インドネシア・スラウェシ島ツーリング1,000km(10/16~10/21)Indonesia | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東を走行後、2024年4月~5月オーストラリアツーリング。

インドネシア・スラウェシ島南部ツーリング(2022/10/14~2022/10/21)約1,000km

 

スラウェシ島と言っても一般の日本人にはなじみが無いだろう。約50年前当方が中学生の頃は確かセレベス島と習った思う。インドネシア独立以前はセレベス島と呼ばれていたが、独立以降は徐々にスラウェシ島と呼ばれるようになったようだ。

 

ローマ字のKのような形をしているが、面積は約17万km2と北海道(8万km2)の2倍以上ある。レンタルの小型スクーターでは短期間に一周できるような島ではない。

 

インドネシアのビザの30日間の有効期限を考慮してバリ島一周ツーリング同様に約一週間のツーリングを計画した。一週間のツーリング期間ではではスラウェシ島の南部の一地域に限られる。

 

スラウェシ島をツーリング地に選んだ理由は、インドネシアをバイクでツーリングしたフランス人がブログでインドネシアのバイク・ツーリングで一番良かった場所はスラウェシ島と書いてあったことを思い出したからだ。

 

また、16世紀~18世紀にかけて現在インドネシア領となっているモルッカ諸島でとれる香辛料の海上貿易上の要所であると10年ぐらい前に本で読んだことがあった。

(インドネシア地図 一番大きな中央の島=ボルネオ島の右側の島がスラウェシ島)

(マッカサルの空港着陸寸前。バリ島の家並みは赤色の屋根が多かったがマッカサルはバラバラだった)

(帰宅時間帯のマッカサルの交通渋滞。バイクは隙間があれば自由気ままに走行する)

ツーリング・ルートは5日間約1,000km

バリ島デンパサールから空路約1時間でスラウェシ島南部の州都マッカサル(Makassar)に着いた。

 

マッカサル市は人口150万を要するインドネシアでも7番目に大きい。そのマカッサルからツーリングをスタートして西部沿岸沿いに北上してパレパレ(Parepare)~内陸部のタナ・トラジャ(Tana・Toraja)~東側沿岸部のパローポ(Palopo)~東側沿岸部を南下してシワ(Siwa)~シンジャイ(Sinjai)~南部山岳地帯を横断してマッカサルへ戻るルートで5日間で約1,000kmの距離だった。

 

タナ・トラジャ(Tana・Toraja)を除いては観光地は無く、外国人観光客の姿は見かけないローカル色が強く残る地域だ。観光地と言われるタナ・トラジャでさえオランダ人のカップル2名と出会った位で、他の欧米人の姿は見かけなかった。

 

(赤字がツーリングルート 左下が南スラウェシ州の州都マッカサル。マカッサルから時計回りに進んだ)

 

レンタル・バイク

レンタルバイクを確保するのにマッカサルで約1日費やした。

 

インターネットのグーグル検索の情報を頼りにレンタル・バイクの店を当たるのだが、グーグル情報の4件の内2件は存在しなかった。レンタルバイクショップと言っても物理的な店舗があるわけでなく、自宅でどこかで借りてきたバイクを用立てするような仲介者だった。

 

普通の民家なので業者を探すのも骨が折れた。4件目に訪れた業者の自宅で100ccクラスのホンダ製スクーター(Scoopy)を借りれた。ただし、その場で借りれたわけでは無く、借りている人が返すことになっているバイクがあるので、翌日からなら借りれると言うことだった。この結論に達するのにグーグル翻訳を介してインドネシア語で2~3時間かかった。 

 

レンタル料は一日85,000ルピー(約850円)で当初3日間借りて、その後ツーリング中に3日間延長した。 既に5万キロ走行しているスクーターでタイヤはつるつるに禿ていた。ブレーキの利きも怪しいかったが、他に選択肢が無い。

 

マッカサル(Makassar)~パレパレ(Parepare)180km

 

マッカサルを出発前にバックミラー取り付け型のスマホホールダーを買い、取り付けたためマカッサル出発が昼前になる。スマホはカーナビとして利用する。目的地パレパレ(Parepare)までは幹線道路を百十数キロメートルの距離だから、短時間に到着できるだろうと考えていた。しかしながら、目的地へ到着したのは日没後になってしまった。

 

