夜の東劇を出ると暗く寒かった。急いで信号を渡り地下鉄の階段を下りてゆく。私と彼らの共通点はないが、家族というものを大切にする、したい気持ちは変わらないものだ。
移民の国アメリカ、世界中から、主にヨーロッパからやってきた人々。彼らは何を考え、何を求め、何を期待してきたのか。できればここで成功したい、ここは成功できる国だ。希望を胸にやってきたに違いない。ただそれが夢だけで終わることもある。
ボルチモアのアバロン、輝ける街、希望の街、移民は現在でもあるだろうが、言ってみれば自国で食いつめた人たちが何がしかの金を持ってアメリカに渡ってきた。本当は嫌なのじゃなかっただろうか。それとも地方から東京へ上京するようなものだろうか。国から遠く離れて、おそらく帰ることもないだろう。裸一貫でアメリカに行き一旗あげようということだろう。
そんな気持ちは、ぬくぬくとしていられる快適な国にいる私としてはよく分からないし、アメリカで暮らそうなんて気はないから、 まずその点が理解できない。
行ってしまえば何とかなる所なのか。セールスをしてもなかなか上手くいかないし、はじめは大変だった。
彼らのfamily circleという会議が面白い。家族会議なんだけど、親戚が大挙して集まって、けんけんごうごう話をするのがすごい。議長を決めたりして。バリー・レビンソン自身のことだろうけれど、子供が出てくる。彼の見聞きしたことも、懐かしく思い出しながら作ったのだろう。それにしてはこれは映画作家だけに与えられた素晴らしい特権だと思う。その時代をそっくり再現させてしまうのだから。こういうことになるとアメリカ映画はすごい。昔の車が揃って街を走る。街並みもセットかもしれないが残っているし。とにかく頭の中だけで作り上げる小説とは違い、画面に現さなければならない映画は、そのことは障害にもなるし、強みにもなる。上手くやれば強いのだ。
息子のジュールスがテレビを売ることを商売にして上手くゆく。テレビが家族を変えてゆく。ファミリーサークルもうまくいかなくなってしまう。家族というものが、いったい何をもとに繋がっているのだろうか。ただ血の繋がりだけで云々するのとは違うと思う。それは災いをもたらすことの方が多いからだ。思い出というものを、こういう形で表すことの出来ることは幸いなことだと思うと同時に、逆に胸の中にしまっておくべきものを白日の下にさらすのも少し嫌な気もしないでもない。しかし作家というもの、少なくとも自分をどのような形であれ表現するしかないことを考えれば仕方ないことと言える。
サム・クリチンスキーは1914年の7月4日、独立記念日にアメリカの地を踏んだ。ボルチモア、アバロンで暮らし始めた。それから早や数十年経ち、この地に根付いたと言えるようになった。ジュールスは自慢の息子だ。彼はいとこのイジーとテレビ販売店を開き成功した。テレビは生活になくてはならない製品だし、家庭用電気製品はこれからも売れ続けるに違いない。明るい未来が見えた。成功を掴んだのだ。だが、時代は移る。家電だけではない、販売店はより大きな規模の店が個人商店を駆逐する時代になった。
家系図をファミリーツリーというが、たった2人から枝分かれしたツリーは大きく広がる。時代を経るにしたがって、サム・クリチンスキーのヨーロッパでの故郷はますます遠くなっていく。まず言葉を話す人がいなくなり、結婚相手もばらばらになる。それはこのアメリカという国に同化したことであり、悪いことではない。でも、何かが失われていく寂しさはあった。
監督 バリー・レヴィンソン
出演 アーミン・ミューラー・スタール エリザベス・パーキンス ジョーン・プローライト エイダン・クイン ケヴィン・ポラック
1990年