〈学生部教学のページ〉 『生死一大事血脈抄』に学ぶ〈上〉 | 励まし慈悲感動通信

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しょういちだいけつみゃくしょう』に学ぶ〈上〉

さんを定める「今」の戦い!

 本年、学生部は年間はいどく御書として4編を定め、日蓮仏法のたましいしんかんめる。今回からは、2回にわたって「しょういちだいけつみゃくしょう」を研さんし、おんの師弟のえにしを学び深める。この時を選んで広宣流布をちかおどた学生部が、いっそう深い弟子の自覚に立ち、「世界青年学会 かいまくの年」をきょう拡大でせんしてまいりたい。

(今回の範囲)
新版1774ページ1行目~1775ページ17行目
全集1336ページ1行目~1337ページ14行目

御文

過去のしょう、現在の生死、未来の生死、さんの生死に法華経をはなれ切れざるを、ほっけつみゃくそうじょうとはうなり。
(新1775・全1337)

通解

過去のしょう、現在の生死、未来の生死と、さんにわたる生死のかえしにおいて、法華経からはなれないことをほっけつみゃくそうじょうというのである。

絵・間瀬健治

絵・間瀬健治

 
背景と大意

 「しょういちだいけつみゃくしょう」は、文永9年(1272年)2月11日、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地・つかはらしたためられ、さいれんぼうあたえられた御書とされている。元はてんだいしゅうがくそうだった最蓮房から、当時の天台宗のおうとされていた「生死一大事血脈」に関する質問があったとすいさつされ、それに対する御返事がほんしょうである。
 
 「生死一大事」とは、生と死をかえす生命における根本の大事のこと。「血脈」とは、法が仏からしゅじょうへ伝えられていくことを、親から子へすじがれることにたとえた言葉である。つまり、「生死一大事血脈」とは、仏から衆生に伝えられる生命の究極の大事のことで、万人成仏の法を意味する。
 
 本抄で大聖人は、生死一大事血脈とは妙法蓮華経であると示された後、衆生が生死一大事血脈を継ぐための、信心の姿せいについて述べられる。そして、法華経の「ざいざいしょぶつじょうしょう」の文を引き、師弟の深い宿しゅくえんうったえられる。最後に、生死一大事の血脈とは「信心の血脈」であるとけつろんされ、ますますごうじょうな信心を起こすようはげましを送り、本抄を結ばれている。 

 
解説 

妙法の生死

 しょうとは何か――人間にとって最大の不思議であり、根本の問いといえよう。万人に共通しておとずれる「死」であるが、だん、意識することは多くない。池田先生は、「死をぎょうし、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくる」と語った。ほんしょうには、日蓮仏法の生死観がたんてきに表されている。
 
 「お手紙をくわしくはいけんしました」。ぼうとう、大聖人はこう記されている。さいれんぼうからの手紙には、おそらく、てんだいしゅうがくそうとして学んだことなどが細かく記された上で、「生死一大事のけつみゃく」とは何かとたずねたことがすいさつされる。大聖人の答えは明快である。「生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり」と。
 
 なぜ、「妙法蓮華経」をもって「生死一大事の血脈」とされるのか。本抄では、その理由を二点、述べられる。
 
 第一に、法華経のくうしきにおいて、しゃくそんが上行さつたくしたのは、釈尊自身を成仏せしめた大法たる「妙法蓮華経」であったということである。「ゆずり」とある通り、成仏の極理がそのまま師から弟子へ渡されたのだ。
 
 しかも、上行菩薩をはじめとするの菩薩は、釈尊の久遠成道以来の弟子であり、同じ妙法蓮華経を所持していた。永遠なる師弟のきずなにおいても、「すんはなれざる血脈」なのだ。これは特別な者にのみ流れるでんたぐいではない。誰もが仏に成る血脈こそ妙法蓮華経なのである。
 
 続いて、妙法蓮華経と「生と死」の関係がつづられていく。妙法蓮華経が生死ののうを解決する根本法とされた二つ目の理由とはいされる。
 
 「みょうは死、法はしょうなり」。生死の二法も妙法から生じ、また、妙法とは生死の二法そのものであるとのおおせだ。
 
 全ての生命は、妙法の現す生と死のリズムの中にある。それはあたかも、大海原に波が起こり、その波が大海にかえっていくようなものだ。大海は妙法、波は個々の生命を表し、波が大海原から起こることが「生」、大海に波が還ることが「死」に当たる。妙法という永遠の大きな流れの中で、けんざいする「生」と、せんざいしている「死」の相を現すのだ。個々の生命はぜんあくごうをそのままぎながら、次の生へ歩み続けるとみるのが日蓮仏法の生死観である。
 
 その上で大聖人は、「この生死の二法が十界の当体なり」と続けられる。生死の相を表す私たちしゅじょうの生命は妙法そのものである。ごくかいの生命が現れているからといって、仏界が消えたわけではない。南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、生命に本来具わる仏界を直ちに開きあらわすことができる。このいんの不思議は、あたかも、花が開くのと同時に実がなるれんのようであるため、「とうたい蓮華ともうなり」と記されている。
 
 次に、天台大師のしゃくを引用し述べられているのは、生命活動を営む主体(しょうほう)だけでなく、その生命活動のりどころとなる環境(ほう)もまた「生死の二法」にのっとっているということ。「生死の二法」は妙法そのものであるため、天体の運行などちゅうてき事象をもふくむ環境も、因果俱時の蓮華の法の現れである。しゃぶつほうぶつすらも「生死の二法」、すなわち「妙法蓮華経の生死」の現れなのだ。
 
