その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所に近づいて来た。

群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からの真のパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書6章22節~35節】

 

 また、主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。却って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。

 主が地に面に雨を降らせる日まで

 壺の粉は尽きることなく

 瓶の油はなくならない。」

 

 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

【新共同訳聖書 列王記17章8節~16節】

 

   私たちはパンがなければ、ご飯を食べなければ死んでしまいます。私たちが生きてゆくにはパンは必要不可欠なものです。しかし、食べるパン、ご飯だけでは生きてはいけないとイエス様は語られます。

 イスラエルの歴史の中でソロモン王の時代。イスラエルはひとつの国でありました。しかし、彼が亡くなると、イスラエルは二つに分裂してしまいます。北イスラエル王国と南ユダ王国です。それぞれに王様が立てられました。その中で、北イスラエル王国のアハブ王の時代。彼はイスラエルの神、主を崇めず、自分が好き勝手に作った神様を拝みました。その時、預言者エリヤが登場します。

エリヤはアハブ王に対して警告を発します。

「わたしが告げるまで、数年の間、梅雨も降りず、雨も降らないであろう」

イスラエル地方では10月から3月にかけては雨が降りますが、4月から9月にかけて全く雨が降らない日が続くそうです。エリヤは干ばつの預言をするわけですが、それが三年に渡って続いたことが記されています。この地方ではこのような干ばつが珍しいことではないようです。エリヤはこの干ばつはアハブ王に対する警告であると告げています。

神様はエリヤにアハブ王の支配が及ばないケリト川の畔に身を隠すように命じ、エリヤはそのとおりにします。彼はそこでカラスが毎日運んでくるパンと肉によって養われるのです。神様に言われた言葉を信じてエリヤは生活します。

しかし、やがてケリト川の水も枯れてしまいます。神様は再びエリヤに臨み、シドンのサレプタに行きなさいと告げるのです。そこでエリヤは一人のやもめによって養われることになるのです。

彼女は夫を失い、頼りにできる親戚や知人もなく、一人で息子を育てる貧しい身の上でした。しかも、既に食べる物もそこを尽き、飢餓寸前の状態でした。しかし、主に「そこであなたを養わせる」と言われたことを信じ、エリヤは彼女に声を掛けるのです。水とパンを持って来るように頼まれた彼女は、正直に答えます。既に、少しの小麦粉と油しかなく、息子と共に死の準備をしているのだと。それゆえ、エリヤの求めには応じられないことを訴えるのです。

 

エリヤは彼女に声を掛けた時、既に彼女がそういう状態であることを悟ったに違いありません。しかし、エリヤは敢えて彼女に水を求め、パンを求めたのです。彼は神の言葉に忠実に従ったのでした。それゆえに『恐れてはならない……』と告げます。

エリヤは彼女に神様の約束の言葉を語り、イスラエルの神 主への信仰と服従を促し、祝福を祈りました。

やもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。彼女の中にはイスラエルの神 主への信仰が根付いていたのだと思います。主はエリヤによって告げられた御言葉どおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなることはありませんでした。

エリヤとやもめはどのような事態になっても、御言葉を信じ、御言葉に従って生きたことをこの記事は記しているのです。

 

ヨハネの福音書では、数々の奇跡を目にした群衆が『この人についていけば何も困ることはないだろう』とイエス様の元へ集まって来たことが記されています。イエス様は彼らが何を求めているのかを知っておられました。

わたしたちの日常生活は見えないものよりも具体的に見えるものや住居、そういうものが生活の基盤になります。それをまず確かにすることで精一杯ではないでしょうか。しかし、イエス様は”朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい”と告げられます。

この”朽ちる食べ物”という言葉の中には、食物を生きる糧として食べて生きる人間を指していますし、人間の人生そのものを指しているように思われます。わたしたちは”朽ちる食べ物”を第一に考えがちです。イエス様はそのことを良くご存じです。