途中に滝が流れるがごときの激しい夕立で雨宿りしたため時間がかかった。雨宿りした場所はモスクの中だった。モスクは住民が集まり易い街道沿いに建てられ、だれでもモスクの中に入れる。お祈りの時間帯は過ぎていて、若者数名がモスク内で歌の練習をしているに過ぎなかった。歌の練習には当方の存在は気にならないらしい。

 

バリ島ではほとんど見かけなかった高床式の民家が沿道では多くなってきた。雨が多くて低地のため、水害をから家財を守るためかどうか知らないが、高温多湿の気候には高床式の住居が適しているのだろう。

 

小雨の中、日が暮れると真っ暗になり、早く本日の宿泊場所を確保したい。今日もホテル等の宿泊場所の予約をしていない。最初のホテルでは、大手ホテル予約サイトでの書き込み評判が悪かった。

 

そんなことは意に介さず、空き室があるかどうか尋ねたらBooking.Com経由のお客はお断りだと言わんばかりで、宿泊したかったらBooking.com表示価格の室料の約2倍の同ホテル正規の室料を払えと言っている。やはり、ホテル側の対応は良くない。

 

2件目の宿泊場所候補を訪ねた。探していた民宿では無かったが、似たような民宿があった。

 

当方がそこの従業員に声をかけると経営者の女性オーナーが部屋へと案内してくれた。オーナーの対応には好印象を持つが、部屋は現地スタイルのバスルームだった。

 

しゃがみ込む便座の横に大きな水桶が置いてある。水桶の水を容器にいれて体に水をかけてシャワー代わりとする。洗面所も無いので、歯磨き等もここで済ます。観光化されていないので西洋式のトイレ、シャワーと洗面所があるバスルームは無い。

 

3年前のアフリカツーリング時に訪れたコンゴでもおなじようなスタイルのバスルームだったので抵抗は無かった。

 

この後に宿泊したホテルでも同じような便器と水桶を置いたバスルーム主流だった。

(稲を刈り取った後の水田)

(この区間には高床式の家と養殖池が多かった)

(主要幹線道路のため珍しく休憩所があった。屋根付きの高床式の板張り休憩所には寝そべっている人がいた)
 

(インドネシア式のバスルーム)

 

パレパレ(Parepae)~タナ・トラジャ(Tana Toraja)180km

 

パレパレからタナ・トラジャは山の中へ入る区間だった。タナ・トラジャは他の地区とは異なる伝統的な習慣をいまだ守っている。葬式にお金をかねるのだ。葬式には牛や豚が屠られ、その肉を参列者に振る舞う。

 

数十年前にテレビの番組で水牛が男に大きな蛮刀で首を落とされるショッキングな画像を目にしたことがあった。当時はそれがインドネシアのどこからしいとしか知らなかったが、タナ・トラジャで行っていた葬式の際の儀式らしい。

 

タナ・トラジャは南スラウェシ地区で一番の観光地とのことだったが、そこに至る道路は良くなかった。道路に穴や段差、舗装の剥がれ等で劣化が進み、随所で徐行運転せねばならなかった。道路上に段差があった。バイクが跳ねあがり、着地した瞬間に前日に購入したプラスチック製のカーナビホールダーを支えているアームが揺れで根本でぽっきりと折れてしまった。

 

この地区にはオランダ植民地時代にキリスト教への帰依が進み、今でも多くのクリスチャンが住む。イスラム教のモスクと一緒にキリスト教の教会も見かけるようになる。

 

一番目立つのが船の形をした屋根だろう。遠い昔の祖先が中国大陸からの渡来人だと言うことで中国大陸を向いて船形の家を建てているとのガイドブックの説明書きを読んだが、日本の神・仏閣のような象徴的な建物だろう。人が住むわけは無く、大きな住居の家の屋敷内の一角に船形の家が祀られている。

(内陸部でも高床式の民家だった)

(タナ・トラジャへ進む山岳地帯)

(内陸部にも水田や池がある)

(タナ・トラジャの舟形屋根の神社のような象徴的な建物)

(道路を挟んでモスクの屋根と教会の塔が見える。道端では手で稲穂を木製の箱にたたきつけて脱穀を行っていた)

 

タナ・トラジャ~シワ(Siwa)170km

 

タナ・トラジャ以外は観光地では無いので、ガイドブックでの予備知識が無い。連日の夕立で山の中の道路が崖崩れの影響を受けているとタナ・トラジャで宿の主人が教えてくれた。 

 

