死への勝利の歌、肉体の死別で終わらない永遠の霊のいのちの継続を歌っています。

 

神から授かった人生の終わりが悲しみであるはずがない

 

神がそんな酷い仕打ちをされるはずがない!

 

という私の最終結論です。

 

神はなぜ人間を生まれさせたのでしょうか?

 

人間にとって生まれることは喜びに違い有りません。

 

それは、赤ちゃんが嬉しさでにっこり笑うのを見ればわかります。

 

100年も経てば死んでしまうのに、なぜ笑うのでしょうか?

 

人は皆死刑囚なのに、なぜ心の底から笑えるの?

 

単に自分の死は遠い先の話だから忘れているだけ?

 

幼いから死ぬことを知らない?

 

いやいや、そんなことはありません。

 

幼い時から私達は自分や親が死ぬことを知っているはずだ、と前のブログで書きました。

 

現に、私も小学校低学年の時から、母がやがて死んでしまうことを知っていました。

 

それでも、母が撮った私の小学生の時の写真はこれ以上の嬉しさはない、といった表情で笑っています。

 

ですから、神は人間が喜びを持って生きられるように設計し製造されたのだと思います。

 

しかし、死が人間に悲しみを与えるとするなら、神とは何と無慈悲で冷酷な方なのでしょう。

 

生まれさせて喜ばせておいて、人生の最後に人間を悲しみのどん底に突き落とす・・・・・

 

いくらお願いしても、有無を言わせず、私たちや家族に死という悲しみを与える・・・・・

 

神は最後の最後に私たちを裏切られるのか!

 

・・・・でも、神が私たちが生きている間に与えてくださる数々の恵みを数えてみれば、神が私たちを裏切られるはずがない、ということも確信できる。

 

矛盾。

 

・・・・その矛盾を解決する方法はたった一つ。

 

それは、神が私たちに肉体の死後にも永遠の喜びのいのちを与えて下さること。

 

それなら、死は悲しみではなくなる。

 

それしかない。

 

そう、神から授かった人生は悲しみで終わらず、永遠のいのちの喜びへとバトンタッチされるのです。

 

そこまでの保証をしてくれない神は神ではありません。

 

ただし、だからといって、自殺をしたり、殺人をしたりすることは神が明確に禁じている行為です。それらはバトンミスに該当しますから絶対にしてはいけません。神から授けられた人生をまっとうしましょう。

 

たとえ今、日々の人生を生きることが辛く苦しくても、自分だけに頼らず、神にも頼るなら、必ず乗り越えられますよ!

 

神に頼ることは女々しいこと、情けないことではありません。

 

むしろ、それは、なかなか出来ないことなので、雄々しいこと、勇気のあることです。

 

『強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

旧約聖書申命記第31章6節 

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
新約聖書ヨハネの福音書第14章1節

 

新改訳聖書改訂第3版より

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「神から授かった人生の終わりが悲しみであるはずがない!」

 

母を亡くしてもう三年以上経ちました。

 

でも、母に呼びかけない日は一日もありませんでしたし、もちろん今でも毎日、多分100回くらいは母に呼びかけています。

 

母の霊が永遠に生きていると確信しているので、実際の呼びかけをしているのです。

 

前にもお伝えしたかと思いますが、私は大人になってから、親しみを込めたいために、ある時から、「お母さん」ではなく、子供の頃に呼んでいた「かあちゃん」と呼ぶようにわざと戻しました。

 

ですから、今も、毎日、「かあちゃん」と呼びかけています。

 

語りかければ、すぐに母の返事が私の心の中に響きます。

 

母が亡くなって間もない頃、お墓に納骨する前だったので、まだ母のお骨の入った骨壷を母が寝ていたベッドの上に置いていたある日のことでした。

 

私と妹を母の胎内から取り上げて下さったお産婆さんの娘さんが、母の訃報を聞いて不祝儀袋を郵便書留でお送り下さいました。(お産婆さんはかなり前に100歳で亡くなっていました。この方はとても親切な方で、出産費用をまけて下さったり、出産直後の母に栄養のある食べ物を下さったりした、と母から何度も聞きました。)

 

私がその封書をベッドの上の母の骨壷のそばに置きながら、

 

「かあちゃん、これ、〇〇さんから頂いたよ」

 

と母に話しかけた瞬間、

 

間髪を入れずに、

 

「お礼しといっちょうだい」

 

という母の言葉が私の心に響いたのです。

 

標準語では「お礼しておいてちょうだい」という言葉なのですが、

 

母独特の言い回しで、「しておいて」は「しといっ」という縮まった発音になります。

 

その母の発音どおりに私の心に母の声が聞こえたのです。

 

本当に間髪を入れず、瞬間的だったので、私は「うん、わかったよ」と返事をしてから、

 

ハッとしたのです。

 

「あれ、今、母が生きていた時と同じように会話してた!」

 

ということに気が付いたからです。

 

一瞬のことでしたから、私が独り芝居のように、母の役割を演じて話し、それに自分で答えるというような時間は有りませんでした。

 

また、「人へのお礼を母から頼まれる」という場面は私の過去の生活に無かったので、「お礼しといっちょうだい」という母の言葉は母の生前に私は聞いたことがありませんでした。

 

ですから、聞き慣れた言葉が私の記憶の中から蘇ったのではありませんでした。

 

私は喜び驚いて、妹にすぐに電話をして話しました。

 

「骨になっているかあちゃんが返事したよ!」と。

 

この事以外にも、以前私のブログ「サハラ砂漠とアマゾン川とニューヨークの高層マンション 母はどこにでもいる」でお話したように、間違いなく母が生きていて私の語りかけに答えてくれている例があります。

 

毎回のブログの冒頭でご紹介している母の声のYOUTUBE録音以外にも、私は、このように母の霊が永遠に生きている証拠を体験しているのです。

 

もし、霊の永遠性、死後の生命の存在を信じられなければ、人は下記のような短歌を作って母の死の悲しみに浸ることでしょう。

 

これらの短歌は、母の死後、私が、仮にそのような人の立場に立って作ってみた作品です。

 

三年前の7月、母が使用していた車椅子を、引越し準備の為に、奇しくも母生誕100年に当たる日、自治体の資源ごみ回収置き場に廃棄しました。

 

10年間、私が老老介護して来たのをご存知の近所の方がもしそれをご覧になったら、こんな短歌を作られるかなあ、という想像で詠みました。

 

車椅子「不用」と貼られ集積場置かれて在るを見るも悲しき

 

車椅子「不用」のゴミの出処は老女と息子住まいし古家

 

また、母の生前は、腰が痛かったり、熱が出たり、重いセキが出たりで、再三救急車の出動をお願いしました。

 

でも、もうその心配はありません。

 

あわてて119番に電話することもなくなりました。

 

そんなことを詠んだのが次の一首です。

 

救急車呼ぶのも絶えしこの頃は気楽にもなり悲しくもあり

 

・・・・でも、これらは私の心からの歌ではないのです。

 

あくまで、永遠のいのちを信じられなかったら、こんな悲しい歌を詠むだろうな、という気持ちで作ってみた歌にすぎません。

 

私の真の心境で作った歌が次の歌です。

 

死後もなお霊のいのちは永遠と説かれし君を吾は信ぜむ

 

私も母もクリスチャンなので、信仰による死への勝利の歌、肉体の死別で終わらない永遠の霊のいのちの継続を歌っています。

 

神から授かった人生の終わりが悲しみであるはずがない

 

神がそんな酷い仕打ちをされるはずかない!

 

という私の最終結論です。

 

神はなぜ人間を生まれさせたのでしょうか?

 

人間にとって生まれることは喜びに違い有りません。

 

それは、赤ちゃんが嬉しさでにっこり笑うのを見ればわかります。

 

100年も経てば死んでしまうのに、なぜ笑うのでしょうか?

 

人は皆死刑囚なのに、なぜ心の底から笑えるの?

 

単に自分の死は遠い先の話だから忘れているだけ?

 

幼いから死ぬことを知らない?

 

いやいや、そんなことはありません。

 

幼い時から私達は自分や親が死ぬことを知っているはずだ、と前のブログで書きました。

 

現に、私も小学校低学年の時から、母がやがて死んでしまうことを知っていました。

 

それでも、母が撮った私の小学生の時の写真はこれ以上の嬉しさはない、といった表情で笑っています。

 

ですから、神は人間が喜びを持って生きられるように設計し製造されたのだと思います。

 

しかし、死が人間に悲しみを与えるとするなら、神とは何と無慈悲で冷酷な方なのでしょう。

 

生まれさせて喜ばせておいて、人生の最後に人間を悲しみのどん底に突き落とす・・・・・

 

いくらお願いしても、有無を言わせず、私たちや家族に死という悲しみを与える・・・・・

 

神は最後の最後に私たちを裏切られるのか!

 

・・・・でも、神が私たちが生きている間に与えてくださる数々の恵みを数えてみれば、神が私たちを裏切られるはずがない、ということも確信できる。

 

矛盾。

 

・・・・その矛盾を解決する方法はたった一つ。

 

それは、神が私たちに肉体の死後にも永遠の喜びのいのちを与えて下さること。

 

それなら、死は悲しみではなくなる。

 

それしかない。

 

そう、神から授かった人生は悲しみで終わらず、永遠のいのちの喜びへとバトンタッチされるのです。

 

そこまでの保証をしてくれない神は神ではありません。

 

ただし、だからといって、自殺をしたり、殺人をしたりすることは神が明確に禁じている行為です。それらはバトンミスに該当しますから絶対にしてはいけません。神から授けられた人生をまっとうしましょう。

 

たとえ今、日々の人生を生きることが辛く苦しくても、自分だけに頼らず、神にも頼るなら、必ず乗り越えられますよ!

 

神に頼ることは女々しいこと、情けないことではありません。

 

むしろ、それは、なかなか出来ないことなので、雄々しいこと、勇気のあることです。

 

『強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

旧約聖書申命記第31章6節 

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
新約聖書ヨハネの福音書第14章1節

 

新改訳聖書改訂第3版より

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「あなたは今、どこにいますか?」

 

「あなたは今、どこにいますか?」

 

眼の前にいる人にこう聞かれたら何と答えますか?

 

「え?、私はここにいますけど・・・・」

 

「ここ、とはどこですか?」

 

「この、今立っている、この場所です・・・・」

 

「でも、その場所にはただの床しかありませんが、あなたは床なのですか?」

 

「いいえ、私は床ではありません・・・・」

 

「そうすると、あなたは床の上に立っているご自分の身体の中にいるのですよね?」

 

「ええ、まあ、そうです・・・・」

 

・・・・さて、禅問答のような話をお目にかけましたが、

 

『誰でも、「自分」は「自分の身体の中」に存在している、という意識を持っている』、

 

ということをお示ししたかったのです。

 

しかし、「この意識」は、人によって、また、時と場合によって、深浅・強弱があります。

 

「この意識」が深く強い時は、「身体」に緊張が生まれます。

 

「自分」=「自分の身体の中にいる」

 

こういう意識が強い場合、心が緊張するような場面に出くわすと、「身体」が緊張でガチガチになって、筋肉が固まり、自由で大きな動きが出来なくなります。

 

つまり、身体のパーフォーマンスが低下してしまうのです。

 

音楽家は思うような演奏が出来ず、声楽家は思うようなハリのある声が出なくなり、スポーツ選手は良い記録が出ません。

 

しかし、

 

「自分」=「自分の身体以外のどこかにいる」

 

という意識を持っている時、

 

例えば、お医者さんや看護師さんが、懸命に患者さんの命を救おうとしている時、

 

子が一所懸命親の介護をしている時、

 

あるいは政治家が自分の出世や栄光や地位や名誉など考えもせず国民の福祉向上のために活動している時・・・・・

 

そういう人々のその時の「自分」は、「自分の身体の中」にはいません。

 

むしろ、「助けようと思っている人びとの中」に「自分」がいるのです。

 

そういう意識を持っている時は、身体が緊張から開放されて、自然に最高の身体的パーフォーマンスを発揮できるのです。

 

もう引退されましたが、長年陸上界のスーパースターであったウサイン・ボルト選手。

 

彼のスタート前のおどけた仕草。

 

髪を撫で付ける格好をしてみたり、ダンスをしてみたり。

 

そこには全然緊張が見られませんでした。

 

緊張を解こうとして無理におどけているようではなく、本当に心からリラックスした落ち着いた表情でしたね。

 

そんな彼にも、一度フライングした試合(2011年世界陸上韓国大会)が有りましたが、そのフライング直後、彼はレーン上で着ていたランニングシャツをパッと脱いで、上半身ハダカになってしまいました。

 

これも一種のおどけですよね。

 

さすがの彼も緊張でフライングしたのかもしれませんが、直後にはもうおどけている。

 

日本人選手がフライングした後こんなことをすることはまず考えられません。

 