そのことを踏まえたうえでイエス様は”いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい”と言われるのです。

わたしたちは朽ちる存在です。物質的な欲望を満たすために生きる存在なのです。

そのようなわたしたちにいつまでもなくならないで、永遠の命に留まる食べ物のために働きなさいといわれます。

そして、イエス様は言われるのです。

『わたしが命のパンである』

 

イエス様の”命”という言葉は、やがて朽ち果てる肉体的・地上的な命ではなく、キリストから来る新しい神の国の永遠の命ということを意味しています。イエス・キリストこそわたしたちにとって命の言葉なのです。

パウロはコリントの手紙Ⅱの中で語っています。

 

 『わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、    虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現われるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。』

 

パウロは自分の死と自分の命を考える時に、イエス・キリストが既に死から命の道を歩んでいることを知らされ、生ける屍のような自分にもキリストの命が与えられていることを彼は知ったのです。

イエス様は『わたしは命のパンである』と告げられました。わたしたちはイエス様に繋がり、そこに留まることで永遠の命を与えられると信じて歩んでまいりたいと思うのです。

 

 

 

 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖派荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを船に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書6章16節~21節】

 

  イエス様が嵐を静めるという記事は、マタイ福音書・マルコ福音書にも記載があるよくご存じの記事だと思います。

イエス様はガリラヤ湖の周辺を巡り歩き、町や村に福音を宣べ伝えられました。そして、しばしば舟を用意してガリラヤ湖を渡って行かれました。

なぜ、主要都市であるエルサレムではなく、ガリラヤ湖周辺の町なのでしょうか。それは、イエス様は貧しいガリラヤ湖周辺に住んでいる漁師であるとか、職人であると人たちと友となり、一緒に生きようとしたのです。ここにイエス様の人を分け隔てなく愛し、隣人となるという姿勢が見られます。

今日の聖書はカファルナウムというガリラヤ湖の一番長い距離を横断した時の物語です。カファルナウムはイエス様のガリラヤ湖畔での伝道活動の拠点となった場所です。マタイの福音書ではカファルナウムを福音の町だと言われたように、イエス様はこの町を大変愛しておられ、伝道活動も盛んに行われ、多くの人を癒したと記されています。カファルナウムは当時、ローマ帝国の出先機関であり、至聖所もあったと報告されています。ガリラヤ湖周辺の中では比較的大きな町であったようです。

 

この時、イエス様は伝道の拠点であるカファルナウムに戻ろうとしていたと思われます。その道行の途中で今回の出来事に出会われたようです。

つまり、伝道する中でその道を阻む様々な出来事に出会うということなのです。しかも、既に暗くなっていたと記されています。暗闇の中で弟子たちは湖を渡るための舟の準備をするわけです。たとえ、慣れていても簡単なことではなかったでしょう。

イエス様の時代、湖というものは人格を持っていると考えられていたそうです。湖には得体のしれない何かが棲んでいて、人間を深い湖の底に引きずり込んでしまうと信じられていました。そのような状況の中で、ガリラヤ湖は強い風が吹いて、湖面があれ始めたのです。弟子たちは舟をこぎ出しましたが、突然の嵐に遭うことになりました。

ガリラヤ湖の海面は地中海より200m低い位置にありました。亜熱帯のような気候で風が吹くと突然嵐になるという湖でした。

予測できない突然の出来事で、舟は前に進むことができません。

実は、このような突然の暴風雨はガリラヤ湖では珍しいものではなく、元は漁師であった弟子たちにとってもよく分かっていたことでした。

しかし、暗闇の中、舟がひっくり返されそうな中で、イエス様もおられない。そのような中でもしかしたら弟子たちは死を予感したかもしれません。

その時、弟子たちの目に湖の上を歩いて向かって来るイエス様の姿が飛び込んできました。

弟子たちはイエス様を見たのです。

この”見る”という言葉は、イエス様の行動や行いを”見る”ということのほかに、イエス様の言葉・業を含めた人格そのものを弟子たちが見た、或いは気が付いたとも捉えることができるのではないでしょうか。

