(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。
私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。
ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)
https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be
それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。
その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、
「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画
(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!
この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。
また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。
この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。
これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。
ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。)
<本文> 「言葉は愛を伝えるためのもの」
もし、人間がこの世にたった一人しか存在していないとしたら、どういうことが起こるでしょうか?
子孫が出来ない。
人類は絶滅する。
・・・・・この心配は、聖書を信じるなら、必ずしも当たっていません。
というのは、神様は土地のチリから人間の肉体を創り、その鼻に神様の息を吹き入れることによって、人間を新たに創り出すことがお出来になるからです。
最初の人間、男性のアダムはそうして創られたのです。
ですから、この世に人間が一人しかいなくなったら、神様がさらに他の人間をお創りになるかもしれませんから、人類の絶滅が必ず起こるというわけではありません。
しかし、もしこの世にたった一人の人間しかいなければ、必ず起こることが一つあります。
それは、
「人間同士で使う言葉が要らなくなる」
ということです。
神様はご自身が、元から言葉を持って使っておられました。
この世に光が出来たのは、神様が
「光よ。あれ。」
と仰せられたからだ、と聖書創世記第1章3節に書いてあります。
その後に、植物や動物も、神様が「生ぜよ、芽生えさせよ、群がれ」などという言葉を使った命令によってお創りになられました。
眼に見えない神様は言葉というエネルギーそのものと言ってもよいでしょう。
イエス・キリストも言葉でもあったことがヨハネの福音書第1章1節に書いてあります。
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』
キリスト教の聖書も「言葉」で書かれています。
新約聖書は今から1,900年前頃に、ギリシャ語(現代ギリシャ語とやや異なる)で書かれ、旧約聖書は今から3,500年前~2,400年前頃に、主にヘブライ語(ヘブル語ともいう)で書かれました。
それが、今では、私たちの日本語のみならず、世界の殆どの言語に翻訳され出版されています。
すでに、2,500を超える言語にその一部なりとも翻訳され、700を超える言語に聖書全巻(旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻)が翻訳されています。
そして、聖書を所有している人は、世界中で8億人以上と言われています。
それは、世界人口の32%を占める24億人という膨大なクリスチャン人口から納得できます。
さて、元々、神様が話されていた言語は一つだけでした。
神様がアダムの肋骨からエバ(イブとも言う)を創られた後、アダムとその妻エバは、その神様の言語を、子が親の言葉を習うように習い覚えたでしょう。
そして、その言葉を使って神様や配偶者と、あれこれ会話をしています。
ところが、アダムとエバの子から生まれた人間の子孫たちが増えるにつれ、彼らは神様をないがしろにするようになりました。
そして、神様は、『地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧に』なり、『地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ』(創世記第6章抜粋【新改訳聖書第三版】より)、
ついに、怒られて、地の全土に大洪水を起こし、唯一、神様と歩んでいた敬虔な人間ノアとその家族、および、あらゆる種類の動物ひとつがい(種類によっては七つがい)だけを巨大な「箱舟」に乗せて救い、他の人間や動物をすべて滅ぼしました。