このときの状況を記事にした朝日新聞デジタルの下記の記事を読むと、フライング後、ボルト選手が取材記者やフランスのルメートル選手に対して示した「落ち着き」と「愛」を知ることができます。

 

 

彼がオリンピックや世界陸上という大舞台で、それほどリラックス出来た理由は、特定の人を助けようとかの意識ではなく、多分、彼がカトリック教徒として学んだキリスト教の教えが背景にあるのだと思います。

 

キリスト教は「愛」が中心です。

 

「愛」には、「自己愛」というのもありますが、キリスト教の教えは、むしろその「自己愛」を減らして、「神への愛」と「隣人愛」を勧めるものです。

 

ただし、キリスト教はそれを

 

「自分の努力によって実現せよ」、

 

というのではなく、

 

「イエス・キリストが神であり、自分を救ってくれる唯一の方だ、と信じる(これがキリスト教信仰)だけで自然に実現できるよ」、

 

という立場ですので、お間違いなされませんように。

 

前者は「自分」が「自分の身体の中にいる」状態、

 

後者は「自分」が「イエス・キリストの中にいる」状態(これを在主、主に在りて、と言います。)なので、まるで違います。

 

そして、前者は「緊張」を作り出し、後者は「リラックス」を作り出すのです。

 

ですから、まかり間違っても、自室の壁に「神を愛そう」とか「隣人を愛そう」などと書いた紙を貼って、日々それを守ろうと努力なんかしないで下さいね。

 

そんなことをすれば、「緊張」が増して、そのうち、その重荷に耐えられなくなって、その紙を破り捨てるのが関の山ですから。

 

さて、このように、クリスチャンの「愛」は信仰の結果として自然に「自分以外」の「神」と「隣人」に向かうので、

 

クリスチャンの「自分」は努力しなくても自然に「自分の身体以外のところにいる」わけです。

 

もっとも、クリスチャンでも、常時、100%そういう状態にいられるとは限りませんが、100%では無くとも、10%でも20%でも「自分」が「自分以外のところにいる」なら、「100%自分の中にいる」より、はるかに優れています。

 

少なくとも、そのほうが身体的パーフォーマンスは上がります。

 

試合前に、「リラックス、リラックス」と自分に言い聞かせ、肩や首をコキコキ回しても、実はかえって緊張してしまいます。筋肉は逆に萎縮してしまいます。

 

実はキリスト教というのは、「無意識に身体がリラックスできる」宗教なのです。

 

クリスチャンは意識的にリラックスしよう、なんて思っていません。

 

でも皆、自然に肩から力が抜けています。

 

オリンピックの優勝者の多くがクリスチャンであるのは、この辺に理由がありそうです。

 

上記にリンクさせていただいた朝日新聞デジタルのボルト選手の記事の中で、フライングをした後のボルト選手の「自分」は、「自分の中」にはいなくて、「取材記者やルメートル選手の中にいた」のです。

 

さて、「自分」が「自分以外のところにいる」時は、このような身体的なリラックスだけでなく、精神的にもリラックスできるとともに、眼で見えないことも信じることができるようになります。

 

「自分」が「自分の中にいる」時は、「自分の眼」で見えないことや「自分が確信」できないことを信じることは出来ないのです。

 

私がお証ししている肉体の死後の「永遠のいのち」を信じることも、「自分」が「100%自分の身体の中にいる」時は難しいのかもしれません。

 

 でも、努力しないで自然に「自分」が「自分の身体」から離れ、「神や隣人の中にいる」ことが出来た時には、きっと信じることがお出来になると思います。

 

 そして、そのときにはご自分の身体も心も、無意識のうちにそれまでよりずっとリラックスしていることに気が付かれることでしょう。

 

 そして、そのリラックスは、ご自分のご家族に伝染し、ますます幸せで円満なご家庭になることでしょう。

 

 ・・・・・さて、あなたは今、どこにいますか?

 

 

 それではまたお会い致しましょう。

 お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>

  「神が愛なら人間から愛を奪うわけがない」

 

 親御さんが亡くなって悲しくない方はあまりいらっしゃらないでしょう。

 

 愛する父母。

 

 私達を産んで、いつ死んでしまうか分からないような小さな小さな赤ん坊の私達をこれ以上無いほどの愛で包み込み、自分の命を削ってまで懸命に育ててくれた父母。

 

 ペットを飼うなら、自分の生活がすべてペット中心、ペットの犠牲になることを覚悟したほうがよい、とすすめている方がおられました。

 

 見た目の可愛らしさにほだされて飼い出すのはよいが、動物を飼うということは生半可のことではない、という教訓でしょう。

 

 ペットでもそうなのですから、人間の子供を育てる、ということは、たとえ自分が産んだ子供であっても、親はそれまでの自分の生活とはガラリと変わって、それこそ、子供の犠牲になる生活になるのです。

 

 前のブログで、私がまだ小学校低学年の頃、父が出稼ぎでいなかったので、夜は私と妹と母の3人で川の字のように並んで寝たことを書きました。

 

 私と妹が左右から母に抱きついて寝ました。 

 

 冬には私も妹も足が冷えて冷たかったので、両側から母の足に自分たちの足を絡めて温まろうとしました。

 

 そのたびに、両側から冷たい子供の足を自分の足にくっつけられた母は、

 

「おーっ、冷たい!」と叫び、

 

その後に、感慨深げに、こう付け加えました。

 

「命を削られるのねえ・・・・・」

 

・・・・まさに、親は子供に命を削られるのです。

 

 貧乏だったので、母は自分の食べ物を減らして、私達に与えてくれました。

 

 だから、母は痩せていました。

 

 自分の体温だってやっとのことで保っていたに違い有りません。

 

 それなのに、寝ると両側から私と妹に冷たい足を押し付けられる・・・・

 

 まさに母は自分の命を削って私と妹を育ててくれたのです。

 

 皆様もきっとこれに類したご経験をお持ちでしょう。

 

 父母の愛。

 

 これほど深い愛は他にはないかもしれません。

 

 無償の愛。

 

 何年も、何十年も、無償の愛を私達に与えてくれた父母。

 

 しかし・・・・・その愛は、父母が亡くなると、この世から消えてしまう・・・・

 

 過去の思い出でしかなくなってしまう・・・・

 

 もう、永遠にそれを取り戻すことは出来ない・・・・・

 

 悲しい。

 

 イヤだ!そんなの!

 

 やだよー!認めない!

 

 父母の愛の深さを思い出せば思い出すほど、悲しさがつのる・・・・・

 

 クリスチャンでも悲しい?

 

 そう、悲しくないといったらウソになるでしょうね。

 

 でも、クリスチャンの端くれとしての私は、そこで、「ちょいと待てよ?」と疑問を持つのです。

 

 「親を亡くしたクリスチャンが悲しい、というのは変だぞ、理屈に合わない。」

 

と思うのです。

 

 なぜかと言いますと、ご存知のかたもいらっしゃると思うのですが、キリスト教は「愛の宗教」と言われています。

 

 【新約聖書新改訳改訂第3版】
コリント人への手紙第一
『13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。』

 

 神は私達が互いに愛し合うことを求められます。

 

 しかし、その前に、神、そしてイエス・キリストが私達人間を愛して下さるのです。

 

 たとえ罪を犯しても。

 

 だから聖書は言います。

 

 【新約聖書新改訳改訂第3版】
テサロニケ人への手紙第一


『 5:16 いつも喜んでいなさい。
 5:17 絶えず祈りなさい。
 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』
 

 さあ、そうなると、クリスチャンは、愛する父母が亡くなっても、「喜んでいな」ければなりません。「いつも」には例外はありません。

 

 クリスチャンは愛する父母が亡くなっても「感謝し」なければなりません。

 

 「すべての事」なので、例外はありません。

 

 でも、クリスチャンでも、ここで神様、イエス・キリスト様に文句をつけたくなります。

 

 「神様、イエス様、あなたは私から、愛する父母を奪われました。あれほど父母をもっと生かして下さいとお祈りしたのに、有無を言わせずそのいのちを奪い取られました。

 

 父母の愛を私から奪い取り、この世から消し去られました。

 

 あなたは、愛を求めよ、信仰より愛のほうが大切だ、とまでおっしゃったではありませんか?

 

 愛だ、愛だ、とおっしゃりながら、なぜ私から親の愛を取り去られたのですか?

 

 私にとって、それはこの世のすべてといってもいいほどでした。

 

 あなたが私を愛しているなら、どうして私をこのような悲嘆に突き落とされたのですか?

 

 私は愛の喪失で打ちのめされているのです。ご存知のはずでしょう?」、と。

 

 ・・・・でも、神様、イエス様の応えはこうなります。

 

 「おい、おい、早とちりするものではない。いつ私があなたの父母を奪い取ったのか?

 

 いつあなたの父母の愛を消し去ったのか?

 

 ほら、よく見なさい。こころの眼であなたの周りを見なさい。

 

 あなたの父母は、今もあなたの周りにいるではないか!

 

 単にあなたの肉眼で見えなくなっただけにすぎないことが分からないのか!

 

 子よ、しっかりしなさい!

 

 こころの眼、こころの耳を研ぎ澄ましなさい。

 

 そうすれば、あなたの父母が今も生きていることが分かるはずだ。」

 

・・・・そう。そうなんですよ。

 

 神様、イエス様は、私達の父母、もっと前の祖先、そして私達にも、「永遠のいのち」を与えて下さるのです。

 

 ですから、私達の父母もその霊が永遠に生きて私達の周りにいるのです。

 

 つまり、私達は父母の愛を喪失なんかしていないのです!

 

 父母の愛は今日も私達を取り囲んでいるのです。

 

 いえ、今日だけではなく、永遠に、です。

 

・・・・そうでなければ・・・・・

 

「愛の宗教キリスト教」なんてウソっぱち。

 

「神様・イエス様があなたを愛している」、なんてのも詐欺かペテン師。

 

 正統的なキリスト教会も、霊感商法の催し場。

 

 ・・・・・でも、クリスチャンは皆知っています。

 

 キリスト教がどれほど愛に溢れたものであるかを。

 

 イエスキリストがどれほど自分に愛を注いで数々の苦難を乗り越えさせて下さったかを。

 

 キリスト教会の中で、どれほど自分が愛されているかを。

 

 そして、だからこそ、神様・イエス様が私達から父の愛、母の愛を「奪い取られるはずがない」ことを。

 

 そのためにこそ、私達人間に「永遠のいのち」をお与え下さったことを。

 

・・・・母の死後、いえ、母の「肉体の」死後、私は悲しいとは思いましたが、今日に至るまで、一滴の涙も出ていないのは、このためなのです。

 

 母の姿、顔、表情を肉眼で見ることが出来なくなったことは悲しい。

 

 でも、母の霊は今も生きて私の周りにいる。

 

 だったら、涙を流す必要なんかありませんものね。

 

 なるほど、人間の生命というものは、そういう仕組だったのか!

 

 納得!

 

 そして・・・・感謝!

 

 

 それではまたお会い致しましょう。

 お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>

  「人間はなぜ親や自分が死ぬことを知っているのか?」

 

 2018年6月27日朝。

 

 私の愛する母は病院のベッドの上で天国に旅立ちました。

 

 もちろん、その後の展開の中で、母の霊が今もそばにいて生きていることが確信できましたが、そのときにはまだ半信半疑でした。

 

 その日の朝6時半ごろに母の危険な状態を知らせた私からの電話で、遠い群馬県から夫の運転する車で病院に向かっていた妹は、朝7時すぎ、私からの再度の電話で、車中で母の死を知りました。

 

 3時間ほど経って、病院に到着し、母のベッドまでやって来た妹は、母の遺体を前に、泣きながらこう言いました。

 

 「子供の時から、お母さんが死んじゃったらどうしようって、いつも心配してたんだ・・・」

 

 その妹の言葉を聞いて、私は驚きました。

 

 なぜなら、私もまた、小学生の頃、夜、母を真ん中に、妹と両側から母に抱きついて寝ているとき、同じことを考えていた記憶があるからです。(父は出稼ぎで10年間不在でした。)

 

 安心しきって、母に抱きついて寝ながら(ああ、それは今思えば、何と幸福な時間でしたろう!)、

 

 「この母ちゃんが死んじゃったらどうしよう・・・」

 

と、心の底から不安に思ったことが何度もあったのです。

 

 何と妹も同じことを考えていたとは!

 

 その時までまったく知りませんでした。

 

 ・・・・しかし、ここで疑問が湧いてきました。

 

 当時、まだ祖父母も健在で、身近に亡くなった人はいませんでした。

 

 お葬式に行ったこともありませんでした。

 

 テレビもインターネットも無かったので、他人の死の情報も入って来ません。

 

 つまり、私も妹も、まだ死というものを何も実体験していない頃だったのです。

 

 それなのに、なぜ、将来いつか、この母が死んでしまう、そしてそれは避けられないことなのだ、と知って心配したのだろう?

