主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え

 疲れた人を励ますように

 言葉を呼び覚ましてくださる

 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし

 弟子として聴き従うようにしてくださる。

 主なる神はわたしの耳を開かれた。

 わたしは逆らわず、退かなかった。

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

 主なる神が助けてくださるから

 わたしはそれを嘲りとは思わない。

 わたしは顔を硬い石のようにする。

 わたしは知っている

 わたしが辱められることはない、と。

 わたしの正しさを認める方は近くにいます。

 誰がわたしと共に争ってくれるのか

   われわれは共に立とう。

 誰がわたしを訴えるのか

   わたしに向かって来るがよい。

 見よ、主なる神が助けてくださる。

 誰がわたしを罪に定めえよう。

 見よ、彼らはすべての衣のように朽ち

 しみに食い尽くされるであろう。

【新共同訳聖書 イザヤ書50章4節~9節】

 

   預言者イザヤの使命は、イスラエルの民を神の御許に立ち帰らせ、イスラエルを集め、イスラエルの残りの者を連れ帰らせるということです。それは、故郷エルサレムとユダの地の復興、そして、神殿の再建という具体的な働きと結びついており、それによってイスラエルが正に、主の僕として、世の光として神の栄光を世界に証しする新しいイスラエルとなるためであることをこれまでお話ししてまいりました。

 

この驚くべき神の救いを成し遂げるために、選ばれ、任命されたのが異郷の国ペルシャ帝国のキュロス王であったのです。イザヤ書におきまして、このキュロス王は他に類を見ないほど重要な意味を持った人物として語られています。主の牧者、主の望みを成就させる者と呼ばれていますし、主が油注がれた人として、特別な任命を受けているのです。そのキュロス王はバビロンに侵攻する際、戦わずしてバビロンを制圧したと言われています。

 

また、混乱した国内の安定を図るために、民族の独自性を尊重いたしまして、宗教・文化の自由を認める、寛大な政策を行いました。更に、解放令を公布いたしまして、捕らわれの身であったイスラエルを自由の身として、エルサレムに帰るだけではなく、神殿再建の許可をも与えました。

 

このように、キュロス王の統治の下で国内は次第に秩序を取り戻していきまして、人々は徐々に生活を立てなおしていきました。イスラエルの民も非常な迫害の中にあったわけですが、次第に落ち着きを取り戻していきました。しかしながら、生活が安定していく中でひとつの問いがイスラエルの民の中に生じてきたのです。それは……

 

”苦労してまでエルサレムへ帰る必要があるのか”

 

という問いです。確かに、バビロン捕囚から半世紀以上が経ち、今やエルサレムを知る者も高齢に達しておりますし、何よりも破壊されたエルサレムや捕囚の際に貧しい人々の一部が、葡萄畑や耕地の一部に残されたに過ぎないユダの地が、この長い歳月の間にどのような状況になっているのか、帰ったとしても、そこでどのような生活が自分たちを待ち受けているのか、考えれば考えるほど不安は募り、大きくなっていったからではないかと思われます。

 

しかも、エルサレムまでの旅路も決して容易なものではないわけで、人々の間に迷いや戸惑いが生じていったのだと思います。実際、人々の中には、自分たちの信仰が認められているし、異国ではあるけれどもここで穏やかに暮らしていく方が良いのではないかと考える人も出てまいりました。しかし、一方では一刻も早くエルサレムへ帰り、神殿を再建し、故郷を復刻して、新しいイスラエル共同体を築こうと強い思いを抱く人も当然いたのです。

 

この双方の思い違いが、次第に感情の縺れも相まって、確執を産み、やがて人々の間に亀裂を齎していったのです。このような深刻な事態はイザヤの活動に重くのしかかっていきました。イスラエルはまたしても重大な信仰の危機に直面していったのです。しかもイザヤにとって決して見過ごすことのできない恐るべきことが起こります。あの主の牧者、主に油注がれた者として特別に任命されたキュロス王が、支配下に置いたバビロンのマルドゥクという神を崇拝するようになったのです。

 

