お葬式 1984.12.16 テアトル新宿 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 人が死ぬと即葬式と言う儀式の始まりとなる。その準備とか何やらで忙殺され、静かに悲しむ時など与えられないようになっている。でもそこはうまくできていて、忙しさにかまけるからこそ、悲しさや寂しさが直接に来ないで、諸々のことがすんでからやってくると言う、二段階になっている。それはひとつの知恵とも言える。

 

 葬式はどこの国でも同じようにあるから、同じような効用があるのだろう。もちろんその反面、儀式としての様式の方が重んじられてしまうと、形だけにとらわれがちになって、中身がないものになってしまう。 何しろ葬式に慣れた人は葬儀屋か坊さんくらいで、普通の人は葬式に参加しても、取り仕切ることに慣れるまでにはならない。

 

 この映画はそういう形式ばった葬式と言うものの滑稽さを見つめている。形をともかく整えさえすれば、よくやったと見られるものだから、そのことに汲々とする喪主の戸惑いが面白い。最も誰もが慣れているはずのない、このような役目をするものだろうし、それは面白いとか思っても、改めて取り立てて取り上げようとしたのも、監督の目の付け方もとてもユニークであると思う。なにやら自分自身の経験から作ったようである。 

 

 作り方によっては、人の気持ちを見透かしすぎていて、いやらしくなりがちなものではあるが、そこはとてもうまく逃げている。つまり式そのものを紹介するような形式にしている。葬式のハウツウものとでも言えばいいか。ありそうでないそんなビデオ、いやあるかもしれない。あっても生真面目な内容だろう。そこは一筋縄のストレートは投げない監督だ。映画は娯楽だということをよく知っている。 

 

 あれよあれよと言う間に喪主として立ち働かざるをえなくなるところが面白く、それでいて同情を禁じえない。他人事のように思っていても、いつか自分にその役が回ってくるかもしれないと思うと、笑いながら真剣に見ざるをえない。 

 

 ある流れの中にいる場合、そこから抜け出すこともできず、思ったことも言い出せない。それだから、心の中は言いたい事でいっぱいになる。それを思い切って言ってしまったのがこの映画だ。でも誰もができることではない。映画監督なんてなれるわけないもん。 

 

 8ミリ映画の使い方がとてもうまい。説明が簡素でいて的確なのです。 

 

 最後になると、決まりきった儀式ではあるけれど、死んだ人をしのぶものとしての一応の形はなっているなと思わせた。形式だけのようではあっても、その中にはきちんとした気持ちは入っていた。  

 少なくとも結婚式のショーよりは、どんなにか心がこもっていることか。思いがけない方法で提供されたお葬式に立ち会って、今度いく時は監督の目で見るようになっているかも。 

 

監督 伊丹十三

出演 山崎努 宮本信子 菅井きん 大滝秀治 財津一郎 江戸家猫八 奥村公延 友里千賀子 尾藤イサオ 岸部一徳 横山道代 海老名美どり 吉川満子 藤原鎌足 田中春男 佐野浅夫

1984年