試験仲間とのレッスン。

 

 

今年最後はフリートークがしたいと言われ、私は試験結果の詳細を報告する気でいたのだけれど、話題は意外な方向へ進んでいった。

 

来月(1月)で35歳になるという相手が「もう若くない。」と言うのを聞いて、「10年後、35歳は若かったなあと思いますよ。」と言う私は相手の一回り上。

 

未知の世界に不安はつきもので、私も近づいてくる50代に一抹の不安を抱いている一人。60代の私がこれを読んだら微笑ましく思うのだろうけど。

 

レッスンの前日に日本人の友達(独身で一人暮らし)と会った時、34歳同士の会話は子供の有無にも及んだらしい。子供を持たないのは本人の意思で決めたこと。

 

でも、家族の愛情をたっぷり受けて育った夫が子供は要らないと言い切ることにびっくりするという。おそらく本人も気付いていると思うが、これは旦那さんの愛情の証だと思う。

 

子供のいない人生を歩むことに何のためらいもない一方で、子供がいないことで理解できないこともあるかもしれないと、35歳を目前にして考えているんだとか。

 

そこで、「私の苦しみは・・・」とまるで相手の母語を直訳するかのように自分が35歳の頃の話をしてみた。結婚しているか、子供がいるか、子供は何人いるか、子供の性別は?

 

云々、カテゴリーに入れられることが大きな苦しみで、それに基づいた職場のランチが苦痛でたまらなかった。30代のほぼ10年間、私は大学で事務をしていた。

 

そこには留学経験や海外勤務を通じて外国を知っている人や、お勉強好きで高度な教育を受けた人もたくさん在籍していたのに話題は「ママ友」の会話と変わらなかった。

 

知識や経験があるからといって見識が広がったり、深まったりするものではないのだと知った。私が子供がいて良かったと思うのは?

 

その成長に合わせてタイムスリップできることくらい。でも、これも場合によりけりで、たぶん目の前にいる相手は記憶を封印したいだろうし、中学時代が暗黒だった私も然り。

 

結局、自分が中心で、子供が中心になることはないのだ。自分の人生なのだから。レッスンではここまでは話さなかったが、子供の有無ではなく要は自分の問題だと伝えたかった。

 

去年最後のレッスンはこんな調子で過去を掘り起こすような内容となった。ついでに、つい最近の記憶も。

 

「子供がいる友達の話が理解できない。」と相手が言うのを聞いて、ふと自分の友人のことを思い出したのだ。

 

話すつもりはなかったのに最近の出来事としてかいつまんで話したというよりも聞いてもらったというほうが正しい。

 

友人によってものの見事に却下された提案↓

 

友人が取った態度を相手は「薄情」と表現した。「は・く・じょう」は日常会話で滅多に耳にしない。相手の言語では ≪ insensible ≫ あたりか。どちらも強い言葉だ。

 

ほんの推測でしかないけれど、私は友人の態度も理解できる。何事も子供が優先の生活では無理をすると、自分に返ってくる。友人の苦しみや諦めが伝わってきた。

 

↑興味本位で40代前半に作ったライフスタイルに関するアンケート。この友人も回答してくれた。その気持ちを想像できたのは子供がいるからではなく、25年来の付き合いだから。

 

今日、アンケートを読み直してみた。50代が目の前に見えてきた今、私にとっては過去のことかどうか考えてみよう。で、4月に友人に会った時に聞いてみたい。

 

 

今日鑑賞したWilliam Turnerの ≪ Sun Setting over a Lake ≫ 人生の日没っていつなんだろう。この絵を見る限り、そう悪くはないように思える。

 

追記:いつも聴いているポッドキャストで、子供の有無に関する話題を見つけた。

« No Kids : un choix politique ? Ces femmes et ces jeunes qui ne veulent pas d’enfant ? »

 

私が興味を持ったのは、最後の最後に(40分15秒ぐらいから)取り上げられていた2つ目のタブー。子供を持ったのを後悔していると公言することについて。

 

誤解がないように書いておくと、正確には「子供を持ったこと」ではなく、「子供を持ったことにより母親の役割を押し付けられること」に対する不満。

 

「母親はこうあるべきだ!」「母親はすばらしい!」といった類のヤツ。これに抗おうとすると、世間ではまだまだ非人間扱いされるのだ。それが30代半ばの私の悩みであった。