インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

 

下記世界地図の各色の線は2017年から2025年まで5回に分けた97カ国・延べ20万kmの走行ルートを示す。

 

 

 

初回 2017年5月~2018年7月 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 7.8万km (世界地図・紫色の線)

 

下記地図はユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断の走行ルートを示す。

 

 

 

鳥取県の境港から韓国のトンへ経由フェリーでバイクとともに極東ロシアのウラジオストックへ渡り、そこからモンゴルに途中立ち寄りユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬に至るユーラシア大陸横断を行う。その後スペインのマドリッドからアルゼンチンのブエノス・アイレスまでオートバイを空輸して南米最南端のアルゼンチン・ウシュアイアから中米経由、北米アラスカのフェアーバンクス・アンカレッジまでの南北アメリカ縦断を行う。

 

但し、コロンビアとパナマ間には陸路が無いため、その区間はバイクを空輸する。

 

道順は以下の通り:

 

鳥取県・境港~韓国経由のフェリーでロシア・ウラジオストックへ渡る~ロシア~モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツエゴビナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア~フランス~スペイン~ポルトガル・ユーラシア大陸最西端のロカ岬~再度スペイン・マドリッド~オートバイをアルゼンチンのブエノスアイレスへ空輸~アルゼンチン~ブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン~チリ~再度アルゼンチン・南米最南端のウシュアイア~再度チリ~再度アルゼンチン~再度チリ太平洋側を北上~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア・ボゴタ~オートバイをパナマへ空輸~パナマ~コスタリア~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーゼ~メキシコ~キューバ(バックパック旅行)~再度メキシコ~アメリカ合衆国(USA)~カナダ~アメリカ領アラスカ~再度カナダ~アメリカ合衆国・ロサンゼルスからオートバイを日本へ海上輸送する。

 

(南米ペルーにてクスコへ向かう途中。オートバイはBMW製F700GS)

 

2回目 2019年4月~11月 アフリカ3/4周とアラビア半島横断 3.4万km(世界地図・青色線)

 

地図上の青線を矢印方向にスペイン・バルセロナから進む。

 

スペイン・バロセロナから日本から海上輸送したバイクを乗り出し、モロッコからアフリカ西海岸沿いに南アフリカのケープタウンまで南下する。その後、南アフリカから北上してアフリカ東部諸国を経て、スーダンから紅海をフェリーで渡りサウジアラビアを横断後、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了。オートバイはドバイから日本へ海上輸送で送り返す。

 

道順は以下の通り:

 

スペイン~ジブラルタル海峡をフェリーで渡る~モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ飛び地~コンゴ民主共和国~アンゴラ~ナミビア~南アフリカ共和国~ボツワナ~ザンビア~ジンバブエ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン~紅海をフェリーで渡る~サウジアラビア横断~バーレン~再度サウジアラビア~アラブ首長国連邦(UAE)・ドバイ

 

(コンゴ共和国走行中。オートバイはヤマハ製セロー250)

 

コロナ禍明けの2022年9月~2023年7月の3回目のアジア・中近東ツーリング 3.9万m(世界地図・赤色の線)

 

下記地図の赤線を東南アジア諸国からインド等南アジアを経てスペインまで進む。

 

マレーシアへ海上輸送したバイクでインドネシアとベトナムを除く東南アジア諸国(マレーシア、タイ、ラオス、カンボジア)

を回る。

 

インドネシアとベトナムは現地のレンタルバイクを使用。

 

ミャンマーの陸路国境が閉鎖中のためタイからインドへバイクを海上輸送後、インド亜大陸からパキスタン・イラン・コーカサス諸国(アルメニア、ジョージア)・トルコへと進み、スペインのマドリッドでツーリングを終了。マドリッドから日本へオートバイを送り返す。

 

道順は以下の通り:

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイク)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ~タイからオートバイをインド・ムンバイへ海上輸送~オートバイをインドへ海上輸送している間ベトナム(レンタルバイク)~インド~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン・マドリッド。

 

 

(インド最南端のコモリン岬。オートバイはヤマハ製セロー250)

 

4回目 2024年4月~5月のオーストラリア半周のルート(緑色の線)は以下の通り(走行距離約1万km)

 

下記地図上の赤線を矢印に従って時計回りに進んだ。

 

 

Colac(ビクトリア州)出発~Adelaide(南オーストラリア州)~Ayers Rock=エアーズ・ロック(西オーストラリア州)~Tennant Creek(ノーザンテリトリー)~Karumba(クイーンズランド州)~Cairns(クイーンズランド州)~Carnarvon Gorge 国立公園(クイーンズランド州)~Brisbane(クイーンズランド州)~Sydney(ニューサウスウェールズ州)~キャンベラ(首都)~Benalla(ビクトリア州)でバイクツーリングを終了。

 

オーストラリアでは知人のオートバイ(スズキ V-strom250)を借り、ビクトリア州のColacという町(メルボルンの約150km西)から出発して、ビクトリア州のBenalla(メルボルンの約200km東)でバイクを返却した。

 

それまでの自分のバイクを使用した海外ツーリングに比較してバイクの海外輸送等の準備に手間がかからず、短期間でツーリングを計画し、大きな出費となるバイクの輸送費用もなく、気軽にツーリングを行うことができた。

(亜熱帯のクイーンズランド州をスズキ製Vストローム250で進む)

 

5回目(新たに加えた走行ルート)2025年4月~2025年9月 欧州・中央アジア周回ルート 34,000km

(世界地図・オレンジ色線)

 

下記地図の赤線を矢印方向に進んだ。

 

 

スペインのマドリッド保管してあった日本の知人のオートバイ(スズキ・Vストローム250)を譲り受け、マドリッドからスタートして地中海沿岸・トルコを通りロシア・コーカサス地方を経てカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンやキルギスの中央アジア諸国へ進むルートを往路とした。

 

復路は再度カザフスタンからロシア西部を通りスカンジナビア半島の最北端のノールカップ(ノルウェー)まで進み、そこからノルウェーを南下してスウェーデン、デンマーク経由ドイツ、オランダ等の大陸欧州諸国を通りイギリス・アイルランドへ渡る。

 

その後フランス、ポルトガルを経由して出発地のスペイン・マドリッドまで戻る。

 

以下の道順:

スペイン~フランス~イタリア~クロアチア~モンテネグロ~アルバニア~ギリシャ~トルコ~ジョージア~ロシア・コーカサス地方~カザフスタン~ウズベキスタン~アフガニスタン~再度ウズベキスタン~タジキスタン~再度ウズベキスタン~キルギス~再度カザフスタン~ロシア西部~エストニア~フェリーでフィンランド・ヘルシンキへ渡る~フィンランド~ノルウェー(欧州最北端ノールカップ)~スウェーデン~デンマーク~ドイツ~オランダ~ベルギー~フランス~ドーバー海峡をフェリーで渡る~イギリス~フェリーでイギリス領北アイルランドへ渡る~アイルランド~再度イギリス領北アイルランド~イギリス・リバプールへフェリーで渡る~再度イギリス~フランス・ディエップへフェリーで渡る~フランス~スペイン~ポルトガル~再度スペイン・マドリッド

 

(スズキ製Vストローム250に乗りスペイン・マドリッド出発)


以上

総集編その③ 最終回  欧州・中央アジア周回ツーリング (スカンディナビア半島~英国・アイルランドを経てスペイン・マドリッドまで)

 

ロシア西部から今回のツーリングの終盤であるヨーロッパ地域のエストニアに入った。

 

エストニアからフィンランドへ渡った後、欧州最北端のノルウェーのノールカップを欧州ツーリングの目標地点の一つとした。

 

そしてノルウェー・スウェーデン・デンマークを経てドイツ・オランダ・ベルギーを走行後、イギリスとアイルランドを一周する計画を持っていた。

(赤線は欧州地域でのツーリングルート。青色の矢印の方向に進んだ。欧州地域ではタリン~ヘルシンキ間を始め10回くらいフェリー船を利用した。地図の一番上=北がノールカップ)

 

スカンジナビア半島の北欧諸国は学生時代のバックパック旅行や会社員時代の商用で訪れていたこともあり、オートバイツーリングには惹かれない地域であった。また、物価が高いこともツーリングを遠ざけていた。

 

しかしながら、オートバイライダーの性分で最北端という場所は心に響く。この機会を逃したら、北欧へは行かないだろうと考えて、その目標地にふさわしい最北端のノールカップを訪ずれることにした。

 

ロシア・ウクライナ戦争の影響で、ロシアのサンクトペテルブルグからフィンランドへの国境は閉鎖されていた。そのため、フィンランドへ行く最短ルートを辿り、エストニアの首都タリンから国際フェリーでフィンランドの首都ヘルシンキへ渡った。

 

エストニアの首都タリンで準備

 

フィンランドへ行く前に、北欧諸国より物価が安いエストニアのタリンで、病院での体調検査、オートバイのエンジンオイルの交換、キャンプ用ガスバーナーのガス缶の購入等を済ませた。

 

特にロシア走行中に風邪をこじらせ、咳が止まらないまで悪化した健康状態を当方は肺炎でも起こしていないかと心配した。 病院で胸のX線写真の撮影や血液検査等を行ったが、心配した状況ではなくてほっとした。

 

タリンからヘルシンキを結ぶ国際フェリーにはポーランドからのオートバイライダーグループ、ドイツからのライダー達等ノルウェーのノールカップを目指すライダー達が複数乗船していた。

 

スカンジナビア半島では風光明媚なノルウェーが期待以上だった。

 

 

フィンランドをひたすら北上して北極圏(北緯66度以北)内に入ると夜がない白夜となる。人家もほとんどないラップランドと呼ばれる森林地帯となる。更に北上してノルウェー領に入ると海岸線にでた。

 

樹木があまりない殺伐とした海岸線ながら、思ったほど寒くない。最北端へ向かう道路にはオートバイライダーやキャンピングカーが意外と多い。中にはサイクリストの姿も見かける。

ノールカップへ向かう途中には海底を通過する7kmほどの寒くて薄暗いトンネルがあるが、その海底トンネル内を一人で歩いている旅行者を見かけた時は驚いた。

 

氷河が長い年月をかけて山肌を削りとったU字谷のフィヨルドは圧巻だった。

 

フィヨルドは海に面した海岸線を形成するU字谷だと思っていたが、陸上のフィヨルドもあった。ノルウェーの最大級の陸上のフィヨルドを見てその大きさに圧倒された。

 

フィンランドとノルウェーでは5回キャンプ泊をした。キャンプ場には蚊が多くでる。虫よけスプレーはあまり効果がないため、特にテントの設営時や撤収時には蚊に悩ませれられた。

 

そんなわけで、テント泊はなるべく避け、キャビン(宿泊ロッジ)が備わっているキャンプ場ではキャビン泊にした。キャビンは2人用、4人用とあったが、当方一人用として借りることが出来、快適に過ごせた。

 

ノルウェーの北海沿いは雨が多くて夏でも寒いだろうと思っていた。しかしながら、予想に反し、連日晴天であったことも、風光明媚な自然の中を走るオートバイライディングを楽しませてくれ、期待以上の好印象を残してくれた。

(赤線はスカンジナビア半島のツーリングルートを示す。エストニアの首都タリンは地図の右下の赤丸印の場所。地図左最下部の赤丸印はノルウェーの首都オスロの場所を示す。)

(フィンランド・ラップランドの州都ロヴァニエミエにある北極圏入口のモニュメント。北緯66度33分以北が北極圏となる。)

 

(フィンランドの北極圏を北上すると、森林の樹木は小さくなる。)


(欧州最北端のノルウェー・ノールカップは北緯71度。道路が整備されているため観光バスでも訪れられる。)

(ノールカップの海岸線は断崖になっている。)

 

(ノルウェー北部の海岸線には海からそびえ立つような雪山があった。)

 

(ノルウェー・ロフォーテン諸島にあるヘニングヴァールの港)

 

(ノルウェー南部の陸上のフィヨルド、トロスティンゲンは長さ20km~30kmとノルウェーでも最大級だ。)

(カランゲル・フィヨルドを高さ約500mの高台から見る。写真奥の入江には10階建て位の巨大なクルーズ船が停泊していた。)

(Gjerde キャンプ場のバンガロー)

(ノルウェーの首都オスロにあるムンク美術館。個人の作品を展示する美術館としては世界最大級規模。6~7階建て建物の3フロアにムンクの作品が多数展示されている。)

 

(ノルウェーの代表的な画家ムンクの代表作<叫び=Scream>の油絵)

 

イギリスとアイルランド一周

 

会社員時代ロンドンには数カ月滞在したことがあったが、イギリスの地方は全く知らなかった。

 

昨年日本国内ツーリング時に知り合ったオーストラリア人ライダーからイギリスでのオートバイツーリングは良かったと聞いていた。美しいカントリーサイド(田舎道)の情景を想像して、イギリス本土北端のスコットランドを目指すことにした。

 

フランスのカレーからドーバー海峡をフェリーで渡った。

EU脱退後、イギリス入国時のオートバイの通関には時間がかかるのではと懸念した。

 

しかしながら、フェリー乗船前にフランス側でEUからの出国手続きとイギリス側の入国手続きを行う対応だった。税関の検査らしきものはなく単にオートバイの登録証(オートバイのパスポート)を見せるだけだった。

 

ロンドンは素通りして、友人が住むオックスフォードへと向かい、その後東海岸のウィットビーを経由して、スコットランドのエディンバラ、アバディンと進み、イギリス本土最北端のトーソーまで北上した。やはり最北端という場所には興味が沸く。

 

日本の幕末に薩摩藩の英国留学生の一人がアバディーンに留学したことをテレビ番組で知った。何故スコットランドのアバディーンを留学地としたのか?と興味をもった。

 

同地の博物館を訪れて知ったことは、幕末に武器商人として長崎を拠点に薩摩藩や長州藩と関係をもったグラバー商会のグラバー氏がアバディーンの出身で、同氏が若き薩摩藩士や長州藩士の英国留学を手助けしたことを知った。

 

そんな縁でアバディーン市は長崎市と姉妹都市関係を築いている。

 

イギリスは長距離を走行するオートバイライディングには難しいと感じた。緑の牧場や草原の中の道路を走行するのは気持ちがいい一方、一般道は幅が狭く片側一車線で交通量もあるため、道路脇にオートバイを止めるスペースがない。

 

景色が良い場所なら、オートバイを止めてその景色を眺めたり、写真を撮りたいと思った。しかしながら、後続車を気にしてオートバイを停止できない。

 

曲がりくねった一般道でも制限速度は60マイル(約100km弱)と速く、後続の車にせかされ、田舎道をのんびり走行して景色を楽しむという風にはいかない。

 

スコットランドを北上するに従い、交通量は少なくなってきた。

また、道路沿いには農地が多くなっているように見えた。

 

夏でも肌寒いスコットランドでイチゴがハウス栽培されている光景を眼にした時は驚いた。

 

スコットランドはノルウェーのフィヨルドに似たU字谷の渓谷や地平線に遮るものがない広大な湿原等ワイルドな自然がある地域だった。

 

かって怪獣ネッシーが生息しているのではと世界の注目を浴びたネス湖の周囲も走行した。ネス湖は意外に狭く、川のように見えた。

 

大型海洋動物が棲むには小さすぎるので、ネッシーについてはガセネタであろうことは当時も容易に想像できただろうと思った。

 

 

英国領北アイルランドの州都ベルファーストからアイルランドの首都ダブリンへと移動した際、国境らしきものが無かった。その逆のアイルランドからベルファーストへ進んだ際にも国境らしきものが無かった。

 

アイルランドはEUにとどまっている一方、イギリスはEUを脱退している。そのため本来は両国間を移動する際はパスポートコントロールと税関での検査が課せられるべきところを、実際はその手続きを省き、両国間の人と物の往来を自由にしている。