これが「ノアの箱舟」の話です。
大洪水の後、ノアの子孫が沢山生まれ、繁栄しました。
しかし、やがてその子孫たちも神様をないがしろにし、自分たちの知恵や文化を誇り、天にも届くような高い塔を建築し出しました。(現代のどこかの国に似ているような・・・)
神様はこの人間の奢りと暴走を快く思われず、人間たちが一つの言葉で統一されているのがその原因だとお考えになり、
『彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう』(創世記第11章7節)
と仰って、言葉を混乱させて、人々を地の全面に散らしました。
有名な「バベルの塔」の話です。
これが、世界に沢山の種類の言葉が存在し、互いに翻訳しなければ通じなくなった理由なのです。
・・・・さて、それはともかく、当初、アダムだけしかいなければ、人間同士の言葉は要らなかったでしょう。
アダムに妻エバが創られて与えられたから、二人の間で意思を伝えるために言葉が必要となり、神様の言葉を習ったのでしょう。
神様との対話はともかくとして、人間が一人しかいないのなら、言葉は不要ですよね。
そう、言葉は「対話」、つまり、二人以上の人間の間での意思疎通のためにあるのです。
そして、「意思疎通」というのは、実は人間と人間の間の「霊の交流」なのです。
「意思」とひとくくりにすると分かりにくいですが、それは「心」、「理性」、「感情」などから成るもので、人間が持っている「霊」の機能の一部のことです。(霊の機能には、他にも超能力などもあるようです。)
言葉を交わす、ということは、実は人間が自分の心や理性や感情を相手に伝え合う、ということに他なりません。
人間の言葉というのは、自分の声帯を震わせて声という「音波」を発生させて、相手の耳の鼓膜を振動させる、という単なる物理現象ではないのです。
そういう単なる物理現象の奥に、人間の言葉には、互いの心や理性や感情という霊が不思議なことに自動的に織り込まれるのです。
言葉を交わすことは霊を交わすこと。
だからこそ、良くも悪くも、言葉には人を動かす力があるのです。
悪い言葉を吐かれると一生恨んだり、逆に優しい言葉をかけられると一生慕ったりするのです。
このように、言葉は霊の交流の手段なので、この世に一人しか存在しないなら、霊を交流する相手がいないので、言葉も不要になるのです。
しかし、二人以上の人間がいるなら、霊の交流のために、言葉が必要になります。
人間の幼児は成長とともに、徐々に言葉を覚えて行きますが、
言葉を覚えるということは、実は単語を覚えるとか文法を覚えるとか構文を覚えることではなくて、霊の交流の「しかた」を学ぶということなのです。
子供が言葉を覚えるのは、たいていは両親がお互いに対話をして、霊の交流をしているのを傍で見聞きしているからです。
単に音声を意味にヒモ付けして覚えているのではなく、
「今、お父ちゃんはこういう思いをお母ちゃんに伝えたんだな」
という父母の霊の交流を観察しているのです。
そして、自分も同じような思いをお母ちゃんに伝える時は、
「今、お父ちゃんが出した声と同じ音を出せばいいんだな」
と覚えて行くわけです。
「思い」と「音声」をセットにして覚えるのです。
「意味」と「音声」のセットではありません。
「この言葉(音声)の意味は~だ」、という、普通に私たちが英語などの外国語を学ぶときにやっている方法ではなく、
「この言葉(音声)は、自分や他人が~の思いを伝えたいときに使うのだ」、と覚えて行く方法です。
意味を知れば、思いを伝えるときに使えるじゃないか、同じことではないか、と思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。
「意味」というのは「思い」がからまなくても覚えられます。
例えば、あなたが中学生で、英語の授業を受けている時に、
I want to eat an apple.
という英文を先生が黒板に書いて、「アイワナイーランナッポ」と見事なアメリカ英語の口語発音で読み上げた(日本の実際の教育現場では多分あり得ないことでしょうが)としましょう。
そして、その英文は、「私はリンゴを食べたいです。」という「意味」だ、と先生が教えてくれたので、あなたは「そうか」、と、初めて、その「意味」を知りました。「初めて」、ですよ。
しかし、翌日には、あなたはその「意味」を忘れているでしょうし、ましてやその英文を自分の生活の中で使うことはできないでしょう。
もっとも、今のあなたなら、もう英語を十分学び、このくらいの簡単な単語で構成されている英文ならお使いになれるかもしれません。
でも、「まったく初めて」その意味を知ったとするなら、翌日には多分まだ使えませんし、覚えてもいません。
例えば、
indubitable(インデュービタボ)は「必要欠くべからざる」という意味の形容詞ですが、もしあなたが今日初めてそれを知ったとして、明日、意味を覚えていて発音できますでしょうか?
