五人少女天国行(出嫁女)1992.7.24 三百人劇場 | ギンレイの映画とか

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 五人の少女がそろって首を吊って死のう、という一種異様な話。でもこの映画を見れば、いたいけな少女たちが死ななくてはならない運命の下に生まれついていることが分かってくる。女として生まれたということだけで、男よりはるかに劣った性とみなされ、自立とか自由という言葉がまったく縁もゆかりもなかった時代のことだ。封建的な時代とは言っても、たかだか50年程以前に過ぎない。その間、中国は社会制度も変わり、このようなことも無くなっているだろうとは思うが、どうだろうか。

 

 不思議に思うのだが、世界のさまざまの国でそれぞれに社会の進歩があり、少しづつ世の中を良くして行こうということで、人々の暮らしがあるわけだけれど、申し合わせたように大きく世界は動いている。それも、現代のようには他の国の情報がすぐに分からなかった昔でも、奴隷制の次が封建制で、そして資本主義になって、社会主義に向かう。というような、まあ難しいことは分からないけれど、そういう流れは必然なんだそうだ。

 

 とはいえ人々が当たり前と思っていることを、それは違うから直そうとするのは、簡単じゃない。何か変だなと思う人がいて、それに同調する人が少しづつ増えてきて、その考え方が人々の過半数に近くなって、ようやく引っ繰り返るようになる。ずいぶん長い道程を経て物事が変わっていくんだ。それは焦れったいほど大変なことの場合もあるし、又あっけないほどすぐに結果の出る時もあるだろう。そうやって、いろんな物事がそろそろと動いて行き、大きく社会が変わっていく。

 

 開放前の中国がいかに遅れた国であったかは、映画はさまざまに描いてみせてくれる。「黄色い大地」、「菊豆」等で描かれたのは、女性の地位の低さで、彼女らには自分の意思を通す意思も場所もない。彼女たちがどのようにしたかといえば、悪いこととは知りつつも、相手を傷つけていくことで、大きく社会に刃向かっていった。突破口を作るにはそういうゲリラ的な方法で世間に訴えるしかなかった。

 

 中国の女性の美しさは日本人の比ではない、などと言ったら叱られてしまうかも知れないが、実際、この映画に出てくる少女たちの美しさを見てもらえば、誰もが納得すると思う。いわゆる美少女たちなんだが、それだけではなくて、あと数年したら絶世の美女になるに違いない、と思わせるようなものがある。すれていない、素朴な良さがある。

 では、彼女たちが死のうなんて思った直接の原因は何なのかというと、簡単に言えば少女趣味的な感傷から来ているものだ。あの年頃の自殺にはきっと付きもののことだろうし、しっかりと現実を見据えることなく、悲観してしまうのも、若年には有り勝ちなことだ。誰でも一度位はそういう気持ちになったことがあるに違いない。でもほとんどの人がそれを乗り越え、大人になって行く。

 

 特にこの映画では、彼女たちの相談相手になる人が自殺を積極的に勧める占い師だったのは不幸なことだった。処女のまま死ぬことが一つの条件になっていて、清らかに天国に召されて、花園に遊ぶことが全てのように言われれば、素直に信じてしまうのも無理はない。親から嫌な相手との結婚を勧められたり、祖母が粗末に扱われたりするのを見て、女の幸福は地上には無い、と見極めて、じゃあ、占い師も言っているし、仲良し5人組の気も合ったし、揃って首を吊ろう。それしかないと思い詰めるとその意思は強固なものになる。死という楽な道があるのに、何で生きて意の染まぬ生き方をしなくてはいけないのか、となる。これは集団結婚よりも衝撃的なことであるし、取り返しの付かないことであるからこそ、素晴らしいことに思えてしまうのだろう。死を安易に選ぶな、とは言えても、死に行く人を力づくでは救えない。

 

 生きることが嫌になって死を選ぶ人がいても仕方のないことだと思う。私自身は自殺することは決してないと思うけれど、明日のことは分からないからね。ただ、言えることは、死んだら花園なんか無くて、あるのは無で、全て終わりなのだから、今の生を大切に大切にしたいと思うから、自殺なんていうもったいないことはしない。これが、自殺についての私の今の見解だ。

 

 だから、あんないたいけな少女を死に至らしめる社会に怒りを覚えると同時に、死を美化する考え方にも絶対反対したい。

 

監督 ワン・チン

出演 シェン・ロン タオ・ホイミン チュイ・シュエ チー・シュエピン チー・ホアチオン

1991年