 

 そういう疑問です。

 

 いや、親だけではなく、自分自身もやがて必ず死ぬ、ということを何で知っているのだろう?

 

 学校でそんなことを習ったこともありません。

 

 学校の先生が授業で子供たちに向かって、

 

 「皆さん、皆さんは将来、歳をとって、やがて必ず死ぬのです。一人の例外もありません。」

 

 と教えたら、子供たちがびっくり仰天して、

 

 「えーっ、ウッソー、そんなこと初めて聞いたよ、嘘でしょう!お父さんもお母さんも、そんなこと言わなかったよ!」

 

 ・・・・などと反応するでしょうか?

 

 いや、多分、子供たちはすでに知っているはずです。

 

 誰にも教わらなくても知っている・・・・

 

 でも、そうだとしても、なぜ知っているのだろう?

 

 子供は、周りの老人が亡くなるのを見聞きし、そして、自分自身も成長すなわち老化コースをまちがいなく歩んでいるのだから、やがて自分も老人になって必ず死ぬのだ、と論理的に推定したのだろうか・・・・?

 

 多分そうではないでしょう。

 

 なぜなら、幼ない子供たちには、まだ人間関係、社会関係が少なく、そのような帰納的推論を確信するには経験の数が少な過ぎるし、また、そのような推論ができるほどの精神年齢ではないからです。

 

 自分の周囲だけに限定される少ない人間関係から、普遍的な人類の死すべき運命という真理を導き出し、それを自分と自分の親に確信を持って適用する、そんな高度な精神作用は、幼い子供たちには、まだ無理なはずです。

 

 ですから、私は、人間は、生まれた時から、すでに親や自分がやがて必ず死ぬ、ということを知っているのだ、と思うのです。

 

 私も妹も、誰に教えられなくても知っていた。

 

 神様がそうされた。

 

 人間以外の動物は多分知らない。

 

 人間は、神様の配剤によって親が死ぬことを知っているから、それだけ他の動物より親を慕う。

 

 それだけ一所懸命、親を介護する。

 

 つまり、人間は親が死ぬことを知っているから、親への愛が深くなる。

 

 また、自分がやがて死ぬことを知っているから、人間はそれだけ自分の人生を充実させようと努力する。

 

 そして、やがて、人生の充実というのは、自分の欲求を満足させるだけでは不完全で、結局他人に奉仕し、他人のために自分を犠牲にすること、つまり自分を愛するように隣人を愛することが最高に充実した人生だ、と悟る。

 

 つまり人間は自分が死ぬことを知っているから、隣人への愛が深くなる。

 

 親も隣人の最たる存在であるのだから、結局、神様は、人間が生まれた時から親や自分が死ぬことを知るようにして、それによって人間に「隣人への愛」をより深く持たせようとされたのではないか、と思うのです

 

 さて、聖書によれば、神様は、人間の肉体をまず創り、そこにご自分の息を霊として吹き入れ、人間をご自分に似せた生き物として創りました。

 

 神様は目に見えない方なので、「ご自分に似せた」のは、姿かたちではなく、「霊」を似せられたのです。

 

 しかし、「似せた」だけなので、同じではありません。

 

 肉体に吹き込まれた後の人間の霊は神の霊の在り方から離れて、勝手な方向に行ってしまう自由を持っています。

 

 神様はわざわざその自由を人間の霊に与えられました。

 

 なぜそんな自由を?

 

 自動的に神の霊から離れないように人間の霊をお創りになれば良かったのに?

 

 実は、神様は人間が自分の自由意志でご自分を愛し敬ってくれることを願っています。

 

 それが一番神様にとって嬉しいことだからです。

 

 実は、神様が人間を創造されたのは、それを願ってのことだったのです。

 

 私達は、犬や猫のロボットより、生きている犬・猫の方が可愛いですよね?

 

 ロボットは人間になつく動作をするようにあらかじめプログラミングされています。

 

 でも、犬・猫は、自分の自由意志で人間になつきます。

 

 機嫌が悪ければ、呼んでもプイと知らんぷりのこともあるでしょう。

 

 でも、だからこそ、しっぽを振りながら、いさんで飛び付いてきた時はよけい可愛いのでしょう?

 

 神様も同じなのです。

 

 それが神様が人間の霊に自由を、神を信じないという自由までをもお与えになった理由です。

 

 でも、神様の本音は、人間が自分にしっぽを振って飛び付いて来てくれることを心から願っておられるのです。

 

 「神など知らない、神など存在しない、神がいるならなんでこんな不幸が起こるのだ」、とうそぶいている人間を見た神様はとても寂しい気持ちになっておられます。

 

 人間の霊は、本来は「永遠のいのち」を持っているのですが、神の霊の在り方から離れてしまった人間の霊は永遠のいのちを享受することができなくなり、神様によって、泣く泣く幽閉されてしまいます。

 

 放って置くと、他の人間の迷惑になるからです。

 

 聖書では、神の霊に似た人間の霊であるための条件として、つまり「永遠のいのち」を与える条件として、「神を愛すること」「自分を愛するように隣人を愛すること」が挙げられています。

 

 キリスト教では「神を愛すること」とは、「神の独り子であり、神が遣わされた子としての神であるイエス・キリストを愛すること、信じること」と同じです。

 

 これがキリスト教の一方の柱なのですが、同時に「自分を愛するように隣人を愛すること」も重要な柱です。

 

 慈愛に満ちた神様は、人間がこの「自分を愛するように隣人を愛すること」がより深くできるように、人間に生まれつき親や自分が死ぬことを知るようにインプットされたのではないでしょうか。

 

 こうして、イエス・キリストを信じ、そして隣人への愛を深く持った人間の霊が本来の神の霊に似た状態に戻ることによって、「永遠のいのち」に入ることが出来る・・・・。

 

 もっとも、イエス・キリストを信じる人間の霊は、自然に隣人への愛も深くなるのです。

 

 だから、イエス・キリストを信じるなら、実はそれだけで「永遠のいのち」を得ることができるのです。

 

 そのことをイエス・キリストが聖書のヨハネの福音書第11章25節でこのようにおっしゃったのです。

 

 「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがない」

 

・・・・とは言え、イエス・キリストを信じること、すなわち、

 

イエス・キリストは神であり、自分を救ってくれる方はこの方しかいない

 

と信じること、実はこれこそが「キリスト教信仰」のすべてであって、極めて単純なものなのですが、

 

生まれてからずっと、誰からも神様のこと、イエスキリストのことを教えられず、したがって神の霊から離れて生きて来てしまうと、それはなかなか信じられません。

 

 神様はそのような人間の事情を良くご存知なので、人間が、早期に何とか神の霊に立ち帰れるように、人間に、親や自分が死ぬことを知るようにされたのではないでしょうか。

 

 ・・・・しかし、こう聞くと、多くのクリスチャンでない読者の方は、こんな疑問を持たれることでしょう。

 

 「どんなに隣人を愛した人間でも、イエス・キリストを信じなければ永遠のいのちは得られないのだろうか?」

 

 この問いに対し、聖書ははっきりと答えてはいません。

 

 「そのとおり、得られない」、とは断言していないのです。

 

 逆に、「そうとは限らない」、と解釈できるイエス・キリストの言葉として、聖書にはこんな一節があります。

 

 【新改訳聖書改訂第3版】
マタイの福音書第19章16節~
『19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
 19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
 19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。』
 

・・・・つまり、永遠のいのちを得るには、モーセの十戒にあるような戒めを守り、かつ、自分の全財産を売り払って貧しい人に与えればよい、と解釈できるので、必ずしもイエス・キリストを信じなくても可能、ということになります。

 

 ただ、この聖書の箇所は、イエス・キリストの十字架による死、すなわち、人類が全て持っている原罪を身代わりに負って刑死されたその死(贖い(あがない)の死、と言います)の前の出来事です。

 

 つまり、イエス・キリストを信じるだけで永遠のいのちが得られるようになる前のお話なので、イエス・キリストの贖いの死の後である現在とは状況が違うのです。

 

 ・・・・・しかし、結局、答えははっきりとはわからないのです。

 

 でも、「イエス・キリストが神であり、自分を救ってくれるのはこの方以外にない」、と信じること、つまりキリスト教信仰なのですが、その信仰の方が、「あらゆる戒めを厳格に守り続け、かつ、自分の全財産を売り払って貧しい人に与える」よりはるかに楽だと思いませんか?

 

 だって、その信仰を持つだけで、多少の財産を持っていたって、多少戒めを破っちゃったって、「永遠のいのち」が得られちゃうんですよ!

 

 死んでも霊が生き続けちゃうんですよ!

 

 こんなおいしい話は他にありませんよ!

 

 だからキリスト教は「タナボタ」なんです。

 

 「棚からぼたもち教」なんです。

 

 「こりゃあ、いい話を聞いた!」・・・・・ですから、キリスト教のこの教えを、「福音」、「良い知らせ」、「グッド・ニュース」、英語で「Gospel」、「Evangel」と表現するのです。

 

 皆様よくご存知の「ゴスペル・ミュージック」、この「ゴスペル」はこのタナボタのことなんですよ。

 

 ・・・・どうですか?いい話、楽ちんな話ではありませんか?

 

 それとも、永遠のいのちの保証をもらって安心して生きて行きたいあなた様は、全財産を売り払って貧しい人に与え、いつも腹をすかせ、安眠できる家もなく、あらゆる戒めを厳格に守って生きる方を選択されますか?

 

 ウーッ、辛そう!(キリスト教って、そういう堅苦しい宗教だと思っていた方いませんか?)

 

 ・・・・いや、実は、その道を選択されても、聖書に書かれている戒めを厳格に守って生きることなど、実際にはできるものではありません。

 

 多分、破ってしまいます。

 

 聖書の語る戒めは上記したものだけではないのです。

 

 もっともっとたくさん有り、もっと細かく、もっと守りにくいものもあります。

 

 たとえば、聖書のマタイの福音書第1章1節には、

 

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。」

 

というイエス・キリストの言葉が書かれています。

 

 「さばく」というのは「裁く」、つまり、「他人を批判する」という意味です。

 

 「他人を批判すると、自分が神様から批判される。だから、他人を批判するな」

 

 というイエスキリストの戒めの教えです。

 

 「何の資格があって、あなたは他人様を裁く「裁判官」に就任したのか?」

 

 批判された他人からすれば、「あなたはいつ私の裁判官になったんですか?」と言いたいところでしょう。

 

 でも、私達は、他人を批判しますよね。

 

 しないではいられないでしょう?

 

 もちろん、これはとっても役に立つ戒めで、これを心がけていると、人生とてもうまく行きます。

 

 でも、つい批判してしまう。

 

 この一例でもお分かりのように、聖書の戒めをことごとく厳格に守って生きてゆくことなど、まず不可能といってもいいでしょう。

 

  実は、それらを人間が守れないから、そして守れないと永遠のいのちに入れないから、可哀想に思って、神様はイエス・キリストというご自分の独り子を地上に遣わし、守れない人間の罪に罰を与える代わりに、イエス・キリストにその罪を代わりに負わせ、十字架で罰としての死刑を執行されたのです。

 

・・・・・つまり、それほど守りにくいのですから、キリスト信仰無しで永遠のいのちに入ることがどれほど大変なことか分かります。

 

 それはメッチャ難しいんです。

 

・・・・それに対して、キリスト信仰を持つなんてことは、実はメッチャ簡単なんです。

 

 コロナ禍の渦中では若干行きにくいですが、ちゃんとしたキリスト教会の礼拝に毎週通って、そう、長くても2年もすれば、自然に苦もなくキリスト教信仰を持てます。

 

 それまで完全無料です。(笑)

 

 入会金もサブスク(月額課金)も要りません。(笑)

 

 それどころか、今はコロナ禍で中止の教会が多いですが、年2回、イースター(復活祭)とクリスマス(キリスト降誕祭)の時は、教会の午後の祝会でメッチャ豪華なごちそうが無料で食べ放題です! 

 

 「オー、そんなら、その日だけ教会行こか!」・・・それも歓迎されますよ。なんたって、クリスチャンは懐が深いですから。いえいえ、懐が温かいから、ではありません。

 

 ・・・・た、だ、し、フッ、フッ、フッ。

 

 洗礼を受けて教会のメンバーになると・・・・

 

 月定献金というサブスクがありますぜ。クッ、クッ、クッ。

 

 でも、ご安心を。

 

 いくらでも自分の出せる金額でOK!

