ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は街を出て、イエスのもとへやって来た。

 

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 

 され、その町の多くのサマリア人は、「この方がわたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリヤ人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書4章27節~42節】

 

今朝は、ヨハネによる福音書よりイエス様とサマリアの女との出来事を見ていきたいと思います。

サマリアの女がイエス様と出会うことを通して、イエス様が本当の救い主であることを知り、その証言者となるという物語です。この箇所は、福音の持っている力が破れの多い人を介して伝えられて行くということをしみじみと感じられる記事です。

 

このサマリアの女は人目を忍んで水を汲みに来ています。今朝の箇所の前の部分でそのことが語られています。彼女は五人の夫がいて、今連れ添っているのは夫ではないと語っています。この女はそういう理由で身を隠すように生きてきた、好んでそういう生き方をしてきたわけではないのでしょうが、結果的にそのような生き方をしている女性です。そういう彼女がイエス様に声をかけられたのです。恐らく、この女性に対して、積極的に話しかけたり、一緒に行動したりする人はいなかったでしょう。そういう女性に対して、イエス様は声を掛けられたのです。

当時、ユダヤ人とサマリア人は長い歴史の中で対立していました。ですから、サマリアの女がユダヤ人であるイエス様に「水を飲ませてください」と頼まれ、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と驚いて問い返したのにはそういう背景があったのです。通常はユダヤ人がサマリア人に対して話しかけるということはありませんでした。しかも、ユダヤ人はサマリアの地域を通ることは決してしなかったのです。同じようにサマリア人もユダヤ人の地域には足を踏み入れることはありませんでした。

イエス様に声を掛けられたサマリアの女が驚くのも無理はありません。

ユダヤ人はエルサレムで礼拝をしていましたし、サマリア人はゲリジム山というそれぞれ別のところで礼拝をしていたのです。ユダヤ人とサマリア人との間には越えられない垣根があったのです。イエス様はそのことをよくご存じでした。そのことを受けて、イエス様は「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と語られたのです。二つの民族の対立というものを踏まえながらこのように仰ったのです。

一方で、イエス様とサマリアの女の会話を通して、この女の心の渇きにイエス様は命の水を注ぐのです。「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と語る女に、イエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と告げられました。

これが今朝の箇所の前の出来事です。

イエス様のこの言葉によって、サマリアの女はイエス様と一対一で向き合って話し始めます。その中で女性の中に新しい命が与えられるのです。

その時、帰って来た弟子たちが二人を目にして驚きますが、声を掛ける者はいませんでした。そして、女は水がめをそこに置いたまま町へ行き、人々に語ります。

このようにイエス様との出逢いを通してこの女性は新しい命を与えられ、変えられ、福音を証明する者としての歩みを始めたのです。

 

井戸に水を汲みに来て、女はイエス様と出会いました。水がめは当時、生活をする上で大切な必要不可欠なものでした。それを置いて、この女性は自分の身に起こったこと、イエス様との出逢いを伝えに町へと出かけて行きました。

イエス様は激しく対立している民族同士の中へ踏み込んで行かれました。そして、サマリアの女と対話し、彼女の心を開いてゆくのです。

 

一方、食事の準備のために出かけていたと思われる弟子たちが帰って来て、イエス様に食事を勧めますが、イエス様は「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と応えられます。おそらく、弟子たちにはイエス様が何のことを仰っているのかわからなかったでしょう。

イエス様にとって、神様から与えられた霊の食べ物のことを言われているのですが、弟子たちにはわかりません。”神様の御心を行い、その業を成し遂げること”がイエス様にとっての霊の食べ物でした。

そして、それは十字架への道へと繋がっていくのです。

 

35節以下では、イエス様は”種を蒔く”ことと、”刈り入れる”ことについて語られています。”蒔く”ということは、神の国の福音を伝える働きのことです。神の言葉を伝えること、それが”蒔く”ということです。

そして”刈る”というのは、蒔かれた御言葉の種が実を結んで果実を刈り取るということを指しています。聞く人の心が開かれ、福音を受け入れるに至る。人が自らの罪、破れを悔い改め、福音によって生きる。それが種を蒔く人、刈り入れる人の使命ではないでしょうか。

イエス様との出逢いによって、サマリアの女はイエス様と生きることを促されました。彼女は水がめを置いて、そのことを知らせるため町へと向かいました。それは福音によって生かされるということでもあります。

あのペトロがイエス様と出会った時、漁師としての大切な網を置いてイエス様に従ったことを思い起こされます。日常生活に無くてはならない網を置いてイエス様に従ったペトロと同じように、サマリアの女も福音に生きる者として立てられたということではないでしょうか。

これが福音を宣べ伝えるということであります。このような行為が神の国を伝えるということです。

 

イエス様も自ら神様の御心を行うために、十字架に向かおうとされているのです。イエス様も一人の”種を蒔く人”であったのです。弟子たちはイエス様の真意を理解することはできませんでした。それでもイエス様はやがて弟子たちが自分のことを理解し、神の働き人になることを祈り、願って十字架への道を歩まれたのです。

種を蒔く人は今は、自分で刈り取ることができないかもしれません。しかし、そこで蒔かれた種は決して空しくなることはない、そのことを信じて、その刈り入れを他の人に託す、ということであります。たまたま刈り入れに遭遇した人は、その実りを自分だけの力と働きとは思わず、既に先達の蒔かれた種があるということなのです。それに先立って蒔かれた種があり、その種が芽を出し、実を結んだということであります。イエス様はここで、”種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである”と語られているのは、蒔く人と刈る人が共に連帯して、イエス様の指し示された道に向かって力を合わせて福音を伝えるということなのです。

福音の種を蒔く、刈り入れるという働きは、個人的な働きではなく、蒔く者と刈る者との共同の働きなのです。弟子たちが遣わされるのに先立って、他の人の種蒔く働きがあり、神の働きが為されていくわけであります。

このことを覚えつつ、種蒔き、刈り入れの時に備えたいと思います。