この行為がはたしてキュロス個人の信仰によるものなのか、それとも国内のカルデア人の反感や反発を抑え込むためのポーズなのかはわかりませんが、いずれにしてもイザヤはキュロスのこの行為に、イスラエルの信仰を再び脅かしかねない、偶像へと誘う危うさを見抜き、イスラエルの民にもその罠に陥りかねない脆さを見抜いたのです。たしかにキュロスは神によって任命されました。しかし、その任命は歴史を支配し、導かれる神のイスラエルの解放とエルサレムへ帰るという一点に限られた任命であるということをイザヤは悟りました。

 

重要なことは、そこでイスラエルが神の御許に立ち帰っていくことであり、そのためにイザヤは主の僕として召されたので、その使命の重さを改めて痛感したのです。

神が御自身、そのことを思い、イスラエルの不安に答えています。

 

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き 

 荒れ野はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。

 太陽も熱風も彼らを打つことはない。

 憐れみ深い方が彼らを導き 

 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(イザヤ書49章9節b10節)

 

神への信頼に堅く立つ事こそ命を保つ事なのです。この約束の言葉は、わたしたちに詩編23編を彷彿とさせるのではないでしょうか。

 

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる

 

しかしながら、それでもバビロンに留まることを主張する人々は聞き入れませんでした。むしろ、益々心を頑なにし、双方の亀裂は深まるばかりだったのです。

 

 何故、わたしが来ても、だれもいないのか。

 呼んでも答えないのか。

 わたしの手は短すぎて贖うことができず

 わたしには救い出す力がないというのか。(50章2節)

 

この言葉にイスラエルを愛するが故の神の断腸の思いが滲み出ています。

 

イザヤも彼らの心の奥深くを見極め、確信を突く鋭い剣のような、尖らせた矢のような言葉をもって、エルサレムへ帰ることこそ神の御心であり、イスラエルの真の救いなのだと訴えます。しかし、訴えれば訴えるほど、彼らは心を閉ざし、ついには暴力を持ってイザヤを攻撃するのです。

 

どんなに迫害され、どんなに侮辱されようとイザヤは決して抵抗することなく、全てを受け入れ、全てを耐え、どんなに嘲られても嘲りとは思わない、どんなに辱められても辱められることはない、どんなにわたしを訴えても罪に定めることはできない。なぜなら、神は必ず助けてくださる。

 

わたしの正しさを認めるのは、人間でもなくすべてを見極められる神である、だからだれもわたしを罪定めることはできない。

 

イザヤを支えたのは正に神への揺るぎない信頼です。主の僕として、どんな暴力にも侮辱にも、ひたすら耐え、いついかなる時も神への信頼を告白する者こそが神の僕であり、主の預言者なのです。そのために主の僕は何よりも神の言葉に聴く者であり、そうして語る言葉を与えられるのです。

 

主の僕の耳、心の耳をいつも神に向けられています。神は僕に常に新しく語るべき言葉を与えるため、その耳を、心の耳を開かれるのです。イスラエルの民の疲れた者、迷える者、戸惑う者、悩める者、彼らの憂いを取り去り、労わり、励ますため、主の僕はどんな時も神の弟子として聴き従うのです。

 

神はイスラエルに問いかけます。

 

 お前たちのうちにいるであろうか

 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。

 闇の中を歩くときも、光のないときも

 主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。(50章10節)

 

そして、

 

 見よ、彼らはすべて衣のように朽ち

 しみに食い尽くされるであろう(9節)

 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし

 松明を掲げている。

 行け、自分の火の光に頼って

 自分で燃やす松明によって

 わたしの手がこのことをお前たちに定めた。

 お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。(11節)

 

……と語られます。この厳しい言葉は彼らの末路を告げています。しかし、同時にこの言葉には、神の強い思いが込められてもいるのです。

あなたがたは今、命に至る道と滅びに至る道の分かれ道に立っている。そのことに目覚めよと呼び掛けているように思われるのです。

 

6節の言葉、暴力や侮辱に耐える主の僕の姿。

この6節の言葉は、想像を絶する信じがたい驚くべきことが語られているのです。

主の僕に対する暴力や侮辱、それは神の意志によるものだというのです。神は、僕にあらゆる苦しみのすべてを受け入れ、味わい尽くすことを望まれたということです。

わたしたちは主の僕に救い主イエス・キリストを見ます。この僕の姿に、十字架刑に至るイエスの苦しみと、十字架上のイエスの姿を見るのではないでしょうか。

 