 

 ・・・ありゃりゃ、いつの間にか、キリスト教会のセールスマンになってしまいました。

 

 失礼を致しました。


 でも、もしキリスト教会に行ってみたい、イースターとクリスマスのごちそう食べたい、という方は、コメントで、お住いの最寄りの鉄道駅を教えていただければ、お近くの良い教会、異端やカルトでない、危なくない教会を紹介します。

 

 そうそう、ここで、どうしてもお話して置かなければならないことを思い出しました。

 

 タナボタ教と聞くと、「クリスチャンて、”待ちぼうけ”の歌のように、働かないで寝転がっているグータラの怠け者じゃないか」と思われるかも知れません。

 

 これはまったくの誤解です。

 

 早い話、アメリカ合衆国の大統領は現在のバイデンさんまでの46人の歴代大統領のすべてがクリスチャンです。(そのうち、ケネディ大統領とバイデン大統領だけがカトリック、他の大統領は全員プロテスタントです。)

 

 アメリカ大統領の就任式では、新大統領は、家族が持つ聖書の上に片手を乗せて宣誓します。

 

 そして、宣誓の最後に何と言うと思いますか?

 

 「So, Help me God.」(神よ、私を助けて下さい)

 

 そう言います。

 

 そう、「タナボタ」を求めているんです。

 

 アメリカ大統領ってグータラの怠け者でしょうか?

 

 違いますよね。

 

 クリスチャン=神の助けを求めるグータラ?

 

 これは全くの誤解です。

 

 それどころか、永遠のいのちが保証されているので、安心して生活でき、肩から力が抜けるので、むしろ自然体で暮らせます。

 

 心の中に、多少とも自分以外の神様、イエス・キリストが住んでいるスペースがあるため、感情やエゴイズムからもかなり離れて、理性的、客観的に判断できるようになります。

 

 その結果、人類の生活や福祉や医療や、すべての分野において優秀な業績を上げ、人類に多大な貢献をこれまでもして来たし、現在もしています。

 

 新型コロナウィルス感染症のワクチンも、アメリカのファイザー社とドイツのビオンテック社によるファイザーワクチン、アメリカのモデルナ社ワクチン、イギリスのアストラゼネカ社とオックスフォード大学の共同開発によるワクチンが今、世界中で接種されています。

 

 アメリカ、イギリス、ドイツ・・・・・この三国に共通するのが、プロテスタントキリスト教国であり、ほとんどの家庭に聖書が置いてあり、多くの子供がキリスト教会の日曜学校に通い、大多数の国民が洗礼を受けたクリスチャンである、ということです。

 

 このキリスト教国が開発した新型コロナワクチンがもし無かったら、全人類は今、どれほど恐ろしい思いをしていることでしょう。

 

 キリスト教はグータラ人間を作る?

 

 まったく正反対です。 

 

 

・・・・さて、主題から脱線してしまいましたが、

 

 「人間は親や自分が死ぬことを誰にも教えられなくても知っている。」

 

 この不思議な現象を見ると、そこに神の存在を濃厚に感じませんか?

 

 そして、そのことよって、上記のように、人間が隣人をより深く愛せるようになり、それによって、人間は、「愛の神」であるイエス・キリストのみ心に沿った、隣人愛の豊かな人間性に近づき、それがさらには、「永遠のいのち」に近づく。

 

 「永遠のいのち」の獲得まで、もう一歩のところまで導かれる。

 

 これも神の恵み。タナボタ。

 

 そう思えてなりません。

 

 それではまたお会い致しましょう。

 お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>「永遠のいのちなんてバカみたい!

 

上記の前文でお話しした「永遠のいのち」なんてとても信じられない!

 

永遠のいのちなんてバカみたい!

 

そう、それがクリスチャンでない方の普通の反応です。

 

異常ではありません。

 

でも、もしクリスチャンがそう言ったとしたら・・・・・

 

その方はもはやクリスチャンではなくなっています。

 

棄教です。

 

キリスト教信仰において、「永遠のいのち」があることを信じることは

それほど根本的なことなのです。

 

使徒信条と言われるキリスト教の根本信条は、

 

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず・・・・・」で始まり、

 

「・・・・・身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず。」で終わります。

 

「永遠のいのち」というのは、「霊の不死」のことです。

 

イエス・キリストが新約聖書ヨハネの福音書第11章25節で、

 

「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」

 

「生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません」

 

と言われたことがその根拠です。

 

もし、この言葉を、「肉体自体が存在し続ける」、とか、

 

「肉体自体が死ぬことはない」と解釈するとしたら、その間違いは誰でも分かりますよね。

 

死んだ肉体は、火葬しないで放置しておけばどんどん腐敗して異臭を放ち出し、とてもではありませんが「存在し続ける」ことはあり得ません。

 

火葬してお骨になれば、物質として存在はしていても、肉体としては存在していません。

 

ですから、イエス・キリストが「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」と言われた対象は肉体のことを指しているのではないことが明らかです。

 

とすれば、「死んでも生きている」「決して死なない」のは、その人の肉体以外の何かを指しているのですよね。

 

それは「霊」、英語で言えば「spirit または soul」、つまり、その人の「精神」「性格」「意志」「感情」「記憶」などから成る、その人の個性を形作っている眼に見えないエネルギー以外にはあり得ません。

 

イエス・キリストは、それが「不死」だと言うのです。

 

人間はこの「霊」を持った存在です。

 

この「霊」こそが人間の根幹、「いのち」なのです。

 

肉体にいのちがあるのではないのです。

 

心臓だの脳だのにいのちがあるのではないのです。

 

生まれる前か生まれてからしばらく経ってからか分かりませんが、神様が人間にこの「いのち」の息を吹き込まれます。

 

それによって、ただの物質に過ぎなかった肉体に「霊」が宿り、人間となります。

 

旧約聖書第2章7節

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちに息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』

 

これは、神が創られた最初の人間、アダムのことを語った箇所ですが、その後に生まれるすべての人間についても同じはずです。皆「生きもの」として生きるからです。

 

私達が家族を、父を、母を、兄弟を、子を、孫を愛するのは、特定の容姿、個々の顔や姿を愛しているのですか?

 

そうではないでしょう。

 

どんな顔だろうが関係ないですよね。美醜も関係ありません。

 

私達は、家族の顔の、眼差しの奥にある「霊」を、「意志、感情、愛情、性格、記憶」を愛しているのです。

 

家族の発した「言葉」をも私達は愛し記憶しているものですが、実は言葉は、その人の「霊」から発しているのです。

 

古来日本には「言霊(ことだま)」という言い方がありました。

 

言葉に霊が宿っている・・・・日本人はそう考えました。

 

新約聖書、ヨハネの福音書第1章1節

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

 

ここで「ことば」と言っているのはイエス・キリストのことなのですが、イエス・キリストは神の霊が肉体をまとってこの世に現れた方、と捉えれば、神の霊から発せられた言葉でもあるわけですね。

 

また、後世の私達がイエス・キリストを知り、信じることができるのは、新約聖書の「言葉」に拠っているのです。

 

このように、霊と言葉は大変緊密な関係にあります。

 

そのために、心無い言葉を他人に投げると、その人を深く傷つけたり、一生恨まれたりします。

 

逆にあなたも他人から酷い言葉を吐かれると、一生忘れられないようなショックを受けることがありますよね。

 

反対に、人から暖かくて思いやりのある言葉をかけられると、その言葉をずっと覚えていて、その人を慕ったり、尊敬したりしませんか?

 

言葉なんて、人間が声帯を震わせて出した、ただの「音」なのに、なぜこんな力を持っているのでしょう?

 

それは、言葉が霊によって発せられるからです。

 

ですから、実は、言葉を通して、私達は相手の「霊」と接触しているのです。

 

他の人に言葉を発するときは、このことをよく認識し、くれぐれもうっかりと心無い言葉を発しないように致しましょうね。

 

霊が発した言葉が人間にこれほどの影響力をもっているのですから、霊というものが人間の根幹を成していることがお分かりだと思います。

 

この霊という根幹は、もともと人間の肉体に備わっていたものではなく、神によって、肉体の形成後に与えられたものですから、肉体の生死と運命を共にするわけがないのです。

 

イエス・キリストは、その当たり前のことをおっしゃっただけです。

 

肉体が死んでも、霊は死なない。

 

あなたの亡くなったお母さん、お父さん、あるいはお子様。

 

その方々の霊は死んでなんかいません!

 

この世から消え去りなんか絶対にしません!

 

このことは、私が勝手に主張しているのではありません。

 

18世紀初、1706年に出版された英国のMatthew Henry氏の聖書注解書のこの箇所についての注解としてこう書かれています。

 

"....but the life of the soul....shall be immediately at death swallowed up of immortality."

「肉体の死の瞬間、霊のいのちは不死に呑み込まれる」(和訳筆者)

 

ちなみに、1706年というと、日本では江戸時代、元号で言うと元禄(赤穂浪士の討ち入りが元禄15年でした)の次の宝永三年に当たります。

 

今から315年ほど前に書かれた本です。

 

聖書を素直に読めば、当然、こういう解釈になるはずです。

 

肉体の死後の霊のいのちの永遠性。

 

永遠に生きている霊。

 

その霊はどこで生きているでしょう?

 

家族、子孫であるあなたの周りから離れる理由はないのですから、あなたの周りにいるのです。

 

常識や経験や科学ではとても信じられませんが、その私達が確かだと思っている私達の常識や経験や科学というものを疑ってみることも大切なことです。

 

江戸時代、蝦夷(今の北海道)と琉球(今の沖縄県)に住んでいる人同士が顔を見ながら話ができる、などと誰が想像できたでしょう?

 

いや、一里(4km)離れている人とだって、そんなことはできるはずが無いことでした。

 

江戸時代の人々の常識、経験、科学では、そんなことは絶対にあり得ないことでした。

 

でも、今の私達、毎日携帯電話、インターネット、Zoomを駆使して通信している私達にとって、そんなことは何の不思議でもないですよね。

 

ということは、今の私達の常識、経験、科学では絶対にあり得ないとしか思えないこと、つまり、「バカみたい」な事も、実は現実として、この世の真理としてあるのかも知れない、そして、それが将来の常識になるかも知れない、という視点の方が正しいと思いませんか?

 

将来、「ソウルフォン、霊の通信機」が発明されて、いつでも祖先や亡くなった方の霊と通信ができるようになるかも知れません。(ほら、ほら、また「バカみたい」と思ったでしょう?)

 

でも、その時は、音漏れで周りに迷惑がかからないように、イヤホンを使って、あまり大きな声は出さないようにしましょう(笑)

 

もっとも、私は、毎日、母の霊に結構大きな声で話しかけてますけど。(笑)

 

「母ちゃん、朝ごはんだよ、食べるかい?」

「母ちゃん、只今、帰ったよ」

「母ちゃん、暑くないかい?大丈夫?」

 

そう話しかけると、私の心の中に母の返事が響きます。

「食べるさ!お腹ぺこぺこだよ!」

「お帰り、疲れなかったかい?」

「ああ、大丈夫だよ、けいじは?」

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>

 

今日、私達のように肉体を持って生きている人間がこの地球上には約77億人いるそうです。

 

でも、その人達は(もちろん私もあなたも今日生まれた赤ちゃんも)今から120年後には、一人も肉体を持って生きていません。

 

何と今日生きている地球人77億人全員の肉体がお墓の下にいます。

 

考えたら凄まじいことですね。

 

たった120年・・・・・

 

でも、その年数はキリスト教聖書によれば、神が定められた人間の寿命なので、超えることはまず出来ません。

 

一方、今日肉体を持って生きている人は、地球をわがもの顔に扱っています。

 

「この地球は生きている我々の物だ。」

 

「地球資源も、土地から取れる作物も、水も、空気も、みーんな、今日生きている我々の所有物だ。」

 

そう思って使っています。

 

ここで「生きている」というのは、「肉体を持って、呼吸して、心臓を動かして生きている」、という意味です。(以下断らずに同じ意味に使うところがあります。)

 

 

心ある人達は、自分たちの子孫にもそれを渡してやる義務があると考え、そのために色々努力もしています。

 

つまり、地球は、今生きている人間の所有物というだけでなく、未来の人間の所有物でもある、という、一歩進んだ考え方です。

 

未来の人間の総数たるやどれほど膨大なものになるでしょうか。

 

いや、意外と近い将来、数百年後という単位で、人類は滅亡してしまうかも知れません。

 

そうすると、未来の人間の数は大したことがない可能性もありますが・・・・。

 

でも、その話は置いておいて、今日私がお話したいことは、

 

地球って、今生きている人と、未来に生まれてくる人だけの所有物なんだろうか?