ちょっと心細い気持ちで山岳道路を進んだ。車やバイクの往来がほとんどない静かな道路だった。道路を借り切っているようで,壮快に走行する。やはり雨の影響で道路の崩壊や土砂崩れで道路上に土砂が取り残されている箇所が数多くあった。交通量が少ない道路なので、それほどの問題にはなっていないようだ。

 

山の中(内陸部)から島の東側沿岸沿いを進むと観光とは縁遠い地元の姿が目に入る。高床式の民家の軒先には屋根付きの高床式の板が敷かれ、そのうえでごろごろ寝ながら暑さを避け休んでいる人が目立つようになる。日中の炎天下では農作業等の野外の仕事ができないため、暑い日中は涼しいところで休憩しているのだろう。

 

道路を行きかう車は西海岸に比較すると明らかに少ない。その為か道路の整備も遅れているようだ。マッカサルからパレパレの西海岸沿いの道路は片側二車線道路で、それなりの交通量だった。東海岸は片側一車線の対面通行。 一車線でも交通量が少ないので渋滞は無い。

 

連日睡眠不足に陥っていた。

未明のモスクの拡声器からの<アラーアクバル=神は偉大なり>の発声以上に、にわとりの鳴き声がうるさかった。何処の家でもにわとりをかっているのだろう。そのにわとりが早い時には午前3時前から早朝までずっと鳴き続ける。安眠妨害でにわとりを絞め殺したくなるような気分になってしまう。

 

とにかく休憩したかった。出来れば昼寝もしたかった。前日口にしたバナナの揚げ物の油が良くなかったのか、お腹の具合も良くない。

 

休憩のため道端の露店のような民家でパパイヤを買い求めてた。パパイヤを切ってもらいそこで食べるのだ。ラグビーボール大のパパイヤが約50円と他の食料品に比較すると激安だったのには驚いた。

 

一人ではその場で全部食べきれないので、半分はテイクアウトの持ち帰りとして、夕食時に食べるほどの量だった。

(タナ・トラジャから島の東側へ下る途中)

(幹線道路は比較的に整備されていた。交通量が極端に少ない山道道路)

(パパイヤを食べて休憩した路面店舗)

 

(大きなパパイヤを切ってもらう。食べきれない分は袋に入れてテイクアウトした)

(荒地の中のカラフルな壁の長屋風建売住宅)

 

シワ~シンジャイ(Sinjai)320km

一番長い走行距離の一日だった。スクーターでこの距離を走行するのはつらかった。

朝7時に宿を出発して日没前に目指す投宿地にたどり着きたかった。

 

海岸前沿いに道は続かず、数回内陸地へと迂回するように入り込む不便なルートだった。

カーナビの誘導で路面がガタガタになった僻地の村々へ続くようなルートに入り込んだ。

カーナビではショートカットの小路が数十キロ続く表示になっている。

 

この先、ショートカットの小路の路面が良くなるだろうかと自問する。このような場合は状況が更に悪くなることをアフリカツーリングで学習済みだった。長距離を走行せねばならないことを考慮して、カーナビが誘導するショートカットの道を継続することを諦め、距離が長くなるが路面が良い幹線道路に戻り走行する。

 

スクーターでつるつるにはげたタイヤではぬかるみの道路走行は厳しい。この小路の途中でブロックタイヤをつけたKawasaki製のオフロードバイクに乗る現地の男がいた。当方が超低速で走行していたので、その男はバイクを止めて当方の様子を心配してくれたようだった。

 

その男は当方が日本人らしいことに気が付き、日本語で<どうかしましたか?>と声を掛けてきた。こんなところで日本語を話すインドネシア人が何故いるのかと当方が驚いてその男に尋ねると、その男は日本の茨城県の中小企業で研修生として2年間働いたことがあると誇らしげに言う。

 

胸のポケットからその当時の研修生の身分証明書を取り出して当方に見せる。日本で働いたことが良い経験だったのだろう。今でも当時の身分証明を大切に身に着けているほどだった。

(道を歩く人は頭上に服をかけて暑さを避けていた)

(日本で研修生として働いたと言っていた男=写真左側)

(種まきに前後の水田地帯。田植えは行わず種を直接ばらまいて育てる)

(収穫後の水田もあれば、これから種まきをする水田もある。一年中何回でも耕作可能だと言う)

 

シンジャイ~マッカサル 170km

スラウェシ島最後のツーリング区間が一番厳しかった。 山岳地帯を横断する形で東から西のマッカサルへ戻るルートであり、半分以上の区間の道路は舗装面が経年劣化でぼこぼこになり、舗装と呼べる代物では無く、未舗装のでこぼこした道路面とほどんど変わらなかった。

