サントス~コロニア・ピニャール~クリチバ~フロリアノポリス(11/15~11/18)980km | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東を走行後、2024年4月~5月オーストラリアツーリング。

11/15(水)サンパウロからサントスへ移動 約80km

 

サントスは日本からブラジルへの移民が長い船旅を終えブラジルの土を初めて踏んだ場所であった。日系移民の歴史には関心があったので訪問したいと思っていた。

 

サンパウロのホテルで朝食中にライダースーツを着ている男に声をかけると、日本語で返事が返ってきた。日本の上智大学で日本語を学んだことがある中年のブラジル人マルコス氏だった。前日ホテルの駐車場にBMWの大陸横断バイクの筆頭モデルであるR1200GSが駐輪されているのを見つけたため、そのバイクの持ち主だろうと踏んでいた。

 

相手も当方のバイクを意識していたらしく話がかみ合い、サンパウロからサントスまで同氏のバイクに先導してもらいショートツーリングを楽しんだ。ブラジル人ライダーの常として、少しでも走行前方に隙があると入り込む。高速道路でも前を走る車が少しでも遅いと、車と車の間をすり抜け追い抜く。追随して当方はたいへんだ。

 

サンパウロは海抜700mに位置するため、サントスへはこの高度を長い距離をかけて下る。下り坂途中の路側帯からみるサントス(低地)方向の景色は見ごたえがある。

(サンパウロからサントスへの途中 山の向こうにサントスがある)

(サンパウロからサントスへの高速道路。 SANTOSの表示が道路標識が見える)

 

サントスは大西洋に面した人口40万人強の港湾都市だ。ポルトガル植民地時代からブラジル内陸部で収穫されたコーヒー豆の一大集積地であった。ここから世界各国へとコーヒー豆が輸出された。

旧市街地(中心部)には、コーヒー取引が活況だった古き良き時代のコーヒー取引所が博物館として公開されている。

 

旧市街から離れた海岸地区には10キロメール位ある海岸通りにはホテル、マンション等が建ち並び海水浴客でにぎわっている。

実際ビーチの長さと広さはリオデジャネイロのコパカバーナとイパネマを足したより、長く広いと巨大な海水浴ビーチだ。このビーチの一角の公園に日本からの移民90周年を記念した親子ずれの移民の像が建っている。

不退転の決意でブラジルの土地を踏んだ移民はどんな気持ちでいたのだろうか。その後の人生はどうだったのだろうか等々考えてしまう。

 

旧市街のコーヒー取引所で会話した日本からボランティアで日本語教師として来ている女性にサンパウロ州で

福井県出身の日系人が多く住む日系人村のことを教えてもらった。その村は福井村とも呼ばれているという。

急遽計画を変更して、その村へ行ってみることにする。

 

本日の宿泊はHotel Imperador (一泊171レアル=約6千円。施設の割にはビーチ沿いの通りにあるため割高のホテル)

(サントス市の海岸通りの公園内にある日本移民の上陸記念碑)

 

(サントスの広大なビーチ)

(旧コーヒー取引所。現在は博物館となっている )

(コーヒーの積み出しで賑わった往時のサントス港。往時の写真からの転記)

 

(サントス市旧市街のバスターミナル付近の通り)

 

11/16(木)サントス~コロニア・ピニャール~サン・ミゲール・アルカンジョ 268km

(リオデジャネイロ=右端からフロリアノポリス=左下までの地図。中央にサンパウロ、その右下がサントス。左端中央がクリティバ)

 

サントスのホテルを8時に出発するものの途中のサンパウロで高速道路の分岐点を間違えたり、市内の渋滞等で

福井県出身の移住者が多く住むコロニア・ピニャールに到着したのは14時過ぎであった。

 

コロニア・ピニャール(Colonia Pinhal)はサンパウロから南西約200kmに位置するピラール・ド・スル(Pilar do Sul)とサンミゲール・アルカンジョ(San Miguel Arcanjo)の中間に位置する。福井県出身の移住者が三十数世帯住み<福井村>とも呼ばれている。

 

幹線道路からコロニア・ピニャールへ通じる道路の分岐点にはランドマークである高さ10mほどの朱色に塗られたコンクリート製の鳥居が建っている。

 

福井県からの移住は昭和30年代に行われた。同地には7歳~17歳まで日本語による教育を行なう日本語モデル校、日本人会館、図書館等の施設がある。学校はJICA(日本政府の対外援助機関)の補助金等で建設されたが、運営自体は授業料と寄付金で賄っている私立学校だ。生徒は移住者の子弟が13名在籍するが、世代が進み生徒数が少なくなっているという。この学校にはJICAから派遣されてきたボランティアの日本語教師も教鞭をとっている。

 

当地へ入植した80歳代の果樹園経営の農場主を訪問する。当初農業の経験無しで入植したが、現地で農業指導を受けて開墾や購入等で耕作面積を増やし、現在は数十ヘクタールの土地にブドウ、デコポン、柿、琵琶等の果樹を育てている。敷地内に住宅を提供して現地人を数名雇用してる。

 

入植した当初は自らの手で住む家を建て、開墾して土地を広げる等大変な苦労を重ねてきたようだ。苦労のかいあって経営は上手くいっているようだ。成功者と呼んでもいいだろう。それでも日本から農業指導者等を招き仲間の農場経営者と勉強会を行うなど努力を惜しまない。

 