主イエスはわたしたちに教えられました。

 

 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

 しかし、わたしは言っておく。……だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を

 も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさ

 い。

 ……敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子と

 なるためである。(マタイによる福音書38節~44節一部抜粋)

 

 

 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人も場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。そころが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

【新共同訳聖書 ルカによる福音書10章25節~37節】

 

 伝道者となって数年後、私は友人の誘いでイスラエルに旅行に行きました。若い頃に聖書の世界を見ておくのは、非常に大事だという強い勧めでした。エルサレムからエリコに下っていく坂道の途中に、ひとつの家がありました。案内者によると”ここが善きサマリヤ人の家だ”というのです。まさか……、あれは例え話だろと思いましたが、想像してみますと、なるほど聖書の言葉に基づいて、あとで造られたにしても非常に良い建物だと思いました。あ、この辺りが昔、追いはぎとか山賊とかが出没し、旅人を襲っていた場所なのかと、イエス様の時代に思いを馳せたものです。

 

エルサレムからエリコまでは約30kmです。標高970m。その山の上にエルサレムがあります。そこからずーっと下ったところにエリコ、死海があるのです。

 

今日の聖書の箇所ですが。

じっとイエス様の行動を観察していた一人の律法の専門家がいます。歳はわかりません。もしかしたら若い律法の専門家だったかもしれません。彼が立ち上がってイエス様に質問します。彼の心の中には、「今話しているこの人は、正式に律法学者の下で学問を積んだ人ではない。ないくせに偉そうに教えを垂れている。一体どこまで律法に通じているか試してやろう」……そんな思惑が見え隠れします。

 

そして彼は質問します。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

永遠の命。非常に重たい質問です。究極的な問いのようでもあります。しかし、イエス様は委縮した様子はありません。「あなたは律法の専門家ではないのか。それならよく知っているはずだ。律法には何と書いてあるのか」と逆に質問されます。

相手の問いに、相手が応えられるように対応なさる。そして、相手の専門分野での回答を引き出そうとなさる。これが主イエスのやり方だったかもしれません。

 

するとこの専門家は即座に答えます。いや、むしろ答えされられたというべきかもしれません。この律法の専門家はイエス様の手の内に落ちてしまうのです。

彼は、”心を尽くし、……”と申命記の言葉でもって答えます。そして、”隣人を……”とレビ記の言葉を続けます。神様への愛と隣人への愛。

特に神様の愛については、ユダヤの人々は朝、夕の祈りを捧げています。

彼の答えにイエス様は「正しい答えです。それを実行しなさい。そうすれば命、永遠の命が得られますよ」と教えられます。でも、彼はそのままで引き下がることはできません。彼の心の内は、イエスを試すことが狙いです。イエスの合意を得たいと思っているわけではありません。そこで第二の問いかけをします。

「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うのです。

 

ここに、”自分を正当化しようとして”と書かれています。レビ記に記されているこの言葉。

「隣人とは、イスラエル信仰共同体の同胞、仲間」のことです。それ以外の民、つまり異邦人は敵であって、隣人ではない。主イエスの時代のローマ人はイスラエル、ユダヤ人にとっては隣人ではないのです。それがたとえ同じユダヤ人であっても、律法を守ろうとしない人は隣人とはならないのです。それは非常に限定された隣人意識でした。

ところが、ナザレのイエスという人は、彼らが罪人と呼ぶ人と平気で交わりを持っている。およそ隣人にふさわしくない人々と親しくされている。一体、あなたは聖書が行っている隣人ということをどんな風に考えていらっしゃるのかという詰問だと思われます。

これが律法の専門家の自己正当化への方法だったのでしょう。

そういった中から、例え話へと流れます。

 

