まぼろし 2018.9.1 シネマ ブルースタジオ | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 夏のバカンスを海のそばにある別荘で過ごすのが毎年のことだった。この夏もパリから車でやってきた。かなりベテランの夫婦マリーとジャン、結婚して25年で老年ではないが、二人の様子はすっかりおちついている。日常がこの地に移ってきただけのような、フランス人のバカンスはこういう感じなのだろう。田舎でのんびりと夏を過ごす。毎年のことで慣れた暮らしぶりだ。

 

 どちらかが先に起きてコーヒーを入れる。妻は紅茶派だ。決まりはあるようでない。特別することもない。その日の天気しだいで雨なら家に閉じこもって読書するもよし、天気ならg散歩するか、海まで出て陽に当たる。こんなバカンスにあこがれるなあ。

 

 結婚して25年も経てば、夫婦2人の関係は互いに空気のような存在になって、取り立てて相手を気にしたりすることがなくなる。これは一般的な話としては言えるが、そんなことには決してならないと答える人もいるだろう。各人にそれぞれの事情があり、性格も様々だから一概には言えない。ただ、この2人のバカンスに向かう姿や別荘での様子を見ると、もはやすっかり慣れきった2人が見える。毎年ここに来て過ごすバカンスに変わりようがないし、今年も来年もまた同じようになるはずだった。

 

 だが人の内部はベターハーフにも見抜けなかった。分かり切っていたはずなのに、そうではなかった。思いもよらぬ彼の行動、信じられない彼の行動。最も理解していたはずであり、また理解すべきであったのに。この気持ちは自分に向かって発せられた疑問か、相手につきつけたい問いか。ここでいくら考えても答えはない。わかる瞬間も来ない。何か形のある回答でもあれば、彼の行動の理解にもなろう。

 

 例えば彼が病気になったとか、彼に恋人ができたとか、仕事上の悩みがあったとか。どんな悩みでも、打ち明けてくれれば解決するめどが立つ。それが一言もないままだったから、余計に困惑する。

 

 夫はいつものようにここにきて、多分いつものように静かな海にやって来た。海辺で寝転がって本を読み、時には波に戯れる。このどこにも変化はなかった。彼女がちょっとうとうととしているうちに、彼は去っていた。ここが大きな違いだった。そこから後の戸惑いと困惑から彼女はどう立ち直ったのか。

 

 彼女は夫の姿を常に身近に感じていた。毎日の日常の延長がずっと続いていた。彼はほんの少し姿が見えないだけで、今日にでも帰ってくる。いつもいた場所に彼の姿が見えるような気がする。一つは希望としてのそれ。もう一つは思いが目に見えるようにしてくれたもの。白昼夢でも幻想でもいい、ジャンが側にいてほしいという希望が見させるまぼろし。いちばん親しく愛していた人がそう簡単に消えてしまうことはない。いつまでも心の中に残るのはもちろん、本当に見える姿、影として現れる。映画では彼の映像として出現してくる。

 

 まぼろし、は微妙な表現だ。対象は人でも物でも良い言葉まぼろし。この曖昧さに惹かれる。幻覚だと病気のようだから、まぼろし。まぼろしも病気の一種か。

 

 それでも毎日暮らして行かねばならない。彼女は元の生活に戻る。夫なしの生活に別の新しい男性との関係ができるのは、必然であり当然だ。そこにも夫のまぼろしは現れる。彼と関係を持ったとき、彼女は笑いだす。あなたは軽いと。夫は太っていた。彼は痩せている。実際に彼は軽かったのだ。その差はある。はっきりと身体で覚えていた、あの感触。軽くて笑ってしまった。この感触感覚、デリケートなことをこのように表現したことは実感のあったことか。

 

 新しい男ヴァンサンと夫ジャンをどうしても比べてしまう。ヴァンサンとはぎこちない関係のままだ。いない夫から見つめられているような気配を常に感ずる。

 

 ジャンを断ち切る機会を得た。警察から連絡があったのだ。彼女が認めさえすれば片がつく。それでもなお彼女にはまぼろしが見えていた。

 

 結婚した相手にこれだけ思われるなんて、すばらしい。うとましいほどだ。そうか、逆から見れば、邪魔な存在だったのか。あらためて見直してみると、そんなところが見えてくるかもしれない。

 

監督 フランソワ・オゾン

出演 シャーロット・ランプリング ブリュノ・クレメール ジャック・ノロ アレクサンドラ・スチュワルト ピエール・ヴェルニエ アンドレ・タンシイ

2001年