破戒 2018.8.25 フィルムセンター | ギンレイの映画とか

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 ギンレイ以外も

 瀬川丑松は被差別部落出身を隠して教師となっていた。当時すでに公には差別はなくなっていた。江戸以前からあった身分制度は廃止されていた。だが実際には人々の差別意識がなくなっていたわけではなかった。

 

 藤村の「千曲川旅情の歌」が映画の中で、丑松と友人の土屋銀之助によって朗唱された。これは変だ。趣向の一つをやったものか。部落については全く知らなかった。あえて知ろうとしなければ、全く知らないままで済んでいたかもしれない。私が知ったのは大阪の八尾市で解放同盟がらみのニュースがあったことからだ。また「橋のない川」の映画上映があり、本も読んだ。破戒は後になって読んだ。知らなければ知らない方が良いことはあるが、被差別部落については別だ。

 

 歴史は長い。身分制度は人間の手で作られた。士農工商の下に部落民を作った。何のためにと言う疑問が湧く。自分より下にいる人間がいると安心するのだろうか。何が誰かが自分より不幸だと気持ちが落ち着くのか。この辺の心理ははわからない。自分が不幸であっても、より不幸な人がいれば救われるのか。またその成立方法はどうだったのか。

 

 他国の例を出してみる。例えば黒人やユダヤ人は外観でわかるかもしれない。黒いから、ユダヤ教を信じているから、と言う違いを強調することがある。見かけは変わらない部落民は、地域差によったものだろう。

 

 植え付けられた差別を消すのは難しい。親から子へ受け継がれ、何代にもわたって継承されてきた。明治になって、一応身分制度は廃止された。だが政府の鶴の一声でなくなるものではない。

 

 今は部落差別はなくなったが、アジア人、特に韓国人に対する差別が蔓延している。これもわからない。そのことを理解したいとは思わないが、どういう思考法なのか知りたい。一体どうしてなぜそんな風に思うようになったのかと。

 

 流行には乗らないと決めていても、どうしてもその時その時の流れに逆らうのは難しい。服装なんかがそうだ。まず売っている服は他人の作ったものであり、自分は選ぶことしかできない。どんな服でも流行の中にある。昔の服をずっと着ていればいいのだろうが、古くなって切れてしまったりして、結局新しく買う。つまり流行に乗る。

 

 音楽もそうだ。最も近頃の歌は聞かない。昔からクラシックである。つまりどうあがいてみてもその時代から切り離して生きることはできない。その時代の考え方が基準となる。私が当時生きていたら、どちらの考え方についただろうか。希望するのは時代を超えた自由人だが、そんな考え方はなかっただろう。

 

 また自分の考え方も変わる。嫌いだったものを好きになることがある。私は進歩的な人間ですと思い込み、新しい考え方に飛びつく。自分の本当の考え方ではないのに無理する。あれこれの先を行くみたいなのが良い事と思う。それは実は危ないことであるかもしれない。

 

 保守と革新を比べると、保守が断然いい。今の憲法下の日本がいい。変える必要はない。だから保守。アメリカから押し付けられた憲法だと言う、とんでもない。みっともないって、とんでもない。そんなにアメリカがいやなら、日本から基地は出て行ってもらいましょう。そうならないのが変。

 

 差別は表向き堂々と主張されることはなくなっても、個人の気持ちの中にはあるだろう。右といえば左、女といえば男、と様々な偏見は消えなくても、それらをまぜこぜにかき回してしまえば、何が何だか分からなくなる。それでいいでしょう。そんなことを考えた。

 

 丑松は告白をし、差別をなくす運動に邁進することとなる。

 

監督 木下恵介

出演 池部良 桂木洋子 滝沢修 宇野重吉 森雅之 大坂志郎 菅井一郎 村瀬幸子 小沢栄太郎 東野英治郎 清水将夫 東山千栄子 薄田研二 北林谷栄

1948年