傷ついた旅人への祭司、レビ人の対応。

なぜ彼らは傷ついた旅人に対して、知らん顔して通りすぎていったのでしょうか。なぜ、半殺しの目に遭っている犠牲者を介抱しようとしなかったのか。主イエスはそのことについては語っておられません。ただ、わたしたちにわかることは、祭司にしてもレビ人にしても、神の国を待ち望む方々であるということ。日々祈りつつ、神殿の仕事に携わっている。そういう風なことを日々やっていても、なぜか、そういう行いが生きて働かなかった。神殿での勤めを果たし、その帰り道であっただろうと思われますが、神殿での礼拝とその帰り道での出来事、それが彼らの心の中では繋がっていなかったということです。

主イエスの指摘はまずその辺にあります。これはわたしたちにとっても密接な言葉です。礼拝を覚えて週日の歩みを始める。礼拝での姿勢が日常生活で生かされているかという、イエス様の問いかけのように聞こえてまいります。

 

そうして、サマリヤ人の登場です。サマリア人は、元々ユダヤ人です。旧約の時代、北イスラエルが滅び、そのあとに入って来て混血状態になったのがサマリヤ人です。ですから、狭い地域の中で、すぐそばにくらしているのに、サマリヤ人たちはユダヤ人にとって隣人ではなかったのです。日常的な交流はまず、ありませんでした。

 

しかし、このサマリヤ人は相手が誰であっても、同じことをしたと思います。けが人を介抱して、安全な所へ運ぶ。その後の看護についても気を配っています。その行為にはわざとらしい仕草はみられません。その怪我人が必要としていることをただ、淡々と行っているという姿が思い浮かびます。それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

いかがでしょう。例え話を読まれてどんな印象をお受けになりますか。実に無駄のない例え話のように思えます。最初、質問者から「わたしの隣人とはだれですか」と問われました。それにも関わらず主イエスは「隣人とはこのような人だ」とは仰いませんでした。ただ、この例え話が終えてから、再び質問者に問われます。

「さてあなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。

 

当然、「その人を助けた人です」と答えざるを得ないのです。イエスはその人をじっと見据えて、「じゃ、あなたも行って同じようにしなさい」と仰られました。

 

繰り返します。

律法の専門家の問い掛けは「わたしにとって隣人とはいったい誰でしょうか」でした。しかし、この例え話を契機として、イエス様の問いは「誰が隣人となったか」というふうに変わっているのです。自分にとって隣人はだれかという発想は誰しも持っています。しかしそういう発想の中では、どこまでが自分の隣人の範疇に入るか。この人なら隣人になっていただいてよろしい、隣人であって欲しい。そんなカテゴリーが誰しもあります。

 

当時のイスラエルの人々にとって、ローマの兵隊は隣人なのか。あるいは徴税人、ローマのために税金を集める人間は隣人なのか。隣人のうちに入るのか。そういったあたりの区切りについて、イエス様はどう考えていらっしゃいますか。

そういうふうな目論見があったと考えます。

そういう点では、自分たちには律法を基準として、ちゃんと明確な区切りをつけてますよ。あなたの場合めちゃくちゃじゃないですか。

……そんな態度が見えてきます。

 

しかし、今、主イエスが示していらっしゃること。自分にとって隣人とはだれか。そういった自己中心的な問題ではない。今ここで苦しんでいる人がいて、助けを必要としている、その人にとって隣人となる人はだれですか、という発想です。

 

わたしにとって愛すべき隣人はだれかではありません。つまり対象となる隣人の何かが問題なのではなく、イエス様はわたしの、わたしたちの何かを問題として指摘なさろうとしているのです。助けを求めている人にとって、隣人となるかどうか。あるいは隣人となれるかどうか。そういう姿勢が問われているように思われます。自分の思いよりも相手の思いを大切にしていく、中心にしていく、主イエスはそれが隣人愛だと教えておられるように思えてなりません。

 

傷ついた人を見て、サマリヤ人は憐れに思い、介抱を始めました。

この”憐れ”の元々の意味ははらわたが千切れるという意味があります。それほど強い意味合いの言葉です。つまりそうしなければいられない、そうせざるを得ない、いや、むしろしっかり背を押されている。なにかによって押されている。……そんな姿が見られるのです。

そこには堅苦しい倫理観、義務感、そういったものの忍び込んでくる隙間も余地も無いようです。隣人の闇に敏感に反応する、感性と言ったらよいでしょうか、それが研ぎ澄まされているか、これが、課題のように思えます。

