悲しみに、こんにちは 2018.12.4 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 スペインで幼い女の子で、で思い出すのは「ミツバチのささやき」。子供の頃の思い出は人それぞれだが、一体何歳のことを覚えているだろう。多分小さいときにはそれなりに覚えていても、大人になるにつれて忘れていくと思う。思い出せるのはエポック的なことだけで、それもあやふやな記憶にすぎない。誕生日とか入学式とか正月とか、何かの祝いの時とか旅行とか以外の何もない日はいくら積み重ねても思い出とはならない。いま昔のことを思い出そうとしても覚えていることに限りがあって、あらたに思い出すことはない。あるとすれば兄弟で昔話をしたり、何かの刺激があって思い出すこともある。

 

 フリダは5歳くらい。両親が亡くなり、バルセロナからカタルーニャの叔父エステバと叔母マルガの家に引き取られてきた。ずっとここに暮らすことになる。両親がなんで死んだのか、自分にも病気がうつっているのか、すでにバルセロナで調べたはずなのに又こちらでも検査した。それらの事態をどれほど理解しているのだろう。

 

 子どもの意識が気になる。どれだけ周りの状況を見て、他人のことが分かるのか。自分の子ども時分を思い出せれば良いのだが忘れてしまった。子供の言動にそのヒントがある。多分大人が予想する以上のことを理解し判断する力を持っている。ただ順序立てて理解し整理することはできない。雑多な状況を理解はしても、レポートにまとめることができないようなものだ。

 

 フリダは見知らぬ土地で見知らぬ人の世話になっているわけではない。たぶんこの地の叔父叔母の家で、アナや祖父祖母と集ったことがあっただろう。そこにはもちろん父と母がいた。それなのに今は一人ぽっちだ。全員が揃わなければ楽しくない。

 

 悲しさも寂しさも、うまく言葉で言い表せないもどかしさ。自分で自分をどう律したら良いのかもわからない。フリダの行動は気ままな気まぐれに思えるが、きっと全てに訳がある。行動で気持ちを表す映画だからこそ、分かりにくさがあるのは仕方ない。頼るものがない不安が原動力になっている。今は全てをわかってもらえなくても、いつか誰かと気持が通じあえる日がくる。

 

 上の子フリダは演技している。下の子アナは演技は無理だろう。監督の演出はどうやったのか。自由に動かして編集したものか。シナリオ通りにきちんと進めるのは難しい。ここではあえて演技させない方がより自然な出来になるだろう。

 

 一つ芯の通った話ではないが、子どもの気持ちに沿ってまとまっていた。

 

監督 カルラ・シモン

出演 ライラ・アルティガス パウラ・ロブレス ブルーナ・クッシ ダビド・ヴェルダグエル フェルミ・レウザック

2017年