 

アイルランドの一人当たりのGDPは10万米ドル以上(約1400万円)以上と世界最高水準だが、見た目上はその豊かさが確認できない。街に高級車があふれているわけでもないし,広い屋敷に住んでいるわけでもない。

 

低い法人税率をてこにグーグル、マイクロソフト等の外資導入に奏功して、外資が稼ぐ利益が統計上では一人当たりのGDPを高くしているのではと思った。


(赤線はイギリスとアイルランドのツーリングルートを示す。)

 

(イギリス中部・東海岸にあるウィットビー。ブラム・ストーカー原作のドラキュラの映画にも使われた199段の坂。階段坂を上りきるとセント・マリー教会の墓場に出る。)

 

(アバディンの海洋博物館にはグラバーを称えた日本コーナーがあった。そのコーナーに展示されていた1905年に撮影された集合写真には東郷元帥=中央2列目、グラバー氏=中央4列目、岩崎弥太郎氏の弟であった岩崎弥之助=2列目、右端から3人目が映っている。 グラバー氏は岩崎氏=三菱グループ創始者のアドバイサーとして活躍していた。)

 

(アバディーン付近のイチゴのハウス栽培)

 

(ネス湖=Lock Nessの中央付近。ネス湖は細長い。幅は2km~3km程度しかない。)


(1960年代、世界にグループサウンズブームを引き起こしたリバプール出身のビートルズは無名のころ

リバプール市内中心部マシュー通りのカラバン・クラブ=写真左の建物で演奏をしていた。)


(イギリス最南端のペンザンスにあるマウント・セイント・マイケル(城)は中世の時代にはフランスのモン・サン・ミッシェル修道院が保有していた。干潮時には陸から島まで歩いて渡れる。)

(アイルランドは人口500万人足らずだか、国外にはアイルランド系の人たちは3000万人いると言われる。1800年代中ばの大飢饉をきっかけにアイルランドから大量の移民が北米を中心とする国外へ渡った。この写真はカナダの農場へ移民を勧める過去のポスターだ。)

 

(アイルランド西部の海岸線。場所によっては海面からの高さが200mあるモヘーの大断崖)

 

(アイルランド北部の城のような形の山)

 

フランスとポルトガルを経てスペイン・マドリッドに戻る。

 

イギリスの厳格が感じられないフランスは何故かホットした心持ちになった。

多分自由な雰囲気のフランスとフランス人のラテン気性だろう。

 

イギリスのブライトンからフェリーでフランス・ノルマンディー地方のディエップに到着した。ブライトンは雨が降っていたが、ディエップは晴れていただけでフランスには好印象を持つ。

 

ディエップ~ルーアンと進み、かねてから行きたいと思っていたモン・サン・ミッシェルを見学した。モン・サン・ミッシェルは海の中にあると想像していたが、実際は砂州が堆積して陸上とつながりかけていた。

 

フランスで一番観光客が訪れる場所と聞いていたが、観光客で混みあっている

状況ではなく、余裕をもってモンサン・ミッシェルの修道院内を見学でき、当方は満足した。

(フランスの西海岸ノルマンディー地方にあるモン・サン・ミシェル=修道院)

 

(スペイン北部ゲルニカの町にあるピカソが描いたゲルニカの絵画のレプリカ。ゲルニカは第二次世界大戦前のスペイン内戦で

反政府軍の要請を受けたドイツ軍とイタリア軍の空爆を受けて、町が破壊され多くの一般市民が犠牲になった。ピカソはその惨事の様子を描いた。)

(スペインの首都マドリッドに向かって最後の150kmを進む。)
 

以上

総集編 欧州・中央アジア周回ツーリング その➁(中央アジアからロシア西部経由でエストニアへ出国まで)

 

中央アジア諸国の主なデータは以下の通りである。

国名

人口(万人)

面積千km2(世界の順位)

一人当たりGDP米ドル(世界順位) IMF2023

円換算一人当たりGDP(万円単位) 

一人当たりGDP世界順位

日本

12,260

378(61)

33,899

474

34

USA

34,180

9,833(3)

82,716

1158

7

カザフスタン

1,980

2,780 (9)

13,261

185

71

ウズベキスタン

3,570

447 (56)

2,820

39

140

タジキスタン

1,030

144 (94)

1,184

16

170

キルギス

680

199 (85)

2,019

28

154

*トルクメニスタン

660

488 (52)

11,927

166

76

 

*トルクメニスタンは未走行。

 

カザフスタンの国土の大きさが日本の約7倍と突出しているが、人口は多くない。

 

過去の時代から中央アジア諸国で人口が多いウズベキスタンが政治や文化の中心的な役割を担った。 

 

経済的にはカザフスタンの一人当たりのGDP(国民の年収と捉えてよい)が13,000米ドル(約185万円)と突出しているが、原油等の鉱物資源のお陰だといえるだろう。

 

一人当たりのGDPでは国ごとに格差があるが、どの国の庶民の生活状況はそれほど変わらないように見えた。

 

(中央アジアの走行ルートを赤線で示す。地図左端はカスピ海北部のロシアのアストラハン。地図中央下はアフガニスタンのマザリシャリフの位置。地図右側はキルギス。キルギスから再度カザフスタンを東部を首都アスタナまで北上後、ロシア西部へと進む。距離が分り難いが、例えば赤線ルート右下の丸印のアルマティから赤線に沿った地図上部ロシア・カザフスタン国境までは

北海道の北から鹿児島まで約2,500kmの距離がある。)

 

国土が日本の約7倍あるカザフスタンの2,500kmの迂回路

 

ロシア・コーカサス地方を抜けてカザフスタンへ入国した。

 

入国時に当方同様にオートバイで中央アジアを目指してツーリング中のチェコ人の若者ルーカスと知り合った。

 

向かう方向が同じため二人でロシア・カザフスタン国境から約200km入ったカスピ海北部海岸沿いの都市アティラウを目指して進み、同市内で当方が目をつけていたホステルに二人で投宿した。

 

見知らぬ場所で初めて会うライダーとも、お互いの気脈があえば行動を共にすることは時々ある。

 

本来はアティラウから南下する最短距離のルートを通りウズベキスタンへ行く計画をしていたのだが、投宿したホステルのオーナーから南下するルート上の国境は閉鎖されていると聞いた。

 

ロシア国境を出る際にもイタリア人の旅行者から同様なことを聞いていたので、情報の信ぴょう性は高いと判断した。

 

カザフスタンの中央部まで出てウズベキスタンの首都タシケント方面への迂回ルートを通行せねばならないことになった。

 

最短距離のルートなら300km~400kmでウズベキスタンへ到達できるが、迂回ルートでは2,500km位の距離があった。

 

更に1カ月後にはキルギスからロシア西部を目指してカザフスタン東部を約2,400km走行することになるため、カザフスタンは合計5千km走行することになった。

(ロシアのアストラハンからカザフスタン入国後、チェコのライダーと伴走する。)

(アティラウで宿泊したホステルとそのオーナー。オーナーは地図を広げて迂回路ルートと宿泊すべき町や宿を教えてくれた。)


(アティラウ市内をヨーロッパ側とアジア側に分けるウラル川)

 

優しいカザフスタン人

 

カザフスタンの人々は優しかった。

 

入国後3日目、アティラウから500km先のアクトベを目指して進んだが、疲労のためアクトベまで進めず、途中の町で投宿することにした。

 

投宿した宿は長距離トラックのドライバーや工事現場の作業員が泊まるような安宿だった。食堂も兼ねていた。安宿にもかかわらず、当方は宿賃の値引きを打診した。

 

強面のおじさん経営者はオーナー<値引きなんかあるものか!>と当方の打診を一蹴した。

この強面のおじさんが翌日朝食は無料にしてくれた上、宿をチェックアウトする際にはカザフスタンの土産だと言って、カザフスタンの文字が入ったチョコレートとライターを当方にくれた。

 

また、ツーリング中に出会ったカザフ人のオートバイ・ライダーは幹線道路の休憩所でオートバイ談義を少ししただけであったが、カザフスタンのチェコレートを売店で買ってきて当方にプレゼントしてくれた。当方が断ろうとすると<気持ちだからぜひ受け取ってほしい>言うではないか。

 

ある時は食事をおごられたり、またある時は大学の総務部で大学とは無関係な当方にバイク保険加入の手続きをしてもらったりと随分お世話になり、単調で長丁場のカザフスタンツーリングを思い出で深きものにしてくれた。

(アティラウからアクトべへ向かう草原の一本道)

(草原のラクダの放牧)

(アティラウからアクトべ途中で投宿した宿のおじさん経営者は、見た目と違い優しかった。)

 

(アスタナへ向かう途中に砂嵐に遭遇。当初、雲が地面付近に発生していると思ったが、凄まじい勢いの風で地表の砂が巻き上げられていた。バイクを停車すると風の勢いで倒れると思い、走行し続けた。)

 

 

 

(アルマティーでオートバイの保険加入の手続きをしてくれたカスピ海大学)

(アスタナの国立博物館の目玉展示品、黄金人間=Goldman。紀元前4世紀~紀元前3世紀ごろの王子のものと思われる金の衣装)

(首都アスタナの高さ105mのバイテック・タワー。球状の展望台は人気があり、入場者は長蛇の列で待つ。)

 

(アスタナへ向かう途中に出会ったカザフスタンのライダー。チョコレートをプレゼントしてくれた。)

 

 

幹線道路状態は悪いが、建物が立派だったウズベキスタン

 

首都タシケントに近いカザフスタンとの国境からウズベキスタンに入国した。タシケントは新興国とは思えないほど道路インフラが整い、建物も立派だった。

 

また、サマルカンドを始め、14世紀に中央アジアを征服したティムールの出生地シャヒリサーブやテルミズ等の地方都市の建物も立派であった。

 

しかしながら、都市と都市を結ぶ幹線道路は悪路だった。舗装が剥がれ、つぎはぎだらけの凸凹道路面は悪路としか言いようがなかった。当方は凸凹の悪路を走行するのにうんざりして、古都のブハラやヒバへ行くことは断念した。

 

ウズベキスタンで驚いたことは日本語を話す現地人が意外と多いことだ。タシケントのホステルで同宿したウズベキスタン人は日本に4年留学したと言っており、流ちょうな日本語を話した。 当方へ<日本が分かる人がウズベキスタンには多いから変なことは言わないほうがいいよ>とアドバイスされるほどだった。

 

アフガニスタンと川を隔てて国境を接するウズベキスタン南部の都市テルミズではアフガニスタンのビザが簡単に取得できたため、テルミズから南に約150km離れたアフガニスタンのマザリシャリフまで足を延ばすことにした。

 

ティムール朝の都だったサマルカンドはシルクロードのオアシスとして栄えた。同市にはユネスコ世界遺産のモスク、イスラム神学校等からなるレギスタン広場(イスラム教複合施設)があり、同地を訪れる観光客でにぎわっている観光の街だ。

 

当方は2009年の会社員時代に駐在していたモスクワから観光と将来のツーリングの下見を兼ねて訪れたことがあった。

 

当時は街中の道路といえども未舗装で雨が降れば泥沼化していた。また、観光客の姿が疎らだったレギスタン広場の周囲も見栄えがしない質素な場所だったと記憶していた。

 

しかしながら、今回訪れたサマルカンドは16年前の質素な街並みではなく、洗練した街並みに変わっていた。16年前は誰でも入ることができたレギスタン広場は有料となり、内外の見学者や観光客で賑ほどの変わりようには驚いた。

(首都タシケントの街には街路樹が多かった。)

 

(タシケントから約250km先のサマルカンドへ向かう途中の幹線道路沿いの風景。広い農地が広がっている。農業は

ウズベキスタンのGDPの2割を占める基幹産業。)

 

(サマルカンドの中心部にあるユネスコ世界遺産レギスタン広場。モスクや神学校の複合施設を形成している。)

 

(旧ソ連解体後、ウズベキスタンの初代大統領に就任したイスラム・カリモフの銅像がある広場は新郎・新婦の記念撮影をする場所になっている。イスラムの国でも新郎・新婦は西洋式の衣装を着用している。)

 

(ウズベキスタン南部のテルミズへ向かう途中の風景。山や丘陵地が多くなりワイルドな風景になってきた。)


(アフガニスタンのマザリシャリフの果物中心の露天マーケット)

(アフガニスタン・マザリシャリフには夜にイルミネーションで飾られたビルもあった。)

 

地形と地層の教科書のようなタジキスタン

 

平原が広がるウズベキスタン南部のテルミズからタジキスタンへ入国した。そして初日は首都ドシャンベに投宿した。一人当たりのGDP(年収の代替数字)が16万円と世界で最貧国の一つに分類されるが、首都には広い道路が整備され、立派なビルが立ち並んでいた。実態と経済データを元に想像した街の姿にはかなりの乖離があった。

 

首都ドシャンベから北方向に位置するウズベキスタンのタシケントへ向かう山岳道路を進んだ。このルートの峠付近には<死のトンネル>と呼ばれる照明が無く真っ暗闇で長いアンゾフ・トンネルがあった。

 

このトンネルがある標高2千m級の山々は禿山になっている。山々を形成する岩石の色がところどころ色彩を帯びている。おそらく鉱物資源が豊かな山々だと思った。

 

太古の時代の地殻変動の影響で断層が表面に飛び出した山や谷がある。急流の川が削り取った崖があれば、ゆったり流れる川が長い年月をかけて侵食してできた穏やかな地形もある。中学や高校の地理の教科書に出てくるような風景には感動した。

 

タジキスタンの地形は複雑だ。南のアフガニスタンと国境を接するゴルノ・バダフシャン自治州には標高5千m級山々に囲まれたパミール高原が控えるが、北部には肥沃なフェルガナ盆地が開けている。

 

パミール高原へ至るルート上にはダート道や川渡の箇所があり、厳しい道路であるとアドバイスを受けていた。そのため、当方のロードタイプのオートバイでは走行が厳しいと判断して走行しなかった。

 

紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王の率いる軍はフェルナガ盆地の川沿いに<最果てのアレキサンドリア>を建設した。その最果てのアレキサンドリアは現在ホシャンドと呼ばれている。当方はアレキサンダー大王の大遠征を想像しながら、ホシャンドを訪れた。

 

(巨大な街路樹が日陰を作ってくれる首都ドシャンベの大通り)

 

(ドシャンベから北へ向かう山岳道路)

 

(山肌は緑色や白色の岩石で色彩豊かだった。)

 

(当方が木陰で休憩しようとすると高校生達と子供が寄って来た。真ん中の高校生は、英語で自分の夢を熱っぽく語った。将来はアメリカのニューヨークに渡りアニメ画家なりたいと。)

(川が大地を侵食している様子が良くわかる地形)

 

(フェルガナ盆地の農耕地帯。地平線が見えない広大な盆地だった。)

 

(紀元前の時代は最果てのアレキサンドリアだったホシャンドの市内を流れる全長2,000km以上のスリダリヤ川。川の水は透き通り、水量が多く、流れが速かった。)

 

 

日本人そっくりのキルギスの人々

 

フェルナガ盆地はタジキスタン、ウズベキスタンおよびキルギスの国境が入り乱れて複雑だ。

 

タジキスタンから再度ウズベキスタンへ入国後、キルギスの第二の都市オシュに近いウズベキスタン国境を経てキルギスに入国した。

 

キルギスに入国すると人々の顔立ちは日本人そっくりだった。思わず日本語で<○○さん>と声をかけたくなる。他の中央アジア諸国では彫が深い顔立ちの人々も多い。タジキスタンは国民のほとんどはペルシャ・アフガニスタン系の顔立ちの人々と言われている。

 