 

さて、この例え話で示されているあの傷付いて倒れている人はいったい誰なんでしょう。

 

それは他の誰でもない、まさしく私自身なのです。そして、わたしに近づいて介抱して、必要な助けと配慮をくださっている方がいらっしゃる。わたしにとってサマリヤ人とイエス様が重なって見えます。必要な助けと配慮をくださっているのはイエス御自身なのです。その姿が見えてきます。

 

わたしの負い切れない重荷を肩代わりしてくださり、そして、十字架への道を歩んでくださったイエス様ご自身が、既に、わたしが誰かの隣人となる以前にイエス様ご自身が、わたしの隣人となってくださっていたのです。礼拝のたびごとに、祈りのたびごとに、このことを思い出しては目覚めさせられています。礼拝を終えるとそれぞれの場へと遣わされてまいります。いろんな方々に出会います。いろんな場所に恐らくイエス様が先回りして、わたしたち一人一人を待ち受けて、励ましてくださると信じています。

 

 

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

【新共同訳聖書 マタイによる福音書9章9節~13節】

 

  8月9日はご存じのように、長崎に原子爆弾が落とされた日です。当時の映像や写真を見ますと、本当に命が蔑ろにされていることに胸が痛みます。

当たり前のことですが、イエス様は本当に命というものを大切にされて生涯を送られました。

 

イエス様は、ガリラヤ周辺で生活され、舟に乗って湖を渡り、御自分の街であるカファルナウムに帰って来られましたが、また、立って次の街へ出かけられました。

イエス様はたえず命を大切にされ、そのことのために生きられました。

 

今日の聖書は、イエス様が収税所に座っているマタイに「わたしに従いなさい」と声をかけられたという記事です。

マタイは、収税所に座っていた時、イエス様にであったのです。イエス様との出逢いは、時、場所、様々です。皆さんも様々な場所、時にイエス様とであい、キリスト者となられたことと思います。

 

マタイは徴税人でした。当時の税金は二種類ありました。土地などにかかる直接税。そして、食料や道路、橋などにかかる間接税です。直接税は決まった役人がいて取り立てるわけですが、間接税は決まっていませんでした。その地域の金持ちが請負人になって、徴収していたようです。あのザアカイも取税人の頭でありました。エリコ地区の徴収税人の頭でした。数人の徴税人を抱え、割り当てられた地区の税を取り立てる役目でした。

マタイは頭ではなく、徴税人の一人であったようです。

徴税人の頭や徴税人は、一定の税金をローマとヘロデ家に納めれば、後は好きにして良いということであったようです。ですから私腹を肥やすということが日常的に起こっていたようです。彼らは、ローマの支配に忠実であり、ユダヤ人でありながら、異教の支配者に仕える汚れた者であるとみられていました。ユダヤ人社会では、盗賊とか詐欺師と同列に置かれていました。

 

そのような立場にあるマタイは、「わたしに従いなさい」というイエス様の声に、すぐに立って従いました。ここには記されてはいませんが、マタイはイエス様の呼び掛けに何かを感じたのでしょう。自分を無にして、イエス様の言葉にすべてを委ねたのです。イエス様の言葉と業の中に、命があるとマタイは読み取ったのではないでしょうか。

 

マタイの召命です。マタイ自身の中にも罪人としての自覚があったのでしょう。もしかしたら、自分の仕事に悩んでいたのかもしれません。イエス様の呼び掛けの中に、真の命に至る道を見いだしたのかもしれません。それは私たちも同じです。イエス様の語る言葉の中に命があるとマタイも感じたのでしょう。

 

10節以下には、おそらく宴席ではないかと思われる食事の席にイエス様が同席している記事が記されています。

マタイは、自分のような徴税人を受け入れてくださるイエス様への感謝と喜びに、宴席を設けたのではないかと思われます。徴税人として生きてきたマタイが、イエス様の弟子として新しく生きる、そしてこれまでの生涯を断ち切る決意をしたのではないでしょうか。ですから、単なる食事の席ではなく、宴席だと思われるのです。

マタイにとっては人生の区切り、新しい生活への喜びと感謝です。

 

