旅行中に現地語を学ぶ。流行っているのか。語学学校の集中講座を除いて、お勧めしない。集中できないから。時間や場所にとらわれずに働くという働き方も流行っているらしい。

 

夏休みと冬休みを10日は取ることにしている私には理解できない働き方。来年、用事があって5年ぶりに夫の国へ行くことになったけれど、仕事を丸2週間休むつもりだ。

 

息子と私の有効期限切れパスポートを申請し直し、昨日航空券を予約。夫の長い本名を入力する時、神経を使うのは相変わらず。

 

私が働き方を変えたこと。直後にコロナが流行したこと。息子が高校生になったこと。夫が2回も転職したこと。いろいろな要因があり、疎遠になっていたフランス。

 

お誘いを受けて、いざ行くことになり、手続きを始めると、一気に現実味を帯びてくる。現地で感じ取ることはまさに三者三様だと思う。それぞれに思い入れがある。

 

夫にとっては母国だし、息子にとっては第二の故郷(本人に聞き取り)、私にとっては外国だけど、付かず離れず、言語学習を通じて、その文化や人々の考え方を知ろうとしてきた。

 

物事が見えるかどうかは目の大きさとは無関係なのだ。そして、遠くからでも見ることはできる。私はこんなふうに考えている。

 

外国人が日本語で書いた作文112点の中で、目を引いたのはラオス人通訳者の文章でした。来日したのは旅行で2回だけ。大切なのは、どこに住むかではなく、言語との向き合い方のようです。

 

『ユニークな「日本文化」論』より

 

逆に日本に住んでいても、母語を使い続ける人の観察眼は信頼できるものなんだろうかと疑っています。それぞれ事情はあるにしても、言語を知らずに社会や文化について語れるのでしょうか。
 

夫のように現地(日本)に住んで、日々、その国で使われている言葉を使うのが、語学力を維持する、または上達させるのに最良の環境だと思います。

 

でも、現地に住んでいなくても、学習言語と真摯に向き合っている人は、現地に住んでいるにもかかわらず母語を使い続ける人より多くのものが見えるのでは、と考えています。

 

だから、日本語レッスンでも見逃せる誤りとそうでないものが必然的に出てくる。前回の「あなた」の使用は後者に該当する。(目がまるで節穴②

 

「日本文化が好き」「文法を復習したい」という発言と矛盾していて、首をひねってしまうのだ。先週のレッスンでは授受表現の「あげる、もらう、くれる」を復習した。

 

教科書の例文:

 

私は姉に/から古い辞書をもらいました。

姉が私に古い辞書をくれました。

 

「同じ意味でしょ。」と言う相手。文を作らせると、理解できていないのが分かる。そこで「くれる」の受け手は「私」か「私の家族」だと説明。

 

その際に「ウチとソト」の概念を持ち出した。好き嫌いは別にして、日本語を学ぶ上で理解が不可欠な要素かと。この人が習っている日本の伝統芸術にもその精神があるはずだ。

 

ポカンと聞いているのを見ると、ため息が出そうになる。相手にとっては言語(文法)と文化は全く別物なのか。この人の母語である仏語の文法にも文化が凝縮されていると思うのだけれど。

 

「目がまるで節穴」シリーズ③も佳境?に入ってきた。綺麗に切り取られたポストカードだけを見ているというのはその言動から伝わってくる。例えば、

 

「昔、6月に来日して以来、初夏から真夏には絶対日本に行かないことにしている。」蒸し暑さがあるからこそ、日本の家屋、料理、衣服といった文化が生まれたのだと思う。

 

季節だけでなく、場所も限定されている。京都と東京のみ。折しも、その前日のレッスンの相手が私の出身地を知っていて感激したばかりだったからなおさら比べてしまう。

 

今思い出しても「忍者」と言っただけで「甲賀でしょ?」は難易度が高いと思う。そして、近畿の水がめ、琵琶湖を有する県出身者としては、この映画を見ないわけにはいかない。

 


正月の娯楽映画として家族3人で鑑賞しよう。大阪生まれ大阪育ちの息子の感想は?果たして外国人夫には理解できるのか。

 

逸れた話を元に戻し、要するに言いたいのは

 

お金を積んだからといって文化がよく見えるわけではない。借金をしてまで来日する技能実習生のほうが本当の日本人、日本語、日本社会の悲しい現実がよく見えるかもしれない。

 

なんてことを大晦日に考えてみる。同じ理由で、こういう方々のことも理解できないのである↓