国によって映画のテイストは異なる。フランス映画は個人が主体だ。個人があって社会がある。社会の問題を個人に置き換えない。まず個人・当人がいて社会がある。繋がりはあるはずなのに意識しない。個人の小さな枠の中で物語が展開し、発展することはない。それがロメール風なら納得するが、誰もができる芸当ではない。
社会に目を向けるのが得意なイタリア映画。昔からの伝統で、色恋も大事なら生活も大事という、地に足が付いた作風だ。イギリスはいうまでもない、労働者の国だ。おおざっぱに言ってヨーロッパは農民や労働者の国だと思うのだが、映画となると特徴が出る。
そこでフランス映画だが、ひとときほとんど上映されることがない時期があった。アラン・ドロンやベルモンドが活躍した時代以降のことだ。目立つスターがいなくなったことが理由の一つだ。それは今も変わっていない。フランスのスター、いないでしょ。監督はみな個性的なのはあいかわらず。映画は監督で見る、はフランス映画では完全に通用する。
フランス映画で舞台がパリでないのは多くない。あるとすれば、地方都市である意味がある場合だ。北部のダンケルクに近いカレー、対岸はイギリスだ。フランスのはじでイギリスへ向かう港であろう。ということは海峡を渡ろうとする難民が集まる場所だ。難民はおおむねありがたい存在と思われていない。
フランスに詳しくないし、いわゆる土地勘がない。だからカレーがどうのダンケルクがどうのと言えない。地方地方に名産や名物料理があり、人の暮らし方も違うのだろう。知っていれば理解が深まることは確かだが、世界は広い、でも見聞は狭い。せめて映画で少しずつ知ってゆくしかない。
この映画の家族は相当な上流社会に属しているようだ。不得意なブルジョワとは彼らのことか。彼らの思考法が分からない。また参考になることもない。まったく別な世界の住人のようだ。
自分の撮った映像をSNSに上げる。そのことが全世界に公開したことになる意識はあるのだろうか。そんなことを書いている私にしても、このブログが世界の中のほんの一部の人に見られるかもしれない、くらいの意識しかない。事実はそうであっても、現実的には有名人でもない一個人に注目が集まることはないと思う。開けた世界だが、狭い範囲に閉じこもっているような印象でいいのかな。でも油断していると、危ういこともあることは気をつけないといけない。
むしろ意識せずに、他人に知られてはいけないことまで公開してしまうことはある。それが後に証拠物件とされるかもしれない。世の中のさま変わりの中でSNSは大きな比重を占めている。
自分の意思で書いたり撮ったりしたものを、他人の作った仕組みを使って発表する。これはほとんど他人のふんどしで相撲と取るようなものだ。発表の機会も場所もなかったことの反動にように、誰もが見せびらかしをするようになった。それはいいことか悪いことか分からない。
この話の肝は家長のジョルジュと孫娘のエヴだと思う。2人がそれぞれの秘密を共有することで、かすかに保たれた家族の絆というか枠。挟まれた姉弟たちや従兄弟はうろうろするだけだ。
映画の作りもどこか他人事だ。SNS画像といい、チャット画面を撮って見せることといい、建築現場の事故も遠くで崩れる建造物を見せるだけ。近寄って迫力ある事故現場を撮ることはない。だから全てが迫ってこない。あえてそうしたねらいがあったのだろう。自分の目で直接見ない、自分の言葉で会話しないことは、文明が生んだ技術であり、かつ現代人にうってつけの道具でもある。
そこに乗るのが単なる流行り以上に蔓延してしまって、疑問を持つことなく使っている、あるいは使われている。それに対するアンチテーゼと捉えてみた。
監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 イザベル・ユペール ジャン・ルイ・トランティニャン マチュー・カソヴィッツ ファンティーヌ・アルドゥアン フランツ・ロゴフスキ ローラ・ファーリンデン トビー・ジョーンズ ハッサム・ガンシー ナビア・アッカリ
2017年