更に「……罪人も大勢やって来て……」と記されています。ここでいう罪人とは、徴税人に加え、当時、罪人というレッテルを貼って蔑んでいた遊女や高利貸しという職業の人々です。ユダヤ教の律法の基準に達していないという理由です。こういう人たちが大勢イエス様の下へやってきました。イエス様の教えに共感し、集まって来たのです。しかし、そのような状況の中で、ファリサイ派の人々は「なぜ、あなたたちの先生は……」と弟子たちに訊ねます。

当時、一緒に食事をするということはその人たちの仲間だと示す行為でした。ファリサイ派の人々は律法を守り、正しい者であると自認していました。一方で、律法を知らない、あるいは知っていても守らない異邦人やイスラエルの中の罪人たちとは、決して食卓を共にしませんでした。一緒に食事をすると彼らの汚れを身に受けることになる。つまり、そういう人々とは食事をしないのです。

 

彼らにとっては、イエス様の行為は律法違反でありました。それは非難と敵意の対象なのです。彼らの理解は病人を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行っても、その行為は神の律法に違反する、イエス様は神の僕ではない、となるのです。

 

それに対するイエス様の答えは、12節以下に記されています。

その中で、イエス様は「行って学びなさい」と言われました。それは、当時としては旧約聖書に記されていることをきちんと学びなさいということです。

 

医者は丈夫な人のところに来るのではなく、病気の人の所に来て、苦しんでいる人を助けます。そのように、「わたしが神様から遣わされて世に来たのは、あなたたち正しい人を神の国に招き入れるためではなく、あなたたちが遊女、高利貸しなど不浄と見做し、罪人と呼んで神の国から追い出している人を、神の恵みに招き入れることである」とイエス様は語られるのです。

 

更に「彼らは、病人が医者を必要としているように、神の無条件の恵みが必要なのだ。わたしは、無条件の恵みを携えて、彼らを招くために来たのだ」とも言われるのです。

ホセア書には、

    わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 

    神を知ることであって 焼き尽くす捧げ物ではない。

と記されています。

ファリサイ派の人々は律法に従って、正しいいけにえ(礼拝)をし、決まりを守っていました。しかし、そこに愛はありませんでした。それ故に、”わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない”と、イエス様は言われるのです。

 

そして、行って学びなさい。聖書を読みなさいと言われるのです。

 

その中で、イエス様は徴税人や罪人と言われる人々にあわれみをもって、自ら近づかれました。そして、最後には自ら、人のために犠牲になることにより、屠られて、救うということを成し遂げられたのです。

わたしたちはこのイエス様の深い憐れみによって救われ、生かされているということ今朝の聖書からを学びたいと思います。

 

 

 

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『誰が天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『誰が底なしの縁に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。

 「御言葉はあなたの近くにあり、

 あなたの口、あなたの心にある。」

これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

【新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙10章5節~10節】

 

  日本基督教団は8月の第一聖日を”平和聖日礼拝”として守ることを常としています。1967年、日本基督教団は第二次世界大戦下に於ける教団の戦争責任の告白を、当時の教団総会議長の名で表明致しました。この決議に至るまで、また、決議文につきましても、幾度も修正され、告白に至ったと聞いております。いろいろな面で不十分な内容がありますが、教団の中でこのような告白文が出されたということは、非常に重要なことかと思われます。

戦後22年経ってから初めて出された告白文ですが、キリスト教会の中では、初めて教団が出した戦争責任への告白文は、他教派にも少なからず影響を及ぼしたようで、戦争責任の文書を出した教派もあったということです。

 

告白文の中にはあいまいな表現もあったりしますが、第二次大戦への同調という恐るべき罪悪に対して、日本基督教団の教会としての誠実な反省であり、悔い改めであったことは間違いありません。

戦争責任の告白をもって、教団は、戸を叩いておられる主の呼び掛けに応えたと言えるのではないでしょうか。この告白を通して、改めて教会の使命というものを自覚しながら、主と共に明日へ向かって歩む思いを強くしたのではないでしょうか。

 

