映画は情報が少ないほど楽しめる。ただしそれだと面白いか、自分の好みのものであるかがわからない。まるきりフリーの状態で映画に臨むことはない。だから最低限の情報を得て、みるかどうかを決める。監督や俳優が誰であるかなど、特に監督が重要で、ほぼそれだけの知識だけで良いくらい。しかしこの映画は監督や俳優の名前からは何にも伝わってこない。知らないからだ。しかも喧伝されている情報は少ない。なるべく知らずにみろという人多し。これではどうにも食指が動かない。
ゾンビ映画と言う情報があり。ゾンビか、苦手だ。一本もみたことがない。怖い。嫌いなのだ。何も好き好んで金払って怖いのをみなくちゃならないんだ。食指を動かすどころか手を引っ込めた。ポスターが安っぽい。
ゾンビがあって、解説があると言う情報。映画の骨格がわかった。ゾンビ映画があって後半はメイキングか。メイキングがうまくできていれば面白い。でもゾンビ映画の裏をみて面白いものか。
評判が上がれば上がるほど、あまのじゃくの性格が出る。そんなのみてやるものか。今更駆けつけるなんて手遅れ、なんていう葛藤あり。しかもずっと混んでるようだし、あそこの階段に並ぶのはしんどいな。そのうち空いてくるだろうから待とう。
映画界は現金なもので、評判と言うはっきりとしないものに内実が伴えば、要するにまだ人が入るのなら、広く公開する。映画のスクリーンは、いっぱいあるのでその気になれば何百スクリーンでもオーケー、そういうことになった。
一つとこ目指さなきゃいけないプレッシャーから解放されれば、張っていた気持ちも溶けた。行こうじゃないか、で近くのへ。
以下は中身を書いてます。ATTENTION !! 注意!
ゾンビ初体験が、これで良かった。もっとも次にゾンビをみることはないのでこれのみになると思う。怖さよりおかしさが多くて嫌な気分にならなかった。手や首を切られて血がどばっと出ても本物でないし、どうってことない。
女性が知り合いの男性がゾンビになって襲ってくる場面の撮影中。彼女の恐怖の表情がもう一つ迫力がない。それに不満の監督が、この42テイクを止めて、激しく文句を言い放つ。他のスタッフはもういい加減にしてくれと言う感じだが、この主演女優は、さらに良い演技をしたい。何テークとっても構わないようす。監督の望むことは、この女優に本物の恐怖の表情を表現して欲しいということ。
そして次々とゾンビがゾンビを生んでいく流れとなる。冷静になって画面を見ると、映画監督がムービーカメラ片手に撮っている姿が映る。ということは、もう一つ別のカメラがあるってことになる。つまり映画を作っているところを撮影しているということで、どちらが本物なんだ。監督の撮った場面は画面にはなっていない。あのカメラはダミーか。映画撮影中に本物のゾンビが湧いて出て、撮影に混乱を来たすところを撮る。ああなんだかわかんなくなってきたけど、物語は止まらない。何しろカメラを止めるな!だ、ストーリーに一貫性がないような、いい加減に進行している感じがする。こんなんで映画として成立しているのかな。
古い発電所か工場のような建物が幾棟かあって、その中の一つから始まり、別の建物へ移動していく。その必然性はない。ゾンビを避ける動きでそうなってしまうだけ。ゾンビを追うカメラも的確に動いていることはなく、その場かぎりの当てずっぽうのよう。
テレビ映像として小型のビデオカメラで撮影された画面にしては、映像として荒れていた。今のビデオはデジタルだし、もっとずっときれいだ。以前のテープ式のビデオカメラの映像のようだ。また実際にビデオで撮られた映像を荒くしたように思う。現実とは合わないが、映像を落とすことで内容に合わせている。家庭の小さなテレビで見るような感じにしてある。らしく見せるためのようだ。
このゾンビ編の評判は分かれる。画面や演技について文句を言う人がいる。後編のたねあかし編との差をつけるための操作であろう。映像が動き揺れることにも言及される。私としては内容が内容だし、きれいなクリアな映像は合わないと思う。綺麗だと嘘っぽさがもろに出てしまうからだ。あのぼやけて揺れる不安定なので良い。
人の好みは様々で細かく分かれる。ゾンビに特化したチャンネルがあっても不思議ではない。ただしどれだけのソフトがあるか気になる。ホラー全般にすれば題材が尽きる事はないだろうが、ゾンビの一点に絞ると難しい。ゾンビについての知識はないので、いったい誰がいつ作ったのかとは知らない。マイケル・ジャクソンのスリラーのMVはゾンビだった。
いったいゾンビはどんなものか。見た感じゾンビは死人だ。死んでいるのに立ち上がり歩く。生きた人間を見つけて噛み付く。そうすると人は死んでゾンビと化す。これは狼男からアイディアを取ってるな。そして死人が動くのはフランケンシュタインか。お化けや幽霊は悲しく美しいものだが、ゾンビは死体なので半分腐っている。見かけは良くない。そんな死体が動いて襲いかかるのは、そこはかとない美しさを放つ幽霊にかなわない。いったい奴らは何を求めているのか。彼らの生きる理由は何だ。死んでも生きる、あるいは生命のない生物、死したロボットか。これは誰かに説明されても理解不能だ。定義はあるのだろうか。きっとゾンビ映画を探ればあると思う。
後半
前半で心配したビデオ映像が、きれいな普通の画面となり安心した。
ゾンビ専門チャンネルの発足記念で作るゾンビ映画は、30分番組で生中継する。そこの説明は簡潔に終わり、さっそく映画作りにとりかかる。何せひと月しか時間がない。
