戸田城聖先生 7 | 励まし慈悲感動通信

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戸田先生の悟り (7)(地涌の菩薩と虚空会)

 戸田先生の二回目の悟りは、「我、地涌の菩薩なり」 ということであります。
 まずはじめに、「地涌の菩薩」 と 「虚空会」 について、少し述べてみたいと思います。
 
 地涌の菩薩とは、末法に妙法を弘通するために出現する菩薩を言います。
 法華経の 『従地涌出品第十五』 に、「仏、是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。 …… 是の菩薩衆の中に、四導師有り。 一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり」 とあります。
 このように大地の底から涌き出てきたので 「地涌の菩薩」 という。 日蓮大聖人の外用のお姿は、この上首・上行菩薩の再誕であらせられます。 また、本法(南無妙法蓮華経)所持の人は、ことごとく地涌の菩薩であります。

 「虚空会」 とは、法華経説法の会座の一つで、説かれた場所(処)は “霊鷲山 と 虚空” の二か処あり、会座は “前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会” の三会あり、これを、「二処三会」 という。見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの十二品が 「虚空会」 に当たります。
 『見宝塔品第十一』 に、「爾の時に仏前に七宝の塔あり。 高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。 地より涌出して、空中に住在す。 …… 爾の時に大衆、二如来の、七宝の塔中の、師子座の上に在(まし)まして、結跏趺坐(けっかふざ)したもうを見たてまつり、 …… 即時に釈迦牟尼仏、神通力を以って、諸の大衆を接して、皆虚空に在(お)きたもう」 とあります。
 
 以上のような法華経の経文を見ますと、恒河沙の菩薩が大地から湧き出たとか、巨大な宝塔や諸の大衆を虚空に置いたなど、空想の世界のおとぎ話かと思われています。
 しかし、大聖人は 「法華経の文字は六万九千三百八十四字・一字は一仏なり」(971P)・「一字一句・皆真言なり 一文一偈・妄語にあらず」(188P) と仰せです。 ゆえに、これには深い深い意義があるのである。 阿弥陀仏の西方極楽浄土・薬師仏の東方浄瑠璃世界等の譬え話とは、次元が違うのである。
 
 そもそも、法華経の最初の序品からして、霊鷲山に集まった大衆は、「大比丘衆万二千人と倶(とも)なりき、菩薩摩訶薩八万人有り。天、龍、夜叉、…… 各眷属百千万数にして……」 とあります。 これ等のことは、歴史上現実にあったことではありません。 このことについて、池田先生は次のように述べられています。

 戸田先生も、序品で集まった衆生について、こう言われていた。
 「その何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。 何千万おたってさしつかえない」
 戸田先生は、法華経を、仏法を、人間の現実とかけ離れた架空の話や、観念論にはさせたくなかった。また、絶対にそうではないという確信があった。 生命の法であり、己心の法であることを如実に知っておられたのです。  (法華経の智慧1巻・85P)

 戸田先生の仰しっやるように、法華経が表現しょうとしているものは、生命の法であり、己心の法である。 また、仏の己心の世界であり、悟りの世界です。
 この仏の生命を表現するには、荘厳なる 「虚空会の儀式」 と七宝で飾られた巨大な 「宝塔」 で示す、以外に方法はなかったと言えると思います。 このことの意義について 『法華経の智慧』 には、次のようにあります。

 遠藤 例えば、ネパールのシャキャ博士は、こう言われていますね。
 「虚空会の儀式は、仏の偉大な境地の象徴であり、その 『現在』 のうちに、『過去の十方世界』 も 『未来の十方世界』 も含んでいると考えられます。時空を超越しているのが 『仏界』 です。虚空会で説かれている世界を悟れば、人間には何でもできる力が出るということです」 と。

 須田 戸田先生は、虚空会の儀式について次のようにおっしゃっています。
 「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。 この生命の力および状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。 しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。 現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である」  と。

 名誉会長 先生は、宝塔出現の意義、宝塔とは何かを明確に教えてくださった。 あの巨大な宝塔も、私たちの生命に潜在する仏界を表現したものなのです。生命の宇宙大の尊貴さを教えているのです。  (法華経の智慧・第1巻・120P)

 法華経の 「虚空会の儀式」 は、生命に潜在する仏界を表現したものですが、それだけではなくその他、重要な事がらを説き示しているのです。
 日蓮大聖人は、御本尊を 「虚空会の儀式」 を用いてお顕わしになられています。 「宝塔」 とは、南無妙法蓮華経のことであり、御本尊のことであります。
 提婆品では、提婆達多(悪人) と竜女(女人) の成仏を示し、涌出品では、地涌の菩薩を召し出し、神力品で末法の弘経を付嘱した。
 寿量品では、久遠実成の開顕(本果)、我本行菩薩道と本因を明かし、仏の本国土は娑婆世界であると説いている。(三妙合論)

 以上、ごく簡単に示しましたが、このように虚空会の説法は、仏法の中の肝心肝要の法文を数多く含んでおります。
 御書に 「謹んで法華経を披(ひら)きたるに諸の如来の所説の中に第一なりと云えり、又已今当の三説に勝れたりと見えたり」(1208P) とあります。
 ゆえに、法華経が 「已今当説最為第一」(法師品) と言われる所以は、この 「虚空会の儀式」・「久遠の仏の生命」 が説かれているからだと思います。