数週間前にウズベキスタンのタシケントで知り合ったキルギスの青年の実家に招待されていた。青年は沖縄で5年間、日本語の学習とその後ANAで働いた経験があった。

 

青年の実家はウズベキスタン国境から遠くない農村にあった。農村では食肉用の山羊を飼い、自給自足の生活をしている。かっての日本の農村のような懐かしい風景が広がっていた。

(実家に招待してくれたキルギスの青年ウソン君はサイクリストだった。同君とはウズベキスタンの首都タシケントの中央公園で出会った。)

 

(ウソン君の実家を訪ねるためウズベキスタン国境に近いジャラール・アバッド県のアラ・ブカという小さな町へ行く途中)

 

(ホームステイしたウソン君の実家。当方はウソン君の母親からキルギスの伝統的は帽子をプレゼントされた。)
 


 

(首都ビシュケックへ向かう途中の標高2,500mぐらいの高地)

 

(ビシュケックのシンボル的なアラ・トー広場=Ala Too Square)

 

(ユネスコ世界文化遺産があるNavekat遺跡付近はシルク・ロードが通っていた。)

 

(琵琶湖の9倍広い高地のイシク・クル湖で釣りをする人たち。水の透明度は高い。)

 

若く見える日本人

 

青年の叔父や叔母の家にも訪問して、当方は日本のことを話した。当方はキルギスの人たちが実際の年齢より10歳以上老けて見えるのに驚いた。 

 

当方は自分より年上だなと思った青年の叔父は当方より10歳若かった。現地の人達からは<日本人はなぜ若く見えるか?>との質問攻めにあった。

 

当方は<日本人は魚をたくさん食べるからだ>と返答した。

(ウソン君の叔父=写真左は57歳だったが年齢より10歳以上老けて見えた。)

 

経済データのマジック

 

キルギスは中央アジアのスイスと呼ばれるように山が多く、美しい風景が広がっている。

人々は優しく、国土は美しい。円換算した場合の物価も安い。

 

首都のビシュケックでは証券取引所を訪れた。一人当たりのGDPが2千ドル(約28万円)の国で、人々は広い家に住み、豊かな生活を送っているように見えた。経済データと実態がかけ離れているので、証券取引所の副社長に当方の疑問を投げた。

 

同氏の返答は簡単だった。<統計数字に表れない闇経済が活発だからだ>との回答だった。

 

経済統計上では、キルギスは2004年~2025年の20年間でGDPは10倍になった。2021年~2025年の直近4年では2.5倍になった。これは政府が法律や規制で闇経済を表経済への導いているからだと言う。

 

どこの国にも税務署に所得を申告していない闇経済はあるが、その規模と程度の問題だろう。

そう考えると、日本にも闇経済をあぶり出せば、経済成長率は上昇するのではないかと考えた。

(キルギス証券取引所の建物)

 

(キルギス証券取引所で応対してくれた副社長のMyktybek Abirv氏)

 

ツーリングが厳しかったロシア西部地域

 

中央アジアからの往路は再度カザフスタン経由モスクワが所在するロシア西部地域を通過する。

 

キルギスの最東部カラコルからカザフスタンに再入国後、旧首都のアルマティ、首都のアスタナを経てロシア西部地域に入る。

 

カザフスタン北部のアスタナ付近から雨天の日が多くなってきた。雨が降ると7月初旬だというのに寒い。

 

ロシア西部地域はチェリアビンスク~ウファ~サマラ~ペンザ~リャザン~首都モスクワ~レゼブ~ポスコフと3千kmの距離を約10日間で走行した。 連日のように冷たい雨が降り、体力的にもきつかった。


 

(ロシアの小麦畑の平原を進む。しばらく進むと天気が変わり、雨が降り出してきた。)
 

(戦車工場等ロシアの軍需工場がある戦略都市サマラに入ると白バイ2台が追跡して来て、検問を受けた。)

(白バイ隊員といえどもオートバイの好きのライダーのため、一緒に写真に納まってくれた。)

(モスクワ市内の中心部ニュー・アルバート通り)

(モスクワ・クレムリンから数km離れたモスクワ川にかかる橋にも花が飾られていた。)

 


(モスクワの西方約130km位置するボロジノは1812年にフランス・ナポレオン軍とロシア軍が激戦した古戦場。

ロシア軍が戦場から退却してフランス軍が勝利したように見えた。しかし、冬の到来とともにフランス軍はロシアを離れてえ帰路に就いた。フランス軍はロシアの冬には勝てず、帰路途中に兵士の8割が寒さと飢えで死んだという。)



(フランス軍のロシアからの帰路を描いた絵画)

 

外国人ツーリストに厳しい現状

 

更にホテル等の宿の確保が難しい。多くのホテルで<満室だ>と宿泊を断られた。満室でないことは当方でもわかるが、ウクライナとの戦争中に外国人を宿泊させると不都合が生じるのだろう。首都モスクワのあるホテルの受付では<外国人の宿泊は断っている>と正直に言われた。

 

それでも宿泊を受け入れてくれた多くの宿は主に中央アジアからの出稼ぎ労働者が寝泊まりす

るドミトリー形式のホステルだった。

 

モスクワの大きな川の橋は花で飾られていた。特に大統領府があるクレムリン周辺はでは眼にまぶしいくらいの量の花や花輪で飾られていた。まるで葬式の際の花飾りのようであった。たぶんウクライナ戦争での戦没者を慰霊しているのだろう。

 

宿を探すのにも手こずったが、一番困ったのはカーナビがたびたび作動しなくなることだ。

カーナビの位置情報に欠かせない衛星電波が妨害されているのだ。

 

特にモスクワをはじめとする都市部ではカーナビが作動しない状況が続いたのでオートバイの運転には非常に困った。

 

また、携帯電話のデータ通信も夜間は利用できず、ロシアが戦時下にあることを痛感させられた。

 

そのような状況でも、当方はモスクワ駐在時のロシア人の元同僚たちと再会して旧交を温めた。ロシア人は表面上とっつきにくいが、なかなか義理堅く心温かいところがある。

 

冷たい雨の中、連日の移動で疲れがたまり、キルギスで引いた風邪が悪化した。更に腰痛にも悩まされ、ほうほうの体でロシアからエストニアへと出国した。

(ロシア北西部のポスコフへ向かう幹線道路。写真を撮った後、豪雨となった。)

 

(ロシア最後の投宿地ポスコフでは雨の中、7軒目に訪れたホテルでやっと泊まれた。翌日は雨の中、エストニアへ向かう。)

 

以上 

欧州・中央アジア周回ツーリング総集編その①(スペインからトルコ・ジョージア経由ロシア・コーカサス地方まで)

 

 何故スペイン・マドリッドがツーリングの出発地点?

 

スペインの首都マドリッドが今回のツーリングのスタート地点であり、終着点である。

 

当方は日本の知人から昨年にマドリッドのオートバイ修理店に保管されていた知人のスズキ製Vストローム250を譲り受けた。 

 

その知人はコロナ禍前にオートバイで日本からユーラシア大陸を横断後、マドリッドのオートバイ修理店にオートバイを預けっぱなしであった。コロナ禍終息後、その知人はマドリッド発のツーリングを再開する気が失せていた。そこで、当方がその友人からオートバイを譲り受けた経緯があった。

 

(知人から譲り受けたスズキ製Vストローム250)

 

ツーリングの計画ルート

 

今回のツーリング計画はマドリッドをスタート後、南仏~北イタリア~地中海沿いにトルコまで最短距離を一気に進み、トルコからジョージア~ロシア・コーカサス地方を経てカザフスタンへ入国してウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの中央アジアまで至るルートを往路とした。

 

復路は中央アジアからロシアの西部地域を経由してエストニアへと抜け、その後フィンランド、ノルウェー等のスカンジナビア半島をツーリング後、イギリスやアイルランドを経てスペインのマドリッドへ戻る計画だ。

3万km~3.5万kmの走行距離を想定して、ツーリング期間は9月末までの約6ヶ月間とした。 

 

ただし計画にはアフガニスタンのマザーリ・シャリフへのツーリングは無かった。

 

4月初旬に成田空港から空路スペインのマドリッドへ向かった。

 

(地図上の赤線は実際のツーリングルート。青色の矢印の方向へ進んだ。走行距離は34,000kmだった。)

 

(スペイン・マドリッド=地図左下地点から出発して南フランス~北イタリア~クロアチア~モンテネグロ~アルバニア~ギリシャ~トルコ~ジョージア~ロシア・コーカサス地方(カスピ海西部)~カザフスタン~ウズベキスタン~アフガニスタン~再度ウズベキスタン~タジキスタン~再度ウズベキスタン~キルギス~再度カザフスタン~ロシア西部地域~エストニア~フィンランド~ノルウェー~スウェーデン~デンマーク~ドイツ~オランダ~ベルギー~フランス~イギリス~アイルランド~再度イギリス~再度フランス~スペイン~ポルトガル~再度スペイン・マドリッド帰着)

 

 

スペイン出発後、南フランス~北イタリアを経てクロアチアをアドリア海沿いに進む

 

マドリッドのオートバイ店に預けてあったオートバイに日本から持参したテント等のキャンピング用品やオートバイの交換部品を入れたサイドバッグ等を装備して、まだ肌寒いマドリッドを出発した。

 

スペインからセルビア・ブルガリアを経てトルコへ進みジョージアへ至る経路は2年前にオートバイで走行したルートでもあり、新鮮味がなかった。

 

一方トルコへ至る途中のアドリア海沿いのクロアチアやギリシャはまだ訪れたことがなく興味がわいた。そのため、スロベニアからアドリア海沿いのクロアチアを東へとギリシャに向けて進むルートを採ることにした。

 

スペインのマドリッドを出発後、南フランス~北イタリア~クロアチアのアドリア海の付け根部分のイストラ地方までは約一週間、連日雨の中をオートバイで移動するだけであった。

 

クロアチアへ入国後やっと天気が快晴になり、アドリア海沿いのザダールやドブロブニク等の観光地で風景や旅情を楽しんだりする気になり、連泊した。

 

(小雨が降る中マドリッドを出発)

 

(スペインの高速道路。先方の丘の上には高さ7m~10mくらいの巨大な牡牛の広告看板が見える。)

 

(イタリア領のリビエラ海岸)

(イタリア北部ガルダ近くのブドウ畑)

 

(アドリア海沿いのクロアチアの海岸は観光化されていない)

 

(アドリア海沿いのクロアチア・ザダールの旧市街の歴史的な門。旧市街にはユネスコ世界遺産の中世の教会塔があった。)

 


(アドリア海沿いの山脈。山脈が国境となり、海側はクロアチア領、山脈の裏側はボスニア・ヘルツエゴビナ領)
 

(アドリア海の真珠と呼ばれるユネスコ世界遺産のクロアチア・ドブロブニクの旧市街)

 

クロアチアからモンテネグロを経てアルバニアへ

 

アドリア海沿いのルート上ではクロアチアからモンテネグロを経由してアルバニアに入った。

 

8年前のツーリング時はコソボからアルバニアを素通りしてモンテネグロの首都ポドゴリツァで宿泊したことがあった。今回はモンテネグロを素通りしてアルバニアの首都ティラナに宿泊して同地を見物することにした。 

 

アルバニアに入ると地理的には欧州地域なのにパキスタンのようなイスラム圏内の新興国に来たような感じだった。アルバニアはイスラム教徒が多い国のため、幹線道路沿いの町や村にはモスクが建っていた。

 

EUの国々との経済格差はデータ以上に歴然としていた。同国の一人当たりGDPは約8千米ドル(100万円強)と南欧ポルトガルやスペインの1/3~1/4程度だ。道路や建物は修理が必要なほど傷んでいる。 また、車の運転マナーは新興国同様に荒っぽい。

 

地理的には欧州地域だが、なかなかEUの仲間入りはできないだろうと感じた。

 

(アルバニアの国道沿いのモスク)

 

(アルバニア首都ティラナで車の修理工場を経営する若者。チェコで働いた経験から英語を話すため、当方は地元の情報を得るのに助かった。)

 

(ティラナ郊外の八百屋)

 

アルバニアからギリシャへ進む

 

ギリシャ北部ではティッサロニキを訪れ、紀元前にマケドニアと呼ばれたこの地に思いを馳せた。

 

ギリシャ北部のティッサロニキは紀元前4世紀に当時のマケドニアのアレキサンダー大王が王位に就いた場所でもあり、当方はアレキサンダー大王のアジア大遠征路に興味を抱いていた。

 

アレキサンダー大王が当時のトルコやペルシャ(イラン)を破り、現在のウズベキスタン、タジキスタンやパキスタン、インドまで兵を進めた。

 

タジキスタンのホシャンドは当時<最果てのアレキサンドリア>と呼ばれ、アレキサンダー大王軍が征服した土地の最も東に位置していた。

 

当方はギリシャではティッサロニキを訪問後、アレキサンダー大王が遠征した最果ての地であるタジキスタンのホシャンドもツーリングの訪問地としていた。

(ギリシャの第二都市ティッサロニキ。紀元前の時代にはマケドニアの中心地だった。)

 

(「ティッサロニキにあるアレキサンダー大王の騎馬像)

 

好印象のトルコからジョージアへ

 

2年前のトルコ縦断の際には、現地で出会った複数のトルコ人のお世話になった。オートバイツーリングの同行に誘われ一緒に宿泊したり、街で食料をたくさんもらったり等、たいへん親切な人達だと当方は好印象を持った。

 

今回もギリシャからトルコ入国後に最初に宿泊したケシャン(Kesan)の町ではホテルと勘違いして立ち寄った学校の管理者にホテルを斡旋してもらい、ホテルまで送ってもらう等の親切を受けた。

 

また、2年前に訪れた黒海沿岸のリゼ=Rizeの町では、食料品をたくさん貰うなどの親切を受けた食料品店を経営する若者と再会した。

 

その若者は当初当方には気が付かなかったが、当方が2年前にブログに載せたその若者の写真を見せると<え~え? まさか?>という顔つきで当方に気が付き、再会を喜んだ。

 

他方、残念なこともあった。

 

オスマン時代の初期の首都であったブルサの道路で、当方がオートバイで走行中に当方のすぐ後ろを走行のワゴン車にオートバイの後方から接触され、オートバイと一緒に転倒させられた。 

 

着こんでいたライダー専用のジャケットやズボンに装備されている肘当てや膝当てプロテクターのお陰で大事には至らず、当方は腰と膝の打撲程度で済んだ。ワゴン車の運転手は当方を病院へ案内すると言い、車で先導したが、途中で逃げてしまった。

 

ジョージア中部のクタイシでは2年前にも宿泊したゲストハウスに泊まった。この宿の女性オーナーは当方のことを直ぐに気づき、歓待してくれた。2年前も親切な応対をしてもらったが、今回は食べきれないくらいの朝食を作ってもらう等の歓待を受け、心に残る旅となった。

 

ジョージアからコーカサス山脈を越えてロシアのチェチェン共和国へ入るルートは初めて通る道であった。山脈の峠道の付近の山々には雪が残り寒かったが、雪山の景色は素晴らしかった。

 


(トルコのケシャン市内。空中には政治家の写真とトルコ国旗がなびいていた。)

 

(トルコ領内のマルマラ海最狭部をヨーロッパ側からアジア側へフェリーで渡る。 海にはヨーロッパ側とアジア側を結ぶダダーネル大橋=写真奥がかかっている。)

 

(ブルサのドネール店。 炙って焼いた肉を薄く切り落として薄焼きパンで巻いて食べる。)

 

(リゼの町で2年ぶりに再会した若者。ユヌス氏)

 

(ジョージア・クタイシのゲストハウスと肝っ玉母さんのような女性オーナー。)

 

(クタイシのゲストハウスでは食べきれないほどの朝食を用意してくれた。)

 

(ジョージアからロシアへ向けてコーカサス山脈の峠を進む。)

 

(ロシア国境に近いジョージア領内のコーカサス山脈の町ステパンスミンダ)

 

厳しいチェック体制のロシア・コーカサス地方への入国と出国

 

南欧州から中央アジアへ行くルートはトルコ・ジョージアを経由ロシアのコーカサス地方を通過してカザフスタンへ抜けるルートが最短だろう。当方はこの最短ルートを進んだ。

 

トルコからイランを経由してトルクメニスタンへ至るルートもあるが、イラン入国にはオートバイのカルネが必要だ。また、トルクメニスタン入国には地元のガイド付きツアーを事前にアレンジせねばビザの入手もできないし、同国の通過もできない等面倒な手続きと費用がかかる。

 

ロシア入国手続きには4時間かかった。

 

国境を管理する入出国管理事務所では別室で私服の姿の係官からいろいろ質問を受けた。

 

ロシアと敵対する欧米諸国を主とする外国人は警戒されていることが感じられた。

また、ロシアへ外国車両で乗り入れる際の一時輸入許可証を作成する書類の準備にも手間取った。

 

書類の記載内容に誤りがあると何回でも書類を書き直さねばならない。当方は3回書類を書き直した。

 

 

チェチェン共和国等ロシア・コーカサス地方はイスラム教徒が多い地域だ。 チェチェン共和国の首都グローズヌイは1994年~1995年と2004年~2005年の独立派とロシア連邦軍の内戦で徹底的に破壊された。

 

現在は中東サウジアラビアの首都リアドやUAEのドバイのように近代的な高層ビルが立ち並ぶ都市に生まれ変わっている。ロシアにありながら、中東の都市のような街並みには驚いた。

 

カスピ海西岸付近の不毛地帯を通り、ボルガ川河口付近のアストラハンからカザフスタンへとロシアを出国する時の国境管理事務所でも係官の対応にはうんざりした。

 

通常のパスポートチェックの後、別室に通され目つきが鋭い私服の係官からアンケートのような書類に記入せよと指示された。

 

アンケート内容は

①    親族にウクライナ軍関係者はいるか?