 

山村地帯の集落と集落をつなぐ生活道路のため、道路整備の予算が余り無いのだろう。

駈足程度の低速での走行のため、走行距離が長くない割には時間がかかった。

 

時間がかかった分、村々の生活が良く見えたようだ。一番近くの町へ出るにもバイクで1~2時間かかる。若者が集団で談義したり、ゲームに講じたりする姿を見かける。学校には行っていないことから、働き口が無い若者たちだろう。

 

この山の中では道路工事や土手の草刈り作業のような公共工事か、狭い棚田での農業ぐらいしか働き口はないのだろう。

 

耕作地が少ない山奥だからこそインスタ映えするような棚田が広がる美しい風景があるが、住民にとっては厳しい生活なのだろう。

(山間部の集落を通る生活道路)

 

(山間部の棚田)

(山間部の風景)

(バックミラーに取り付けたスマホホールダーが壊れてしまったので、道が複雑なマッカサル都市部では腕にスマホをゴムバンドで括り付けた)

 

スラウェシ島での好印象

人々が優しく親切だった。

 

モスクのひさしで夕立の雨宿りをしていたが、雨脚が強くなってくると、モスクの建物の中へ避難しろよと声をかけてくる人。

 

レンタルバイクを借りた初日にガソリンタンク内の燃料残量を勘違いした。一旦エンジンを止めたら、エンジンがかからない。調べてみるとガス欠だった。幸い民家の前だったので、その場所にいた少年が近所でペットボトルにガソリン入れてきてくれた。

 

シンジャイでは夕食に訪れた3姉妹が経営する食堂で、当方が日本から来てバイクツーリング中だと伝えると、夕食はおごりですと丁重な扱いを受けた。

 

3人姉妹と言っても一番上の姉と一番下のまだ中学生ぐらいしか見えない三女では親子以上の年の差があるように思えた。

 

長女は外人からはお金をもらっておきなさいと言っている様子だったが、レジと食事を作ってくれた次女が無料でいいですと長女の主張を無視して当方からお金を受け取らない。中学生ぐらいの三女は店番をしていた。

 

夕食の返礼として、当方は次女にチョコレート菓子を届けた。返礼に照れながらも次女と三女が喜んでくれた。

 

マカッサルのレンタル・バイク業者自宅で2~3時間交渉で話しているうちに若手業者の姉、(お兄さんの夫人)義理の妹、両親や自分や兄弟の子供達と複数紹介された。

 

グーグル翻訳を介しての時間がかかる会話ではあったが、NHKのテレビ番組で笑福亭つるべいがホスト役の<家族に乾杯>のような温かみがある家族愛や歓待味わうことが出来た。その上、飲み物や現地の食べ物もご馳走になってしまった。

(ガス欠の時に助けてもらった母と息子)

 

(マッカサルのレンタルバイク業者の家族。中央の若者が経営者。右側は元警察官だったという62歳の父親。左側が夫人)

 

色彩豊かな民家や学校の壁

熱帯には原色が映えるようだ。民家の壁や塀が原色のペンキで塗られている。

この色合いが自然や気候に釣り合って見え、違和感が無い。

 

モスクのミナレット(尖塔)も奇麗な色合いで塗られている。アラブの色合いではない色だ。塗料メーカーである日本ペイントの看板がかかっている店を町中では複数見かけたが、ペイント(塗料)需要はうなずける。

(小学校の建物)

(カラフルな色の民家)

 

(カラフルなミナレット=モスクの尖塔)

(Nippon Paint=日本ペイントの看板がある塗料業者の店舗)

 

困ったこと

未明の鶏の鳴き声とモスクからの拡声器からでる祈り発声のため、ほぼ連日寝不足となった。

 

正確な時間は把握していないが、たぶん午前3時台には鶏の鳴き声とモスクからの<アラーアクバル>でたたき起こされ、鳴き声は近所の鶏にも広がりずっと続く。たたき起こされた以降はよく眠れず朝を迎えるため、日中は寝不足気味だった。 

 

夜は早く寝れば済むことだが、夜は翌日の宿泊先のこと等調べたり、メールやSNS等で連絡することがあるため早く就寝できない。

 

スラウェシ島のマカッサルから次の目的地のジャワ島のスラバヤ(Surabaya)へ飛行機で移動する。

 

以上