ただ単に表面的に見るということではなく、弟子たちにとってイエスは主だという思いに至ったのではないかと思います。神の子イエスだ……という思いです。それにより彼らは恐れた……のです。湖の上を歩くという奇跡的なことよりも、イエスが神の子であるという思いに遜ったのです。

そのような弟子たちの心の中にイエス様は入り込まれたのではないでしょうか。イエス様は弟子たちに対して『わたしだ。恐れることはない。』と告げられました。

 

ガリラヤ湖はすべてを呑み込んでしまうこの世の闇。得体のしれない何かが潜む所です。わたしたちの教会の歩みの中でも、予期しない出来事が起こります。そのような事態の中でもイエス様は見えざる主として『わたしだ、恐れることはない』と助けを示され、わたしたちの傍らに立ち、わたしたちを目的地まで同伴者として共に歩んでくださるのです。

 

 

 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになた父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えに成った。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書5章19節~30節】

 

 ヨハネによる福音書ですが、1節から18節は以前学びましたベトザダと呼ばれる池で病人を癒すという記事が記されています。イエス様は38年間病に苦しんでいた人を「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉と共に病を癒されたという奇跡を現わされました。

ちょうどその日は安息日でした。ユダヤ人の律法では安息日に何もしてはならない。仕事をしてはならない。と働くことを禁じておりました。ですから、床を担いで歩くということは労働と見做されました。この出来事で、ユダヤ人たちは安息日に律法を破ったとイエス様を批判しました。加えて、御自分を神の子である、神様は自分の父であると告げるイエス様を彼らは許すことができませんでした。律法を破っている人をなんとかして訴え、亡き者にしようと考えていたのです。

イエス様にとっては律法というものは本来、人の命を守ることが根本にありますので、どのような日であっても人が活き活きと生きるということを神様は望んでおられると理解しておられました。ですからイエス様は人への癒しの行為を通して、本来の律法を指示したと言えると思います。

 

19節以下からはイエス様の説教であると言われています。イエス様御自身が神様から託された子としての使命をこの説教の中で明らかにしているわけです。

特に今朝は24節・25節を中心に学びたいと思います。

 

24節の後半では”永遠の命を得る、裁かれることがない、死から命へと移っている”と3つのことが示されています。このことは言うまでもなく24節の前半の言葉から繋がっています。つまり、”わたしの言葉を聞いて信じる”ことが大切なのだと言われるのです。イエス様の言葉に耳を傾け、ただひたすらキリストに従う、そして、自分をキリストに結び付ける、キリストの言葉の下に留まり続ける人、そのような人こそが永遠の命を得、裁かれることなく、死から命へと移される”のだと語るのです。

 

ヨハネによる福音書の中では”信じる”というが何度も使われています。ベトザダの池でイエス様と出会った人は、イエス様の言葉を信じ、起き上がり、床を担いで歩き出しました。わたしたちは聖書の言葉から聞いて信じる、そこから神様からのメッセージを心の耳で聞き取り、ただひたすら聖霊の導きを祈りながら、心を傾けて聞くことによって、わたしたちの心が新しく開かれ、メッセージが示されるのです。

信仰というものを考える時に、イエス様の言葉を聞いて、神様からの呼び掛けを読み取って受け入れることである、それによってわたしたちは死から命へと移されるのです。この、死から命へ移されるということは、今ではなくやがて老いて死ぬという理解をするのですが、ここで言われているのはそうではなく、今やその時である。死から命へと移される、今がその時である。更にその声を聞いた者は生きる。つまりこれから起こる出来事ではなく、今がその時である、いまここで起こっている出来事なのだと語るのです。イエス様の言葉に耳を傾け、心を開いて信じ、受け入れる時、その人には今ここで永遠の命が与えられる、そして、死から命へ移されるのだということが示されています。