➁ロシア軍によるウクライナに対する特別軍事作戦をどう思うか?

②    クリミア半島はロシア領だと認識するか?

等の返答に窮するものだった。

 

更に当方に返答した内容を係官がビデオ撮影するスマホに向かって声を出して読み上げよと指示された。当方は<一体何のために?>との疑問が沸いた。

 

更に、係官は当方のスマホを取り上げて、入念にアプリ等を動かして内容をチェックする。おそらくスマホ内にロシアが禁止している写真や国境等の写真が写されているかどうかやSMS上にロシア批判のコメントがあるかどうか等のチェックをしていたのだろうと推測した。

 

(ジョージアとの国境検問所に続く道路には国境通過の順番を待つ貨物トラックが数kmの列を作っていた。)

 

 

(ロシア・コーカサス地方チェチェン共和国の首都グローズヌイ)

(グローズヌイ市内の巨大モスク。見物人やお祈りをする信徒の姿はまばらだった。)

 

(カスピ海・西岸近くのロシア・コーカサス地方をアストラハン方面へ進む。)

 

(アストラハンのクレムリン=城塞都市)

(アストラハンからカザフスタン方面へ向かう幅約200mの川には艀のような浮き橋が架かっていた。

走行すると橋が上下に動くため、オートバイでは走り辛かった。)

 

以上 

 

Bilbao,SpainPortugalMadrid,Spain(終了)2,000km(2025/9/109/20

 

当方のオートバイ・ツーリングは出発したスペインのマドリッドで終了する。

 

パンプローナからマドリッドへ直接行きツーリングを終了するのはもったいないと考え、当方が今までのスペイン滞在中に訪れたことが無かったスペイン北部のビルバオ(Bilbao)を訪れることにした。

 

ビルバオは2000年代初頭まではバスク独立を掲げるゲリラ組織(ETA)が活動しており、爆弾テロが多発した地域でもあった。 またスペイン北東部のバロセロナと肩を並べるスペインで突出した工業都市であった。

 

ビルバオの近くには20世紀の天才画家ピカソがスペイン市民戦争時にドイツ軍の空爆で街が破壊され多くの犠牲者がでた様子を描いた場所として知られているゲルニカ(Guernica)がある。ゲルニカも訪れて、街を見てみたいと思った。

 

ビルバオの後は、雨天の天気予報だったスペイン北部を避けて、内陸部のレオンへ進み、そこからポルトガルのポルトを目指して進んだ。

 

ポルトガルは今まで数回訪れているが、ポルトには訪れたことが無かった。ポルト市内を流れるドウエロー川に架かる鉄橋(ルイス一世橋)と旧市街の街並の映した写真やポスターを数度となく見たことがあった。

この機会を逃したら、ポルトへは行かないだろうと考え、重い腰をあげてポルトガルへ進んだ。

(ビルバオの世界遺産の橋。橋からゴンドラをワイヤーで吊り下げてゴンドラが動く。これが見たくてビルバオに寄った。

ゴンドラが動く写真も下部に掲載)

 

(ゲルニカ空爆のイメージ写真だ。第二次世界大戦前の初の無差別爆撃だった。)

 

最後の区間は以下のルートで進んだ。

 

Pamplona160kmBilbao2泊)~360kmLeon(泊)~420km~ポルトガル入国後Porto2泊)~240kmFatima(泊)~275kmCastilo BranccoMonsanto3泊)~スペイン再入国~240kmLagartera(泊)~220kmMadrid

(イベリア半島=スペイン・ポルトガルの地図。ビルバオ=Bilbaoはイベリア半島北部の海に面した赤丸印の位置。反時計周りにポルトガルのポルト=地図左側の海に面した赤丸印の位置~スペインのマドリッドへと移動。 スペインの首都マドリッドはイベリア半島中央の赤丸印の位置。 今回のオートバイ・ツーリングのスタート地点と終了地点だ。)

 

ビルバオ(Bilbao)とGuernica(ゲルニカ)

 

ビルバオが位置するスペイン北部は雨が多く、夏でも涼しい気候である。

幸い当方は短時間の霧雨にあったぐらいで、ほとんど晴天だった。

 

過去にバスク独立を目指して政府に対してテロ活動を行っていた過激派組織(ETA)は2011年に解散した。

バスク自治州として十分な政治的権限を与えられたからだ。

 

バスク地方には山々が広がっている。そのため車やオートバイでの移動は曲がりくねった道を通過する。しかも時速80km90kmとかなり高速だ。 曲がりくねった道路の連続は、スリルがあって面白い一面、当方の後ろに車がぴったりつくと危険を感じる。 そんな時は当方はわざとスピードを落として、後ろの車に抜いてもらうようにしている。

(ビルバオの街)

(ビルバオの名物吊りゴンドラの橋 川幅は約160m)

(橋からワイヤー吊られたゴンドラに車・バイクや人が乗る。料金は片道徒歩でも10ユーロ=約1700円と高い。)

 

 

ゲルニカはビルバオから北西部へ35km進んだ場所に位置している。

 

ピカソの<ゲルニカ>の絵のおかげで、名度は高いが、訪れる外国人の姿はそんなに多くない様子だ。

ピカソはゲルニカを一度も訪れたことが無かったと聞く。 ゲルニカの空爆があった1937426日当時、ピカソはパリ在住だった。 

 

当時スペインは共和制の政府と専制政治を唱えるフランコ将軍が率いる反政府軍が対峙していた。

フランコ将軍は同盟していたドイツのヒトラーへゲルニカ空爆を要請して、ドイツ軍とイタリア軍が空爆を行った。

 

アメリカの作家ヘミングウェイはスペイン市民戦争を題材とした<誰がために鐘がなる=For whom the bell tolls>等の小説を残している。

 

スペイン内戦はフランコ将軍の反政府軍が勝利して、フランコ将軍が1975年に死亡するまで、フランコ将軍の独裁政権が続いた。 

 

ゲルニカの絵はピカソの意思で、フランコ政権下のスペインへは戻らず、ニューヨーク近代美術館に貸し出されたままであった。 

 

フランコ将軍の死亡と、その後の民主主義政権下で、ゲルニカの絵はやっとスペインへ戻ってきた経緯があった。現在は首都マドリッドのソフィア王妃美術館に展示されている。

(ピカソがパリ万博展示用として描いたゲルニカの絵の複製)

 

(空爆で85%建物が破壊されたゲルニカの街。空爆は1937年4月26日の午後4時頃だったと言う。)

(現在のゲルニカの中心部)

 

(ゲルニカの北30km程の海に面した修道院サン・フアン・ガズテルガテ=San Juan Gaztelugatxe。当日の入場券が手に入らず遠くから修道院を眺めるだけだった。 修道院まで行くには事前のオンラインでの入場予約が必要。)

 

レオン(Leon

 

レオンは約20年前に一度訪れていたが、レオンのカテドラルの中は見学したことが無かった。

カテドラル内部の壁の下から天井に至るまでステンドグラスで飾られている。

 

もちろん一枚一枚のステンドグラスは宗教絵をモチーフとしているが、見事としか言いようがない多様の色遣いとスケール感だ。これほど立派で大きなステンドグラスの教会は初めてだった。

 

通常は教会への入場は無料であるが、観光地の有名な教会やカテドラルへの入場は有料となっている。

レオンのカテドラル(設立13世紀)への入場は、有料だったが、訪れて見学する価値は十分あった。

 

レオンはサンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)への巡礼道にあるため、当方が投宿したホステルの宿泊客は当方以外は全て徒歩での巡礼者だった。 当方がバイク旅だと知ると<何故徒歩じゃないの?>と不思議がっていた。 

 

レオンから北西へ進路をとればカトリックの三大聖地の一つのサンティアゴ・デ・コンポステラへ行けるが、海に面したスペイン北部は雨が多い。天気予報では一週間ほど天気が悪い。 晴天の内陸部を走行し続けてポルトガルのポルトへ行くことにした。

 

スペインからポルトガルに入っても国境の表示が無いので、どこが国境だったか分からない。 高速道路を避けて一般道を走行していた。 道路のアスファルト面が随分痛んでいるので、ポルトガルに入ったんだなと気が付いた。

 

やはりスペインとポルトガルには経済格差がある。因みにIMFのデータではポルトガルの一人当たりの国民所得は約28,000米ドル(約390万円)、スペインは34,000米ドル(約480万円弱)と日本と同額だ。

 

ポルトガルの風景はスペインと異なる。 起伏が多い。大地には森林や林が多い。

そのため、ゆったりした上り坂や下り坂が多い。 また、山火事も多いため、森の木々が無残に焼けて黒々としている光景をよく目にした。

 

(スペイン内陸部。パンプローナからレオンへ向かう途中の大地は乾燥している。 小麦の収穫後の広大な畑が広がっている。)

 

(レオンへ通じる自動車専用道路はカトリックの巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラに通じているので、

この道路も車両でのサンティアゴへの道=Camino de Santiagoになっている。)

 

(レオンのカテドラル。 中世のゴシック様式の建築。巨大で荘厳な建物だ。)

 

(レオンのカテドラルの内部。正面の祭壇のステンドグラスは壁の上部だけだが、横の壁は下から上まで全面ステンドグラス張りだ。)

 

(投宿したレオンの宿=Global Trotter Hostelと当方のオートバイ)

 

(ポルトガルの道路風景。写真では平らな大地見えるが、結構アップ・ダウンがある。)


 

ポルト(Porto)

 

ポルトは坂が多い街だ。 ちょうど長崎市のように平地が少なく、丘や小山を切り開いて街をつくっているため

坂の街になる。特に旧市街は坂だらけだから徒歩での観光は足が疲れる。 石畳の道路ではバイクではタイヤが滑りそうになり、走りずらい。 ポルト市内に滞在中は一度もバイクを使用しなかった。

 

国際観光都市のポルトには外国人観光客が多い。物価はフランス並みだ。旧市街の宿泊施設は修繕が進んでいない建物が多いため、床を歩くとぎしぎし音がしたり、ドアの一部が壊れていたり、外壁がくずれたりと修繕が必要だ。 

 

それでも、数百年変わっていない歴史的な街の風景は多くの観光客を魅惑する。

(ポルトの旧市街)

 

(世界遺産のドン・ルイス1世橋はパリのエッフェル塔を設計したGustav Eiffelが手掛けた。)

 

(投宿した旧市街の歩道にオートバイを2日間置きっぱなしにした。後輪にはワイヤーケーブルのロック、前輪にはディスクロックの盗難防止をした。))

 

(アズレージョと呼ばれるポルトガル独自のの青色セラミック文様の壁を施した教会)

 

(ランドマーク的なポルトのIglesia de dos Clerigosは坂道にある。)

 

(狭くて勾配が急な坂道)

 

(ドン・ルイス1世橋は下部と最上部を徒歩で渡れる。下部は自動車用、上部は電車用となっている。)

 

(川岸にはかってワインの樽を運んだ小舟が係留されている。現在は観光用だと思われる。)

 

ポルトからカトリック教徒の聖地であるファティマ(Fatima)へと進んだ。 

 

ファティマは小さな町だが、1917年にファティマに住む3人の子供たちの前に聖母マリアが出現して

奇跡を起こして人々を熱心な信者に改心させたり、3つ予言を残したとされている。

 

一つ目は地獄の実在、二つ目は第一次世界大戦の終わりと第二次世界大戦の勃発。三つ目はローマ法王の暗殺未遂とされていますが、これには疑問がついている。

 

当方は聖地と呼ばれている場所にはそれなりの敬意を払っている。

(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの外観)

(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの内部は意外と質素だった。)

(広大な広場の一角には近代建築のもう一つの教会、Basilica de Santissima Trinidadeがあった。)

 

(Basilica de Santissima Trinidadesの内部は数千人入れる巨大な建物。)

(Basilica de Santissima Trinidadeの十字架のキリストは東洋的な顔立ちだった。)

 

(Fatimaで投宿したホテルは無人のセルフチェックイン方式。Booking.Comで予約したのだが、セルフチェックイン方式とは知らず、現場に到着してから入口ドアに掲示されていた電話番号とWhatsApp番号に連絡してチェックイン方法が教示される。 連絡方法が無い旅人は苦労する。)

 

 

ファティマからカスティーロ・ブランコ(Castilo Branco)そしてモンサント(Monsanto

 

カスティーロ・ブランコは当方が8年前にもツーリング途中で訪れていた。しかしながら、過去のブログを読んで確認するまで気が付かなかった。宿泊した場所が異なっていたから気が付かなかった。

 

旧市街を見下ろす城跡からの風景を見た時に、どこかで見た光景だと思った。 そして

8年前のブログ記事を読み、なんとなく思い出した。

 

カスティーロ・ブランコへ寄った最大の理由は、カスティーロ・ブランコの北東50km先に存在する

岩を利用した住居があるモンサント(Monsanto)という村を訪問することだった。

 

日本のテレビ番組でモンサントの巨石を利用した住居を見た。村全体が、岩で出来た住居かなと夢を膨らませたが、岩の住居は数世帯だけだった。


(カスティーロ・ブランコ=Castilo Brancoへ行く途中の田舎道)

(Monsantoの村はこの山の左側中腹にある。)

(Monsantoの山頂付近の高台には巨石を利用した民家が数軒ある。巨石と巨石の空間を利用して居住部分としている。)
 

(Monsantoの頂上からみた村)

(Monsantoの頂上=城塞からみた周囲の景色)

 

(カスティーロ・ブランコ=Castilo Branco市内のブラジル式柔術の道場)

 

(カスティーロ・ブランコ旧市街の坂道。 坂道の頂上には城跡がある。)

