恋する人魚たち 1991.10.29 銀座シネパトス | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 世の中で誰が一番気になる存在か、というと、恋している時は別にして、家族になるのが普通だろう。友だちが一番っていう時もあるが、生まれてから死ぬまでのつき合いになるほどの友だちはそうあるものではない。何を答えにしたいのかというと、親だ。これこそどちらかの死によっての別れまでの長い長いつきあいを余儀なくされた宿命の仲、だからこそ、そこにさまざまな葛藤が生まれ、又やすらぎを見出す所でもある。

 

 だが、それは一般的なごく普通の親と子の関係に言えることであって、こんな親を持った子供は一体どうすればいいの?

 

 母親ミセス・フラックスをシェール、親がシェール!、娘シャーロット(ウィノナ・ライダー)とケイト(クリスティナ・リッチ)もなかなかのもの。18回もの引っ越し魔、落ち着かないわけだ。どこへ行っても自分を押し通し、迷惑を被るのは娘二人。いつになったら、どんなところで落ち着けるのだろう、他人ながら心配になる。

 

 時代は移り、若い人は親を乗り越えて行くのが普通なのに、親が特別に翔んでいると、かえってこんなまともな子供が出来るかも知れない。なぜなら、親を超えるにはそのハードルが高すぎるからだ。親と子供とは言っても、たかだか二十数年の差しかないから、ほぼ同時代に生きる仲間と考えても変ではない。むしろ、十年、二十年位で、こうもものごとや考え方が変わることがおかしい。

 

 こういう親が出てくるのを見るのは痛快だ。それはやっぱりこんな親がいたら、おもしろいだろうなと思うのと、あんな風に生きられたら良いだろうなという、あこがれがあるからだ。親が子供を面倒みるという当たり前のことが通用しないと、子供としてはしっかりせざるを得ない。そんな親を心配しながらも自分自身のこともやらなくちゃならないのだから、大変だ。

 

 時代は60年代始め、何の変哲もない田舎町、だから退屈きわまりない。田舎はどこも死んだように退屈だ。だからそこから一目散に逃げ出して戻ってこない。そしてより過疎は進む。にぎやかなものや人がいないから、落ち着ける場所や、心安らぐ相手を求める。でもそんな場所はどこにでもある。田舎だからないなんてことはない。そんなお手頃な相手を求めて母は行く。くわえこんだら離さない、この意気でいつもはうまく行くのに今度は駄目らしい。不景気はこんなところにもあったのだ。

 

 時はまさに1963年11月、大統領が暗殺されたというニュースが流れている。ラジオから聞こえるケネディー暗殺のニュースはあの当時の時代の空気そのものを伝えてでもいるような妙なリアリティーがあった。映画ならではの魔法だ。

 

 この映画は、シェールを主人公にもってきたところから始まっているので、彼女でなくてはならない強引さがあって、でも彼女だから誰もが納得できるものとなっている。ウィノナちゃんは例によって、高校生でかわいく出ていました。

 

監督 リチャード・ベンジャミン

出演 シェール ボブ・ホスキンス ウィノナ・ライダー マイケル・ショーフリング クリスティーナ・リッチ ジャン・マイナー

1990年