 

ということです。

 

私はこう考えます。

 

地球は、人類の歴史上に生きて亡くなった人々全員の所有物でもある、と。

 

過去にそうだった、というのではなくて、今現在も、その人々の霊の所有物でもある、ということです。

 

祖先に毎食炭水化物をお供えしなければ、その祖先の霊は、野の草を食べて生きている、というお話を前回のブログ「霊は食事をするの?」でお話しました。

 

つまり、地球資源はすでに亡くなった人々の霊が今も消費しているのです。

 

もちろんその消費量は目に見えないほどの少量ですが。(計算は上記ブログご参照)

 

ですから、この地球は、今生きている人、これから生まれる人たちだけの物でなく、過去に生きて現在霊化した人々の物でもあるのです。

 

食料だけでなく、住環境もそうです。

 

霊というのは、4次元空間でなく、より高次元の空間に存在している、と思って、そのこともブログに書きましたが、最近、4次元空間の中で、しかし、ウィルスより小さい生命体として存在しているような気がしてきました。

 

もちろんそれほど小さいので人間の目には見えません。

 

そして、それほど小さいから、私達の祖先全員が私達の周りに存在し得るのです。

 

私達は、祖先ばかりでなく、若くして亡くなった子孫も含めて、それらの人々の霊に取り囲まれて生きている・・・

 

そんな気がするのです。

 

ですから、地球は住環境も含めてそれらの霊の所有物でもある。

 

地球は私達現在生きている人間とこれから生まれてくる子孫達だけの物ではない。

 

地球は過去に生きたすべての人々の霊の物でもある。

 

地球を生み出された神様がそのようにされた。

 

そう思うのです。

 

地球が神様によって創造されてから膨大な年月が経っているでしょう。

 

その地球を所有しその恩恵を受ける存在が、地球上に肉体を持って生きている人だけに限定されるとしたら、どれほど小さな範囲になることでしょう。

 

地球は今生きている人、これから生きる人のためだけにある・・・・そう考えるほうが不自然ではありませんか?

 

そう考えるのは、今生きている私達の傲慢でしかないように思います。

 

それは、思考や記憶を持って生きているのは肉体を持った人生を歩む間だけだ、つまり、今生きている私達だけが思考や記憶を持っているんだ、と考えるのが傲慢なのと同じです。

 

亡くなった方の霊もまた、思考や記憶を持って私達の周りで生きているはずです。

 

それが信じられないのは、肉体を持っている者の狭量さに過ぎません。

 

もっともそれは聖書の言葉を信じられるまでは無理な話なので仕方がないところです。

 

でも、考えてみて下さい。

 

地球上ですでに肉体を持たず霊となっている人々の総数と、今肉体を持って生きている私達の総数を比較してみたらどうでしょう。

 

圧倒的に前者のほうが多いでしょう?

 

地球上で、肉体を持って生きている人間なんて、77億人と言ったって、ごくごく少数派なんですよ。

 

そんな少数派が地球を自分たちの物だと勘違いしているなんて、滑稽ではありませんか?

 

亡くなった方々の霊もこの地球上に生きて存在し、地球の所有権を主張している・・・・

 

そのことをあなたも信じられますように。

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「霊は食事をするの?」

 

 肉体の死後にも霊は生きている・・・・

 

 「そんなことはあり得ない」、と思っていらっしゃる方にお聞きします。

 

 お家にある「仏壇」とか「神棚」とかに、ご飯とかお水とか果物とかお菓子などをお供えしたことはありませんか?

 

 あるいはお墓参りをしたときに墓石の上などに故人の好物をお供えしたり、お酒が好きだったから、と言って墓石にお酒をかけたりしたことはありませんか?

 

 肉体が死んだら、もう何もない、目に見えない霊なんて存在しない。

 

 ・・・・・そう思っていらっしゃるのに、何故、そんな食べ物をお供えするのですか?

 

 下ろすときに、全然減っていないでしょう?

 

 もったいないじゃないですか。無駄でしょう?

 

 それなのに、そういうお供えは、習慣的に、何度もしているのではないでしょうか?

 

 食べないことは百も承知だけれど、

 

 「なんとなくお供えしたい」

 

 

 それが多くの方の本心ではないでしょうか?

 

 でも、実は!

 

 そのお気持ちが湧くのは当然なのです。

 

 なぜなら、亡くなった方の霊は永遠に生きていて、しかも、遺された家族とコミュニケーションを取るためにある程度のエネルギーを必要としていて、そのエネルギーを得るために、極めてわずかではありますが、毎日食糧を食べるからです。

 

 霊も食事をするのです!

 

 「エーッ、ウッソー」と思われるでしょうね。

 

 でも、人間は、実はそのことを潜在意識の中では知っているのです。

 

 「霊なんかいない!」と断言している方も、自分ではまったく気が付いておられませんが、「霊は存在していて、食事もする」、ということを潜在意識の中では知っているのです。

 

 だからこそ、亡くなった家族や祖先はもはやこの世には存在していない、と信じているのに、その存在していない人々のために、食べ物をお供えすることを異常とは思わないのです

 

 バカバカしいから止めよう、とはまったく思わないのです。

 

 お供えしている家族や知人を見て、ゲラゲラ笑ったりしないのです。

 

 それは、自分では意識できない潜在意識の中で、死後の生命の実在を信じているからです。

 

 肉体の死後に霊が永遠に生きているという事実はすでに私が何回もこのブログのシリーズで論証しています。

 

 そこで、今日は、「霊の食事」のことについてお話します。

 

 結論から言えば、霊も毎日食事をしています。

 

 霊が、私たち肉体をまだ持って生きている者とコミュニケーションを取るには、やはりこの世のエネルギーを必要とします。

 

 そのエネルギーは多分、糖質から摂取しています。

 

 人間の脳の栄養は「ブドウ糖」だけです。

 

 肉体がある間は、肉体を構成するたんぱく質やカルシウムなど、沢山の栄養素を必要としていますが、肉体を持たない霊は、もはや、それらの栄養素は不要です。

 

 ですから、霊は、脳と同じように「ブドウ糖」だけが必要な栄養素であろうと思われます。

 

 では、ブドウ糖は何に含まれているのでしょう?

 

 でんぷんやセルロースに含まれています。

 

 でんぷんとはご飯(コメ)や麦などの成分で、ブドウ糖がたくさん集まってできています。

 

 セルロースは、植物の葉の主成分です。

 

 また、砂糖はブドウ糖と果糖が一分子づつくっついたものなので、やはりブドウ糖を含みます。

 

 果物やハチミツには、「果糖」が多く含まれていますが、この果糖は人間の体内で、ブドウ糖に変換されます。

 

 つまり、霊が必要とする「ブドウ糖」は、「炭水化物」と呼ばれる米のご飯や、果物、砂糖菓子などの普通の人間の食物に含まれています。また、植物の葉にも多く含まれています。

 

 霊はこれらを食べることで、ブドウ糖を得ることが出来ます。

 

 コメのご飯、果物、菓子・・・・・・・・これらは、皆さんがよく仏壇などにお供えする食べ物ですよね。

 

 あまり、「サンマ」とか「鮭」とか、「豚のショウガ焼き」とかを仏壇にお供えしませんよね。

 

 これらは、ブドウ糖ではなく、主に「たんぱく質」から成る食品です。

 

 肉体が無い霊にとって、「たんぱく質」は不要だ、と申し上げましたね。

 

 おやおや?皆さんは霊が必要としている食品の種類をちゃんと知っていて、それらを選んでお供えしているではありませんか!

 

 それは皆さんが潜在的に霊が生き続けていることを知っている証拠なのです。

 

 さて、それでは次に、霊はどのくらいの量の食物を食べているのでしょうか?

 

 神様が100年くらいしか人間の肉体を存続させずに、その後は霊だけの存在にしてしまわれるには理由があるのです。

 

 人間は神様によって、「隣人」(家族を含む)とともに生きる存在にされました。

 

 人間は隣人がいなければ生きて行けないように創られました。

 

 それは経済的な面でもそうですが、精神的にもそうなのです。

 

 テレビがこれだけ普及したのも、テレビ画面でバーチャルな隣人に会えるからです。

(でも、それは本当の隣人ではないのですが)

 

 隣人と暮らせる空間というのは、限られた範囲です。

 

 火星や木星、あるいはもっと遠い、何万光年も離れた天体に住んでいる人では「隣人」になりません。

 

 とすると、人間はこの狭い地球上で隣人と共に暮らすしかないのです。

 

 ところが、この地球の資源というのは限りがあります。

 

 住める土地、その上に建てる家、そして生産できる食料の量にも限りがあります。

 

 私たちの3代4代前の祖先が、いまだに全員肉体を持って生きていて、部屋に住み、食事を三度三度食べていたら、とてもではありませんが地球上の家も食料も足りなくなります。

 

 あなたのひいおじいさん、ひいおばあさん、おじいさん、おばあさん、両親、あなたと配偶者、あなたの子供・・・・・全員が今あなたとともに同じ家に住んで生活できますか?

 

 子供が2人として、あなた夫婦が2人、あなた夫婦の両親が4人、祖父母が8人、曽祖父母が16人・・・・これだけの世代だけでも合計32人!

 

 今の家に32人住めますか?

 

 32人分の食料費、月いくらかかりますか?

 

 隣人とともに家族とともに愛を育みながらこの地球上で生きるには、やはり100年くらいで肉体を卒業して、霊にならなければならないのです。

 

 霊になると、目で見えないので、居住空間を必要としません。専用の部屋もベッドも不要です。

 

 一方、食料の量ですが、霊は肉体の維持が不要なので、極めてわずかで済みます。

 

 しかも、ここから大変重要な話になるのですが、霊の栄養の変換方式は人間の肉体のそれと異なるのです。

 

 それは当然ですね。

 

 肉体が無いので、口も消化吸収器官も無いのですから。

 

 多分、仮定の話ですが、霊はアインシュタインのエネルギーと物質の等価を示す等式

 

 E=m²  (エネルギーは物質の質量×光速度×光速度)

 

 に基づいて食品からエネルギーを吸収しているのではないか、と思うのです。

 

 そのために、霊にお供えした食料は、霊の食後も、見た目ではまったく減っていないように見えるのです。

 

 わたしたち肉体を持っている者は、でんぷんなどの栄養を口から摂取し、胃で消化し、小腸から吸収し、肝臓に運ばれ、そこから血液に流れて行きます。

 

 でも、多分、霊の場合はそういう栄養摂取ルートではありません。

 

 もっともっと効率の良い栄養摂取法でないと、すべての亡くなった方の霊を養うには、地球の食糧が足りなくなります。

 

 そこで考えられるのが、上に挙げたアインシュタインの公式、

 

             E=MC²

 

 です。この式は物質とエネルギーが同じものであって、相互に変換し得るということを示すとともに、極めてわずかな物質でも、それがすべてエネルギーに変わったときには、驚くべき多量のエネルギーが発生する、ということを示しています。

 

 この式は原子核反応の実験によって証明されました。

 

 そしてこの式は同時に、目に見えないエネルギーから目に見える物質が生成され得るということも示しています。

 

 キリスト教の聖書の最初の書、創世記には、この世の天と地が、神の言葉によって創られた、と書いてあるのですが、この式はそれを証明してもいると言って良いでしょう。

 

 神の言葉という目に見えないエネルギーから物質が出来たのです。

 

 さて、この式によれば、1gの物質がすべてエネルギーに変わると、約9×10の13乗ジュールのエネルギーになります。

 

 これは、栄養学で言うkcalに換算すると、約2.15×10の10乗kcalになります。

 

 炊いた白米ご飯200g(茶碗1杯)のカロリーは312kcalなので、このたった1gの物質がすべてエネルギーに変わると、それは、200gのご飯にすると

6.9×10の7乗杯になります。

 

 つまり、1gの物質がすべてエネルギーに変わると、200gのご飯約7,000万杯のカロリーに相当するのです。

 

 一方、ご飯(水稲めし)は水分が60%、炭水化物が37.1%なので、200gのご飯の中には約74gの炭水化物が含まれています。

 

 ご飯200gの中にご飯粒が約4,300粒含まれているそうなので(農林水産省調べ)、ご飯1粒の中には0.017gの炭水化物が含まれていることになります。

 

 このご飯1粒の中の炭水化物をすべてエネルギーに変えられたとすると、エネルギー量としては、200gのご飯約119万杯のカロリーに相当するのです。

 

 これは、3億7,128万kcalに相当します。

 

 肉体を持った人間が必要とするカロリーは日本人成人男性で一日2,500kcal前後です。

 

 ご飯1粒をすべてエネルギーに変えられたとすると、ご飯たった1粒で、日本人成人男性148,512人を一日養うことが出来ます。

 

 肉体を持っていない霊が必要とするカロリーはこれよりはるかに少ないでしょう。

もしそれが、仮に百分の一くらいで済むとすれば、あなたが差し出すご飯1粒で、1日に1,485万1千人の祖先の霊を養うことができるのです。

 詳しくは計算していませんが、これは二十数世代くらい前の祖先までの総人数になるでしょう。

 

 さあ、こんなに少ないご飯でこんなに沢山の祖先に食料を提供できるのですから、あなたも毎食、祖先にご飯を提供すべきだとは思いませんか?

