訣別の街 1996.10.15 ニュー東宝シネマ1 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 ニューヨーク市長ジョン・パパス(アル・パチーノ)は将来的に大統領をめざしている。市長としての失敗は許されない。しかし警官とマフィアの癒着が表に出ることもあり、その対応に頭を悩ませていた。

 

 市長は何が正しいことなのか、何が正義であるのか、を知っていると思っている。ただ、その信念がこれからも普遍であるかどうかは定かではない。今の状態が続けば変わらない自信はある。だが立場とか状況は変わるものである。とすると確信が持てなくなる。

 

 ニューヨークの市長ともなると、これはたいした政治家の一人だ。ただ、その権力は限られている。権力といっても、ニューヨークのそれであり、力を振るおうにも溢れ出る事件を押さえるのに忙しくて、政治家としての「うまみ」は少なそうだ。今日もニューヨーク市長は東京から来た知事を歓迎する演説をしている。もちろん、社交辞令だけのものだ。同等な大都市をかかえる長ではあるが、ニューヨークと東京では、まったく仕事が異なることだろう。

 

 アメリカは誰もがどんな地位にでもつくことが出来るらしい。アメリカは自由な国らしい。アメリカ人は誰も、そう誤解している。だが、そういう理想が壊れた時、反動は大きい。

 

 日本にも右にも左にも極端を行く人はいる。だけど、それはごく少数だ。どっちつかずの人が大半を占め、見栄えの良い、又は聞こえの良い方に傾く。アメリカ大統領はその最たるものだ。一番人気ある政治家がなる職業ということなのだろう、それ以上のものはない。だが、本当はそんなことが大統領職の条件であるはずがない。

 

 政治家がみな金儲けのために政治家になったわけではない。むしろ、その反対で清新の気迫で、腐った政治を直していこう、という意気込みを持って政治家になったはず。これは、議論を待つまでもなく、ほとんど例外はないだろう。右左の違いはあるにせよ、始めから悪徳政治家になろう、とは思ってはいまい。だが、悲しいかな人間は弱いもの、誘惑に負け、信念を捨て、最後には自分をまで誰かに預けてしまう。こうして、政治家は特定の人間や、企業の下にひれ伏す。これは、ただアメリカだけのことではなく、どの国にもあることだろう。

 

 こういう映画がアメリカで作られるのはいい。だが、ここでの鬱憤はどこに持っていけばいいのか。ここがアメリカの最大の弱点だ。日本はどうか、というと、似たような状況にありながら、まったく違う点がある。そこに私は希望を見いだす。

 

 アメリカは清濁併せ持つ社会だ。政治もその中にある。理想を持って政治を執り行う者あり、私利私欲だけで政治家になる者もある。彼らは一様ではない。そこが希望を持てることである。アメリカの実態はこうして映画で知るだけだが、マイナスの点をカバーしようと振れる振り子は存在する。

 

監督 ハロルド・ペッカー

出演 アル・パチーノ ジョン・キューザック ブリジット・フォンダ ダニー・アイエロ マーティン・ランドー デイヴィッド・ペイマー アンソニー・フランシオーサ リチャード・シフ リンゼイ・ドーカン メル・ウィンクラー ローレン・ヴェレツ ロバータ・ピーターズ エンジェル・ダヴィッド ラリー・ロマーノ ボブ・ラベル レイ・アランハ ジェイリル・リン

1996年