人の生と死を決定するのは今の時を於いて他にはないのだ。ヨハネはこのように語っているのです。

 

25節では、死んだ者が神の声を聞く時が来ると記されています。ここでは、イエス様の言葉を拒否している人々、ファリサイ派の人やユダヤ人達です。そういう人たち、心を閉ざしている人、生きているけれども、イエス様の言葉を拒否する人は、彼らは生きてはいるが既に死んでいるのだと語るのです。しかし、その声を聞いた者は生きる。イエス様の言葉を聞くならば生きると告げるのです。

 

ヨハネにとっては、死というものは肉体的な死を指すのではなく、生きていても生きる屍という言葉があるように死んだも同然の生。死後も裁きも遠いところにあるのではなく、この世の只中にあるとヨハネは語るのです。

このことで富める青年の話を思い起こします。あるお金持ちの青年がイエス様のところへ来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのでしょうかと問いかけます。イエス様はそれに対して、モーセの十戒、当時律法であったことを守るように言われましたが、青年はそのようなことは幼いころから守ってきましたと語ります。イエス様がその後、あなたの持っている財産を全て貧しい人々に施しなさいと青年に語り掛けると、彼はイエス様の下から去って行ってしまいました。

その後ろ姿を見つめながらイエス様は、財産のある者が神の国に入ることはなんと難しいことかと告げられました。

 

財産を持っている人間は、なんでも自分の力で生きてきたと考えがちです。つまり、人間の力の限界を心底知ることはない人生を歩んできたということです。イエス様を道徳的な教師と認めてやってきた青年でありますが、イエス様を真の癒し主とは捉えてはいませんでした。それに対して、最初に申し上げましたベトザダの人は38年間病気で苦しんできました。彼の孤独で、心身共に擦り切れ、疲れ果てた人生を歩んできたのでしょう。それでもよくなりたかった、永遠の命に生きたかったのです。だから、イエス様が良くなりたいかと問われた時に彼はすべてをイエス様に委ねることができたのだと思います。

 

イエス様の言葉を聞いて信じ、イエス様の力によって生きる時に、わたしたちは神様の前に自分の歩みを進めることができるのです。わたしたち一人一人にイエス様は求める者に命を与えて下さり、歩ませて下さるのだということを今朝の聖書箇所から学びたいと思います。

主よ、お救いください。

主の慈しみに生きる人は絶え

人の子らの中から

  信仰のある人は消え去りました。

人は友に向かって偽りを言い

滑らかな唇、二心をもって話します。

主よ、すべて滅ぼしてください

  滑らかな唇と威張って語る舌を。

彼らは言います。

「舌によって力を振るおう。

自分の唇は自分のためだ。

わたしたちに主人などはない。」

 

主は言われます。

「虐げに苦しむ者と

呻いている貧しい者のために

今、わたしは立ち上がり

彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

主の仰せは清い。

土の炉で七たび練り清めた銀。

主よ、あなたはその仰せを守り

この代からとこしえに至るまで

  わたしたちを見守ってくださいます。

 

主に逆らう者は勝手にふるまいます

人の子らの中に

  卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

【新共同訳聖書 詩編12編】

 

 この詩編12編は詩人の救いを求めて心の奥底から迸る、叫びのような切なる祈りで始まっています。この詩人が生きておりました社会は、神への真実なる信仰が失われ、極めて深刻な絶望的とも言える状況を呈しておりました。非常に強く固定化されました階級社会が齎したものは、ごく一部の上層階級、権力者や力のある者たちの飽くなき支配欲であり、富める者たちの満足を知らない強欲でした。

 

今のこの世界の状況を見渡すならば、恐ろしいほどに代わらない現実を、わたしたちは痛感せざるを得ないのではないでしょうか。彼らは自分たちの野心と欲望の故に、友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心を持って話すことも何ら厭わないのです。むしろ、自らの野心や欲望を達成するためならば、友人さえも嘘や偽りでもって利用していくのです。時には媚びへつらって、あたかも自分が忠実であるかのように装いながら、その実、心の中では相手を見下し、侮り、そうやって欺くわけです。

