追想 2018.8.11 TOHOシネマズ シャンテ1 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 1962年の話か、この前のソ連映画「娘たち」と同年だ。同じ頃の若者の生態が、これほど違うとは。所と政治体制の違い以上に違いすぎている。もっとも今作はいま作った62年の話で、ソ連のは62年製の映画。現在を見る目と過去を描く目との違いはあるはずだ。現在を知った上での過去と、ただ現在を描くことの違いはあるはず。だがその違いを公平に比べるのなら、全く同じ話で比べなければならない。この実験をやった人はいない。試してみる価値はある。誰かやってみないか。

 

 イギリス映画で、題材で共通する「ふたりだけの窓」を思い浮かべた。ジョン・ミルズとヘイリー・ミルズの父娘が共演している。イギリス映画といえば、少々昔の話でも現代でも街の様子や風景に変化がない。タクシーはずっと黒い、かわるのは服装や髪型で一目で時代を表す鏡になる。この映画では62年、75年、とんで2007年と時代が変わった様子がはっきりとわかる。時代が変われば人もまた変わる。

 

 こういう話はあからさまに話すことではないし、できれば内緒にしておきたい。昔も今もありがちなことだと思う。ただ自分のことと引き比べて語るのは、はばかられる。こんな経験のある人もいるだろうとは推測できる。

 

 始まりはフローレンスが水爆実験反対のビラを配っていた時に、エドワードと出会ったことから始まった。二人の家庭環境は異なっていた。イギリスは階級社会であり、格差があるから結婚できないことではないが、家庭環境もかなり違っていたし、そのことでとまどうこともあった。しかしそれが直接の原因ではない。さまざまな理由が重なって、打ち解けることなく、新婚の夜につながった。

 

 6時間の短い結婚生活の後が描かれずに、1975年に飛ぶ。また彼の後の様子を見ると、ヒッピー風な容貌で、あの当時の面影はない。あのことからとうに卒業していた。通り抜けた過去を思い出してみても、いまや話にもならない。童貞と処女だったことが理由か。でもそんな二人は珍しくない。それも始めのつまずきはあっても、次には上手くいく。初めのことは後の笑い話になる。

 

 いったいなぜ一度のつまずきが別れにつながったのか。互いに尊敬していたようなのにもったいない。二人の決断の早かったことは驚くばかりだ。後の二人を見て、結果的には良い選択だったと思いたい。

 

 カルテットの45周年コンサートでの再開時に、二人の胸に去来したもの何だったろう。悔恨か安堵か、安易な言葉では言い表せない感情だったことは間違いない。

 

 人はその時々、岐路に立ち選択する。それが最善の選択だったか、その時は分からない。二者択一の一方が良くて、もう一方が良くないなんて決めつけられないからだ。どちらを選んでもオーケーとしか言えない。あれこれ考えても時は戻らない。たくさんあった道の、選んだ方で満足するしかない。少なくとも最悪ではなかった。これで良しとしよう。

 

監督 ドミニク・クック

出演 シアーシャ・ローナン ビリー・ハウル エミリー・ワトソン アンヌ・マリー・ダフ サミュエル・ウェスト

2017年