 

 毎食ご飯1粒でいいのですよ。

 

 とは言え、こんなに前の世代になると、他の人との共通の祖先が増えてくるため、当然子孫はあなた以外にたくさんいるので、その子孫がご飯を供えてくれれば、あなただけが養う必要はありません。

 

 それより前の世代の祖先についてはもっと子孫が多いのでなおさらあなたの責任は軽くなります。

 

 もし、すべての子孫がご飯を供えてくれない場合は、祖先の霊は、自分が必要とするカロリーを野山の草から摂取するしかありません。

 

 もちろん野山の草も炭水化物なので、エネルギーは得られます。

 

 しかし、大切な母を含めた祖先の霊が野山の草を食べて生きているのでは子孫として申し訳ない。

 

 私はこのように考えたときから以後、毎日、三度三度、朝昼晩、母と祖先の霊のための食事を茶碗に盛って出すか、自分が食べる前に、箸に取って差し出すようにしています。

 

 ご飯を茶碗に盛る場合は味噌汁を上からかけておきます。ご飯を箸で差し出す場合は、味噌汁はあとから汁椀をやや傾けて差し出します。

 

 まずは母から食べさせます。「母ちゃん、ご飯だよー」と声掛けします。

 

 母は喜んで食べてくれます。

 

 その瞬間、私の頭の中に、私が差し出すご飯を口に入れて食べる母の顔が浮かびます。すると不思議なことに、私の顔が自然に笑顔でいっぱいになります。

 

 母の後、祖父母、曽祖父母にも「じいちゃん、ばあちゃん」「ひいじいちゃん、ひいばあちゃん」と呼びかけながらご飯を差し出し、あとは「祖先の皆さん、どうぞ食べてくださーい」と一緒くたにして呼びかけます。

 

 一世代づつ全部は呼びかけていられないので省略してしまいます。なんと言ったって、人類の祖先アダムさんとエバさんまでですから、大変なのです。

 

 ご飯1粒で、一日1,485万1千人の祖先を養えると言いましたが、三食に分ければ、1粒の3分の一を毎食1,485万1千人で分けるのですから、母や祖父母、曽祖父母が食べても、目で見えるほど減ることはありません。

 

 もっとも、1,485万1千人の祖先が全員私の差し出すご飯を一度に食べれば、毎食1粒の3分の1が減るはずです。

 

 でも、これだけの数の祖先が私の差し出すご飯をその場ですぐに食べに来るとは限りません。他の子孫のところに食べに行くかも知れないし、今まで子孫がご飯をくれなかったために、悲しいことに野山の草を食べる習慣が抜けない祖先もいるかもしれません。

 

 ですから、私が差し出すご飯はその場で目にみえるほど減ることは多分ないでしょう。

 でも、減らないのではありません。必ず減っています。

 

 将来、極めて僅かな重さや体積を測る計器が発明されてそれで測れば、祖先の食事の前後に必ず差が見られるはずです。

 

 いずれにせよ、皆様もぜひ、今日から、亡くなったご家族の霊が生きて自分の周りにいることを信じ、毎食ご飯を差し上げて下さい。ほんの1粒でいいのですから。

 

 そうそう、一つアドバイスしておきますね。

 

 うっかり、ご飯を差し出すのを忘れてしまうことがごくたまにあります。

 

 そのときのために、祖先の皆様には、「もし忘れたら、私のご飯茶碗から勝手に食べていいですよ」と申し上げて置きましょう。

 

 それではまたお会い致しましょう。

 お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。

 

 10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!

 

 下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

    

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。)

 

<本文>

 一昨年2019年の8月20日付けの私のブログ「天国の母がくれた金メダル」を覚えておられるでしょうか?その末尾に、来年の大会では母が個人種目の金メダルをくれるのかな?楽しみです、と書きました。

 

 しかし、その「来年」つまり、2020年のマスターズの大会は新型コロナ感染症の影響で中止されてしまいました。

 

 しかし、今年2021年は2020東京オリンピックの閉会式の翌日、8月9日(祝日)、すなわち昨日のことですが、競技中以外ではマスクを着用、更衣室やロッカー使用禁止、などの対策をし、直前2週間の体温や体調のチェック表の提出を義務付けた上で開催されました。

 

 その第40回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に、私も60mと100mで出場しました。

 

 例の年代別の支部対抗リレーは各支部とも該当メンバーを集めるのが大変なせいでしょうか、廃止されてしまいました。

 

 前にも書きましたが、個人種目の60mと100mでは、県内外に私より速い方が数名おられるので、実際にはこれらの個人種目での金メダルは私にとってまず不可能なのです。

 

 ところが、ところが!

 

 結論から先に申し上げてしまいますが、何と!

 

 個人60mで金メダルを獲得してしまいました!

 

100mは2位(メダルは1位しかもらえません。1~3位に表彰状が出ます)。

 

こんな奇跡が起こるのです。証拠の金メダルの写真を御覧ください。 

 

で・・・・・・

ここからの話を聞くと、「なあーんだ」と思われることでしょうが、今日の私の話の核心はその「なあーんだ」が「なあーんだ」では終わらない、というところにありますので、ぜひ最後までお読み下さいませ。

 

 大会当日、会場受付で当日の競技の出場者名簿、レーン番号、時間割などが書かれたプログラムと参加賞のバスタオルをいただきます。

 

 さて、何レーンで走るのかな、と、プログラムを開き、まず9時50分スタートの100mから見ますと、8レーンに私の名前がありました。

 スタート前に「8」の腰ゼッケンをいただいて安全ピンで右腰に付けることになります。これが写真判定のために重要なのです。

 

 しかし、「ん?」

 

 8人が走る組なのですが、出場者が少ないので、私のクラス(M70)とその一つ下の若いクラス(M65)の選手との2クラス混合組でした。

 もちろん順位自体は各クラス別に決まります。

 

 M70の出場者は何名かな?とプログラムを確認したら・・・・・

 

 な、何と!

 

 私と、もう一人の合計2名のみ!

 

 ということは?

 

 2位以上が確定!(実は、これが必ずしも「確定」ではないということを後ほど書きます。)

 

 おやおや。

 

 しばらくして100mの準備運動がひととおり済んでから、12時スタートの60mのレーン確認のために再度プログラムを開きました。

 

 レーンは8なので、100mと同じ。そうすると腰ゼッケンは付け替えないで良いので楽です。

 

 やはり60mも、1クラス若いM65の選手との2クラス混合組。

 

 では、M70の出場者は何名かな・・・・・・とプログラムを見ると・・・・

 

 その瞬間、私は笑って「プッ!」と吹き出しました。

 

 だって、M70の出場者は、私一人しか書かれていないのです!(笑)

 

 何度見ても私だけ。(笑)

 

 「おーっ!金メダル確定じゃあ!わはは!」(大笑)

 (実はこれも必ずしも「確定」ではないのですが。)

 

 60mも100mも、走る前から2位以上になることがわかったのですが、実は、そこからグッと気を引き締めなければ、現実に一人出場でも60mで金メダルを手に入れることはできないぞ、という思いが湧いて来たのです。

 

 マスターズ陸上の県の公式の大会というのは、世界的にもマスターズの記録として公認されます。

 もしこの大会の計時で世界記録が出れば、世界マスターズ陸上で公式に世界新記録として認められます。日本記録も同じです。

 ですから、県大会といえども、ルールは大変厳しいのです。

 

 つまり、無事ゴールするまでには、たとえ一人出場といえど、気を抜けない数々の関門が待ち受けているのです。

 そのへんが、学校の運動会や地域の運動会と違う点です。

 

 その関門とは、普段からの注意事項も含みますが、

1.出場エントリの料金を期限までに振り込む。忘れたら出られません。

 

2,当日までに病気や怪我をしない。

 

3.過不足のない練習を継続する。練習前には、20~30分の準備運動を念入りに行い、次に400mトラックを歩いたりスキップしながら1周して足慣らししてからメインの練習に入る。

 

4.飲食に注意し、栄養バランスを考える。

 特に私の場合は、砂糖入り食品を飲食すると脚がつりやすく、また小麦アレルギーもあるので普段から砂糖と小麦を禁止し、清涼飲料水も一切飲まない。

 

 もちろんタバコなんて論外。

 

 アルコールは私の体内にアセトアルデヒドの分解酵素が少ない(エタノールバッチテストでALDH2低活性型)らしいのでやはり一切飲まない。

 

 カフェイン入りの飲み物も私は朝に飲んでも夜眠れなくなるので一切飲まない。

 

5. 当日会場に時間内に到着すること。

 

 前日までの体調管理と当日車で行く場合は交通事故に注意。接触事故でも起こせば長時間拘束されるので間に合わない。

 

 電車の場合は車両故障などでの遅れも考えて相当早めに出る。

 

6.当日の競技開始30分前~15分前の15分間内にコール(招集)係のところに行き、胸と背中のゼッケン番号の確認とスパイクの底の厚さ(短距離は20ミリ以下が規定)を計測してもらい出場許可を得る。

 

 このコールに1分でも遅れれば、スタートできません。棄権(DNS、Did Not Start)となります。これが意外に起こり得るのです。

 

7.スタート時のフライングに注意。

 

 フライングは1回で失格です。(DQ、Disqualified オリンピックでもよく見ますね。ウサイン・ボルト選手もフライングしたことがあります。)

 

 スタート前に係員の方から、「セット」(用意)の構えになってからピクリとでも動くとフライングになるので注意するように言われます。

 

 私は今まで、7年間のマスターズ大会でフライングをしたことは一度もありません。クリスチャンなので落ち着いているんです。(ホントかな?)

 

 ただ、マスターズではオリンピックのようにピストル音からの反応時間の計測まではしていません。

 

8.しゃがんだ状態からのクラウチングスタートなので、スタート時の故障に注意。

 

 今回、私は少々腰が痛かったので、ゆっくり目に起き上がってスタートしました。

 

 このへんの臨機応変さ、慎重で賢い作戦も求められます。

 

 無理な根性や頑張り過ぎは逆効果です。

 

9. 走行中の怪我に注意。

 といっても、それは事前の練習管理や栄養管理、精神管理、睡眠管理などの影響も考えられます。

 

 もちろん、防ぎようのない突発故障もあるでしょう。

 

 2017年8月12日、第16回世界陸上ロンドン大会、男子4×100メートルリレー決勝のアンカーとして走り出したウサイン・ボルト選手は、途中でハムストリングス(脚のももの裏側)のけいれんを起こして倒れました。

 

 それがこの大会で引退を表明していた彼のラストランだったのですが。

 

 また、今回の東京オリンピックで35歳という年齢ながら、女子400m銅メダル、女子4×400mリレーで金メダルを取り、オリンピックでの獲得メダル数が女子で世界一の11個となったアメリカのアリソン・フェリクス選手も、別の大会のレース中に足を怪我して途中棄権(DNF、Did Not Finish)した経験があります。

 

 私のような高齢になってくると、この怪我が一番怖いです。アキレス腱の断裂とか、肉離れなどが起きて、ゴールできない・・・・・当然メダルはもらえません。だからこそ、スタート前に入念な準備運動、ストレッチが必要です。

 

 さて、ここまでお読みいただいたら、たとえ一人出場であっても、県の公式大会では、実際にスタートして、違反無く、無事ゴールするまでに、出場前の日々と当日、如何に多くの精神的・肉体的関門を通らなければならないかがお分かりになっていただけたと思います。

 

 さらに、年に1回とか、4年に1回とかしか開催されない大きな大会では、年に一度、4年に一度の一発勝負になるので、レース前の選手の緊張状態は極限を迎えます。

 その結果、上記したような関門を通れず、フライングしたり、怪我をしたりする確率が上がります。

 私も、大会の前日は心が落ち着かず、ときどき心臓が緊張して速く鼓動したりしました。

 そして、「明日は練習だと思え、記録をとってもらうだけだと思え」と自分に言い聞かせたりしています。

 

 このように、年に一度しかない大きな公式大会に出場して完走し、メダルを取ることは、大変な難事業であることがお分かりですよね。

 

 一人出場であっても、これらのすべてを乗り越え、無事ゴールして初めて、金メダルをいただけるのです。

 

 「一人出場なら、金メダル確定」ということには必ずしもならない、ということになるわけです。

 

 公式大会では(非公式大会でもそうでしょうが)、たとえ日本記録保持者、世界記録保持者であっても、「オレはこんなすごい記録を持っているんだから、走らなくても結果は優勝に決まっている、だから走らなくても金メダルをよこせ」と言っても、だれも相手にしてくれません。

 

 メダルを与えるには、彼なり彼女なりが、実際にその公式大会で上に挙げたような数々の関門をちゃんとくぐり抜けられるかどうかがまず問題とされるからです。

 記録の比較はその後の問題です。

 

 メダルを実際に自分の手にできるかどうか、世界のトップクラスの選手にとってさえ、それはそう簡単なことではないのです。

 

 ただ・・・・・

 

 ここに一つの大きなテーマが浮かんできます。

 

 そのような関門をくぐり抜け、メダルを獲得するのは、自分の努力や、コーチや周囲の人の支援だけによるのか?