その卑劣さは、弱い立場にある者たちを平気で踏みつけ、踏みにじり、その貪欲さは、明日の糧にも事欠く貧しい人たちからさえも、奪い取って行くのです。

 

5節に書かれております”唇”や”舌”は、”言葉”を表しています。言葉によって、それも自分の言葉によって力を振るおうというのです。他者のためではなく、あくまでも自分のために、言葉を利用し、傲慢不遜になって、正に虚勢を張り、自分を誇示するという、そしてついには私たちに主人などはいないと豪語するわけです。つまり、わたしの主人はわたし自身であって、神ではないと言い切っているのです。彼らは完全に神を侮り、神を捨て、正に自分自身が神になっているのです。

 

詩人は、このように神に逆らう者たちの横暴極まりない振る舞いこそが、社会全体に卑しむべきことがもてはやされるという腐敗と堕落を齎したのであり、それは人々の生活だけではなく、信仰にまで深く浸透し、影響を及ぼしているということを見極めているのです。

 

主イエスは、終末の徴として、不法が蔓延るので多くの人の愛が冷えると言われました。その言葉通りに、この殺伐とした社会に真っ先に犠牲となっていくのが弱く貧しい者達であり、小さき者たちです。彼らは、もはや言葉を発することすらできない苦しみや、嘆き、痛みや悲しみ、そのすべてを身に受けて、自らも深く傷つきながら、詩人は神に向かって叫ぶのです。

 

わたしたちは社会の中で、様々な人との関わりの中で生きています。誰一人として自分だけで生きる、充足して生きるということはできないのです。他者との関わりの中で他社と共に生きるからこそ、そこにはその関係の中に責任というものが生じて来るのです。その責任の具体的な顕れのひとつが、”言葉”と言えましょう。

 

言葉には心と心を繋いで、互いに理解し合おうとし、また受け入れ合おうとする、そうすることで互いの信頼を築いていく、そういう力があるのです。

言葉には他者を生かし、他者との豊かな関係を作り上げていく、そういう働きがあるのです。しかし、一方で他社を傷付け、排除し、関係を断ち、その命までも損なう、恐ろしい力とも成り得るのがまた言葉なのです。言葉が心と心を繋ぐものではなく、むしろ分断を齎すとなり、あらゆる関係は破綻するということになるのです。その時、言葉は権力、富を獲得するため、危険な道具となり、更には死を齎す恐ろしい武器ともなってしまうのです。

 

使徒パウロは弟子であるテモテに宛てた手紙の中で、終わりの時の人々のありさまというものを次のように語っています。

 

 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあ

 ざけり、両親に従わず、温を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知ら 

 ず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率

 になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力

 を否定するようになります。【テモテへの手紙Ⅱ 3章2節~5節】

 

いつの時代も変わらないこの人間という存在の罪の有様がここに如実に示されています。

 

主はこの詩人の叫びに答えられます。神は、この腐敗し、堕落しきった社会の中で、虐げられ、弾き出され、命を失っていく絶望の呻きを聞かれているのです。神はこの社会の惨い有様を、実はじっと見つめ続けておられたのです。そして今や、神の救いの時が動き始めたのです。彼らが喘ぎ望む救いを与えるために。今こそ神は立ち上がったのです。

 

滑らかな唇、威張って語る舌に立ち向かうのは、土の炉で七たび練り清めた銀のような神の言葉です。人間の不順で偽りに満ちた言葉に対して、何度も何度も練り清められて、一切の不純物を含まない極めて純度の高い銀のような神の言葉が、立ち向かうのです。神の言葉は人の心をも練り清めて、人をその根本から造り替えて、生かしていく真実な言葉なのです。

