主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聴き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くにいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。
見よ、彼らはすべての衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう。
【新共同訳聖書 イザヤ書50章4節~9節】
預言者イザヤの使命は、イスラエルの民を神の御許に立ち帰らせ、イスラエルを集め、イスラエルの残りの者を連れ帰らせるということです。それは、故郷エルサレムとユダの地の復興、そして、神殿の再建という具体的な働きと結びついており、それによってイスラエルが正に、主の僕として、世の光として神の栄光を世界に証しする新しいイスラエルとなるためであることをこれまでお話ししてまいりました。
この驚くべき神の救いを成し遂げるために、選ばれ、任命されたのが異郷の国ペルシャ帝国のキュロス王であったのです。イザヤ書におきまして、このキュロス王は他に類を見ないほど重要な意味を持った人物として語られています。主の牧者、主の望みを成就させる者と呼ばれていますし、主が油注がれた人として、特別な任命を受けているのです。そのキュロス王はバビロンに侵攻する際、戦わずしてバビロンを制圧したと言われています。
また、混乱した国内の安定を図るために、民族の独自性を尊重いたしまして、宗教・文化の自由を認める、寛大な政策を行いました。更に、解放令を公布いたしまして、捕らわれの身であったイスラエルを自由の身として、エルサレムに帰るだけではなく、神殿再建の許可をも与えました。
このように、キュロス王の統治の下で国内は次第に秩序を取り戻していきまして、人々は徐々に生活を立てなおしていきました。イスラエルの民も非常な迫害の中にあったわけですが、次第に落ち着きを取り戻していきました。しかしながら、生活が安定していく中でひとつの問いがイスラエルの民の中に生じてきたのです。それは……
”苦労してまでエルサレムへ帰る必要があるのか”
という問いです。確かに、バビロン捕囚から半世紀以上が経ち、今やエルサレムを知る者も高齢に達しておりますし、何よりも破壊されたエルサレムや捕囚の際に貧しい人々の一部が、葡萄畑や耕地の一部に残されたに過ぎないユダの地が、この長い歳月の間にどのような状況になっているのか、帰ったとしても、そこでどのような生活が自分たちを待ち受けているのか、考えれば考えるほど不安は募り、大きくなっていったからではないかと思われます。
しかも、エルサレムまでの旅路も決して容易なものではないわけで、人々の間に迷いや戸惑いが生じていったのだと思います。実際、人々の中には、自分たちの信仰が認められているし、異国ではあるけれどもここで穏やかに暮らしていく方が良いのではないかと考える人も出てまいりました。しかし、一方では一刻も早くエルサレムへ帰り、神殿を再建し、故郷を復刻して、新しいイスラエル共同体を築こうと強い思いを抱く人も当然いたのです。
この双方の思い違いが、次第に感情の縺れも相まって、確執を産み、やがて人々の間に亀裂を齎していったのです。このような深刻な事態はイザヤの活動に重くのしかかっていきました。イスラエルはまたしても重大な信仰の危機に直面していったのです。しかもイザヤにとって決して見過ごすことのできない恐るべきことが起こります。あの主の牧者、主に油注がれた者として特別に任命されたキュロス王が、支配下に置いたバビロンのマルドゥクという神を崇拝するようになったのです。
この行為がはたしてキュロス個人の信仰によるものなのか、それとも国内のカルデア人の反感や反発を抑え込むためのポーズなのかはわかりませんが、いずれにしてもイザヤはキュロスのこの行為に、イスラエルの信仰を再び脅かしかねない、偶像へと誘う危うさを見抜き、イスラエルの民にもその罠に陥りかねない脆さを見抜いたのです。たしかにキュロスは神によって任命されました。しかし、その任命は歴史を支配し、導かれる神のイスラエルの解放とエルサレムへ帰るという一点に限られた任命であるということをイザヤは悟りました。
重要なことは、そこでイスラエルが神の御許に立ち帰っていくことであり、そのためにイザヤは主の僕として召されたので、その使命の重さを改めて痛感したのです。
神が御自身、そのことを思い、イスラエルの不安に答えています。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き
荒れ野はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。
太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き
湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(イザヤ書49章9節b10節)
神への信頼に堅く立つ事こそ命を保つ事なのです。この約束の言葉は、わたしたちに詩編23編を彷彿とさせるのではないでしょうか。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる
しかしながら、それでもバビロンに留まることを主張する人々は聞き入れませんでした。むしろ、益々心を頑なにし、双方の亀裂は深まるばかりだったのです。
何故、わたしが来ても、だれもいないのか。
呼んでも答えないのか。
わたしの手は短すぎて贖うことができず
わたしには救い出す力がないというのか。(50章2節)
この言葉にイスラエルを愛するが故の神の断腸の思いが滲み出ています。
イザヤも彼らの心の奥深くを見極め、確信を突く鋭い剣のような、尖らせた矢のような言葉をもって、エルサレムへ帰ることこそ神の御心であり、イスラエルの真の救いなのだと訴えます。しかし、訴えれば訴えるほど、彼らは心を閉ざし、ついには暴力を持ってイザヤを攻撃するのです。
どんなに迫害され、どんなに侮辱されようとイザヤは決して抵抗することなく、全てを受け入れ、全てを耐え、どんなに嘲られても嘲りとは思わない、どんなに辱められても辱められることはない、どんなにわたしを訴えても罪に定めることはできない。なぜなら、神は必ず助けてくださる。
わたしの正しさを認めるのは、人間でもなくすべてを見極められる神である、だからだれもわたしを罪定めることはできない。
イザヤを支えたのは正に神への揺るぎない信頼です。主の僕として、どんな暴力にも侮辱にも、ひたすら耐え、いついかなる時も神への信頼を告白する者こそが神の僕であり、主の預言者なのです。そのために主の僕は何よりも神の言葉に聴く者であり、そうして語る言葉を与えられるのです。
主の僕の耳、心の耳をいつも神に向けられています。神は僕に常に新しく語るべき言葉を与えるため、その耳を、心の耳を開かれるのです。イスラエルの民の疲れた者、迷える者、戸惑う者、悩める者、彼らの憂いを取り去り、労わり、励ますため、主の僕はどんな時も神の弟子として聴き従うのです。
神はイスラエルに問いかけます。
お前たちのうちにいるであろうか
主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。
闇の中を歩くときも、光のないときも
主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。(50章10節)
そして、
見よ、彼らはすべて衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう(9節)
見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし
松明を掲げている。
行け、自分の火の光に頼って
自分で燃やす松明によって
わたしの手がこのことをお前たちに定めた。
お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。(11節)
……と語られます。この厳しい言葉は彼らの末路を告げています。しかし、同時にこの言葉には、神の強い思いが込められてもいるのです。
あなたがたは今、命に至る道と滅びに至る道の分かれ道に立っている。そのことに目覚めよと呼び掛けているように思われるのです。
6節の言葉、暴力や侮辱に耐える主の僕の姿。
この6節の言葉は、想像を絶する信じがたい驚くべきことが語られているのです。
主の僕に対する暴力や侮辱、それは神の意志によるものだというのです。神は、僕にあらゆる苦しみのすべてを受け入れ、味わい尽くすことを望まれたということです。
わたしたちは主の僕に救い主イエス・キリストを見ます。この僕の姿に、十字架刑に至るイエスの苦しみと、十字架上のイエスの姿を見るのではないでしょうか。
主イエスはわたしたちに教えられました。
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。……だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を
も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさ
い。
……敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子と
なるためである。(マタイによる福音書38節~44節一部抜粋)