〈介護〉 100人いたら100通り それぞれの花が咲く 脳性まひの娘と42年2024年5月29日
作家・脇谷みどりさん
兵庫・西宮市の自宅で、「重度脳性まひ」の娘・かのこさんの介護を42年間、続けてきた脇谷みどりさん。5月には、介護生活と自身の思いを赤裸々につづった新著が発刊され、話題となっている。今回は、支えとなった人との出会いについて聞きました。
受け入れるまでの5年間
――娘さんの脳性まひという事実。告げられた時、どのように思われたのでしょうか。
最初は、とても受け止めきれません。はっきりと進み出すまでに、5年ぐらいかかりました。
初めは、信じたくない。“ちょっと遅れているだけ。絶対みんなに追い付く”って、思いたいんです。
告知された瞬間、まるで、知らない星に飛ばされたかのような、疎外感と孤独感でいっぱいになりました。
公園に行っても、お母さんたちの輪の中に入っていけない。“あんたになんの苦しみが分かるの”って、なっちゃうんですね。
――日々の介護、特に大変だったことは。
リハビリに週3回通って、就学前施設にも通いました。なのに、良くなるどころか、ひきつけの発作が頻発。寝返りすらできなくなったんです。
大変だったのは、本人の意思とは関係なく、激しく体を動かす不随意運動。これが始まると、3、4日、マラソンを続けるように、かのこの体力は消耗します。眠ることも、食べることもできません。必死に、かのこを抱き締めて、そのたびに、“今回は、もう無理かも”と思いました。
――ある日。電車の中から赤い車を見た脇谷さんが、かのこさんに「あの車の中には……幸せな家族が乗っているんやろね。お母さんもね、あんたが生まれてくるまでは、あんなふうに幸せだったのよ」と話すエピソードは、衝撃を受けました。
はい。5年間、頑張り続けた自分の中から、こぼれ落ちた言葉です。
普段は、明るく振る舞ったり、良い母、明るい母であろうと、取り繕ったりしていました。しかし実際は、周囲への嫉妬や、自分の人生が奪われるような怒りもありました。
それまでの私は、“平均的な幸せ”の基準を勝手に決めて、そうでない自分を不幸だと思っていたんですね。赤い車の一件から、“寝たきりの何が悪いの。娘にとっての幸せを求めよう”と考えるようになったんです。
ピアカウンセリング 効果は大きい
18歳の時、筆と墨でお絵かきに挑戦
――悩んだ時、政子さんという先輩からの一言が大きかったとか。
政子さんは、筋ジストロフィーという指定難病の息子を育てあげられた先輩でした。
当時、どこに行っても、「苦労するで」「大変やな」と、マイナスなことばかり言われる中で、政子さんからは、「幸せになれるで」と、力強く言われました。その言葉は、夜に輝くお星さまみたいで、魅力的でした。
――共通の経験をしている人が側にいることは、大きな力になるんですね。
とても大事です。同じような立場の人が悩みを語り合うことを「ピアカウンセリング」と言いますが、この効果は大きいと思います。
一番追い詰められた時は、正直、状況が似ていない人の言葉を受け入れられない瞬間もある。同じような環境の人と話すことは、自分の心を救うことになると思います。
天使でも悪魔でもない
指をぎゅっと握り、意思表示をする
――言葉でのやりとりができず、苦労されたのでは。
ニコっと笑ったり、怒ったりするのは、表情から分かりました。ただ、実際に意思疎通が図れるようになったのは、かのこが26歳の時です。
当時、新人だった理学療法士のおかげです。かのことコミュニケーションを取る方法を模索していた彼女に、私は「無理、無理」と言っていました。
でも、彼女は諦めませんでした。指を握る強さで、「イエス」「ノー」を伝えられるようになるまで、7年間も練習を続けたんです。
――“会話”ができた瞬間というのは?
ある時、その理学療法士の方が、「ほら、言ってるやん。お母さん」って言うんです。
こちらは半信半疑。そこで、何色が好きか聞いてみました。私はピンクだろうと思い込んでいたのですが、何度聞いても、「イエロー」の時だけ指をぎゅって握るんです。“あ、本当に言ってるんだ”って。この時から、部屋のカーテンや洋服が、すべてイエローに変わりました。
また、かのこが“天使”でも“悪魔”でもないことが分かったんです。普通の人やねって。どちらかというと、それまでは、天使扱いしているわけです。まるで、お人形さんのように。
だけど、ヘルパーさんにお風呂に入れてもらった時に、「ヘルパーさんにお礼を言おうね」って言うと、“お礼は言わない”って主張するんです。理由を聞くと、“お仕事だから”と。ヘルパーさんは、「そうです。かのこちゃんをお風呂に入れて、お金もらってます」って、笑っていました。
誰も犠牲にしない
仲良しきょうだい。正嗣さん㊧とかのこさん
――かのこさんの兄である正嗣さんは、どのような存在ですか。
親子というよりは、戦友かな。
幼い時は、してあげられなかったこともたくさんある。一番つらかったのは、かのこの入院に付き添ってばかりで、幼い正嗣の面倒が見られなかった時です。夜中に病院を抜け出した私は、自宅に戻り、駆け寄る正嗣を「ごめんね」って抱き締めて、またすぐ病院へ。あれは切なかった。
彼が私から受け取った唯一最大のプレゼントは、「自由に生きる」こと。正嗣は“何でも自分でできる子”に育ち、ある日突然、ペルーに行くと言いだし、現在はアメリカで「特別支援教育指導員」として働いています。いや、さすがに自由すぎるやろって、思いますよね(笑)。
――介護生活の中で、作家としても幅広い活躍をされています。活力の源は?
私は、「家族の誰も犠牲にしない」と決めたんです。私が、自分のやりたいことを諦めたら、かのこを“不幸の原因”にしてしまう。そうしないためにも、全部諦めず、やることにしました。
思い描いていた通りの未来ではないかもしれません。でも、100人いたら100通り、1000人いたら1000通りのストーリーがあります。“誰のように”っていうのではなく、それぞれの花が咲く。必ず幸せになれる。これが今の実感です。
新著『みどりとかのこ 今日も元気で!』(鳳書院)
わきたに・みどり 大分県生まれ。作家。1990年に絵本『とべ! パクチビクロ』(らくだ出版)を発刊。脳性まひの娘を42年間、介護してきた。実家の母がうつ病を発症した際には、日常の「くすっ」と笑えるはがきを13年11カ月、毎日送り続けた。5000枚のはがきをめぐるドラマは書籍となり、後に「キセキの葉書」というタイトルで映画化。西宮「さくらFM」で自身のラジオ番組を担当する他、個人通信「風のような手紙」の発行や新聞でのエッセー連載など、多くの人に希望を送り続けている。