神のこの確かな救いの約束に、詩人は心からの賛美をもって信仰を告白しているのです。

 

この世からとこしえに至るまでわたしたちを見守ってくださる神。その神の真実な言葉によって支えられ、導かれてこそわたしたちは一人一人に与えられた自らの人生を生きることができるのです。たとえ、主に逆らう者たちがどんなに勝手に振舞おうとも、恐れることなく、惑わされることなく、その真実な言葉と共に生きて行くことができるのです。

 

神の真実な言葉こそがわたしたちの信仰の礎であり、神の言葉によって、わたしたち一人一人の生き方、考え方、在り方が練り清められて、隣り人と共に主の慈しみに生きる者へと変えられていくのです。

 

ある詩人が言葉について次のように語っておりました。

 

 言葉というのは、口先だけのものではなく、その言葉を発しているその人自身の全体の世界。言葉を発しているその人の依って立つ根本のものをささやかな日常の言葉のひとつひとつに反映してしまうのです。

 

またある方は、言葉にはそれを発するその人間に存在の匂いというものが滲み出て来る……とも言っておりました。

 

最後にこの詩人は、神を畏れず、むしろ自らを神の如きものに思い為して卑劣な業を誇る者たちの行く末を見据えています。

嘘偽り、傲慢不遜、そういうもので塗り固められた人生、そして社会も世界も神の真実の言葉の前には空しく滅び去って行く。しかしながら、この詩人は同時に自分もそういうことに飲み込まれることのないように、心から願いながらその行く末を見据えているのです。

 

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、新しい生き方について次のように語っています。

 

 偽りを捨て、それぞれに隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体 

 の一部なのです。……悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵み

 が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りな

 さい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日

 に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべて

 を、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキ

 リストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

【エフェソの信徒への手紙 4章25節、29節~32節】

 

 

 

 

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は街を出て、イエスのもとへやって来た。

 

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 

 され、その町の多くのサマリア人は、「この方がわたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリヤ人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書4章27節~42節】

 

今朝は、ヨハネによる福音書よりイエス様とサマリアの女との出来事を見ていきたいと思います。

サマリアの女がイエス様と出会うことを通して、イエス様が本当の救い主であることを知り、その証言者となるという物語です。この箇所は、福音の持っている力が破れの多い人を介して伝えられて行くということをしみじみと感じられる記事です。

 

このサマリアの女は人目を忍んで水を汲みに来ています。今朝の箇所の前の部分でそのことが語られています。彼女は五人の夫がいて、今連れ添っているのは夫ではないと語っています。この女はそういう理由で身を隠すように生きてきた、好んでそういう生き方をしてきたわけではないのでしょうが、結果的にそのような生き方をしている女性です。そういう彼女がイエス様に声をかけられたのです。恐らく、この女性に対して、積極的に話しかけたり、一緒に行動したりする人はいなかったでしょう。そういう女性に対して、イエス様は声を掛けられたのです。

当時、ユダヤ人とサマリア人は長い歴史の中で対立していました。ですから、サマリアの女がユダヤ人であるイエス様に「水を飲ませてください」と頼まれ、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と驚いて問い返したのにはそういう背景があったのです。通常はユダヤ人がサマリア人に対して話しかけるということはありませんでした。しかも、ユダヤ人はサマリアの地域を通ることは決してしなかったのです。同じようにサマリア人もユダヤ人の地域には足を踏み入れることはありませんでした。

イエス様に声を掛けられたサマリアの女が驚くのも無理はありません。

ユダヤ人はエルサレムで礼拝をしていましたし、サマリア人はゲリジム山というそれぞれ別のところで礼拝をしていたのです。ユダヤ人とサマリア人との間には越えられない垣根があったのです。イエス様はそのことをよくご存じでした。そのことを受けて、イエス様は「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と語られたのです。二つの民族の対立というものを踏まえながらこのように仰ったのです。

