十年 TEN YEARS JAPAN 2018.11.17 キネマ旬報シアター1 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 キネマ旬報社が映画館を作った。知ってたけど遠いのでわざわざ行くことはなかった。柏に行くのはレイソルの試合を見るくらいしかない。柏のホームスタジアムは手頃な大きさで見やすいのがいい。

 

 さてこの映画はテアトル新宿でやってが、もうおしまいだった。油断するとこうだ。他のやってるとこを探したら柏だ。仕方ない柏に行くしかない。

 

 キネマ旬報シネマは出版社の道楽でやってるのだろうと思ったらさにあらず、上映作品がすごい。何しろキネマ旬報だから当たり前か。しかも3館。3つあればバラエティ豊かな番組が組める。1館で頑張っている新文芸坐をしのぐ陣営に乾杯。通いたいけど遠いのでね。同じような状況になったら行こう。

 

 十年後を描くのは難しい。近未来すぎて違いを見つけるのが難しい。でも変わる時は大きく変わるから、どんな日本になっても変じゃない。変な異常者がトップだとひどいことになる。現在の不穏な空気が右に大きくカーブして崖から墜落する勢いだ。それを押しとどめる話があっても良いんじゃないか。さてさてどんなものでしょうかね。

 

 

 

DATA

 高校生の舞花(杉咲花)は父(田中哲司)と暮らしている。舞花にはずいぶん前に亡くなった母の記憶はない。父との二人暮らしに慣れてしまって、母のいない生活に不満はない。だが母がいたことは事実としてある。彼女の直接の記憶はないが、データとして残された記憶はある。パスワードで開けることができた。そこにあった映像が与えてくれたものは母であるが他人の映像のように思える。つながりのない記憶は意味をとりにくい。

 

 ちょうど今、父の再婚話というか新しい恋人の話がある。その女性が舞花にとって新しい母になるかもしれない。その女性には実体がある。しかし実母の記憶がないので母をみじかに感じない。実体のある他人と、会うことのできない存在のどちらに重きをおくべきか。

 

 個人データはどのような形でどのくらい残されるのか。役所に残される謄本は当然として、行動記録写真手紙メール学校成績仕事関係、残そうと思えば対象は広く大きい。個人のプライバシー管理が厳しくなる一方、デジタルなデータは簡単にコピーでき、いったん漏れれば拡散するのも簡単だ。個人がいくら隠そうと努めても、肝心のデータを管理すべき部署がハッカーによってかどうか、やたら顧客情報が漏れるのはなぜか。何百万件がいっぺんに流出する。極端な話、もはや個人情報は広まりすぎて、秘匿性はないのではないか。

 

 文字の情報の次は携帯スマホからの情報漏れだ。これは漏れたのではない。個人が発信したSNSの情報はそっくり残る。そこをのぞかれたら一発でわかってしまう。スノーデンの証言は真実を語っている。秘密はSNSに載せないで日記帳にでも書いておくしかない。

 

 舞花は開けられたデータを見る。そこには母が隠しておきたかったか、あるいはただ単に置き場所として設定したものかもしれない。写真にしても紙にプリントするには数が多すぎて、面倒でもあるしプリントすることなくデジタルのまま日の目を見ない。そうやってため込まれた写真は、人の目にさらされることなくしまい込まれたままになっていくのだろう。文字はもっと悲惨だ。手書きの文章を残さない位だから、コンピューター内に残された文章がプリントされることはない。従って書いても意味ない。こうしてブログ等に載せるのは意味があると思う。

 

 私の友人はSNSに否定的な人が多い。また知らせてないので読んでもらうこともない。ブログは書くことの目的になっている。でも書かずにいられないので、うまく折り合いがついている。わかる人はわかるし、わからない人には分かってもらわなくてもいい。

 

 あえて残そうとしたものでなくても、残ったものをどうすれば良いのか。いわゆるデジタル遺産、金目のものではないので貰ってくれる人もいない。かさばるものでもないから、どこかの雲の中にでもあるのでしょう。

 

 

 

PLAN75

 「ソイレント・グリーン」を想起された。あるいは姥捨山か。

 

 老人は60か65と思ってたら、75だって。しかも平均寿命より低い75歳をもって死んで下さいとは! そんなことあるかいと思うが、あり得ることだ。長生きはしたい。でも寝たきりとかボケてまで長生きしたいとは思わない。75で元気なうちに、生からおさらばする、1つの考え方ではある。特別なベッドに身体をゆだねると心安らかに死ねる。果たしてそういう覚悟ができるものか。人間いくつになっても死ぬのは嫌だ。生にかぎりあり、それは絶対だ。先がわかってしまうのは、良いような気もしないでもない。実際安楽死が合法の国もある。

