国境の町 1993.2.26 キネカ錦糸町 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 ボリス・バルネットの三本目、エイゼンシュタインの影響を受けていると思った。それはイメージの飛躍というか、思わぬ映像が時たま現われるところだ。

 

 ロシアの二月革命からロシア革命に至る混乱の中、マニカはドイツ兵ミューラーと恋仲になった。プロレタリア革命の精神は若いドイツ人の胸をうち、赤軍親衛隊の仲間と共に行進するようになった。というソ連政府推薦のような作品である。

 

 戦争は国を挙げて勝利に向けて努力する。戦争をするのが国と国との喧嘩だとすると、国という具体的な形をなしていなくては戦えないから、国の構成員である国民が国に変わって命を賭ける。

 

 でも例えば、日本にどこかの国が武力で攻めてきたら、どうしよう。私はどんな戦争にも行きたくないし、誰も殺したくない。では自衛で武器を持つことはありうるか。それも出来たら、したくない。そのためにむざむざと殺されても仕方ない。こちらが悪くないのは明らかでも、我慢して死のう。相手に勝つには敵以上の装備を身に戦わなければならないし、そうするとどうどう巡りの悪循環の愚かさを重ねるだけだもの。誰かが武器を条件なしに捨てない限り、この世の中から武器が一掃される日は来ないだろう。人間の愚かさを考慮してみると、そんな日は決して来ないことは明白だ。残念ながらそれが現実だ。この地球に生まれた生命も人間と言う馬鹿な動物が少しの頭脳を持ったことから生命系全体を危機に至らせたと言って差し支えないだろう。

 

 そんな人間の中にも誠実な人は勿論いて、戦争に嫌気がさしている者もいる。国の為の戦争に大いなる意義を見出し、戦場に行き、戦争のむごさを味わい、その無意味な戦いを忌避する者たちだ。誰も好き好んで死ぬ人間なんかいないから、好戦的な政治家が先頭に立つことはない。戦争の熱に浮かされた者でもない限り、死ななきゃ分からないというものではないと思う。戦争は個人の喧嘩ではないのだから、武器を持って実際に戦う兵士同士は憎くもない相手を殺すという愚かなことをしなくてはならないのであって、これは誰が考えてもおかしなことだ。前線の兵士がそのことに気づいて、戦いを放棄することもあっただろう。皆な国に帰れば、それぞれ家族を持ち、仕事をこなしている男たちなのだ。だが、そんなことはとうの昔に気づいていなければならないことで、国が戦争を仕掛ける前に戦争の本質を見抜いていれば、戦いに赴く必要も、戦争自体の起こりようもなかったのに。

 

 靴の職人である男たちが戦場に駆り出されて、無惨にも殺され、又は運良く助かり、捕虜になった。死なないに越したことはない。どんな目に会おうとも生きて帰れば新たな生活が待っている。どんなに英雄的に死んでも死んだら終わりだ。人と人との出会いがどのような形にしろ、化学変化のように人の何かを変える。戦争の花嫁のような具体的な形にはならなかったが、ドイツの若者とソ連の娘が出会って、恋に落ちても不思議はない。むしろ出会いの元が戦争であることの不幸さを別にすれば、結構なことではないか。

 

 ただ、この映画では、反戦なのか、恋愛なのか、焦点が定かでないように思った。

 

監督 ボリス・バルネット

出演 エ