多分、お出来にはならないと思います。
それと同じように、たとえ、「want to」とか「apple」といった、今のあなたにとっては簡単な単語であっても、初めてその意味を知った直後には、なかなか覚えられなかったはずです。
特に、「apple」=リンゴ というのは、すでに「アップルパイ」などで日本語になっているので、すぐに覚えられそうな気がするだけです。
さて、一方、あるアメリカの家庭で、幼児が両親とテーブルを囲んで座っている場面で、父親が母親に向かって、
I want to eat an apple. 「アイワナイーランナッポ」
と言ったとします。
そしたら、母親は、
Ok, wait a moment. 「オウケイ、ウェイラモウマン」
と父親に答えて、席を立って台所に行きました。
しばらくすると、母親は、きれいにカットしたリンゴを3皿に分けてニコニコしながら持って来て、
Here you are. 「ヒアユウアー」
と言いました。
そして、3人で喜んでムシャムシャ食べました。
あー美味しかったあ!ごちそうさま。
・・・・さあ、この場面を見聞きし、自ら体験した幼児は、今の初めて聞いた言葉を、もう全部覚えました。
「お父ちゃんはリンゴが食べたい、って思ったんだ。
そういう時は、お母ちゃんに「アイワナイーランナッポ」って言えばいいんだ。フッフッフ、分かったぞ。」
幼児は次に自分がリンゴが食べたいなあ、と思った時には、迷わず母親に向かって、
「アイワナイーランナッポ!」
と大声で得意げに胸を張って叫ぶことでしょう。
母親は突然のことにビックリし、そして喜ぶことでしょう。
この子はもう「リンゴ食べたい」って独りで言えるようになった!
感動ですよね。
だって、母親は、リンゴは「アッポ」、~したいは「ワナ」、食べるは「イート」だけど、後にアンという不定冠詞が付いたらくっついて「イーラン」って言うのよ、なんて一度も教えたことはなかったのですから。
幼児は、この文の単語がどこで切れるのか、どういう綴なのか、どういう文法が適用されているのか、どの音とどの音がリンキング(つながって聞こえる)するのか、なんてことは一切知りません。
ただ、こう思ったときは、こう言えばいいんだ、願いが叶うんだ、ということだけを覚えています。
幼児は、今の他の英語も、以下のように覚えます。
「オウケイ、ウェイラモウマン」ていうのは、お母ちゃんは、お父ちゃんのお願いが分かったということと、だけど、それを叶えるには少し時間がかかるということ、その二つのことをお父ちゃんに伝えようと思って、今の言葉を言ったんだな。少し待ったからな。
「ヒアユウアー」っていうのは、食べていいわよ、とか、お待たせ、というお母ちゃんの思いなんだな。
・・・・幼児はこのように、今の英語を、父親や母親の意思や心の思い、つまり、霊と言葉を結びつけて覚えました。
霊と結びついた言葉は、強烈で切実で臨場感にあふれた記憶を与えてくれるのです。
そのために、すぐに覚え、しかも、自分にも同じ思いが湧いてきた時に、すぐに思い出して使えるようになるのです。
黒板に先生が書いてその意味を教えてくれたのを覚えるのとは全く違うのです。
・・・・このことは、外国語を大人になってから学ぶ効率的な方法について示唆を与えてくれます。
傍で見聞きして、どういう思いを相手に伝えようとしているのか、が分かる易しい外国語対話の場面集(外国語音声と画像または映像付き、または外国語音声と日本語音声付き)を教材として選ぶと良いのではないか、と思うのです。
もちろん、あくまで「対話」でなければならないということになります。
「幼児が両親の対話を見聞きする疑似体験を得る」ためですから。
つまり、外国語の学びの教材の中に、人間同士の霊の交流を見聞き出来なければなりません。
幼児は、両親の霊が言葉を介してポンポン飛び交って交流しているのを黙って見聞きしています。
そして、その間に、幼児は、いろいろなパターンの心や意思、感情と言葉の組み合わせの辞書を自分の中に蓄えて行きます。
自分の心や意思、感情が、自分の辞書の中にあるパターンに合致して湧き起こったときは、その辞書の中から、そのパターンに該当する言葉を取り出して来て、それを声に出します。
それで、親は、子供が突然しゃべり出した、とビックリするわけです。
講演とか発表などの、一方的な話をリスニングするのは、初期に言葉を覚えるという観点からは、非効率ではないかと思います。
そこには霊の交流がありませんから。
外国語学習に、この方法が良いかどうか、今私は自分で実験しようと考えています。
成果については、いずれ、このブログでもご報告しようと思っています。
・・・さて、ゴチャゴチャといろいろなことを書いてしまいました。
今日お話したいことの核心を述べましょう。(今頃?遅い!)
