1968年に作られた、まさに1968年の映画だ。映画は過去をふりかえって作ることはできる。でもいくら時代色を出して、服や化粧や髪型などを真似したりCGを駆使しても、できたものは模倣に過ぎない。でもその時代に作ったものは、あえて意識することなく時代をそのまま写している。それは自然な強みだ。劇映画でなくても同様で、家庭の8ミリ映画でも立派に時代を切り取っている。
1968年当時のイギリス映画の怒れる若者たち、アメリカンニューシネマや日本のアンダーグラウンドに通底するものがスウェーデンにもあった。たぶん世界中のどこにも似た感じのものはあったはずだ。国や人は違っても同時代の共通項は存在する。
まず1人の男性が生い立ちから今までの生活までを語りはじめる。彼はだらだらと話しているようだが、過酷な内容だ。両親は早く亡くなり、親戚をたらい回しされ、あげくのはて施設へ。問題を起こして少年院、素行は治らず刑務所にも入った。どこそこに2ヶ月、次に別な施設に移り半年、職業訓練校で1年などと淡々と話す。自分の状況をはっきりと認識している。良い生き方とは思っていないようだが、かといって努力もしない。どこかで誰かが救ってくれるのは当てにはできない。これがあの福祉国家スウェーデンなのか。
ここでようやく映画タイトルが出る。2人の若者がさっそうと街を歩く。髪はロングで服は文字入りTシャツにジーンズ。朝なのか周りは出勤途中のサラリーマンの中、目立つ2人だ。そんなやつらは関係ない、とばかりに走りまわる。タイトルが出る。MODS MODS MODSと大きな太い文字が飛び出す。
モッズが何であるか、中途半端な理解しかない。モッズヘアとかモッズスタイルとか、あの頃の最先端を行くファッションか。モッズルックもあった。実にかっこいいスタイルで、できればやってみたかった。流行にはすぐ乗る方だったので、髪は長く伸ばしたし服もそれなりに。ただし思い切りが悪くて中途半端だったかもしれない。流行に乗るのもなかなか勇気の要ることで、でもその気になれば恥ずかしげもなくできる。後々考えると恥ずかしいと思わないこともないが、流行は回帰するので、かのモッズルックはいま見ても、変じゃない。長い髪はいつの時代にも先端を行っている。他人と同じなのを拒否して長髪にしたりするのに、そういう人がたくさんになると、その効果も半減する。それでもモッズが大多数になることはない。
街中を走りまわる若者2人には、街をゆくサラリーマンたちが仕事に縛られる気の毒な人たちに思えるのだろうが、逆にサラリーマンにとってモッズたちはは仕事にもつかないろくでなしでしかない。あのロックという音楽もうるさいばかりで聞くに耐えない。でも68年だからビートルズを体験した後なので、理解もあっただろう。見かけののスタイルは許容されていた。考え方も然り。でもまともな仕事に就く事はいつの時代にも最優先されることだ。
そこで彼らモッズはどう生きようとするのか。音楽をやって食っていくのは難しい。成功するのはほんの一部だ。スウェーデンだからABBAか。彼らのように大人しいポピュラーミュージックなら大人にも受け入れられるだろう。
このグループの音楽活動はあまり出てこない。音楽で食えるほど人気を得ることもなく、半ばアマチュアのような感じだ。絵描きやミュージシャンは売れなければ話にもならない。もちろん売れるかどうかで、その芸術の価値が上下することはない。しかし芸術は人に良い影響を与えるものだ。何の感激も与えないのでは意味がない。
彼らの音楽はどうだったのだろう。相変わらず街をうろつき回るだけの彼らは成功したとは言えない。いくら世の中に文句を言い立てても受け入れられないなら、それまでのこと。ミュージシャンを目指した多くの若者のほとんどが後に就職し現在に至っているだろう。そんな流れはスウェーデンと日本は同様だ。
68年の映画を今みることの意味はそこにある。時代を知っている人には、自分の生き方を思い起こす刺激になる。知らない人には、誰にもあった青春の愚かさを自分に重ねる。現代の目で判断されていない生の若さがある。帰り来ぬ青春は、年寄りだけにあるものではない。
監督 ステーファン・ヤール ヤーン・リンドクヴィスト
出演 ケンネット・“ケンタ”・グスタヴソン グスタヴ・“ストッフェ”・スヴェンソン
1968年