52ヘルツのクジラたち 2024.3.2 シネマイクスピアリ11 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 問題を抱えた人たちが集まってきても問題は解決されることはない。時代が問題を連れてくるのか、問題がただ表面化するだけなのか、昔からあったことが別なはっきりした言語で可視化される。あったことでも名詞化されていないので意識することがなかったものが、例えば成人病が生活習慣病になり、精神病が細分化され名前が付けられる。そうすると何だか分からなかった事態が言葉で説明できるようになる。

 

 自分の症状が分かれば安心して対応できる。相手が不明なより顔が見えた方がいい。これから先は、どんなことも名づけられるだろう。万物のモノはもちろん、全ての感情さえ明らかになってしまって、これはやり過ぎだろう、と反省されるかもしれない。そこまでする必要はない、と。

 

 52ヘルツのクジラの鳴き声は高くて聞き取れないというが、52Hzは1秒に52の振動、低くて聞こえないなら分かるが、高くてというのが分からない。それはさておき題名にしたくらいだから意味があるはず。哺乳類は人間に近いから彼らの鳴き声は意味を持っているかも知れない。

 

 原作があるので読んでから見るのが正解とはならない。読んでいたら読んでいたらでいいし、映画が先でも良い。どちらかであるわけで、私は映画が先だった。これだけ入り組んだ話だと小説そのままな感じがしない。これから本を読むと、かえって混乱するかもしれない。読まないことにしよう。

 

 小説は何度でも読み返せるから複雑でも問題ない。しかし一度限りの映画はそうはいかない。原作があるなら、それを整理してほしい。オリジナルなら分かりやすくはもとより、映画ならではの難しさは映像で補ってほしい。見たのちに読んで分かるのは映画の怠惰だ。つまり別な芸術形態は別な表現法がある。

 

 映画なのにわざと分かりにくくしてる。「市子」と同じ。まして杉咲花でまぎらわしい。時と居場所と関係性を表にするしかない。でも私の理解力では正解な表が作れない。

 

 映画は映像で示さないといけない。そこが難しいところであり、また簡単でもある。そのものズバリあるいはそのように見えればいい。どちらかといえばようするに見せられたら成功、というわけです。

 

 同情することと理解することは別だ。理解しようと思っても中途半端に終わって、こういうことがあって、こういう人がいて、と思うくらいで終わる。けっきょく他人事でしかないのだということ。こんな結論ではまずいだろうか。

 

監督 成島出

出演 杉咲花 志尊淳 宮沢氷魚 小野花梨 桑名桃李 金子大地 西野七瀬 真飛聖 池谷のぶえ 余貴美子 倍賞美津子

2024年