新幹線大爆破 1976.2.16 並木座 | ギンレイの映画とか

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 ギンレイ以外も

 新幹線は安全な列車であることは実証されている。今後どうなるかは分からないが、ATCをはじめ運行はコントロールセンターで一括して制御されている。そうは言っても事故はあるもので、いつか起こるだろう。このように外的に仕掛けられたら防ぐのは難しい。

 

 なんとも驚いた。やればできると言う見本。アイディアさえあれば「ジョーズ」くらいは日本でも作れる。「タワーリング・インフェルノ」のように、お金をかけられないのは仕方ないが、「ジョーズ」なら可能だ。「ジョーズ」は若い監督だったが、こちらは佐藤純彌、安心して任せられる。

 

 そのことを見事に実証したじゃないか。作品としては「ジョーズ」を上回るものと言えるし、その内容の深さ、テーマは「タワーリング・インフェルノ」に比して決して劣らない。

 

 日本映画の肩を持つような書き方をしているが、やはり日本映画は応援したい。外国の映画に押され気味なのは、金の掛け方の差だと思う。そこは仕方ない、アイディアで勝負するしかない。

 

 犯人は3人。それぞれ挫折した人間だ。どん底にいて思うこと、夢だ。内容が異なっていても、それぞれしこたまお金を持って外国に行くことが夢だった。しかしどうすれば。何に目をつけたか。新幹線だ。

 

 3人の狙いは、単に金だけであっただろう。しかし日本の進歩の最先端を行く、一個の管理社会、日本社会の縮図とも言える人類の夢の超特急。それは完全にコントロールされ、事故を未然に防ぐことに徹底した機械だ。人を乗せるマシンだ。そういえば「ジョーズ」のサメもイーティングマシンだった。「ジョーズ」で批判されたことが、この映画では、より鮮烈に小賢しい我々日本人を批判してくる。自分たちで作り上げた管理体制が、自分たちではどうにもコントロールできなくなる、そんな社会、恐ろしいことだ。

 

 新幹線に実際このような爆弾が取り付けられたら、この映画通りになってしまうだろう。人間の命を輸送量の多さで見殺しにできる機構。人は安全で快適なほうに流れるもの。私も便利だと言うことでよく利用するが、よく考えてみると、よくも今まで一つの事故も起こさずにきたことが不思議なくらい。ATCと言う安全装置に負って、人間の命は事故待ちだ。惨事があってからでは後の祭りだ。この映画では、新幹線の安全性がどうのこうのと言っているのではなくて、がんじがらめになった機構を破るには、彼らのようにするしかないんじゃないか、と言ってるんだと思う。

 

 犯人たちの意図にも犯人たち自身も、こんなテーマは語らせてないが、私は彼らの犯罪は犯罪としても、彼らが望んだ社会からのドロップアウトには共感できる。しかし、そんなことをを犯人に言わせないなんて素晴らしい。叫んでいたのは、新幹線と共に働く人たちだった。運転手しかり、宇津井健の司令官しかり。彼らはこの後これでいいのかと自問するだろう。発展こそ人間の進歩、ではない決して。

 

 

 昔の日記から書き写した文章は、生半可だったり、力んでいたり、当て外れだったりと、自分のことながら微笑ましくもある。文章の体裁を整えはしても、内容を変えることはしない。おかしくても変でも、そのままにしている。当時思ったことだから尊重したい。

 

監督 佐藤純彌

出演 高倉健 山本圭 織田あきら 郷えい治 宇津宮雅代 菅原安人 風見章子 森みつる 田中邦衛 宇津井健 千葉真一 小林稔侍 福田豊士 志村喬 永井智雄 

1975年