 

 というテーマです。

 

 そうではない、というのがクリスチャンとしての私の結論です。

 

 私が今回、不可能と思われた個人種目60mでの金メダル獲得に至ったのは、もちろんそれらの関門をくぐり抜ける努力もしましたが、それだけでこういう奇跡は起こりません。

 

 ここからキリスト教の話になりますので、ご興味のある方だけお読み下さい。

 

 ただ、今回の2020東京オリンピックでの金メダリストたちの多くが、決勝後、胸前で十字を切ったり、地にひれ伏して神に感謝の祈りを捧げたりしているのをご覧になった方も多いでしょう。

 

 上記した世界一の女子短距離走者であるアリソン・フェリクス選手のお父様はアメリカのキリスト教プロテスタント教会の牧師さんです。

 

 世界一の男子短距離走者であったウサイン・ボルト選手がスタート前に胸前で十字を切ってから、天を仰いで指差しする姿は多くの方がご記憶でしょう。十字を切るのは、キリスト教カトリック教徒の姿です。

 

 東京オリンピック女子400mで金メダルのバハマのショーナミラー・ウイボー選手は、ゴール後に胸前で十字を切っていました。彼女もキリスト教カトリック教徒でしょう。

 

 一方、日本人金メダリストが競技後に神に感謝している姿を私は見たことがありません。

 

 日本人アスリートがキリスト教を信じるようになったとき、オリンピックで、また世界陸上の場で、もっともっと金メダルを獲得できるはずだと私は確信しています。

 

 その意味では、キリスト教にご興味の無い方にこそ、むしろここからの話に耳を傾けていただきたいと思います。

 ついでながら、世界中が求めているファイザー社、モデルナ社、アストラゼネカ社の新型コロナウィルスのワクチンを製造・開発したのは、国民の大半がキリスト教徒であるキリスト教国、アメリカ合衆国、ドイツ、英国です。

 ここにもイエス・キリストの恵みがあることを知っていただきたいと思います。

 

 それでは、本題に入ります。

 

 私が今回、個人種目60mで金メダルを獲得できたのは、直接的には、天国の母の霊が私にプレゼントしてくれたおかげです。

 今日のブログ題のとおり、「天国の母がくれた2つ目の金メダル」です。

 

 子供の頃から母ちゃんは、貧乏な生活なのに無理をして、けいじの欲しがる物をいつもくれました。

 

 霊になった今も、私の欲しがっている物を与え続けてくれています。

 

 母の子に対する愛というものは、これほど強く深く永遠なのです。

 

 肉体の死くらいで消えてしまうようなものではありません。

 

 しかし、今回の私の金メダルの獲得には、実は間接的にイエス・キリストの下記のような恵みもあったのです。

 

 1.コロナ禍の中で感染もせずに大会に出場できたこと。

   自分の努力だけで感染を防ぐことができるものではありません。イエス・キリストの恵み 

   です。

 

 2.70歳という高齢にも関わらず、肉体的・精神的にも充実して大会を迎えられたこと。

   高齢、老化には、自分の努力だけでは対抗できません。神に頼らなければ無理です。

 

 3.出場者が私一人であったこと。

   出場できるかどうかも競争です。競争は出場前から始まっているのです。その競争にイ

   エス・キリストが関与して下さっています。

 

 4.日本記録保持者が60mにエントリしなかったこと。

   今回の100mの優勝者は日本記録保持者の方で、私の隣の7レーンを走られました。

   私はスタート直後から3mくらい離され、ゴールでは7~8m離されました。

   

   この方は今回60mにエントリされず、100mと200mに出られ、もちろん、どちらもダント   

   ツの優勝。100mでダントツに離されたのがこの私。

   

   もし、この方が60mにエントリされていたら、私の金メダルは無かったでしょう。

 

 5.この日本記録保持者に次いで2位をキープされることが多い方が今年はまだM65クラス  

   で、私が今年M70クラスに上がったので、この方との競争が無かったこと。(もっとも、こ

   の方も60mにはエントリされていませんでしたが)

 

 6.フライングもせず、怪我もせず、無事ゴールできたこと。

   タイム的には向かい風2.9mのため悪かったですが、一緒に走った1クラス若いM65 

   の選手お二人より速く、若いクラスとの混合組ながら1位フィニッシュでした。

   これらもキリスト教信仰によるイエス・キリストの恵み、と捉えます。

 

 このように、

 「自分の努力と無関係に、自分にとって良いことが起こる。」のが、キリスト教信仰によるイエス・キリストの恵みの特徴です。

 

 「イエス・キリストが神であることと、私を完全に救って下さる唯一の方であることを信じる」

 

 これがキリスト教信仰です。

 

 キリスト教徒になるには、これだけ信じれはいいのです。これ以外に必要な条件はありません。

 

 このことを信じる人は、キリスト教徒(クリスチャン)であり、クリスチャンには、イエス・キリストが一方的な恵みを与えて下さるのです。

 

 このことを信じる以外に必要な努力もお金も犠牲も慈善も一切不要です。

 

 いわば、タナボタ、棚からぼたもちです。

 

 キリスト教信仰がある限り、タナボタを恥ずかしがる必要もないし、正規の成果ではない、と過小評価する必要もありません。

 

 得られたぼたもちには何の変哲もありません。普通のぼたもちと同じです。

 口に入れれば美味しいのです。(私は砂糖禁なので実際には食べませんが 笑)

 

 私の60m金メダルもイエス・キリストの恵みによって与えられたので、私は一人出場だからと言って恥ずかしがる必要もないし、過小評価する必要もありません。

 

 金メダルの価値には何の変わりもありません。

 

 だって、誰でも参加できる大会で、私以外には、千葉県内の70歳~74歳の男性(=M70)の誰一人として、「西暦2021年第40回千葉マスターズ陸上選手権大会M70クラス60m競争」の金メダルをもらえる権利のある人はいなかった、ということですから。

 

 千葉県内の70歳~74歳の男性の中で一番の「健康優良じいさん」の公式表彰を受けたようなものでしょう。それもイエス・キリストの恵みによって。

 

 それを一番喜んでくれているのは・・・・・

 

 もちろん、天国の母です。

 

 感謝なことです。

 

 さて、最後にひとつ、最も重要なことをお話します。

 

 私に60mの金メダルを恵んで下さったイエス・キリストの目的は、私に個人的栄光を与えることなどではありません。母の目的もそうではありません。

 

 私に今回金メダルを与えてくれた母とイエス・キリストの真の目的は・・・・

 

 実は私にこのブログを書かせることだったのです!(えーっ???)

 

 今回のブログを通して、一人でも多くの方が、キリスト教に興味を持ち、イエス・キリストの恵みというものに関心を持って下さること。

 

 それこそが私の今回の金メダルの目的でした。

 

 クリスチャンである母の霊もイエス・キリストも私に個人的栄光を与える、などというケチくさい目的なんか持っていません。

 

 私もまた、個人的栄光を求めてマスターズ陸上を走っているのではありません。

 

 イエス・キリストを信じる高齢のクリスチャンがどれほど奇跡的な陸上競技の成績を挙げることができるか、それを立証して、日本中に、世界中に示したい。それが目的なのです。

 

 それでは、またお会い致しましょう。

 お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

    この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>

 

 今日、インターネットを散策していたところ、こんな記事が眼に留まりました。

 

イスラエルのヘブロンの町で、パレスチナ人の男性のお母様が新型コロナウィルスに感染し、持病もあったとかで重体になりましたが、面会は許されません。

 

そこで、男性は病院の壁をよじ登り、窓枠に座ってお母様を毎日見守っていたということです。

 

残念ながら、お母様はまもなく亡くなられたそうです。

 

しかし、男性が窓によじ登ってお母様をガラス越しに見ているその写真が投稿されたのです。

投稿者が描き添えたイラストも一緒です。

 

https://twitter.com/mhdksafa/status/1284549287863627776?s=20

 

この記事はもともとフランスの下記のフェイスブック記事の写真を引用したものです。

 

https://www.facebook.com/ajplusfrancais/posts/1184343275266653

 

しかし、私は元のフェイスブックの写真より、このツイッター記事の右半分のイラストに強く惹かれたのです。非リンクで画像として再掲させていただきます。

このイラストは、もともとのフェイスブックの記事写真を元にして、ツイッター投稿者のモハメド・サファ氏(外交官、国連代表:Diplomat、Permanent Representative at United Nations)が描かれたもののようです。サインがありますから。

 

このイラストでは、息子さんが見つめている病室内のベッドに横たわって亡くなっている彼のお母様の霊が空中に浮かんで、この親孝行な息子さんの頭をニコニコしながら「いい子、いい子」と手でなでなでしているではありませんか!

 

髭の生えた男性を、まるで赤ん坊のように・・・。

 

「お前は私のことを、そんなにも愛してくれたんだね。でも悲しまなくていいんだよ。ほら、身体から離れて、私の霊はここにこうして生きているんだよ。」

 

そう語りかけているお母様の霊の声が聞こえてきそうです。

 

私は、この写真の息子さんの姿が私自身と重なって見えました。

 

そして、イラストのお母様の霊は私の母の霊そのものを描いてくださっていると感じました。

 

クリスチャンとしての私は聖書の語る永遠の霊の存在を信じているのですが、この投稿者のMohamad Safa氏は、お名前から察しても多分イスラム教徒でいらっしゃるのではないかと思いますが、実は、キリスト教の「父なる神」とイスラム教の「アッラー」は同じ神なのです。

 

ですから、死後の霊の存在について同じような考えになるのでしょう。

 

 人間の肉体は、あくまで100年程度しか存続しませんが、一度神から頂いた人間の生命エネルギーは、肉体の死後も、この世から消え去ることはありません。

 

 これが、キリスト教で言う「永遠のいのち」のことです。

 

 私が母の死後の声の体験を通してお証ししている「永遠のいのち」とはこのことです。

 

 そのエネルギーを日本語では「肉体」の対語という意味で「霊」とも呼びます。

 

 しかし、「霊」という言葉は、日本語では「幽霊」とか「お化け」を連想して、暗くて怖いイメージがあって良くありません。

 

 英語では「SPIRIT」とか「SOUL」と言います。

 

 それは、暗く寂しいものではなく、反対に、とても活発なエネルギーです。動き回って、飛び回って止まない、明るい、たくましいエネルギーです。

 

今、引用させていただいたイラストの霊の姿は、そのような特性が見事に表現されています。

 

その顔の表情には暗さも悲しさも苦しさもまったくありません。

 

明るくむしろひょうきんに微笑んでいますね。

 

 私の母が、神からいただいて、私や妹を産み、育ててくれた、その母のエネルギーも、つまり、母の霊も、母の肉体の死後の今も健在で、家の内外を、私の周りを、私の妹や母の孫たちの周りを笑いながら飛び回っています。

 

 ほんとですよ!

 

 ご家族を亡くされた方。

 

 あなたの亡くなったご家族も同じです!

 

 慰めや気休めを語っているのではありません。

 

 科学的な事実です!

 

 どうぞ、このことをあなたも信じられますように!

 

 それではまたお会い致しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

    この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文>

 

 今、このブログを読んで下さっている、まぎれもなく、「いのち」を持っているあなた。

 

 あなたは誰から生まれてきたのですか?

 

 そう、もちろんお父さんとお母さんからですよね。

 

 それでは、そのお父さんとお母さんは誰から生まれたのですか?

 

 そう、もちろんあなたにとってのおじいさんとおばあさんからですよね。

 

 それではそのおじいさんとおばあさんは誰から?

 

 そう、あなたのひいおじいさんとひいおばあさんからですよね。

 

 それではそのひいおじいさんとひいおばあさんは誰から?

 

 ・・・・・・キリがありません。

 

 でも、どこかにキリがあるはずですよね?

 

 あなたの一番最初の祖先。

 

 その夫婦がいるはずですよね?

 

 でも、その夫婦が一番最初だったら、その人たちは「親」から生まれたのではないはずですよね?

 

 だって、その人たちに「親」がいたら、その人たちは「一番最初」の祖先じゃなくなりますから。

 

 そうすると、あなたの一番最初の祖先には、親はいなかった、ということになります。

 

 これ、絶対に正しいでしょう? 論理的にそうなりますものね。

 

 

 一方、「ダーウィンの進化論」を信じる人々にとっては、人類は単純構造の生物から進化してきたのだから、「あなたの最初の祖先は、細菌やアメーバみたいな生物なのだ」、と言うかもしれません。

 

 しかし、どんなに単細胞とかの単純構造の生物であっても、「生物」である限り、「親」はいます。

 

 自分を増殖できて、子孫を増やすことが出来るのが「生物」というものの定義の一つですから。

 

 ですから、あなたの一番最初の祖先が仮に「乳酸菌」(笑)という生物であったとしても、一番最初の祖先である限り、その乳酸菌には「親」はいなかったのです。

 

 最初の乳酸菌には、「お父さん、お母さん」と呼べる親乳酸菌はいなかったのです。

 

 やはり、あなたの最初の祖先には、親がいなかったことに変わりはありません。

 

 

 一方、古代ギリシャの哲学者アリストテレスや後代のオパーリンという学者たちは、あなたのような生命、いのちを持った存在は、石のような無生物から発生することもある、と主張しました。

 

 そして、その考えを支持して、無生物から生命を作り出そうと一所懸命実験を繰り返している科学者が今でもいるようです。成功した人はいませんが。

 

 しかし、もし、この考えを正しいものとするなら、あなたの一番最初の祖先は、生物ではなく、無生物の「石ころ」だったかもしれません。

 

 だとしても・・・・・・

 

 そのあなたの一番最初の祖先である「お父さん石ころ、お母さん石ころ」はどうやってこの地上に現れたのでしょうか?