 

 死を自分で選ぶといっても、重い病気で死期がせまる中、必要以上の延命治療を拒むくらいしか選択肢がない。そこで背中を押してもらうのが安楽死。自殺の手助けをすると犯罪になるが、手を下すのが医師で、患者の望んだ時に穏やかな方法で死をうながす。実際のところ注射かなにかで行うのだろう。他人の手で殺してもらうことには変わりない。この合法的殺人が存在することに意見のある人は多いだろう。反対か賛成か、自らの意思なら安楽死はありだと思う。ただ自分がそうするかは、今のところわからない。

 

 

 

その空気は見えない

 この映像のイメージは未来を描くSFではおなじみの姿だ。空気が汚染され陽の光を浴びられない。暗い地下生活を強いられる人々。

 

これははっきり同様の話があったことを思い出した。EUかロシアの映画だった。地下で暮らす人がどうしても外界をみたくて色々とやって、みたものは……

 

 どうせ想定は原爆後の世界の話だ。SF的ではあってもひどく現実的だ。最もあり得る未来世界。いや地下でさえ生き残る人がいるのは甘い。だって一発でも放たれたら、それに対する報復、またはそれに対して、と際限がない。結局人類は全滅する。がしかし、それは自業自得としても、地球上の生物を道連れにするのはイケナイ。それでも最低汚染された地球は残るか。

 

 またもし地下で生き残ったとしても、長らく生きられるか。次の世代につなげられるのか。地下環境は生命存在を許すまで回復するのだろうか。こうなると猿の惑星だ。猿でもいてくれたらましだ。

 

 

 

いたずら同盟

 生徒一人一人を認識するカメラがある。生徒はほぼどこにいても監視下にある。カメラのない所があるのは幸いだ。生徒に携帯端子でも持たせればより強い監視ができるだろう。居場所がわかるし、映像と音声を取り入れれば行動も把握できる。やる気になれば技術的には何でもできる。

 

 この想定自体は現在でも実現可能だ。電波を飛ばして人に命令したり、痛みを与えたり、監視したり。それをほぼ自動的にすることも同様可能だ。これはモデルケースなのか。どこかの山の奥にある学校の生徒たちが対象となった実験のようだ。またそう思いたい。

 

 学校は人を鋳型にはめるためのところか。教育が上から教え込むだけでいいのか。教育の仕方に正解はなくても、多様性は認めて欲しい。人が多様なのは意味がある。

 

 強制されると余計に反発したくなる。自由な空気を吸ったことがあると、ますます自由を希求する。電波の休止時間があった。アップデートのようだ。その時を逃さず森に逃げこんだ生徒たち。

 

 アップデート終了し、新たなる指令が出るようだ。

 

 

 

美しい国

 題名からして象徴的だ。現政府の主張する目指す日本は、美しいらしい。どの部分の何を美しくしたいのか。景色は十分に美しい。人はそれなりに美醜あれど問題ない。環境は好みの問題だが悪くなっている。

 

 安倍=日本会議の理想の日本が美しい、と称される最悪の日本、もはや現在その域に足を突っ込んでいる。それに気づいている人は恐怖を覚える。気づかない人には後でしっぺ返しを受けるならいいが、国民全員がそんな国家に取り込まれてしまう。それは嫌だ。美しい国はいらない。

 

 政治で右と左は保守と革新と単純に言い表すが、保守と革新の意味を考えてみよう。現状あるものを変えずに守ることを保守という。現在の状況を変革して別な形にすることを革新という。国語辞典にあるような解説ではそうなる。しかし現実の政治を見ると様相はこうなる。現在の憲法を変えるのは革新だ。憲法を変えることに反対なのは保守だ。

 

 「美しい国」が特別な意味を持つことが、おかしい時代を象徴している。

 

 美しい国は徴兵制になった。もうすぐ実施されるのでPR活動で街にポスターを貼っている。巨大ポスターは美しい国に貢献するための徴兵制を謳う。若者にアピールさせることを主眼にするため優しげな絵柄だ。

 

 ところがポスターのデザインにクレームがつく。ポスター全とっかえ。

 

 広告代理店はデザイナーに断りと謝罪を告げに行く。

 

 デザイナーの真意と国の作為は一致しない。間に挟まれた形になった広告代理店の広告マンとデザイナーは奇妙な1日を過ごす。

 

 新たなポスターは、戦争をあおり立てるような勇ましいものになっていた。

 

監督 早川千絵 木下雄介 津野愛 藤村明世 石川慶

出演 川口覚 山田キヌヲ 牧口元美 國村隼 杉咲花 田中哲司 池脇千鶴 太賀 木野花

2018年