(丘の上の城跡から眺めるカスティーロ・ブランコの旧市街。2017年9月にも同じ場所を訪れ、同じアングルの写真をブログに投稿していた。)

 

外国人労働者

 

ポルトガルではコロンビア、アルゼンチンやペルー等南米出身の人達と出会った。みなポルトガルに仕事を求めて来たのである。 南米の人達ならスペイン語が母国語だからスペインで働いた方が言葉のハンディーが無い分、楽なはずだ。

 

しなしながら、スペインでの労働許可の取得が難しくなっているため、ポルトガルで職を求めたと44歳の電気工事士のホルヘは言っていた。ほとんどの外国人労働者はポルトガルで市民権を取得したら、より待遇がよいフランス、ドイツ等の国々を目指すと言う。 

 

同氏は電気工事技術者として処遇は月給1,200ユーロだと言う。

また、コロンビア人の21歳の若者はポルトガルの会社に雇われてスペインのビルバオの建設現場で働いていると言った。時給10ユーロで一日10時間、週5日働いて一月約2,000ユーロ得ているという。 

 

ポルトガルでは外国人労働者がいないときつい労働条件の職場は業務が遂行できない状況だろう。

ポルトガルに限らず欧州全体がそのようになっていると推測する。

 

ポルトガルからスペインへ最入国後~LagarteraMadrid

 

カスティーロ・ブランコから70km東へ進めば、スペインとの国境となる。 この国境は一番往来が無いほぼ無人地帯の国境だった。 田舎道の川幅数メートルの橋が国境となっている。 車やひとの通行は殆どない。

 

国境だと確認できたのでは車一台が通行できる幅の小さな橋の上に国境のプレートがあったからだ。

 

スペインに再入国すると安堵感がどっと湧くと同時にツーリングが終わるんだなと少し寂しい気分になる。

 

それでも暑い中、ツーリング終了地点であるマドリッドまでの400kmを一日で走り切る気にはなれず、マドリッドの200km手前の田舎町Lagarteraで宿泊した。

 

小さな町なので、飲食店(Bar)で住民はゴシップネタを酒のつまみにしながら長話をしている。

 

見慣れない東洋人が町をあるいている姿をみて、不思議がっている。<誰だろう?><何をしているのだろう?等>

 

ホテル横の食料店で買い物をした際、レジの若い女性は当方が日本人だと知ると、爆発するような勢いでいろいろ話しかけて来た。<私はハネムーンでメキシコへ行ったことが事がある。日本はどんなところ?。物価が高くて旅行では行けない・・・>等々。 

 

当方が投宿したホテルの一階の飲食店の店主は当方がバイクで世界各地をツーリングしていると知ると、有名人に出会ったように自分のスマホの自撮りに入ってくれと依頼してきた。

 

この町の人達は何か刺激を求めているのだ。

 

翌日少し遠回りになるが、マドリッドへは高速道路を利用せず、町や村を通過する一般道でマドリッドへ向かった。 

 

マドリッドの太陽の日差しは強いが、日陰では少し肌寒く感じるくらい季節が秋へ変わりつつあった。

(ポルトガルとスペインの国境の小川。小川の右側はスペイン領。左側はポルトガル領。)

 

(国境の橋の上のプレートのEはスペイン、Pはポルトガルを示す。)

(Lagarteraで投宿したHostal)

 

(Lagarteraの小路。布地への刺繡が特産品となっている。)

(Lagarteraからマドリッドへは一般道を利用)

(日本の地方の民家のような造りだが、石造りの壁となっている。)

 

次回は中央アジア・欧州ツーリングの総集編に続く予定。

 

以上 

Dieppe, France to Pamplona, Spain 1,400km (9/49/9

 

イギリスのニューハヴェン(Newhaven)からフェリーにて約4時間でフランス・ノルマンディーのディエップ(Dieppe)に到着した。

(イギリス・ニューハヴェンの港にはフランスでツーリングするイタリア製スクーターのベスパクラブのライダー達がいた。)

 

(英仏海峡は荒れていた。強風と荒波のためデッキへ出ることは不可だった。フェリー船内から撮影。)

 

(フランス側のディエップ=Dieppeの港。海岸線はイギリスと同様白い切り立った崖だった。)

 

英仏海峡フェリーについて

 

ニューハーヴェンの港でフェリーのチケットを前日に購入した際、意外なことを知った。

 

電話あるいはフェリー会社のカウンターでチケットを直接購入すると60歳以上のシニアは2割引きになるということだ。

正規の料金の2割引きでチケットを買い得した気になった。 

 

英仏海峡の海は荒れていた。大型のフェリー船でも地震のように絶えず揺れ続けていた。

 

フランスでの走行ルートは以下の通り

 

フェリーの到着港ディエップ(Dieppe)~70km~ルーアン2泊(Rouen)~240km~モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)~30km~ジュネ泊(Genets)~370km~ラ・ロシェル泊(La Rochelle)~440km~ルルド泊(Lourdes)~160km~スペイン入国後~80km~パンプローナ泊(Pamplona)

 

(イギリス南部からスペイン北部までの地図。イギリスのNew Haven港は英仏海峡の赤色点線のイギリス側の位置。 フェリーが到着したフランス側のディエップは赤色点線のフランス側の位置。フランスのディエッペからフランス東側=ノルマンディーやブルターニュを通り南下した。ツーリングルートを示すピンク色の線の最下部がスペインのパンプローナの位置。赤色〇印は宿泊地を示す。)

 

フランス到着からルーアン(Rouen

 

フランスのディエップ(Dieppe)港に到着後、シェンゲン条約のビザが絡むため、港を出るゲートにて出入国管理が行われる。フランス入国の印をパスポート押印してもらう。

 

フランスに到着すると何故かホットしたような気分になった。 当方の最終目的地はスペインのマドリッドだからこれ以上フェリーを使わず全て陸路で行ける。

 

ちょうど北海道ツーリング時に函館から青森港に到着した時に感じた安堵感に似ている。陸路で横浜市内の自宅まで繋がっている安心感だ。

 

ディエップからフランス最初の投宿地であるルーアン(Rouen)へ向かった。 ルーアンは19世紀のフランス印象派画家の一人モネが絵画の題材とした場所でもあり、以前から訪れてみたいと思っていた場所でもあった。

 

ルーアンは地方都市であるので交通渋滞が殆ど無い。当方には有難い。

ルーアンでもイギリス滞在時の様にユースホステルを活用した。宿泊料が安価で自炊設備が整っているからだ。

 

ルーアンのユースホステルの受付係はフレンドリーだった。 当方はルーアンの次に訪れるモン・サン・ミシェルの入場について事前の予約が必要かどうか気になっていた。 

 

受付係がインターネットにて入場券の有無について調べてくれた。

 

1カ月前以上の事前の予約が必要であることが判った。 当方は<ええ~!>と絶句。 オートバイツーリングでは一カ月先のスケジュールは決められない。

 

ダメもとでモン・サン・ミッシェルにて入場の可否を交渉するしかない。

(ルーアンのノートルダム教会=Catedrale Notre-Dame。小塔先端までの高さは160mと非常に高い。小塔の下部は補修中。)

 

(ノートルダム教会の天井は破格の高さだ。)

 

(旧市街の時計がある門からノートルダム教会が見える。)

 

(モネが描いたノートルダム教会の絵画。ルーアン美術館展示)
 

(1831年当時のルーアンの風景図。教会の尖塔が当時のランドマーク。遠くには海と白い色の崖が描かれている。 ルーアン美術館展示)

 

(ルーアンの道路上の謎の白い点線。自転車の通行帯を示すものかなとも思ったが、地元の人に聞いたら単にバス通りを示しているとのことだった。)

 

(後部座席に子供が2人乗れる電動アシスト自転車。子供用ステップ=足の置き場が棚の様になっている。)

 

モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)

 

海に浮かぶモン・サン・ミッシェルの城の写真を見たことがある人は多いと思う。

当方は是非訪れてこの目でその風景を見てみたいと思っていた。

 

ルーアンを朝7時台に出発してモン・サン・ミッシェルへのビジッターセンターには午後1時過ぎに到着した。 ひまわり畑の道路を進むと畑の向こうにモン・サン・ミッシェルの姿が見える。 海では無く、畑の中にモン・サン・ミッシェルがあるような感じだった。

 

ビジターセンターで、モン・サン・ミッシェルの城への当日入場券が買えるかどうか尋ねると、あっさり<ウイー=買える>との返答だった。 当方はホッとして胸をなでおろした。

 

駐車場があるビシターセンターからモン・サン・ミッシェルがある小島まで約3km程度の道のりだ。

 

徒歩でも30分ほどで行けるが、当方はライダーブーツを履いて歩きづらいため、無料のシャトルバスに乗って島まで行った。

 

島まで海の中の橋を渡ると思っていたが、実際は海があった場所は砂州で覆いつくされていた。砂州の上に橋がかかっている。

 

その砂州はモン・サン・ミッシェルを越えて海まで更に数キロ続いていた。 

 

周囲600m程の島の小山に立つ城に通じる小路には観光客用の土産物店やレストラン、カフェが軒を並べている。通りには観光客がひしめき合っていた。

 

城の入口は以外にも観光客はそれほど多くない。城の中もそれほど混んでいなくて順路に沿ってゆっくり 見学できる。

 

 

この日はモンサンミッシェルから約30km程離れたジェネツ(Genets=村)にあるユースホステルの個室に泊まった。

 

ユースホステルはドミトリー式の共同部屋が主流だが、個室も揃えている。

 

フランスは今回のツーリングの最終地であるスペインのマドリッドへ行くために通らねばならない。

当初ボルドーあたりを経由してスペイン北部へ入ろうかと考えていたが、カトリック教徒の聖地のひとつであるルルド(Lourdes)がちょうど良い具合に当方の経路近くにあることを知った。

(バスの窓の外に見えるモン・サン・ミッシェルへ無料のシャトルバスで移動)

 

(バスを降りた橋上からモン・サン・ミッシェルを見る。)

 

(城の入口へ通じる商店街は観光客で混雑していた。)

 

(モン・サン・ミッシェルから更に外海に向かって砂州が続いている。砂州上の黒い点は砂州を歩いてツアーする観光客達。)

(写真上部の陸上からモン・サン・ミッシェルに繋がる橋。かっては島は海で隔てられていたが、現在はかっての海の大部分が砂州で埋め尽くされてしまっている。城の最上部テラスから撮影)

 

(ジュネ=Genetsで投宿したユースホステルは全室個室タイプ)

 

(ボルドー付近のワイン畑)

(フランス南部まで来ると並木道には松の木が多くなる。)

 

ルルドには不治の病を直す<ルルドの泉>と呼ばれる場所がある。 

 

ルルドの泉の発端は185814歳のベルナデッタという少女の前に聖母マリアが現れ、<そこの泉の水を飲んで顔を洗いなさい>ということから始まった。

 

その後、その泉の場所に教会が建てられ、泉の水を飲んだ人達が当時不治の難病から治ったと言われるからだ。そして、この場所はカトリック教徒の一大聖地として多くの信者が巡礼する場所になった。

 

当方はカトリック教徒では無いが、ルルドの泉の事は以前から気になっていたので、見学した。

 

当日雨だったが、巡礼者は多かった。

 

しかしながら泉の前には巡礼者が思った以上多くない。まじかで泉をみようと30名ぐらいの巡礼者が列をなしているに過ぎなかった。

(ルルドのノートルダム教会=Basilique Notre-Dame du Rosaire)

 

(ルルドの泉はノートルダム教会裏側の基礎部分のへこんだ洞窟のような場所にある。)

 

(ルルドの泉は写真左側の岩が屋根の様になった場所にある。)

 

(泉はガラス張りで保護されている。 ガラス張り中央の泉が流れている部分は照明で黄金色に輝いて見える。)

 

(ルルドの街は坂が多く、静岡県の温泉街・熱海(あたみ)に似ていると思った。)

 

 

ルルドから山越えでスペインへ入国後パンプローナ(Pamplona)へ

 

ルルドはピレネー山脈の北の裾野近くに位置する。 ルルドの南側にあるピレネー山脈を越せばスペインとなる。 

 

当方はのどかな農村地帯を160km程度走行後スペインに入国した。 国境にはスペインの表示は無かった。 単にスペインのネバーラ県(Navarra)との表示しかなかった。

 

そして山道を80km程度走行後、牛追い祭りで有名なパンプローナ市に到着した。 パンプローナはナバーラ県の県庁所在地だ。

 

当方が大学生だった時からの友人が住んでいた。 その友人に8年ぶりに会うためにパンプローナを訪れた。

 

ナバーラ県は16世紀に来日してキリスト教を布教したイエズス会のフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)の出身地だった。 

 

その縁で、当時ザビエルが日本で布教した山口市とパンプローナが姉妹都市になっている。 パンプローナ市内には山口市の寄贈した日本庭園があり、市民の憩いの場となっている。

 

(スペインへ向かうルートにはトラクターも通るのどかな道があった。)

(見晴らしの良い峠からフランスの農村部を見渡す。)

 

(写真中央の川がフランスとスペインの国境線だ。左側がフランス領。右側がスペイン領)

 

(国境の橋を越えた道路横にはスペインのナバーラ県を示す看板が立っていた。バスク語で書いてあるため理解できず。)

 

(パンプローナに住む学生時代からの友人夫妻と昼食前のつまみを食べる。)

 

(パンプローナ市内の日本庭園で友人とツーショット写真)


以上 

 


 

Ireland UK(イギリス後半)2,300km(8/219/3

 

北アイルランドとアイルランド1,100km(8/218/26)

 

アイルランド島のツーリングは北アイルランド(イギリス領)の州都ベルファーストからスタートした。

 

30年ぐらい前まではベルファーストの名前は北アイルランドでの政治問題が先鋭化してテロ活動が頻繁発生した頃にニュースで報道されていた。 

 

現在は過去のそんな面影も無い静かな都市だ。ベルファーストで宿泊したユースホステルの受付係のアルバイト青年がオートバイライダーであったので、その青年からアイルランドのツーリングルートを教えてもらった。また、アイルランドの首都ダブリンのスズキの認定ディーラーのブラジル人営業担当者からもアイルランドのツーリング・スポットを教えてもらった。両氏に感謝したい。

 

青年は物静なデザイン工学を専攻するベルファースト大学の学生だった。オートバイの話になると目を

輝かせて地図に描いたツーリングのルートを説明してくれた。

(ベルファーストの市庁舎は歴史的建造物で立派だった)

 

(ベルファーストの高台に位置するベルファースト城から海が眺められる)

 

(ベルファーストの観光アトラクションの一つ刑務所。1960年代まで使用されていた。)

 

(刑務所で使われていたむち打ち台)

 

アイルランド島では以下の順に回った。

 

ベルファースト(Belfast(1泊)~170km~アイルランド入国後首都ダブリン(Dublin)で1泊~280km~コーク(Cork)で1泊~半島ツーリング270km~キラニー(Killanery)で1泊~モヘーの断崖(Cliff of Moher220km~ガルウェイ(Galway)で1泊~途中の半島ツーリングを中止して250km~レターケニー(Letterkenny)1泊~イギリス領北アイルランドへ入国150km~ベルファーストへ戻る。

 

 

(アイルランド島。島の北部=地図上部の灰色部分はイギリス領の北アイルランド。アイルランドは白い部分。地図右側上部ベルファーストから時計回りに赤線に沿って走行した。赤丸は宿泊地。地元のライダー達に勧められたのが、ピンク色と緑色の線のルートだ。)

 

アイルランドは人々が親切で、国土も風光明媚だから是非ツーリングしたらよいと複数の人達からアドバイスを頂いた。 確かに大西洋に面するアイルランド島西部は風光明媚だった。

 