一方で、イエス様とサマリアの女の会話を通して、この女の心の渇きにイエス様は命の水を注ぐのです。「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と語る女に、イエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と告げられました。

これが今朝の箇所の前の出来事です。

イエス様のこの言葉によって、サマリアの女はイエス様と一対一で向き合って話し始めます。その中で女性の中に新しい命が与えられるのです。

その時、帰って来た弟子たちが二人を目にして驚きますが、声を掛ける者はいませんでした。そして、女は水がめをそこに置いたまま町へ行き、人々に語ります。

このようにイエス様との出逢いを通してこの女性は新しい命を与えられ、変えられ、福音を証明する者としての歩みを始めたのです。

 

井戸に水を汲みに来て、女はイエス様と出会いました。水がめは当時、生活をする上で大切な必要不可欠なものでした。それを置いて、この女性は自分の身に起こったこと、イエス様との出逢いを伝えに町へと出かけて行きました。

イエス様は激しく対立している民族同士の中へ踏み込んで行かれました。そして、サマリアの女と対話し、彼女の心を開いてゆくのです。

 

一方、食事の準備のために出かけていたと思われる弟子たちが帰って来て、イエス様に食事を勧めますが、イエス様は「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と応えられます。おそらく、弟子たちにはイエス様が何のことを仰っているのかわからなかったでしょう。

イエス様にとって、神様から与えられた霊の食べ物のことを言われているのですが、弟子たちにはわかりません。”神様の御心を行い、その業を成し遂げること”がイエス様にとっての霊の食べ物でした。

そして、それは十字架への道へと繋がっていくのです。

 

35節以下では、イエス様は”種を蒔く”ことと、”刈り入れる”ことについて語られています。”蒔く”ということは、神の国の福音を伝える働きのことです。神の言葉を伝えること、それが”蒔く”ということです。

そして”刈る”というのは、蒔かれた御言葉の種が実を結んで果実を刈り取るということを指しています。聞く人の心が開かれ、福音を受け入れるに至る。人が自らの罪、破れを悔い改め、福音によって生きる。それが種を蒔く人、刈り入れる人の使命ではないでしょうか。

イエス様との出逢いによって、サマリアの女はイエス様と生きることを促されました。彼女は水がめを置いて、そのことを知らせるため町へと向かいました。それは福音によって生かされるということでもあります。

あのペトロがイエス様と出会った時、漁師としての大切な網を置いてイエス様に従ったことを思い起こされます。日常生活に無くてはならない網を置いてイエス様に従ったペトロと同じように、サマリアの女も福音に生きる者として立てられたということではないでしょうか。

これが福音を宣べ伝えるということであります。このような行為が神の国を伝えるということです。

 

イエス様も自ら神様の御心を行うために、十字架に向かおうとされているのです。イエス様も一人の”種を蒔く人”であったのです。弟子たちはイエス様の真意を理解することはできませんでした。それでもイエス様はやがて弟子たちが自分のことを理解し、神の働き人になることを祈り、願って十字架への道を歩まれたのです。

種を蒔く人は今は、自分で刈り取ることができないかもしれません。しかし、そこで蒔かれた種は決して空しくなることはない、そのことを信じて、その刈り入れを他の人に託す、ということであります。たまたま刈り入れに遭遇した人は、その実りを自分だけの力と働きとは思わず、既に先達の蒔かれた種があるということなのです。それに先立って蒔かれた種があり、その種が芽を出し、実を結んだということであります。イエス様はここで、”種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである”と語られているのは、蒔く人と刈る人が共に連帯して、イエス様の指し示された道に向かって力を合わせて福音を伝えるということなのです。

福音の種を蒔く、刈り入れるという働きは、個人的な働きではなく、蒔く者と刈る者との共同の働きなのです。弟子たちが遣わされるのに先立って、他の人の種蒔く働きがあり、神の働きが為されていくわけであります。

このことを覚えつつ、種蒔き、刈り入れの時に備えたいと思います。