人間はこの世に一人でいるなら言葉は要りません。
しかし、神様は、アダムを創られた後、
「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記第3章18節)
と仰って、エバを創り、アダムに妻として、助け手としてお与えになりました。
ですから、私たち人間は神様によって、一人では生きて行けないように創られていて、
神様のご意思によって、この世には必ず二人以上の人間がいるのです。
そして、人間同士がその霊、すなわち、心や意思、感情を相手に伝える時に伝えやすいようにと、神様は人間に「言葉」をお与えになりました。
そして、神様は、人間同士の関係の基本原則を「愛」に設定されていますから、
神様は、人間同士が言葉を使って「愛」の交流をすることを望んでおられます。
つまり、元々、言葉は「愛」を表現するためのものなのです。
従って、言葉というものは、相手を、
批判し、攻撃し、貶(おとし)め、バカにし、軽蔑し、怒り、蔑(さげす)み、責め、
叱りつけ、叩きのめし、抹殺し、傷つけ、悲しませ、泣かせ、ギャフンと言わせ、
「二度としません」と反省させ、支配し、搾取し、脅し、利益を吸い上げ、後悔させ、
懲(こ)りさせ、忠誠を誓わせ、強制し、・・・・などなど
するために使うものではありません。
両親同士がケンカが絶えず、その会話がこのような悪い言葉ばかりであったとしたら、それを見聞きする幼児は多分、あまり言葉を覚えないでしょう。
言葉を覚える目的は、ケンカをするためではなく、愛を伝えるためだからです。
言葉を覚えられなければ、多分、幼児の知能の発達にも悪影響を与えるでしょう。
赤ちゃんを育てる時に、親はどんな言葉をかけますか?
赤ちゃんを胸に抱いて、
「このバーカ!」
なんて言いますか?
まさか言わないでしょう?
「オー、よーしよし、よしよし、よしよし」
「いい子だ、いい子だ」
この上なく優しく、そう言いますよね。
これは、単に言葉、音声の違いの問題ではなくて、その言葉の奥に織り込まれた霊の問題です。
親の霊が、自分の「愛」を赤ちゃんの霊に伝えようとしているのか、「軽蔑」を赤ちゃんの霊に与えようとしているのかの違いです。
赤ちゃんはどちらを喜びますか?
当然、愛のこもった言葉をかけられたほうですね。
でも、赤ちゃんは「バーカ」が悪い言葉で、「よしよし」、とか「いい子」という言葉は良い言葉だ、なんて絶対知らないですよ。
それなのに、なぜ「いい子、いい子」と言われると嬉しいのでしょう?
その言葉にこもった親の愛を感じるからです。
毎回のこのブログの冒頭で死後の母の声、「けいじーっ」と叫んでいる母の声の録音の話をしていますが、他人様には、ただの鋭い絶叫のようにしか聞こえないと思いますが、この母の声には、私に対する「母の愛」がこもっているのです。
その「母の愛」を、母の赤ん坊だった私は感じることができるので、この録音を聞くと嬉しいわけです。
さて、一方、悪い言葉は、それを吐かれた人を深く傷つけるのですが、実は、吐かれた人ばかりではなく、それを吐いた人自身をも傷つけているのです。
多分、吐いた人はそれに気がついていません。
むしろ溜飲を下げた、とばかり、いい気持ちになるかもしれません。
しかし・・・・、実は、恐ろしいことに、水面下で、確実に、着実に、悪い言葉は、それを吐いた人の心や感情、理性、つまり霊を傷つけ、汚し、蝕(むしば)み、弱らせて行きます。
もちろん、霊と密接に結びついたその人の身体も徐々に蝕(むしば)まれ、破壊されて行きます。
やがて・・・・自滅します。
反対勢力に攻撃されなくても、抵抗されなくても、自ら滅んで行きます。
上記のような悪い言葉を吐き続け、悪い行動をし続けた人間、例え支配者であったとしても、そのような人間が極めて悲惨な末路をたどった例は、世界でも日本でも、歴史上、枚挙にいとまがありません。
会社や家庭、学校などでもそれは同じです。
それは、神のご意思なので、だれも変えられません。
神様は、人間同士が言葉を使って「愛」の交流をすることを望み、言葉によって傷つけ合うことを望んでおられない証拠です。
神様のご意思に反することを意図的に勝手気ままに実行し続け、嘘の言葉を吐き続け、他人を不幸に陥れ続け、そのまま、のうのうと生き長らえる事ができる人間などいるでしょうか?