 

 現代の宇宙物理学では、この宇宙は138億年前に、ビッグバンという、最初の高密度・高温度の「エネルギーの塊」が爆発膨張して火の塊の物質を発生させた、としています。

 

 その発生した物質が、宇宙空間を飛ばされながら、宇宙全体に天体として散りばめられました。

  

 さて、最初は火の塊だった各天体は、徐々に表面から冷えて行き、地球のように内部に火の塊であるマグマを残しながらも、表面は人類が住める環境にまで落ち着いてきた、というわけです。

 

 でも、時々、地下の高温に溶けたマグマが山の頂上などから外に出てくることがありますね。

 

 それが火山の噴火です。

 

 噴火したマグマは地上で冷えると火成岩と言われる玄武岩や花崗岩になります。

 

 私たちが生きているこの地球、宇宙の中の銀河系の中の太陽系の惑星の中の地球。

 

 宇宙物理学によれば、この地球上の「石ころ」もそうやって出来たわけです。

 

(石には、火成岩だけでなく、砂岩や泥岩などの堆積岩と呼ばれる種類もありますが、

いずれにせよビッグバンによって出来た物質が元です。)

 

 とすると、あなたの一番最初の祖先である「石ころ」を創ったのは、ビッグバンが始まる前の、高密度・高温度の「エネルギーの塊」だった、ということになります。

 

 つまり、この場合は、あなたの一番最初の祖先を創ったのは、「目に見えないエネルギーだった」、つまり、「物質ではなかった」ということになるわけですね。

 

 一番最初の祖先が「石ころ」のような無生物でなく「生物」だったとしても、その最初の祖先には親がいなかったことは上で論証した通りです。

 

 あなたの一番最初の祖先が生物だったとしたらその親が見当たらない、そして無生物だったとしたら、その究極の祖先はエネルギーだった・・・・・ということは、あなたの一番最初の祖先を創った「親」は、生物でも無生物でもなかった、ということです。

 

 つまり、あなたの一番最初の祖先は、目に見える「物質」から生まれたのではありませんでした。

 

 目に見えないものから生まれたのです。

 

 ビッグバン理論では、それを「エネルギー」としています。

 

 ビッグバン理論では地球上の生命の起源についてどう説明しているのか、あるいは研究対象外として説明していないのか知りません。

 

 しかし、あなたの最初の祖先が「生命を持った生物」であったとしても、上で論証したように、その祖先を創ったのは「目に見える物質ではなかった」わけです。

 

 しかも、それは人間という生命活動を行わせる何らかの「力」を持った存在でもあったことを考えると、一番最初の祖先が生命を持った生物であった場合でも、それを創りだした「親」に該当する存在は、ビッグバン理論と同じく、「目に見えないエネルギー」であったとするのが適当のように思います。

 

  あなたの一番最初の祖先は、それが生物であろうと無生物であろうと、「目に見えないエネルギー」によって生まれた。

 

 そう考えるのが一番矛盾をはらまない考え方ではないでしょうか。

 

 ただ単に一番最初の祖先がエネルギーによって創られただけではなく、その子孫である私たち全ての人間のいのちの元も、目で見えるこの肉体から出ているのではなく、「目に見えないエネルギー」から出ているのではないだろうか。

 

 私たちの「五感で認識できる身体の状態」が、「目に見えない私たちの心の状態」の影響を強く受けている事実を見れば、そのことが納得できるでしょう。

 

 人間の身体という物質に影響を与える、目に見えない力が明らかに存在しているのですから。

 

 私たちのいのちの元は、肉体の中にあるのではなく、従って心臓や脳の中にあるのではなく、私たちの内部に存在している「目に見えないエネルギー」にある、と考える方が無理がないように思います。

 

 となると、私たちは、死によって肉体が活動できなくなった後でも、いのちは失わない、ということになります。 

 

 いのちの元は肉体の中にあるのではないのですから。

 

 

 ところで、このいのちの元であるエネルギーは、「元」なのですから、自分の肉体が出来る前から存在していたはずですよね。

 

 ですから、人類の最初の祖先は、そのいのちの元であるエネルギーを自分の肉体活動によって創りだしたのではなく、目に見えない「親」に該当する存在からエネルギーを与えられた結果、そのエネルギーによっていのちを得て、肉体活動をするようになったのです。

 

 私たちの活動も、表面的には、自分の食事からのエネルギーを使っているのですが、より根本的には、自分で創りだしたエネルギーによってではなく、他から与えられたエネルギーによって支配されているのです。

 

 人間が自分で食事をし、消化吸収して体内でエネルギーを作り出し、それがその人のいのちを維持しているのではありません。

 

 食事による産生エネルギーは、肉体である脳を働かせ、手足を動かして、肉体の運動の元になっているのは確かです。

 

 でも、それだけです。

 

 体を動かすだけです。

 

 それがその人のいのちを支えているのではありません。

 

 人間が自分でエネルギーを作り出す前から存在し、自分を生まれさせ、祖先をも生まれさせた、世界に最初から存在した不思議なエネルギー。

 

 その不思議なエネルギーこそが、あなたのいのちを支えているのです。

 

 ここで、そのヒントになるのに有益な動画をご覧に入れましょう。

 

 脳も心臓も肺も手足も目も耳も、何も無くても、ちゃんと移動しながら餌を捕まえて食べて、分裂して子供を作る生物がいるのをご存じでしょうか?

 

 それがここに動画でご紹介する「アメーバ」です。アメブロの語源となっている、日本にも現存する生物です。(気持ち悪いと思った方はご覧にならないで下さいね!)

 

 ただし、顕微鏡で見ないと見えないくらい小さな小さな生物です。動画は顕微鏡下の映像です。

 

 なお、現存しているからといって、人間に病気を起こす種類もいるそうなので、どこにいるのか探さないで下さいね。

 

 アメーバは、1個または数個の細胞核と、多くの流動する体内粒子だけから成るたった1個の細胞を持った単細胞生物です。

 

 体内粒子が移動することによって体の形が変わり、足のようになって進みます。

 

 脳も心臓も肺も眼も耳も足も、なぁーんにも無いのに、自分の意志で動くんですよ!

 

 

 

 そして、アメーバは次の動画のように、エサになる微生物を身体が変形して捕まえて消化します。

 

 どうして脳も眼も耳も手足も無いのに、そこにエサがいて、どう取り囲めば捕まえられるかがわかるんでしょうかね?

 

 

 

 

 そして、アメーバは分裂して増殖します。

 

 動画ではありませんが、分裂の写真が載っているサイトはこちらのURLです。

http://mikamilab.miyakyo-u.ac.jp/Microbio-World/kansatu/ameba/ameba.htm

 

 このように、アメーバは人間の脳のように考える器官が無くても、意志を持って動き、エサを捕食し、分裂して増殖します。

 

 ほんとに不思議ですよね。

 

 人間は脳が神経網を通じて手足を動かして移動しますが、アメーバは、これだけ自在に体が変形しますから、そんな神経網があったら絡み合ってしまうでしょうから、多分無いでしょう。

 

 それでも、身体が思った方向に動いて行きます。

 

 つまり、アメーバを動かしているのは、目に見える脳とか神経とか筋肉とかではなくて、アメーバの中に存在している「目に見えないエネルギー」なのではないでしょうか。

 

 それが「意志」を持っていて、アメーバの身体を動かしている。

 

 人間だけを見ていると、人間が活動できるのは、脳があって、神経網があって、手足があって、五感(眼、耳、鼻、口、皮膚)があるからだ、そういう「肉体という物質」があるからだ、と思ってしまいがちなのですが、アメーバの活動を見ていると、そういう肉体は必ずしも必要としていないことが分かります。

 

 そういう肉体器官が無くても、確かにアメーバは「いのち」を持って、生きていますよね?

 

 脳なんか無くたって、意志をもって動き、エサを認知し、捕まえて食べ、増殖して個体が増えて行きます。

 

 しかし、「目に見えないエネルギーがアメーバを動かしている」と結論付ける前に、アメーバの身体の中に、脳とか五感器官ではないけれど、何かそういう行動の司令塔、いのちの元のような物質はないかどうかが気になります。

 

 そこで、その物質の候補を調べてみましょう。

 

 アメーバの細胞内には、エネルギーを生産する「ミトコンドリア」という器官があります。

 

 それは人間の細胞内にもあるものです。

 

 ひょっとして、この「ミトコンドリア」がいのちの元なのでしょうか?

 

 いえいえ、それは、いのちの元ではなく、あくまで与えられた「身体」を維持して行くためのエネルギーを、食べたエサを原料にして生産しているエネルギー変換工場です。

 

 では、アメーバの細胞の中で、一番重要そうな「核」の中には、いのちの元があるでしょうか?

 

 核の中には染色体があり、その中に遺伝子情報を持ったDNAという物質があります。

 

 人間も同じです。

 

 いのちの元はこのDNAではないのでしょうか?

 

 いいえ、違います。

 

 たとえば、人間ですと、60兆個あると言われる、すべての細胞の中に核があり、その中にDNAがあります。

 

 髪の毛の細胞、爪の細胞の中にもDNAがあります。

 

 亡くなった方の髪の毛や爪を保存しておく場合もあると思いますが、その中にも当然DNAが存在しています。

 

 すると、その方は切られた髪の毛や爪の中で、まだ生命を持って生きている、ということになります。

 

 そうだとすると、その切られた髪の毛や爪が、アメーバのように、動き出すはずです。

 

 それはありそうもないですね。

 

 このように、どう見ても、何を取り上げて考えても、アメーバの目に見える物質の中には、いのちの元はありそうではないのです。

 

 アメーバの例を検証することで、いのちの元は物質ではないことがより確実に見えて来ましたね。

 

 前に述べたことですが、繰り返しますと、

 

 世界に最初から存在した、目に見えない不思議なエネルギー。

 

 その不思議なエネルギーこそが、あなたの生命、いのちを発生させ、今も支えているのです。

 

 あなたも、あなたの親も、そのまた親も、すべての祖先が、その不思議なエネルギーにいのちをもらって生まれたのです。

 

 あなたの子、孫も、曾孫も、玄孫も、皆同じです。

 これらのあなたの子孫もまた、そのいのちは、あなたが与えたものではありません。

 

 古来、今に至るまで、このことに気が付いた方は沢山いました。

 

 その方々は、この「世界が始まる前から存在していた不思議なエネルギー」のことを、「摂理」とか、「人知を超えた存在」とか、「大いなる意志」とか呼びました。

 

 キリスト教では、これを「父なる神」と呼びます。

 

 キリスト教の「神」とは、こういう存在を指します。

 

 当然、私たちの目には見えません。

 

 それでも、確かに私たち人間を支配している現存するエネルギーです。

 

 人間は、この神からそのエネルギーの一部を頂いて、この世に生まれて来ます。

 

 人間の肉体は、あくまで100年程度しか存続しませんが、一度神から頂いたこのエネルギーは、肉体の死後も、この世から消え去ることはありません。

 

 これが、キリスト教で言う「永遠のいのち」のことです。

 

 私が母の死後の声の体験を通してお証ししている「永遠のいのち」とはこのことです。

 

 そのエネルギーを日本語では「肉体」の対語という意味で「霊」とも呼びます。

 

 しかし、「霊」という言葉は、日本語では「幽霊」とか「お化け」を連想して、暗くて怖いイメージがあって良くありません。

 

 英語では「SPIRIT」とか「SOUL」と言います。

 

 それは、暗く寂しいものではなく、反対に、とても活発なエネルギーです。動き回って、飛び回って止まない、明るい、たくましいエネルギーです。

 

 私の母が、神からいただいて、私や妹を産み、育ててくれた、その母のエネルギーは、つまり、母の霊は、母の肉体の死後の今も健在で、家の内外を、私の周りを、私の妹や母の孫たちの周りを笑いながら飛び回っています。

 

 ほんとですよ!

 

 ご家族を亡くされた方。

 

 あなたの亡くなったご家族も同じです!

 

 慰めや気休めを語っているのではありません。

 

 科学的な事実です!

 

 どうぞ、このことを信じて下さい!

 

 それではまたお会い致しましょう。