左上にあるのは2日前の日めくりカレンダー。直訳すると、「動物は皆平等だが、他の動物に比べ、もっと平等な動物もいる。」一体、どういう意味?
夫に聞いてみた。「平等は平等。でも実際には平等は存在しない。」と解釈できるそうだ。出典はイギリスの小説家、ジョージ・オーウェルの『動物農場』。
右下の本は数年前、夫が息子に贈ったもので、読みかけのまま置いてある。息子も私も読書はちょっと…。というわけで、この小説を読むことはないだろう。
以下はWikipediaの説明。それにしても漢字の多いこと。
とある農場(「マナー農場」)の動物たちが劣悪な農場主を追い出して理想的な共和国を築こうとするが、指導者の豚が独裁者と化し、恐怖政治へ変貌していく過程を描く。人間を豚や馬などの動物に見立てることにより、民主主義が全体主義や権威主義へと陥る危険性、革命が独裁体制と専制政治によって裏切られ、革命以前よりも悪くなっていく過程を痛烈かつ寓話的に描いた物語であり、ロシア革命とソビエト連邦を理想の国とみなすような「ソビエト神話」への警鐘であった。
動物つながりで、仏語の試験対策として作った、というよりも自然に出来上がったこの図からキーワードを探してみると、
・l'élevage intensif:集約畜産
・la surpêche :過剰漁業
・la surproduction:過剰生産
・la surconsommation:過剰消費
・le gaspillage alimentaire:食品ロス
・la crise de la biodiversité:生物多様性の危機
・la destruction des écosystèmes:生態系の破壊
まさに罪悪感と欲望のかたまり。↑前回は、長距離フライトに乗ることに対する罪悪感とそれでも抑えきれない欲望について書いた。
今回は食事について。去年、ヨガ哲学の講義を受けてみたり、複数の日本語学習者から話を聞いたりして食事に関して目から鱗が落ちた。
さらに、ある日本語学習者(ベジタリアンではない)が教えてくれたドキュメンタリー映画の内容をほんの少し覗いてみて、その晩から数週間、肉が食べられなくなった。
(「魚は食べられる」という矛盾は食文化によるのか…)
といっても目視できる肉であって、何らかの形では摂取していたはず。それに、一度味を知ると、やめられないのが肉。罪悪感と欲望の間で揺れた結果、摂取量を減らすことにした。
15年前、夫がベジタリアンになりたいと言った気持ちが少しだけ分かった。地球の環境、動物の扱い、自分の健康を考えてのことだったと初めて知った。
完ぺきにはできなくても、周り(環境)と自分のことを考え、できる範囲で行動を変えていけばいいと思えるようになったのは私にとっては大きな進歩である。
身近で、かつ直近の話で言えば、クリスマスに大量消費の国から持ち込まれた文化?である○○タッキーを食べないとか。今年、夫の国へ行く時も国内の移動を電車にするとか。
パリを避けて入国することにしたので、夫の故郷まで6時間かけて電車の旅を楽しむ予定。学生時代を思い出す。消費については5年前、現地に到着直後にも書いていた。
過去のブログを振り返りながらここまで来た。そして、結局はここに行き着く。よその国にあれこれ言いたくないけれど、根源はここだと思う。
購買欲の行き過ぎが、環境やジェンダー問題を全く無視する人物の支持に繋がるのかと、今朝のニュースを聞いて思った。欲望は理性を失わせるのだろう。
そんな私も先週末、欲望に屈してしまった。夫や息子に何度となく止められたにもかかわらず、二匹目を入手。以下、息子とのやり取り。
「絵歩毛」は「エポケ」の当て字で、ギリシャ語で「判断保留/留保」という意味。何事にも安易に判断を下さず、これからも考え続けていきたい。