こんな大プロジェクトを30日間でやってしまうのは大変だ。でも言ってみれば、大放送局の始まりではない。CSか何かの一局の誕生に過ぎない。どれだけの観客があるものか。有料チャンネルだろうから観客の総数はわかる。でも開局記念プログラムは無料にして欲しい。
日本では有料チャンネル自体数は思い切り多いわけではないし、需要はあるのだろうか。
まず映画。これは膨大なソフトがある。ジャンルを細かく分けても数量的には問題なし。テレビドラマも残っているビデオがどのくらいあるのか。テレビの初期の番組がほとんど残されていないのは残念なことだ。なんでとっておかなかったのか。それでもフィルムで残っているものや、ビデオにされているものは少なからずある。多彩な趣味関係はある程度の観客が望める。料理釣りゲーム、麻雀競馬のギャンブルもあった。私はそういった趣味がないのでよく知らない。音楽、これは多種多様だ。テレビで見せられる番組ならいくらでもある。ただそれを有料で見ようとする人がどれだけいるか。テレビ自体が無料で放送されている。そういうところで見ることのできないプログラムを作れば良い。やり方次第ではジャンルによって可能だろう。
私はサッカーが好きではあるが、毎日見るのは辛い。目を凝らしてじっと見つめていなければならないからだ。Jリーグで充分楽しい。他のリーグに目を移すと、そっちへ行ってしまいそうだし、身近なところで我慢しよう。
さてゾンビチャンネル、人気出るでしょうか。ゾンビは案外人気がある。ホラーもいくつかのジャンルがある。ゾンビはその中でも大きな部類に入る。ホラーチャンネルの中のゾンビと言う感じかな。
ゾンビ映画というか、テレビ番組だから、ゾンビテレビの一番組を作ろうということだ。監督役は、ちょっと見かけが軽い。前半に見た監督の熱血指導の感じではない。別人のようだ。この髭面の監督が彼にとっては大きなバジェットを任される。始まってみると張り切る。監督は役者として出るのではなかった。途中で仕方なく監督の役をすることになる。演出をしつつ、監督の役もするというさらに難しいことになる。
家に帰って、これからこういうのを撮ることになったと言う。すると監督の家族の目が光る。妻と娘、この2人は曲者だ。後に監督以上の曲者であることがわかる。この三人家族が揃ってゾンビ映画に参加することになる。
映画の作り方ハウツーの紹介のようになっているが、実際に俳優たちが集まってからのものだ。実際にはシナリオ作りがある。最も重要な作業で、脚本がなければ映画はできない。ただしドキュメンタリーは別だが、それでもどういう狙いがあって、どのように対象に向かっていくかは考えておかなければならない。シナリオ制作部分がないので、中身は今作で想像するしかない。しかし作られた作品があまりにもシナリオから逸脱してしまったので、原型をとどめておらず、その元を想像することも難しい。例えば42テイクの場面は監督のセリフはもう少し穏やかであったはずだ。そこからあの建物の外から大きな音が聞こえてきたりするのは突発的なもので、人の出入りやゾンビの登場等のシナリオから相当離れていた。
シナリオはあった。だが撮影中=放送中につまづきとか些細な事故がある。その都度止めてはいられない。テレビの生中継だから。話の流れや手はずは決まっている。そこに無理してでも合わせるしかない。しかし作っているのは人間だ。間違いはある。それを生でやること自体に無理がある。そこをあえてやろうとしたことが間違いの元。
一本の映画をカットすることなく連続で撮影する。これに挑戦してみたい気持ちはわかる。フィルムの場合一巻が10分なので長回しでも限度が10分だった。それでも映画一本をカットで途切らすことなく続けることに挑戦したのがヒッチコックだった。「ロープ」でやってみた。十分間の制限があったが、そこは背中の暗転でしのいだ。今はフィルムでないので時間制限はほぼない。ビデオは身近になったし、誰にでも挑戦権がある。iPhoneでも4Kだ。
長時間途切れずに長回しは誰でもできるようになった。問題は内容とやり方だ。アイデアは特許をとるほど珍しいことはない。こんなの前にもあったな、と思う。映画をたくさん見ている人なら、あれこれと題名をあげるかもしれない。もっとも映画に限らず、創作は過去の遺産を拾い上げすくい上げ、自分の中に取り込み、新たに組み立て直す作業だ。そこから生まれるものに過去がまとわりつくのは当然の成り行きだ。
この映画を手放しで称賛するのは気がひける。と言ってケチをつけるわけにもいかない。映画の内容や言いたいことは素晴らしいのだけど、映画としての出来に難点がある場合。映画として文句のないのに内容がなっちゃいない場合。この二点が揃って良いことは少ない。この映画は面白い、これは否定できない。アイディアはオリジナルではない。様々な映画から取られた作り方考え方方法やり口仕組みを上手に組み合わせると、こうなる。そんな人のフンドシで、とは言えない。これだけ立派なフンドシなら締めましょう、土俵にも上がりましょう。
なんか物足りないのは、志の点だ。こころざしが高くない、低い。面白がってるだけ、楽しませようと仕組んでるだけ。でもそう決めつけて捨てるのはもったいない。いいか、単純に楽しめば、映画はひとときの楽しみだ。その上でプラス何かが残るのがベストだが、欲張るのはよそう。
監督 上田慎一郎
出演 濱津隆之 真魚 しゅはまはるみ 長屋和彰 細井学 市原洋 山﨑俊太郎 大沢芳子 浅森咲希奈 吉田美紀 合田純奈 秋山ゆずき 山口友和 藤村拓矢 イワゴウサトシ 高橋恭子 生見司織
2017年