日本ではデコポンは一年に一回しか実を結ばないが、ここの亜熱帯気候では年に2回果実を結ぶという。

当方もデコポンや琵琶をご馳走になった。実が大きく、甘くておいしい。しかし当地で栽培はじめたブドウは、他の地域でも栽培するようになり、価格が下がるようになったため同地ではブドウ栽培から撤退して他の果樹に切り替える農家が多いという。農業は天候に左右される部分もあるが、市場動向を読んで経営する商売センス及び商品開発や生産方法の効率化等の企業努力も必要だ。

 

宿泊はサンミゲル・アルカンジョのPousada Villa da Mata (一泊130レアル=約4,600円)

(幹線道路からコロニア・ピニャールへ通じる分岐点には鳥居が建っている)

 

(コロニア・ピニャールの入口)

(コロニア・ピニャールの日本語モデル学校)

 

(日系農場主の邸宅)

(日系農場主のブドウ園)

 

11/17(金)サンミゲル・アルカンジョ~パラナ州クリテイバ市 303km

 

サンミゲル・アルカンジョで宿泊したホテルで日系人の女性が日本語でホテルのWiFiについて教えてくれた。その女性はホテルの経営者一族だった。義理の兄(非日系のご主人の兄)がホテルを経営していたが、他界してしまい弟であるご主人と一緒に本業のデザイナーの傍らホテルも経営することになったと言う。

(サンミゲル・アルカンジョで投宿したホテル)

(ホテルの経営者一族の日系三世のアンジェラさん)

 

サンミゲル・アルカンジョの町では他の日系人にも出会った。前日夕方買い物をしたスーパーマーケットの前で串刺し焼肉(チュラスコ)のいい匂いがした。屋台で串刺し焼肉を販売している東洋人がいた。声をかけてみると日系2世の中谷さんいう方だった。


(日系2世の中谷さん)

 

町の中央広場前に文具店があった。看板を見るとUEDAと書いてある。店では高齢の上田さん夫婦が娘夫婦と一緒に接客している。上田氏は85歳。昭和7年(1930年)に7ヶ月の赤ん坊の時に両親に連れられてブラジルへ来たという。

(UEDAさん夫婦)

(サンミゲル・アルカンジョの中心街)

 

サンミゲル・アルカンジョからパナラ州クルテイバ市まで300kmの距離があるが、最初の100kmは車の通行が少ない国立公園内の道路も含む田舎道だ。周囲の景色を眺められるのが田舎道の楽しみである。

国立公園内のジャングルのように生い茂った亜熱帯林間の道路を抜けると手入れが行き届いたブドウ畑の中を走る。その後は、バナナのプランテーションが広がる畑の中の道路を走る。バイクで走っていて飽きない景色だ。

 

後半200kmは2週間前にサンパウロに行く時に通過した高速道路だ。坂道とワインディング(カーブ)が多い。登りの坂道では動けなくなったトラックを2台見た。ワインディング道路2ケ所で横転したトレーラーを見かけた。

 

クリティバ市内のホテルは日系人が経営するホテル(Hara Palace Hotel)に宿泊する。一泊朝食付き84レアル(約3千円)。現在は創業者原氏の娘婿の宮脇氏が経営を継いでいる。

(サンミゲル・アルカンジョからクルティバ方面へ向かう途中の森と牧草地帯)

 

(国立公園内の道路)

(道路沿いのブドウ園)

(バナナ農場)

 

(クリティバ市内のHotel Hara Palaceの内部は1940年代に建設されたクラシック調だ)

 

11/18(土)クリテイバ~サンタ・カタリーナ州フロリアノポリス 290km

 

激しい雷雨のため出発を遅らせた。小ぶりの雨になってきた11時過ぎにホテルを出発。内陸の

クリティバから海辺のフロリアナポリスへは高速道路の一本道だが、大部分がワインディングの下り坂だ。

 

ワインディング道路では大型トレーラーに注意する必要がある。スピードを出しすぎるとカーブで横転してしまうのだ。今日もカーブで横転したトレーラーを2台見た。

 

フロリアノポリス到着手前でやっと海岸が見える場所に出る。フロリアノポリスはサンタ・カタリーナ州の州都。人口40万人の9割以上は白人だ。もともとはポルトガル系移民が入植した土地であったが、その後ドイツ人、イタリア人移民等が入植して人口の多くを占めるようになったという。

 

ホテルから路線バスに乗り、海峡を越え同市の中心部がある島へ行ってみた。

日本の都市のようにコンクリートの近代的な建物が多い。建物の落書きが少なく日本の街並みに似ている。土曜にの夕方に開店いている店は薬局ぐらいでほとんどの店は営業をしていない。営業しているスーパーを聞き出して飲料等の買い物をする。レジ係のブラジル人女性が当方が日本人と知ると<日蓮宗を知っているか>と聞いてきた。その女性は日蓮宗の信者だという。

 

投宿したホテルはドイツ系の名前だ。ドイツからの移民者が始めたホテルだろう。受付係の中年男性はドイツ系らしい。不愛想だが、しっかりしている。バスの乗り方等をしっかり教えてくれた。

 

投宿ホテルはHotel Bruggemann (一泊朝食付き149レアル=約5,200円)

(フロリアノポリスの旧市街がある島を結ぶ鉄道橋)
 

 

(フロリアノポリス旧市街の商店街)

 

(フロリアノポリスの街並み)