主と共に歩むということは、イエス様は主であると告白して歩むということでありますし、イエス様以外を主としないということであります。

パウロは、自分がユダヤ人であること、神様から選ばれた民であることをある意味誇りに思っていました。ですから、今朝の聖書の箇所にも、”掟を守る人は掟によって生きる”記されていますように、選ばれたイスラエルの民として、掟、所謂律法を守って生きてきた人であります。

 

しかし、イエス・キリストに出会って、律法による義の道ではなく、信仰による義について示されたのです。なので、”心の中で『だれが天に上るか』、『だれが底なしの縁に下るか』といってはならない”と信仰の義によって生きるように変えられていったのです。

つまり、高く天に上って探し求めなくても、また、遠く海の彼方まで追い求めていかなくても、”御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。”と示され、そのように生きるようになったのです。

 

イエス様と共に歩む者は、御言葉を与えられ歩む、そのような者へと変えられたのです。イエス様と共に歩むことこそが、信仰の言葉を宣べ伝えることなのだとパウロは言うのです。イエス・キリストが神の子として、この世を歩み、十字架で死なれ、三日目に復活した出来事は、それを信じる者の口を通して語られるのだ。掟を守る人は掟によって生きるというものではなく、イエス・キリストを信じることによって得られるもの、そのことが信仰による義なのだと彼は、繰り返し語るのです。

 

わたしたちは、律法が求めるものを完成することはできません。ただ、一人、完成された方、イエス・キリストを信じることによって、律法が約束していた義を得ることができるのです。

 

パウロは9節で、”口でイエスは……、心で神が……”と救いの道筋というものを端的に述べています。信仰が真実なものであるのなら、当然、そこに告白というものが伴うということです。つまり、”口で言い表す”ことが最初にあり、次に”心で……”と続いています。心の深い部分で神の支配が後になっています。

わたしたちは、心の内で罪の自覚が起こり、次にイエス様による赦しと出会いを経て、初めて口で言い表すと考えますが、パウロの場合は逆になっています。

 

しかし、10節以下をみますと、”実に、人は心で信じて……、口で公に……”と述べています。一見矛盾した表現がされています。

 

パウロが生きた時代、ローマの皇帝は”主”と言われていました。また、家の主人のことも”主”と呼ばれていたようです。

ですから、おそらく、イエス様以外は主としないという思いがここに含まれているのではないかと思われるのです。

口で”主”と言い表すのはイエス様以外にないという思いです。パウロにとっては、口に言い表すということと、心の深いところで起こっていることということは、別々のようで、実は一つなのです。救いに至るという時には、そのような二つの働きが一つになって、告白に至るという事なのです。

 

パウロの言う告白には、神を賛美するという意味も込められています。礼拝自体が神を賛美するという大きな流れの中にあるのです。一人一人が自分の内側を見つめ、弱さを持った罪人の自分でしかないのですが、そのような自分さえも赦し、助け、導かれる神の恵みへの賛美、それが告白だというのです。

わたしたちが信仰を告白する時に、自分の内側にある罪、弱さにだけ目を注ぐのではなく、上を見上げ、わたしたちの内側にあるそれらの一切を赦される主キリストを見上げ、褒め称えるのです。

 

パウロが言うように、イエスを復活させられた神を信じることなのです。そのことはイエス・キリストにおいて為されるということです。

 

戦争責任の告白の冒頭、「明日の教団」と記されています。昨日までの歩みを反省し、その上に立って、わたしたちは明日に向かって、決断し、新しい歩みを考えて進むということではないでしょうか。当時の人々の中には、過去の過ちを認め、その反省に立って、歴史をしっかり担っていこうという思いがあったのではないでしょうか。

 

    「教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考   

     え、祈りました。」

と、記されています。考えるというところから、出発しています。

日本基督教団はキリストの身体なる教会として、日本と世界の救いのために、神に選ばれた存在だというのです。日本と世界のためにある限り、教団は教会であり続けるのだと思います。

 

教会は他者のために在り続ける限り、教会だというのです。それはわたしたちの教会が教会として立てられているのかという問いでもあります。あるいは教団が教会として立っているのかという問いでもあります。このようなことをいつも振り返りながら、その時代の中で”イエスは主である”と告白し、わたしたちの信仰を犯す者に対して、大胆に抵抗する者でありたいと願うのです。

 

 