しかし特別に親切な人々との出会いは無かった。普通の人々だった。もっとも当方が接する人達は宿、ガソリンスタンドや食料品等を買うスーパーや雑貨店の人達に限定されているので多くの人達と話す機会がなかったのも事実だ。

 

アイルランドは北海道と同程度の広さだ。人口500万人だが、一人当たりの国民所得(GDP)は世界第二(10万米ドル=1500万円)だ。 何故一人当たりの国民所得が多いか最後まで分からなかった。

 

アイルランド国外への移民が多い国

 

アイルランドから外国へ移住する人は過去の時代から多い。1845年~1850年の大飢饉の時期にはアメリカへ150万人、カナダへ34万人のアイルランド人がそれぞれ移住している。

 

現在でもより良い仕事を求めて若者を中心に年間数万人がアイルランドから外国へ移り住んでいると言う。 

 

アイルランド国外にはアイルランド人の祖先を持つ人々が3000万人いると言われている。 1960年代前半に米国の大統領だったジョンFケネディーも曾祖父がアイルランド移民だった。 

 

一人当たりの国民所得が高いノルウェーのようにBMWやメルセデスベンツ等の高級車が普及車の様に当たり前に道路を走っているわけでは無い。 見た目上は、一人当たりの国民所得が世界2位には見えないのが不思議である。

(カナダの農場へ移住を勧める過去のポスター)

 

(15歳~30歳の若い独身女性へオーストラリア及びニュージーランドへの船賃を無料とする広告。19世紀後半オーストラリアでは独身男性8名に対して独身女性は1人だけだったと言う。)

 

英国領北アイルランドとアイルランド間の入出国の手続きは無い

 

イギリス領の北アイルランドのベルファーストからカーナビの誘導に従ってアイルランドの首都ダブリンへと向かった。

 

イギリスがEUを離脱後もイギリス領北アイルランドからアイルランドへの入国手続きは無かった。いつ国境を越えたのかも気が付かなかった。 アイルランドからダブリンへ戻った際も同様だった。

 

唯一気が付いたのは、道路の制限速度がマイル表示からキロメートル表示に変わっていたことだった。

EU域内の国境を越える時と同様に、何もすることが無いのだ。 

 

イギリスはシェンゲン条約からも脱退しているので、滞在期間は6カ月となっている。アイルランドもシェンゲン条約に加盟していない。独自に3カ月の滞在期間がある。 

 

当方が不思議に思ったのは、アイルランドやイギリスは外国人の滞在期間をどのように管理しているのだろうかと。

 

(ダブリンの繁華街)

(ダブリンの中心部を流れる川沿いの風景)

(ダブリンのスズキ認定のディーラー。エンジンオイルの交換をしてもらった。料金は70ユーロ=約12,000円)

 

 

アイルランド西側の海岸線は絶好のツーリングルート

 

海岸線や海岸に近い道路周囲の風景を見渡すと北海道に似た風景に出くわした。 丘陵地の畑は北海道の富良野に似ていると思った。岬を周回していた時には海と陸の風景が網走あたりに似ていると思った。

 

ただし、あっと驚くのは大断崖だろう。 一部の高さ200mに及ぶ断崖の海岸が観光名所としてある。 モヘーの断崖(Cliff of Moher)としてユネスコ世界遺産の一つとして登録されている。

(アイルランド地方の並木道はトラックの障害にならないように木々の高い場所まで枝が刈り上げられていた。)

 

(のどかな農道)

(岬の高台道路。)

(岬の高台の道路からの見晴らしは良かった。)

 

(岬の小さなビーチで海水浴楽しむ人々。当方では寒くて海水浴をする気にならない。)

 

(小さなフェリーで海の入り江を渡った。)

(場所によっては海面からの高さが200mあるモヘーの大断崖。安全対策のため崖の近くには寄れず、迫力に少し欠けた。)

 

アイルランド北部にはこんな城ような形の山があった。今にも雨が降り出しそうな空模様。)

(アイルランドでは他のヨーロッパ諸国では見かけなかったスズキの車を比較的多く見た。小さな町のスズキの車の販売店)

 

あきれたゲストハウスの管理人

 

レターケニー(Letterkenny)で宿泊した際のゲストハウスの管理人には呆れた。 

 

その日は雨が降り出しそうな空模様だったので風光明媚な北西部の海岸ルートのツーリングを諦めて、ゲストハウスへ直行した。 チェックイン時間の前だったので、当方は荷物だけでも預かってもらえればと思っていた。

 

予約したゲストハウスに到着すると女の管理人は<まだチェックイン時間前だから、チェックイン時間になったら来なさい>と追い払うような口調で言う。 

 

予約時の規定ではそのようになっているので、荷物を預かってもらうことは諦めて出直すことにした。 その間にやはり雨が降り出してきた。

 

定刻のチェックイン時間にゲストハウスへ行くと、ドアが開かない。 そこで初めて当方は宿がセルフチェックインになっていることに気が付いた。 問い合わせ用の電話番号がドアの横に書いてあった。 その電話番号へ電話しても誰も出ない。

 

そこで予約元のオンライン・ネットサイトのBooking.Comへ管理者と連絡が取れないのでどうすべきか問い合わせをした。

 1時間後、当方のSNS(WhatsApp)へ管理人からセルフチェックインの手引きが送付されてきた。

 

セルフチェックインの場合は、ゲストハウスの管理者は事前にチェックイン方法を知らせてくるべきだった。

 

しかしながら、この宿はチェックインしようするゲストが宿に到着後に、管理人へ電話連絡してから、管理人がゲストへセルフチェックインの方法をSNSで知らせているようだ。

 

待っている間、隣人の人達は、<こんな宿に泊まらず、もっとしっかりしたB&BBed&Breakfast)に泊まった方がいいぞ>とアドバイスしてくれるが、当方は既に宿泊料金は前払いしている。

 

その後ゲストハウスの設備について管理人にSNSで問い合わせるも返答は無し。 これ以上の問い合わせは無駄だと当方は諦めた。

 

翌朝チェックアウト時に管理人は宿にいたが、当方の顔を見ない。言葉も無い。この女は客商売に向いていないと思ったが、隣人の一人がこっそり教えてくれた。管理人は以前は男だったが、いつの間にか女になってしまったと。 

(レターケニーで宿泊したゲストハウス)

(アイルランド北部の小さな町レターケニーの長屋風の3ベッドルームの家は約20万ユーロ=約3400万円で販売されていた。)

 

イギリス(後半編)ベルファーストからリバプール経由ニューヘブン(Newhaven1,200km (8/279/3)

 

イギリス後半は連日のように雨に見舞われた。 オートバイツーリングで一番やる気を失くすのが雨天の走行である。

 

トルコで雨天走行中に後続車両に追突され転倒してから、当方は雨天走行には後続車両の位置確認に特に注意を払っている。周囲の景色をみている余裕はない。

 

ベルファーストからフェリーでリバプールへ向かった。 フェリーは途中オートバイレースで有名なマン島の島影を見る。

 

フェリーの航海時間は8時間と比較的長い。フェリーの乗客は少なく、テーブルや椅子はがらがらに空いていた。 当方は航海時間を利用して、まったく手つかずだったイギリス前半編をブログに書き上げた。


 

(ベルファーストからリバプールへ向かう途中のマン島)

 

イギリス後半のツーリングルートは以下の通りだ。

 

リバプール=Liverpool(2泊)~310km~バス=Bath1泊)~350km~ペンザンス=Penzance(2泊)~イギリス最南西端 =End of Road360km~サザンプトン=Southampton(1泊)~160km~ニューヘブン=Newhaven(イギリスツーリング終了)2泊~フェリーでフランスのディエッペ(Dieppe)へ向かう予定。

 

(イギリスとアイルランドのツーリングルート=赤線。赤丸印は宿泊した場所。リバプールはイギリス本土=ブリテン島の西側=左側中央部だ。 ニューヘブンの位置はイギリス本土の南=地図最下部の右側部分)

 

 

リバプール(Liverpool)

 

リバプールはビートルズ発祥の地だ。 当方はビートルズ世代より少し若いぐらいだが、中学時代に初めて聞いたポップスはビートルズのイエスタデイーだった。

 

ビートルズ博物館、ビートルズが有名になる前に歌っていたクラブ(カラバン・クラブ)等ビートルズ関連の場所には今でもたくさんの観光客が訪れている。

 

18世紀にはアフリカからアメリカへ多くの黒人奴隷を運んだイギリス船の船主の多くはリバプールに住んでいたと言う。

巨万の富を築いたのだろう。港湾地区には立派な歴史的な建物が多い。

 

造船業や貿易が盛んだったリバプールの港湾地区は横浜市の桜木町付近の海に面した公園地区に似ていた。 過去使われていたドック(船舶修理用)、倉庫や船が往時の姿のまま残されている。

(海上から見たリバプールの街)

(ビートルズがヒットチャートのトップになった旨を伝える1962年の業界紙。ビートルズは当時革ジャン姿だった。ポール・マッカートニー(写真一番右)の髪はリーゼントスタイル。 その後マッシュルームの髪型と学生服のようなユニホームに変えたら好感度が上昇したと言う。)

 

(ビートルズが当初演奏していたリバプール市マシュー通りのカラバン・クラブ)

 

(旧港湾地区の過去の施設。鉄道駅横の倉庫や船舶修理用のドックが保存されている。)

 

バス(Bath

 

次に訪れたバス(Bath)は地名通りかってはローマ風呂があり、温泉保養地として知られていたと言う。歴史がありそうな落ち着いた町だった。 当方は歴史的背景は知らずに、イギリス最南西のペンザンスへ行くための途中宿泊地として泊まっただけであった。

(橋の上部が家になっている世界でも珍しい橋。イギリスのバスとイタリアのフィレンツ及びベネチア以外しかない造りだと言う。)

(橋の上の家々=商店になっている。)

 

(200mほどの長い住居が2棟続いている。これほど長い建物は珍しい。)

 

ペンザンス(Penzance)

 

ペンザンス(Penzance)にはフランスのモン・サン・ミッシェルとそっくりの島があることを旅行書で知った。

その名もマウント・セイント・マイケル(Mount St. Micheal)だ。 もともとはフランスのモン・サン・ミッシェルが保有していた修道院施設だったが、時代とともに持ち主が変わってしまったようだ。

 

ペンザンスでは、マウント・セイント・マイケルを訪れる計画をしていたのだが、この島へ渡るボートが荒海のため運休していた。そのため、マウント・セイント・マイケル(城や庭園)は臨時休業となってしまった。当方は事前にオンラインで島の見学を予約していたのだが、残念ながら中止となった。

 

 

イギリスの地図をみるとこの地はイギリスの最も南西端に近い。余った時間を利用して、最南西端の<地の果て=End of the road>まで行くことにした。 最果ての地の海は荒れていた。

(マウント・セイント・マイケルの城がある島。干潮時には歩いて島まで渡れる。)

 

(イギリスの最南西端=End of Road。海上1km先の岩場には灯台が建っている。写真では白波が建っている場所に灯台がある。)

 

サザンプトン(Southampton

 

サザンプトン(Southampton)はロンドンに近い貿易港として栄えた。

タイタニック号ががアメリカへ向け出航した港でもあった。

 

サザンプトン自体はイギリスらしからぬ無味乾燥としたコンクリートの建物や家具のIKEA、スポーツ用品のデカスロン 等の大型商業施設が駅近くの港湾埋め立て地に集中していて街に似合わないと思った。

 

当方はタイタニック号についての展示があるシティーシー博物館(Citysea Museum)を見学した。

博物館にはタイタニック号の事故の責任をめぐる裁判に臨席しているような雰囲気が味わえる工夫があった。大人には一番人気がある場所だろう。 

 

タイタニック号の沈没の責任は誰も取らないままで終わってしまった。 当時は霧が出ていて視界が良くなかった、イギリスとニューヨーク間の最速記録を目指して全速力で航行していたり、見張り番が双眼鏡を持っておらず氷山の発見が遅れてしまった等の悪いことが重なり、最悪の自体となったようだ。

 

しかし、船主側はタイタニック号は絶対に沈まない大型船として認識し、船に十分の数の救命ボートを装備しなかったと言う。 

 

東京電力の福島原子力発電所の事故を思い起こすような船会社の対応だった。

(タイタニック号。1912年4月14日に氷山に衝突後、船内に海水が浸水して沈没した。)

(タイタニック号の2等寝室。暖房が無く寒かったと言う。)

 

(タイタニック号の沈没から2週間後に事故の海域を航行したフランス船が撮影。海面には氷が浮いている。下の写真ではニューヨークへ向かう船上の移民がタイタニック号が沈没した海上を見ていたと言う。)

 

ニューヘブン(NewHevan

 

ニューヘブンは偶然見つけた港だった。 イギリス一周後には再度英仏間のドーバー海峡をフェリーで渡ることを考えていた。しかしながら、ニューヘブンからフランスのデェッペ(Dieppe)へ渡るフェリーがあることに偶然気が付いた。

 

ディエッペは当方がフランスで走行するフランス北西部のノルマンディーへ行くにはちょうどよい場所に位置している。

 

(白い色の断崖。イギリス南部のNewhaven近く。Seven Sisters=7姉妹と呼ばれている場所)

 

(海岸まで階段を使っておりる。この辺りの断崖はそんなに高くなく、高さは20m~40m程度)

(断崖の上には柵がないので誤って落ちる危険性がある。)

 

イギリスのエコノミーなツーリングにはユースホステルが最適

 

どこの国にもユースホステル協会の組織があると思うが、イギリスの組織はしっかりしている。 当方はイギリスの7ヶ所でユースホステルに宿泊した。

 

ドミトリー形式なら料金は120ポンド(4千円)から30ポンド(6千円)とイギリスの物価では超エコノミーだ。

 

また家族用やグループ用のプライベートルームもある。 レストラン、バー、ラウンジ、庭園等の設備のほかに自炊用のキッチンも整っている。

 

交通の便利な場所や歴史的な建物を利用している物件が多く、オンラインでの予約も可能だ。WiFiがほとんど使い物にならないぐらい遅いのが欠点である。

 

当方は殆ど日本人の旅行者には会うことが無いが、ペンザンスのユースホステルでは当方と同年輩の元中学校の英語教師と出会った。

 

職業柄イギリスには造詣が深い様子で、ペンザンスのような日本人旅行者が来ないような場所をバックパックで歩いて旅行しているのには驚いた。

(バースのユースホステル=YHA Bathは林の中の静かな場所にあった。100年以上経た古い建物だった。)

(ニューヘブン近くのユースホステルYHA South Downsは農場を改造したような建物だった。敷地は広かった。)

 

(イングランドのユースホステル所在地を示す地図。詳細はインターネットyha.org.ukで閲覧できる。スコットランドは別のユースホステル協会が運営する。)

 

以上 

 

 

 

UK(イギリス前半) LondonScotlandBelfast 2,000km (8/1020)

 

イギリスではまずロンドンがあるブリテン島の最北端まで行く計画を立てた。 途中宿泊したり、立ち寄る場所はイギリスの友人や知り合った人達からのアドバイスを参考にした。

 

以下がイギリス前半のツーリングルートだ。

 

ロンドンは一泊したのみでオックスフォード(3泊)~415km~ウィットビー(キャプテン・クックの町2泊)~300km~エジンバラ(スコットランドの第一都市で1泊)~230km~アバディーン(北海油田のベース都市で1泊)~350kmkThurso(最北端に一番近い町で1泊)~Dunnet Head(ブリテン島最北端)~Lock Ness(ネス湖)~450kmGlasgow(スコットランド第2都市 2泊)~150kmCairnrayn(北アイルランドへフェリーで渡る出発港)~フェリーで2時間~イギリス領北アイルランドBelfast(1泊)

(イギリスのツーリングルート。矢印の方向に走行した。赤丸印のところは宿泊した場所。)

