そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになた父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えに成った。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書5章19節~30節】

 

 ヨハネによる福音書ですが、1節から18節は以前学びましたベトザダと呼ばれる池で病人を癒すという記事が記されています。イエス様は38年間病に苦しんでいた人を「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉と共に病を癒されたという奇跡を現わされました。

ちょうどその日は安息日でした。ユダヤ人の律法では安息日に何もしてはならない。仕事をしてはならない。と働くことを禁じておりました。ですから、床を担いで歩くということは労働と見做されました。この出来事で、ユダヤ人たちは安息日に律法を破ったとイエス様を批判しました。加えて、御自分を神の子である、神様は自分の父であると告げるイエス様を彼らは許すことができませんでした。律法を破っている人をなんとかして訴え、亡き者にしようと考えていたのです。

イエス様にとっては律法というものは本来、人の命を守ることが根本にありますので、どのような日であっても人が活き活きと生きるということを神様は望んでおられると理解しておられました。ですからイエス様は人への癒しの行為を通して、本来の律法を指示したと言えると思います。

 

19節以下からはイエス様の説教であると言われています。イエス様御自身が神様から託された子としての使命をこの説教の中で明らかにしているわけです。

特に今朝は24節・25節を中心に学びたいと思います。

 

24節の後半では”永遠の命を得る、裁かれることがない、死から命へと移っている”と3つのことが示されています。このことは言うまでもなく24節の前半の言葉から繋がっています。つまり、”わたしの言葉を聞いて信じる”ことが大切なのだと言われるのです。イエス様の言葉に耳を傾け、ただひたすらキリストに従う、そして、自分をキリストに結び付ける、キリストの言葉の下に留まり続ける人、そのような人こそが永遠の命を得、裁かれることなく、死から命へと移される”のだと語るのです。

 

ヨハネによる福音書の中では”信じる”というが何度も使われています。ベトザダの池でイエス様と出会った人は、イエス様の言葉を信じ、起き上がり、床を担いで歩き出しました。わたしたちは聖書の言葉から聞いて信じる、そこから神様からのメッセージを心の耳で聞き取り、ただひたすら聖霊の導きを祈りながら、心を傾けて聞くことによって、わたしたちの心が新しく開かれ、メッセージが示されるのです。

信仰というものを考える時に、イエス様の言葉を聞いて、神様からの呼び掛けを読み取って受け入れることである、それによってわたしたちは死から命へと移されるのです。この、死から命へ移されるということは、今ではなくやがて老いて死ぬという理解をするのですが、ここで言われているのはそうではなく、今やその時である。死から命へと移される、今がその時である。更にその声を聞いた者は生きる。つまりこれから起こる出来事ではなく、今がその時である、いまここで起こっている出来事なのだと語るのです。イエス様の言葉に耳を傾け、心を開いて信じ、受け入れる時、その人には今ここで永遠の命が与えられる、そして、死から命へ移されるのだということが示されています。

人の生と死を決定するのは今の時を於いて他にはないのだ。ヨハネはこのように語っているのです。

 

25節では、死んだ者が神の声を聞く時が来ると記されています。ここでは、イエス様の言葉を拒否している人々、ファリサイ派の人やユダヤ人達です。そういう人たち、心を閉ざしている人、生きているけれども、イエス様の言葉を拒否する人は、彼らは生きてはいるが既に死んでいるのだと語るのです。しかし、その声を聞いた者は生きる。イエス様の言葉を聞くならば生きると告げるのです。

 

ヨハネにとっては、死というものは肉体的な死を指すのではなく、生きていても生きる屍という言葉があるように死んだも同然の生。死後も裁きも遠いところにあるのではなく、この世の只中にあるとヨハネは語るのです。

このことで富める青年の話を思い起こします。あるお金持ちの青年がイエス様のところへ来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのでしょうかと問いかけます。イエス様はそれに対して、モーセの十戒、当時律法であったことを守るように言われましたが、青年はそのようなことは幼いころから守ってきましたと語ります。イエス様がその後、あなたの持っている財産を全て貧しい人々に施しなさいと青年に語り掛けると、彼はイエス様の下から去って行ってしまいました。

その後ろ姿を見つめながらイエス様は、財産のある者が神の国に入ることはなんと難しいことかと告げられました。

 

財産を持っている人間は、なんでも自分の力で生きてきたと考えがちです。つまり、人間の力の限界を心底知ることはない人生を歩んできたということです。イエス様を道徳的な教師と認めてやってきた青年でありますが、イエス様を真の癒し主とは捉えてはいませんでした。それに対して、最初に申し上げましたベトザダの人は38年間病気で苦しんできました。彼の孤独で、心身共に擦り切れ、疲れ果てた人生を歩んできたのでしょう。それでもよくなりたかった、永遠の命に生きたかったのです。だから、イエス様が良くなりたいかと問われた時に彼はすべてをイエス様に委ねることができたのだと思います。

 

イエス様の言葉を聞いて信じ、イエス様の力によって生きる時に、わたしたちは神様の前に自分の歩みを進めることができるのです。わたしたち一人一人にイエス様は求める者に命を与えて下さり、歩ませて下さるのだということを今朝の聖書箇所から学びたいと思います。