主よ、お救いください。

主の慈しみに生きる人は絶え

人の子らの中から

  信仰のある人は消え去りました。

人は友に向かって偽りを言い

滑らかな唇、二心をもって話します。

主よ、すべて滅ぼしてください

  滑らかな唇と威張って語る舌を。

彼らは言います。

「舌によって力を振るおう。

自分の唇は自分のためだ。

わたしたちに主人などはない。」

 

主は言われます。

「虐げに苦しむ者と

呻いている貧しい者のために

今、わたしは立ち上がり

彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

主の仰せは清い。

土の炉で七たび練り清めた銀。

主よ、あなたはその仰せを守り

この代からとこしえに至るまで

  わたしたちを見守ってくださいます。

 

主に逆らう者は勝手にふるまいます

人の子らの中に

  卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

【新共同訳聖書 詩編12編】

 

 この詩編12編は詩人の救いを求めて心の奥底から迸る、叫びのような切なる祈りで始まっています。この詩人が生きておりました社会は、神への真実なる信仰が失われ、極めて深刻な絶望的とも言える状況を呈しておりました。非常に強く固定化されました階級社会が齎したものは、ごく一部の上層階級、権力者や力のある者たちの飽くなき支配欲であり、富める者たちの満足を知らない強欲でした。

 

今のこの世界の状況を見渡すならば、恐ろしいほどに代わらない現実を、わたしたちは痛感せざるを得ないのではないでしょうか。彼らは自分たちの野心と欲望の故に、友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心を持って話すことも何ら厭わないのです。むしろ、自らの野心や欲望を達成するためならば、友人さえも嘘や偽りでもって利用していくのです。時には媚びへつらって、あたかも自分が忠実であるかのように装いながら、その実、心の中では相手を見下し、侮り、そうやって欺くわけです。

その卑劣さは、弱い立場にある者たちを平気で踏みつけ、踏みにじり、その貪欲さは、明日の糧にも事欠く貧しい人たちからさえも、奪い取って行くのです。

 

5節に書かれております”唇”や”舌”は、”言葉”を表しています。言葉によって、それも自分の言葉によって力を振るおうというのです。他者のためではなく、あくまでも自分のために、言葉を利用し、傲慢不遜になって、正に虚勢を張り、自分を誇示するという、そしてついには私たちに主人などはいないと豪語するわけです。つまり、わたしの主人はわたし自身であって、神ではないと言い切っているのです。彼らは完全に神を侮り、神を捨て、正に自分自身が神になっているのです。

 

詩人は、このように神に逆らう者たちの横暴極まりない振る舞いこそが、社会全体に卑しむべきことがもてはやされるという腐敗と堕落を齎したのであり、それは人々の生活だけではなく、信仰にまで深く浸透し、影響を及ぼしているということを見極めているのです。

 

主イエスは、終末の徴として、不法が蔓延るので多くの人の愛が冷えると言われました。その言葉通りに、この殺伐とした社会に真っ先に犠牲となっていくのが弱く貧しい者達であり、小さき者たちです。彼らは、もはや言葉を発することすらできない苦しみや、嘆き、痛みや悲しみ、そのすべてを身に受けて、自らも深く傷つきながら、詩人は神に向かって叫ぶのです。

 

わたしたちは社会の中で、様々な人との関わりの中で生きています。誰一人として自分だけで生きる、充足して生きるということはできないのです。他者との関わりの中で他社と共に生きるからこそ、そこにはその関係の中に責任というものが生じて来るのです。その責任の具体的な顕れのひとつが、”言葉”と言えましょう。

 

言葉には心と心を繋いで、互いに理解し合おうとし、また受け入れ合おうとする、そうすることで互いの信頼を築いていく、そういう力があるのです。

言葉には他者を生かし、他者との豊かな関係を作り上げていく、そういう働きがあるのです。しかし、一方で他社を傷付け、排除し、関係を断ち、その命までも損なう、恐ろしい力とも成り得るのがまた言葉なのです。言葉が心と心を繋ぐものではなく、むしろ分断を齎すとなり、あらゆる関係は破綻するということになるのです。その時、言葉は権力、富を獲得するため、危険な道具となり、更には死を齎す恐ろしい武器ともなってしまうのです。

 

使徒パウロは弟子であるテモテに宛てた手紙の中で、終わりの時の人々のありさまというものを次のように語っています。

 

 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあ

 ざけり、両親に従わず、温を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知ら 

 ず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率

 になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力

 を否定するようになります。【テモテへの手紙Ⅱ 3章2節~5節】

 

いつの時代も変わらないこの人間という存在の罪の有様がここに如実に示されています。

 

主はこの詩人の叫びに答えられます。神は、この腐敗し、堕落しきった社会の中で、虐げられ、弾き出され、命を失っていく絶望の呻きを聞かれているのです。神はこの社会の惨い有様を、実はじっと見つめ続けておられたのです。そして今や、神の救いの時が動き始めたのです。彼らが喘ぎ望む救いを与えるために。今こそ神は立ち上がったのです。

 

滑らかな唇、威張って語る舌に立ち向かうのは、土の炉で七たび練り清めた銀のような神の言葉です。人間の不順で偽りに満ちた言葉に対して、何度も何度も練り清められて、一切の不純物を含まない極めて純度の高い銀のような神の言葉が、立ち向かうのです。神の言葉は人の心をも練り清めて、人をその根本から造り替えて、生かしていく真実な言葉なのです。

神のこの確かな救いの約束に、詩人は心からの賛美をもって信仰を告白しているのです。

 

この世からとこしえに至るまでわたしたちを見守ってくださる神。その神の真実な言葉によって支えられ、導かれてこそわたしたちは一人一人に与えられた自らの人生を生きることができるのです。たとえ、主に逆らう者たちがどんなに勝手に振舞おうとも、恐れることなく、惑わされることなく、その真実な言葉と共に生きて行くことができるのです。

 

神の真実な言葉こそがわたしたちの信仰の礎であり、神の言葉によって、わたしたち一人一人の生き方、考え方、在り方が練り清められて、隣り人と共に主の慈しみに生きる者へと変えられていくのです。

 

ある詩人が言葉について次のように語っておりました。

 

 言葉というのは、口先だけのものではなく、その言葉を発しているその人自身の全体の世界。言葉を発しているその人の依って立つ根本のものをささやかな日常の言葉のひとつひとつに反映してしまうのです。

 

またある方は、言葉にはそれを発するその人間に存在の匂いというものが滲み出て来る……とも言っておりました。

 

最後にこの詩人は、神を畏れず、むしろ自らを神の如きものに思い為して卑劣な業を誇る者たちの行く末を見据えています。

嘘偽り、傲慢不遜、そういうもので塗り固められた人生、そして社会も世界も神の真実の言葉の前には空しく滅び去って行く。しかしながら、この詩人は同時に自分もそういうことに飲み込まれることのないように、心から願いながらその行く末を見据えているのです。

 

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、新しい生き方について次のように語っています。

 

 偽りを捨て、それぞれに隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体 

 の一部なのです。……悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵み

 が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りな

 さい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日

 に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべて

 を、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキ

 リストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

【エフェソの信徒への手紙 4章25節、29節~32節】