 

オックスフォード(Oxford

 

オックスフォード(Oxford)で3泊したのは当方が大学生時代に知り合ったイギリス人に35年ぶりに会うためだった。 当方がスペインのマドリッドで留学中に同じ学生寮にイギリスからの若者がいた。

 

その若者は高校を飛び級で卒業して、オックスフォード大学に入学が決まっていると言いい、大学入学までの半年をスペインのマドリッドにある銀行でインターンの研修をすると言うのだ。

 

半年同じ寮生活をした仲間であったので、その後も交信が続いていた。最後に会ったのが1990年だった。

 

当方が湾岸危機(イラクのサダム・フセイン大統領がクウェートに軍事侵攻して引き起こした軍事危機)のため当時当方が駐在していたバーレンからロンドンへ一時的に数カ月避難していた時だった。 それから35年たった。

 

イギリス人の友人は大学卒業後、ロンドンのシティーにある投資銀行に就職したが、2年足らずで退職して東アフリカ諸国との貿易を行う小さな会社に職を見つけた。

 

その延長でザンビア(アフリカ)の首都ルサカに十数年前まで暮らし、そこでパートナーと出会い、結婚した。 十数年前に子供の教育のため、イギリスに戻って来ていた。 しかしながら、当方はそれとは知らず、6年前のアフリカツーリング時にその友人を訪ねるためザンビアに寄ったが、会えずじまいだった。

 

オクスフォードは数万人の学生が暮らす大学の町だ。 町は小さいが、観光客が多い。 そのため夏には宿泊料金がかなり高くなる。 ドミトリー式のホステルでも一泊9千円だ。 安いホテルでも2万円する。

 

現在の天皇が皇太子時代にオクスフォード大学のマートン校(Merton College)に留学している。

(イギリス人の友人とオクスフォード郊外のオタマジャクシ橋=Tadpole bridgeで撮影。35年前はスマートだった友人は100㎏近い体重になっていた。)

(かってオクスフォードの交通の要所の見張り塔だったCar Fax Tower)

 

(令和天皇が皇太子時代に留学したオクスフォード大学Mertin College。大学構内へ見学できる。)

 

(Car Fax Towerから眺めたオクスフォードの町と郊外。オクスフォードの町は小さい。町の外には牧歌的な風景が広がっている。)

 

地方道

 

高速道路はなるべく避けて一般道を走行するようにしたのだが、一般道路でも制限速度は100km近い時速60マイル(イギリスは距離はマイルで表示)が主流だ。 そのうえ片側一車線の対面通行だから、当方がもたつくと後続車両が詰まってしまう。

 

当方は時速80km程度でゆっくり地方の景色を楽しみながら走行したいのだが・・・。 更に路側帯が無いのでオートバイでさえ道路に停止するスペースが無い。景色が良い場所で写真を取りたくてもオートバイを停める場所がないのが難点である。

 

(whitby手前の高原道路。遠くにはヒース=低木のブッシュが広がる荒れ地になっている。 道路には路肩がない。)

 

(パッチワークのようなWhitby近くの畑風景)

 

(エジンバラからアバディーン途中の牧草地と黄金色になった小麦畑)

(大型コンバインで小麦を刈り取る。アバディーン近くの農地)

 

(小麦刈り取り後の藁は家畜の餌として直径1.5m~2mの円形の束にする。)

 

ウイットビー(Whitby)

 

イギリス東海岸沿いのロンドンとスコットランドの州都エジンバラの中間地点の位置する小さな港町だ。

イギリス人の友人に勧められた町だった。

 

この町は18世紀にオーストラリア大陸や南極海を探検航海したキャプテン・クックが船乗りとして修業した場所だった。同氏が修行していた当時の建物をクック博物館として公開されている。

 

またブラム・ストーカー作のホラー小説<ドラキュラ=Dracula>のインスピレーションが沸いた町として知られている。 同氏は城壁に囲まれた荒廃した修道院跡やその横にあるセント・マリー教会の墓場等を小説の舞台としている。

 

ドラキュラの映画では海岸にドラキュラが動物姿で海岸に上陸して、セント・マリー教会の墓場に通じる階段道を上る場面がある、その階段坂が観光名所となっている。

 

この小さな港町を当方は気に入った。港と坂がある小さな町は旅情を盛り上げる。

 

 

(観光名所となっているウィットビーの199段の階段坂。映画ではドラキュラがこの階段を上る設定になっている。)

(199段の階段坂の頂上には聖マリー教会の墓場がある。)

(廃墟となっているウィットビーの修道院跡=Whitby Abby)

(高台から眺めるウィットビーの街並み)

 

(ウィットビーの港近くの街並み)

(キャプテンクック博物館)

(18世紀当時の太平洋の島々には人を食べる風習があったとキャプテンクックが報告している。キャプテンクックは原住民との戦闘で殺されて、当時の原住民の習慣で遺体はばらばらにされたと記録されている。)

 

エジンバラ(Edinburgh)

 

スコットランドの州都であるエジンバラはイギリスでもロンドンに次ぐ巨大都市である。毎年8月には音楽祭が開催されるため、観光客や音楽ファンが多く集まる。 

 

当方は観光名所のエジンバラ城を見学しようとしたのだが、入場者の人数制限をおこなっているため当日券は売り切れだった。2日後まで入場できないと言う。

 

エジンバラ城の見学を楽しみにしていた当方は、城の見学のため、2泊延泊するのは時間がもったいないと考え、次の目的地へ進むことにした。

(エジンバラの旧市街)

 

(エジンバラの旧市街のスカイライン。高台のカルトン・ヒル=Calton Hillから撮影)

 

(イギリスにはこのように長い集合住宅が多いが、長さ200mぐらいはある集合住宅は珍しい。エジンバラにて)

 

(入場できなかったエジンバラ城。エジンバラ城は旧市街の高台に位置しているので、城から眺めがよいと聞いていたが・・・)

 

アバディーン(Aberdeen

 

スコットランドでは3番目に人口が多い都市だ。 1970年代に北海油田が開発され、石油関連で潤った都市だった。

 

この町には幕末に薩摩藩の留学生が来ていた。

 

幕末の歴史に登場するイギリス人商人トーマス・グラバーの出身地であった。グラバーは薩摩藩へ武器の供給を仲介したり、薩摩藩と長州藩が留学生をイギリスへ派遣する手助もしていた。

 

その関係で薩摩藩の19名の留学生のうち一番若い14歳の留学生がアバディーンの私立学校で学んでいる。

 

現在アバディーン市と長崎市は姉妹都市になっている。

(洋上で原油を生産する海上リグ)


 

(写真右側の黄色い部分が原油の掘削が許可されている海上。ピンク色の線は原油を輸送するパイプライン。左側のオレンジ部分がスコットランド=イギリス北部。アバディーンは一番下のピンク色のパイプラインが結ぶイギリス東海岸に位置する)

 

 

(アバディーンの港には洋上リグへ機器等をサプライする船が係留されていた。)


(1905年に岩崎邸でのレセプション写真。写真の丸枠はグラバー氏、東郷元帥、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助氏。グラバー氏は岩崎氏=三菱グループ創始者のアドバイザーとしても活躍した。)

 

 

(アバディーンの海洋博物館にはグラバー氏と日本のつながりを紹介するコーナーがあった。グラバー氏がイギリス製の船舶を日本へ売却する際に船のイギリス人船長宛に、日本での雇用を保証する旨の手紙)

 

(アバディーンの海洋博物館=Maritime Museum)

 

 

ブリテン島最北端の町トルソ(Thurso)と最北端ドネット・ヘッド(Dunnet Head

 

トルソは小さな忘れ去られたような小さな町だった。 人通りがほとんどなく、さびれた商店やファーストフート店がある程度だった。曇天が町の様子を更に寂しく感じさせた。

 

そのトルソから約20kmに進むとブリテン島最北端のドネット・ヘッドに到着する。北緯58℃に位置する。カムチャッカ半島の付け根当たりだろう。

 

思ったより寒くない。 岬から1km程度離れた断崖の上には集落や牧草地も見える。 1カ月前に訪れたヨーロッパ最北端のノールカップ(北緯71℃)に比較したら、まだ人が住める環境だ。

 

スコットランドはブリテン島の北部に位置しているため、夏でも肌寒い。つまり夏がないところだ。不思議なことにスコットランドをオートバイで北上するに従い、道路沿いにはより多くの耕作地が広がっていた。 

 

大規模ないちごのハウス栽培、路地でのカリフラワー等の畑を見た時には驚いた。< こんな北の地で農作物がで

きるのか!>と。

(ブリテン島最北端のDunnet Headは崖だった。)

 

(最北端の記念碑前でオートバイと一緒に記念撮影)

 

(最北端から見える耕作地と集落)

 

(イチゴのハウス栽培。 アバディーン付近)

 

ネス湖(Lock Ness

怪物ネッシーの話で有名になった湖であるが、ネス湖を一目見て怪物はいないと思った。 あまりにも小さいからだ。 長さは37kmあるようだが、幅は23km程度しかない。湖というより大河のような感じだ。

 

怪獣ネッシーは作り話だったのだが、それでも観光客が訪れる観光名所の一つだ。

 

(ネス湖はこのように細長い。ネス湖中央付近)

 

(ネス湖の北。水は冷たかった。)

 

(ネス湖周囲の道路。地形が斜面になっているので、駐車スペースは限られている。)

 

スコットランドの絶景

 

ネス湖に沿って走行したおかげで、思いがけずにU字谷の風景が見ることができた。

フォート・ウイリアム(Fort William)とグラスゴー(Galasgow)を結ぶ区間にある谷間の道路を走行した。

 

この道路を進むと大きなU字谷の中に入っていく。

道路の左右には大きな壁のような氷河が削った山肌が続く。まるでノルウェーのフィヨルド谷を走行しているようだ。 更に進むと、湿地の高原が続く。地平線上邪魔するものが無い見渡す限りの湿原だ。 全く予想していなかった絶景だった。

 

(U字谷のような風景。写真を縮小したため、山が低く斜面が実際よりなだらかになっている。)

(高さ1000m程度の山だが、木々が生えておらず、迫力があった。)

(湿原道路)

 

 

グラスゴー(Glasgow)

 

19世紀のグラスゴー(Glasgow)はロンドンに次ぐイギリス第二の産業都市だった。グラスゴーは19世紀に万国博覧会を開催するだけの繁栄を謳歌していた。 

 

インド植民地経営を行ったイギリス・東インド会社にはグラスゴー商人が多く出資していたと言う。

 

当方がグラスゴーで訪れたカルビングローブ博物館(Kelbingrove Museum)にはアジアやアフリカにイギリスが植民地を造った過ちや人種差別を啓蒙した当時の教育制度を反省した言葉が掲示されていた。

 

(20世紀初頭グラスゴーの紡績工場で働く女性。平均週給20シリング=240ペンス=1ポンドで一部屋(当時は住宅不足で庶民は家族単位一部屋に住んでいたと言う)に住む家族を養えたと言う。 パン一個の値段は6ペンスだった。 つまり平均的な週給でパンが40個が買えたことになる。)

 

 

(グラスゴーの繁華街ブキャナン通り)

 

(グラスゴー駅の近くのSt. Vicente Placeという一等地でもビル一棟貸の物件があった。地方都市は地盤沈下気味だろう。)

 

グラスゴーから140km程度南下した西海岸沿いのカイルンライアン(Cairnryan)からフェリー船でアイルランド島の英国領北アイルランドのベルファーストへ渡る。 ブリテン島とアイルランド島はフェリーで約2時間ほど結ばれている。フェリー料金はオートバイ料金を含め55ポンド(約11,000円)

 

フェリーは乗船の前日にオンラインで予約をしておいた。

(アイルランド島へのフェリー発着港があるCairnryanのフェリーふ頭)

 

(アイルランド島へ向かうフェリー船上)

 

(アイルランド島ベルファースト付近は崖地だった。)

 

以上 

 

 

 

 

ノルウェーのオスロからイギリス首都ロンドまで (2025/7/318/9) 2,000km

 

ノルウェーの首都オスロから国境を跨ぐエーレスンド海峡大橋(Oresund)と国際フェリーを2回乗り継ぎスウェーデン~デンマーク~ドイツ~ベルギー~フランス~イギリス(UK)の首都ロンドンまで最短距離を一気に走行した。

 

移動に効率が良い高速道路を使って移動したので、ツーリングの面白さは無い。

 

EU圏内は国境があっても、国境の往来が自由なため国境を跨ぐと言っても、日本の県境を跨ぐ感覚と同じで旅情が湧かない。実際どこで国境を越えたのかさえ分からない場合がある。

 

日本的な感覚ではスウェーデンのマルモ(Malmo)とデンマークのコペンハーゲンを結ぶエーレスンド大橋(Oresund Bridge)以外は高速道路が無料なのは有難い。 

 

日本の高速道路が全て有料になっている方がグローバルスタンダードから外れていると言った方が適切だろう。

 

以下ツーリングルートである。

 

オスロ(ノルウェー)~310km~スウェーデン・ヨーテボリ(Gotenburg)泊~マルモ~スウェーデンとデンマークのZealand島を結ぶエーレスンド大橋(20km)を渡り~320km~デンマーク・首都コペンハーゲン(2泊)~ロドビー(Rodby)から国際フェリーでドイツ・Puttgardenへ~320km~ハンブルグ(1泊)~130km~ブレーメン(2泊)~360km~オランダ・首都アムステルダム(2泊)~280km~ベルギー・ブルージュ(Brugges)泊~フランス・カレイ(Calais)から国際フェリーでイギリス(UK)ドーバーへ~270km~首都ロンドン

 

(ノルウェー・オスロからスウェーデンへ向かう途中の高速道路沿いの小麦畑。収穫の時期を迎えていた。)

 


 

(ノルウェーの代表的な画家ムンクの代表作<叫び=Scream>の油絵。ムンクは油絵のほかにクレヨン画と版画でも同一の絵を描いていた。)

 

(クレヨン画)

(版画。ムンクは多くの絵を版画でも描いていた。)

 

(ムンクの油絵<叫び=Scream>に照明の光でも悪影響を及ぼすため、一日数回30分程度しか展示しない。展示時間になると絵の前はこのように混雑する。)

 

(ムンク美術館。個人の作品のみ展示する美術館としては世界最大級。6~7階建て建物の3フロアにてムンク個人作品が多数展示されていた。)

 

(ノルウェーのオスロからイギリスのロンドンまでの走行ルートをピンク色で示す。オスロは地図右上部の赤丸印。ロンドンは地図左下の赤丸印の位置)

 

 

スウェーデン

 

スェーデンはヨーテボリ(Gotenburg)に一泊したのみで通過しただけだった。ガソリン代がノルウェーより約3割安かった。それでも1リットル当たりの価格は約16スウェーデン・クローネ(約225円)。

 

スーパーでの食料品の価格はノルウェー並みか、ノルウェーより少し安い程度であまり変わらない。

 

驚いたことには宿泊した大型のホステル(Hostel Gotenburg)には無料サウナの施設があり、サウナが好きな当方には有難かった。

(スウェーデンの第2都市ヨーテボリ=Gotenburgの旧市街)

 

(スウェーデンのマルモとデンマークのコペンハーゲンを繋ぐエーレスンド大橋。スウェーデン側からデンマーク側を臨む。)

 

 

コペンハーゲン

 

当方が大学2年生の9月末にバックパック旅行でコペンハーゲンを訪れた。1976年のことだった。

そしてアンデルセン童話に出てくる人魚姫の銅像をコペンハーゲンの港の片隅のさびれたところで見つけた。

観光客がほとんど来ないような所であった。

 

その当時、人魚姫の銅像があった場所が気になり、人魚姫の銅像を見に行った。現在は整備された公園の一角の海に面した岩場に当時と同じようにある。しかし観光名所になっている。