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

【新共同訳聖書 マタイによる福音書7章1節~14節】

 

  今日の御言葉は”人を裁くな”という、厳しくも率直な言葉で始まっています。”人を裁く”というものは、わたしたちの日常に少なからず起こり得る行為です。

聖書は”あなたがたも裁かれないようにするためである”と続いています。これは、終わりの時に神様の前に立たされ、裁かれることです。神様の裁きを示しています。

神様の名において、裁きを行ってはならないという厳しい警告の言葉です。

神の座におくということは、自分を絶対化し、相手を裁くということです。正義の名の下に自分を絶対化するということも起こってまいります。

 

これは、弟子たちを始めとする、神様の御旨を行おうとするすべての人々に対してイエス様が語られた言葉です。イエス様の弟子として、キリストに従うということは、非常に重いということであり、責任のあることなのです。自分を神の座におくということを厳しく戒めているのです。

 

では、どんなことが起こっても何もしないでそれを受け入れるということのなのでしょうか。不正が蔓延り、誠実に生きている者が報われない、強い者が弱い者を踏みつける、そのような状態が延々と続いても、それで良しとしなさいということなのでしょうか。

決して、そうではありません。自分を絶対化する、対話を求めないということが裁く、相手になにも言わせない、それが裁くということです。

 

6節以下。この時代、犬や豚は汚れた動物とみなされていました。異邦人が関わりを持っていたと考えられていました。神聖なものとは、福音ということです。

犬や豚で象徴される、神を畏れない人々、神を呪う人々に罪を指摘したり、神様が悔い改めを命じていると告げると、”おまえたちは何様のつもりだ”と怒りと非難を受けることもあったようです。

ですから、そのようなことが起こらないように、安易に不正を行っている者の手に委ねるような軽率な行いは慎むようにとの戒めであります。

福音を伝えるということに対して、慎重であります。そして、苦悩が伴う事だと言われるのです。

 

イスラエルの歴史の中で生きた預言者は、神様に代わって宣教した人々です。預言者エレミヤは、神様から見出された時、語る言葉を知らない、若者であると召しに対して尻込みをしました。しかし、神様は”誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしの語る言葉をすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共に居て、必ず救い出す”と告げました。こうして、神様の召しに答えたエレミヤですが、彼の生涯は苦難に満ちたものでした。彼は誠実に時代の現実の問題と向き合い、神の言葉を語り続けたのです。これは、エレミヤ自身の内なる戦いでもあり、労苦に満ちた戦いでもありました。神の言葉で、自分自身と向き合い、真実を求めて、預言者として神の命令と約束を信じて歩みました。それゆえに、神様は彼の思いを超えて、力を与えてくださったのです。エレミヤは、どんなときにも、”わたしが共にいる”という神様の言葉を信じて歩みました。

そこには、ただ神への祈りという道しか残されていなかったのです。

 

7節以下の”求めなさい。……探しなさい。……門をたたきなさい。……だれでも……”という御言葉はすべて祈りに繋がっている言葉です。わたしたちの献げる祈りはいろいろありますが、主の祈りに示されていますように、すべて求めることは祈りなのです。それはイエス様と共に祈る祈りでありますし、イエス様も祈られました。イエス様は弟子たちに”誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い”と、十字架を前にしてゲッセマネの園で祈られました。

 

祈りが利かれることをことを御自身の生涯の歩みの中で確信しておられたのです。

わたしたちがイエス様の名によって祈るときに、どんな小さな貧しい祈りであっても、その祈りを神様は覚えてくださるのです。

 

親は自分の子供がパンを求めているのに、石を与えることはありません。親は子供のことを思って最善の努力をするものです。子供の健やかな成長を願う親は、子供の求めるものよりもっと良い物を与えるのではないでしょうか。そのように神様は求める者に、良い物を用意してくださるのです。そこには人間に対する神様の慈しみと愛があるからなのです。

 

神様がわたしたち一人一人を慈しみ、愛してくださっているその愛に促されて、隣人への愛を行いなさいとイエス様は言われるのです。

 

”だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこを律法と預言者である。”

 

そのことがイエス様が歩み続けた狭く細い道であり、命に至る道であることを今朝、心に留めたいとおもうのです。