聖書には、
「・・暴虐は、おのれの脳天に下る」
(詩篇第7篇16節)【新改訳改訂第3版】より
という言葉があります。
「他人に暴虐を振るうと、やがて、同じ暴虐が、その人自身を直撃する」
ということです。
暴力的行動だけではなく、上記したような暴力的な言葉を吐いても、同じことになります。
神様は言葉をそのような暴力の手段として使用することをお許しにならないからです。
もちろん、キリスト教では、そのような暴力的な言動に走る人についても、
「自分で何を言っているのかわかっていないのです」
というイエス・キリストの教えに従って赦し、愛の人に変わるように祈って差し上げることが必要です。
しかし、あなたご自身も、
「言葉は愛を伝えるためのもの」
「言葉は他人に暴力を振るうために使うものではない」
ということを、この機会に再認識し、上記のような悪い言葉や行動を極力慎み、愛の言葉を多用するようにされると、ご自身の生活がより楽しく、平安になられるでしょう。
・・・・しかし、ここまでのお話で終わると、世の中によくある「良いお話」、「良いお説教」、「立派な道徳」にすぎません。
そして、実は、旧約聖書の中にとどまっていることになります。
人間というのは罪深い存在なのです。
悪い言葉や行動を極力慎み、愛の言葉を多用しましょう、ということが良いことは分かっても、それをつい、破ってしまうのが人間なのです。
いや、そうしようと努力し始めた瞬間から、言いたいことが言えなくなった、したいことが出来なくなった、という不自由感に襲われます。
そして、だんだん息苦しくなって行きます。
やがて、
「こんな聖人君子みたいなことやっていられるか!」
という捨てゼリフとともに、元に戻ってしまいます。
すると、当然神様のご意思に反した生活になります。
・・・・どうすればいいの?
どうしようもないじゃん!
あ、そうか、神様なんて否定すればいいんじゃん!
神様なんていないんだ。
何が神様のご意思だ。
フン、そんなものクソくらえ!
この世はな、自分の知恵と腕力と金で生きて行くものなんだ。
無神論者で何が悪い!
・・・・・おっとっと。
早とちりしないで下さいね。
そういうあなたの神様のご意思に反する罪の身代わりとして、イエス・キリストは十字架という死刑台で死なれたのです。
そのことを信じるだけで、あなたが神様のご意思に反することをしてしまった時も、あなたが神様から罰を受けることはありません。
ですから、安心して、正しい方向に舵を取りましょう。
そのことを信じていれば、息苦しくなることもなく、意外と淡々と、無理なく、神様のご意思に近づいて行けるものなのです。
頑張らなくて大丈夫。
これが、新約聖書の世界なのです。
クリスチャンというのは、そういう人生を歩んでいます。
意図的ではありませんが、つい、神様のご意思に明らかに反することもしてしまいます。
でも、そのたびに、反省し、十字架を見つめて、イエス・キリストの身代わりの死に思いを馳せることによって、神様から赦された確信を持つことができるのです。
あなたも、もし気が向かれたら、この新約聖書の世界、イエス・キリストの救いの世界を探検してみて下さいね。
それでは、またお会い致しましょう。
お元気で!