 これらのことをまえ、「久遠実成の釈尊」「かいじょうぶつどうの法華経」「われら衆生」の三つに全くちがいはないのだと確信し、南無妙法蓮華経の題目を唱えることが、成仏のようていうったえられている。
 
 池田先生は『生死一大事血脈抄講義』で、「地涌の菩薩として、南無妙法蓮華経をひろめる使命に生き、いなく戦い切っている姿すがたに、すでに『久遠実成の釈尊』『皆成仏道の法華経』と全く等しい南無妙法蓮華経の仏界の大生命がげんしているのです」とつづっている。私たちが自行化他のじっせんに生きいている時、そのやくどうする生命には、間違いなく「生死一大事の血脈」が流れ通っている。社会を変えゆく生死観の革命は、きょうの自身の前進にあり、と心にとどめたい。 

学会の黄金則

 続くもんでは、しょういちだいの法である妙法蓮華経を受持するにあたり、「りんじゅうただいまにあり」とのかくの信心に立つようけられている。その人に対し、千の仏が手をべるとされ、一方で不信の者はごくちると経文を通して述べられる。
 
 小説『新・人間革命』第23巻「かんとう」の章で、池田先生はつづっている。「師弟の結合があり、師弟のけつみゃくが流れてこその、創価学会である。そこに、広宣流布の永遠の流れがつくられるからだ!」
 
 
 新年に総本部で着任したある学生部のメンバーは、多くの来館者が“今こそ戦う時”と弟子のちかいを語る姿すがたに感動し、「師を求め続ける人は、永遠に先生と共にあると感じました」と語っていた。池田先生のさいばんねんくんとうしていただいた私たちは、その自覚とかんむねに、ますますの求道心を燃やしてまいりたい。
 
 その後の御文では、現在、法華経を受持しているのは、過去世における法華経との宿しゅくえんが深いからであるとされ、未来の成仏もうたがいはないと述べられている。
 
 そして、過去、現在、未来と三世にわたって信心をつらぬくことが法華経における血脈相承であると述べられ(べっけいもん)、ほうぼう不信の者は成仏するための可能性をってしまうため、法華経の血脈は通わないとつづられている。
 
 日蓮仏法は、三世永遠の生命を説くが、実際にあるのは「今」の連続だ。故に、「どんなにこんなんな現実があろうとも、未来はへんかく可能であるととらえ、根本の楽観主義にりっきゃくして、『今』を真剣に戦うのが、日蓮大聖人の仏法のほんなのです」(『生死一大事血脈抄講義』)と池田先生はつづっている。今この時に起こす、自身のからを破る一歩前進の戦いが、未来の成仏を決定づけ、また、過去世の意味をも変えていくのである。
 
 次に有名な御文が続く。「総じて、日蓮が弟子だん等、自他・の心なく、水魚の思いを成して、たいどうしんにして南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈とはうなり」と。さらに、ちゅうしんの心をはいし、うるわしい生命連帯を実現することが、“日蓮のつうの目的”とまで述べられている。
 
 小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「ふく」の章には、「何があろうが、“広宣流布のために心を合わせ、団結していこう”という一念で、異体同心の信心で進むことこそが私たちのてっそくです。いや、学会の永遠の“おうごん則”です」と。心の師を中心に弟子一同が団結した先に、新たな時代の勝利がある。本年も、あの友、この友と肩を組み、せんの戦いを開始しよう! 

 

「DAGA」~この御文が分からないんだが~ 

 まなぶくん:大学2年生
 
 けんさん:大学4年生。学くんの部長
  
 学くん 「しょういちだいけつみゃくしょう」を学んで、聞いたことのあるもんが出てきてうれしかったです。大聖人がここまでたいどうしんの団結を重要とうったえられていると初めて知りました!
 
 賢さん 素晴らしい! でも、そんなゆうとうせいじゃなくていいんだよ。何だって聞けるのが学生部の良さだからね。
 
 学くん それなら……1個だけ。水魚のたとえがしっくりこなくて。
 
 賢さん 魚と水のように、たがいになくてはならないというほどしんみつな思いで、同志をそんけいし団結しよう、という意味だったね。
 
 学くん そうだ!と思いつつも、身近なせんぱいを思いかべると、信心のレベルがちがい過ぎて。ぼくには「水」がきれい過ぎるというか……。
 
 賢さん きたな過ぎるんじゃなくて安心しました(笑)。たしかに先輩のすごいちょうせんを見ると“自分にはとうていできない”と思ってしまうこともあるよね。
 
 学くん 別世界の人に見えて、しゃくぶくしようかどうかと迷う気持ちも言いづらくて。
 
 賢さん 分かるなあ。でも実は、先輩も同じように迷っているものだよ。むしろ今もなやみもがきながらの挑戦なんだ。みんな信心修行のじょうだからね。
 
 学くん なんだか楽になりました。成長のじょうだから、賢さんも他の先輩とけんかしていたんですね。
 
 賢さん 良くないところを見られてしまった(汗)。
 
 学くん 池田先生が『生死一大事血脈抄講義』で、さっきの御文をはいして「たんてきに言えば『仲良く!』ということです」って言われてましたよ。
 
 賢さん きもめいじます(笑)。よく学んでいるなあ。“信心は、ちゅうしんの心との戦いだ”とおっしゃってたね。
 
 学くん はい! そういう挑戦中の“弱い”部分も見せてくれれば、もっと相談しやすくなるのになあ。
 
 賢さん よし、今年のテーマは「ありのまま」にしよ! 見えを張らずに、失敗談も話すから、また聞いてね!
 
 学くん ぜひ、お願いします!