 

49年前コペンハーゲンはよく覚えていない。街がきれいで清潔だったぐらいしか記憶にないが、現在は道路インフラや建物の劣化が目立つようになっていた。

 

(コペンハーゲンの人魚姫の銅像前で記念撮影。人魚姫の頭部は過去2回切り落とされたと言う。)

 

 

(1976年9月当時の筆者と人魚姫の銅像。寒かったことを覚えている。)

 

(デンマークの警察官が乗るオートバイはイタリア製のドカティ=Ducatti。オートバイで走行中の当方を前々日にも見かけたとのことで声をかけてきた。)

 

 

ドイツの社会問題

 

ドイツではハンブルグとブレーメンに宿泊したのみだった。ブレーメンには当方が大学生の時に知り会ったドイツ人の友人宅にお世話になった。

 

8年前の世界一周ツーリング時以来の再会であった。 ブレーメンの街を8年前に訪れた際、トラム(路面電車)の車内で数名のアラブ系の移民若者を見かけた。彼らがドイツ社会でうまくやっていけるかなと少し心配した思いだったが、現在はトラムの乗客の3割が移民らしきドイツ系以外の人達だった。

 

ドイツ人の友人の言葉を借りると、ある公立小学校ではクラスの4割が移民の子弟になっていると言う。

将来はドイツ人の人口と移民の人口が逆転するという。 

 

また、ドイツで4番目に大きいケルン市ではイスラム寺院がスピーカーで民衆にイスラムのお祈りを呼びかけてるのが許されていると言う。 キリスト教国のドイツでイスラムのコーランが高々と唱えられるのだ。

 

 

フランスや英国は歴史的に北アフリカやインド・パキスタン等の南西アジアからの移民が多い国だった

ドイツが多くの移民を受け入れだしたのはメルケル前首相の時代からだった。当時はシリアからの難民の受け入れが欧州で問題となっていた。

 

ドイツの政治家は移民問題について議論を避けていると言う。移民問題を議論すると右翼のレッテルが張られるからだと言う。 

 

日本で定住外国人が全人口の3割とかになったらどうなるのだろうかと考えてしまう。

 

友人はかっては法律で制限がかかっていた国の財政上の借金の足枷がなくなり、借金で軍事費は大きく増える一方、教育費や社会保障が削られていく現状を嘆いていた。

(ブレーメンの市庁舎は歴史的な建物だ。)

 

(観光客で賑わう旧市街の狭い路地。その昔は漁民が多く暮らした地区だと言う。)

 

(ブレーメンの守護人ローランド像前で筆者と友人)

 

(ハンブルグで出会ったイタリア人ライダー。アイスランドへフェリーで渡り、オフロード走行をすると言っていた。そのため、オフロード用のタイヤを持参していた。)

 

オランダ

 

アムステルダムで2泊したのみで、歴史も社会もあまり知らない。

 

どのように人口が2千万にも及ばない小国が15世紀~16世紀に躍進して欧州の強国の一つになったのか知りたいと思った。

 

高速道路沿いにも工場やオフィースのビルが立ち、工業立国らしい状況が伺われる。 高速道路でも他国では無かった渋滞がアムステルダム周辺や、ロッテルダム周辺等の3か所であった。人口密度が高く大都市と大都市が隣接しているためであろう。


 

(オランダは風力発電の巨大風車が多い。道路右側は海のため、洪水対策として高い堤が築かれていた。)

 

 

(アムステルダムの代表的な美術館。 Rijiksmuseum)

 

(風車=Windmill Pauk Gabriel作)

 

 

(レンブラント=Rembrandtの代表作<夜警=Night Watch> レンブラントは肖像画を得意とした。複数の人々の肖像画がこの絵の中に描かれている。)

 

(ゴッホ=Van Goghの自画像。病み上がりのためか頬がすこしこけている。)

 

フェルメール=Vermeerのミルクメイド=Milkmaid。フェルメールは青色の扱いが得意だったと言われている。)

 

(アムステルダムの運河)

 

ベルギー

 

3つの言語がある国で国民の一体感に欠けると宿泊したホステルのベルギー人年配者が言っていた。

フランス語圏の住人はフランスのテレビを見て、フランスに親近感を抱き、オランダ語圏やドイツ語圏の住民との交流は無いと言う。 

 

ドイツ語圏の住民は戦争の犠牲者でもある。第一次大戦の結果(ドイツの敗戦)、旧ドイツ領の一部がベルギーに割譲されてしまったからである。

 

ベルギーではブルージュ(Brugges)という中世の時代に毛織物貿易で栄えた都市に宿泊したのみであった。

ブルージュは美しい街だということは学生時代から聞いていた。しかしながら今日まで訪れる機会が無かった。

 

宿泊したホステルの受付嬢は、当方が<ブルージュのことは何も知らない>と言ったら、<ブルージュは世界でも5本の指に数えられるほど有名な観光地だ>と自慢していた。

(ブルージュのカテドラルの塔は高さ70m~80mある。 中世の時代に巨大建造物を作れるほど豊かだった。)

 

(ブルージュの運河を観光船が進む)
 

(ブルージュの運河を見る犬。人間の様に後ろ足で立っている。)

 

(ブルジューの狭い運河を長さ70m~80mの大型船が進む。運河に架かる橋は可動式。)

(運河に架かるスライド式の可動式の橋。運河を航行する船が来ると橋はスライドして真横に向きを変える。)

(ブルージュ。多くの自転車には荷物を載せるサイドバッグがつけられている。)

 

(子供2人を前部に乗せられる電動アシスト式自転車。長さが3mぐらいあるので小回りは利かない。)

 

国際フェリーの料金

 

国際フェリーに乗る際には事前にオンライン等で予約すべきか、フェリー乗り場の現地で直接チケットを買うべきか迷う。

 

エストニア・タリンからフィンランド・ヘルシンキへのフェリーの場合

 

エストニアのタリンからフィンランドのヘルシンキへ国際フェリーで渡る際には、フェリー乗り場のチケットオフィーの窓口で前日に説明を聞きながら購入した。 分かりにくいオンラインでの予約よりで安く買えた。料金はオートバイ料金込みで62ユーロ(約1万円強)。 約2時間の航海時間だった。

 

(エストニア・タリンとフィンランド・ヘルシンキを結ぶ国際フェリー内部ののフードコート)

 

 

デンマークのロドビーからドイツへのフェリーの場合

 

デンマークのロドビー(Rodby)から国際フェリーでドイツのパットガルテン(Puttgarden)へ渡る際には、フェリー乗り場でチケットを買ったら、事前にチェックしたオンラインの価格の約2倍の料金だった。40分と短い航海だが634デンマーククローネ(約1.5万円)と高かった。

 

(デンマークのRodbyとドイツのPuttgardenを結ぶ国際フェリー)

 

ノルウェー国内フェリーの場合

 

ノルウェーのローフォテン諸島のモスケネス(Moskenes)から本土のボドー(Bodo)へ国内フェリーで3時間で渡る際は事前にオンライン予約をした(料金421ノルウェークローネ(=6千円強)だった。

 

後でわかったことだが、フェリー乗り場ではオンライン予約の1/2以下の料金177ノルウェークロネ(=2,600円)でフェリーに乗船できた。

 

という具合にはオンライン予約が得かフェリー乗り場でチケットを購入した方が得か事前に分かりずらい。

 

(ノルウェーのロフォーテン諸島と本土のボドー(Bodo)を結ぶノルウェーの国内フェリー)

 

フランス・カレイ(Calais)からイギリス・ドーバー(Dover)へのフェリーの場合

 

事前にオンラインで予約を試みたが、クレジットカードで代金を支払う際の認証(クレジットカード会社から支払いの際に電子メールで伝えられるパスワード番号)がスマホのサイト上で入力できない。 3つの異なるクレジットカードとデビットカードで試したが、認証番号が入力出来ない。  

 

デビットカードで支払いを試みた際には、認証ができないにも関わらず、デビットカードの運営会社からは即座にデビットカードでの支払いがありましたとのメール連絡を受ける。 もちろんフェリー運航会社からはオンライン予約の確認メールが届かないし、チケットも送付されてこない。

 

 

結局フランス・カレイ(Calais)のフェリー乗り場のチケット・オフィースの窓口でオンラン予約の有無を確認すると予約はされていなかった。 

 

チケット・オフィースでの料金はオンライン予約と同一の90ユーロ(約1.5万円)だった。航行時間は約1.5時間。

 

(フランス・カレイとイギリス・ドーバーを結ぶ国際フェリー)

 

(ドーバーの港へ入港する国際フェリー船。イギリスの白い断崖は高さ100mある場所もある。)

 

 

ネット社会は便利になったが、システムがしっかり稼働していない場合があった。

 

例えばスウェーデンとデンマーク間の海峡にかかるエールスンド大橋の通行料金を事前にオンラインで支払った際に、運営会社はオンラインで事前に届けてあったオートバイのナンバープレート番号を自動識別するので料金所ではゲートが自動的に開くと説明していた。

 

しかしながら、実際には料金所のゲートは開かず、当方はインターホンを通して係員に事情を説明してゲートを開けてもらった経緯があった。

 

また、ノルウェーの無人駐車場ではオートバイのナンバープレート番号を駐車場に入庫時に機械が自動的に読み取るので、料金精算時にはナンバープレート番号を入力後、料金をカードで支払うシステムになっていた。

 

しかしながら、当方がナンバープレート番号を精算機に入力してもエラー表示しか出ない。結局、当方は料金を支払わずに駐車場から立ち去った。

 

テスラ(Tesla)の電気自動車が多い欧州。韓国車も健闘。

 

特にノルウェーでは環境問題に関心が高い。そのためかテスラの電気自動車が多い。他のメーカーの電気自動車も走行しているが、テスラが圧倒的に多かった。

 

欧州は欧州製以外の自動車メーカーがなかなか受け入れられていない。トヨタ車でさえそんなに多く見かけない。 HyudaiKIAの自動車を欧州車以外ではよく見かけた。韓国製自動車が健闘しているのが分かった。

 

イギリスの自動車保険(強制保険)が厄介

 

欧州では日本同様、オートバイを含め自動車は対人対物の強制保険(Third Party Only Insurance)に加入せねばならない。 イギリスがEUから脱退したため、多くの欧州の自動車保険(グリーンカードとも呼ばれている)がイギリスを対象外としている。

 

スペインの保険会社にてEU諸国を対象としている自動車保険に加入していたが、イギリスは対象外だった。

同社も含め、イギリスとイタリアの業者に、イギリスの自動車保険の加入(購入)の可否をメールで問い合わせたが、取り扱っていないとのことだった。

 

唯一ドイツの業者(Tour Insure GmbH)がイギリスやスイスも含めたEU諸国の自動車保険を取り扱っていたので、その業者にイギリスを含むEU自動車保険の加入を依頼した。 元受け保険会社はAXAだった。

 

フランスからイギリスへ渡航する際の手続き

 

フランスからイギリスへ国際フェリーで渡る際、イギリスのパスポートコントロール(イミグレーション)やオートバイの通関手続きに時間がかかるだろうと思った。 

 

しかしながら実際には、フランスのカレイ港でフェリー乗船前にEU圏内からの出国印の押印とイギリス入国のパスポートコントロールを一つのドライブスルーの窓口で行ったのみで、オートバイの税関手続きは無かった。 1分~2分程度の短時間で済んだ。

 

イギリスのドーバーにてフェリーから下船する際の手続きは何も無く、オートバイでフェリーから通りへと出た。

 

 

以上 

 

 

 

ノルウェー・ノールカップ~首都オスロ2,900km(2025/7/197/29

 

ノルウェーはオートバイライダーのパラダイス

 

ノルウェーはオートバイ・ライディングを十二分に楽しめる国だ。

 

フィヨルドによる複雑な海岸線や山々の裾や谷を通り抜ける曲がりくねった道路、起伏がある道路等

いろいろなタイプの道路がある。

 

その上、太古の氷河が創り出した壮大なU谷やフィヨルド海岸等、あっと驚くような絶景が数々ある。

 

そんな絶景を見られるライディングルートをキャンプ場やホステルで知り合ったライダー達が教えてくれた。

 

そのおかげで、当方はノルウェーのオートバイツーリングを休息日を取るのも惜しんで、十分楽しむことができた。

 

(ノルウェー北部の海岸には海からそびえ立つ雪山があった。

テレビ番組で見た南極大陸を見ているような気がした。)

 


(ノルウェー北部の海岸線を走行中。北極圏のため標高が高くなくても山には雪が残っていた。)

 

(ノルウェー北部のフィヨルド)

(キャンプで知り合ったフィンランド人のクリスティアン=Cristian氏にはローフォテン諸島の見所を詳しく教えてもらった。同氏は2週間前に車関連用品の仕事で東京へ行ったばかりだと言っていた。日本人の仕事の手際よさに驚いたと言う。

仕事で訪れた展示会終了後、展示会の会場が解体業者によりあっという間にかたずけられ、その効率の良さに驚いたと言う。)


 

ノルウェー最北端のノールカップ以降は以下のルートを910日で通った。

 

ノールカップ~150km~レッパーフィヨルド(Repparfjord)ワイルドキャンプ~470km~トロムソ(Tromso)ホステル泊~240km~ナルビック(Narvik)教会ホステル泊~ロフォーテン諸島=Lofoten(絶景のツーリングルート350km)の先端部のフレッドヴァング(Fredvang)ホステル泊~モスケネス(Moskenes)からフェリーにて約3時間でノルウェー本土のボード(Bodo)へ渡り330km~モスジョエン(Mosjoen)久しぶりにホテル泊~410km~トロンドヘイム(Trondheim)ホステル泊~350km(途中ノルウェー最大級のフィヨルド・トロルスティンゲン=Trollstigen見学)~ゲルデ村(Gjerde)のキャンプ場でバンガロー泊~230km(途中カランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordやブリクスダール氷河=Briksdalsbreen見学)Byrkelo村のキャンピング場でバンガロー泊~410km~首都オスロ

 

太字でアンダーランを引いたルートや場所はこの地を良く知るライダーから勧められた場所であったので、絶景やオートバイライディングを堪能することができた。 

 

9泊中2連泊したのはトロムソだけだったが、絶景の連続で毎日移動していても疲れを感じなかった。むしろ充実していたぐらいだった。

 

(フィンランド~ノルウェーの走行ルートを赤線で示す。地図の一番上がノールカップ。地図左側がノルウェー、右側がフィンランド。ノルウェー側の一番下の赤丸印は首都オスロの位置だ。)

 

(ノルウェー北部をノールカップを目指して進むサイクリスト。

写真ではわからないが結構急な上り坂をサイクリストは登ってきた。)

 

(ノルウェー北部の雪山)

 

(ノルウェー北部の都市トロムソ=Tromsoのライダーズクラブのメンバー。背後の建物はライダーズクラブHells Angelsの建物。一年に3カ月程度の期間しかオートバイには乗れないと言っていた。)

(トロムソの中心部と本土を結ぶ橋。長さ500m程度で、景色を楽しみながら歩いて橋を渡った。)

 

(ノルウェー側の北極圏=Arctic Circle=北緯66度地点。 ドイツから赤色のホンダ・ゴールドウイング2台でツーリング中だった3人。一台は夫婦で二人乗り)

 

(フィヨルドで魚の養殖)

 

(山の中に入れば雪解け水が勢いよく流れている川が多い。)

 

ロフォーテン諸島(Lofoten Islands

 

このルートの一押しはここだろう。 火山島のように突然海面から生えたような奇妙な形の岩山や美しい海や海岸線が魅力だろう。 

 

ナルヴィック(Narvik)からスタートして一日でロフォーテン諸島のほぼ先端部分のフレッドヴァング村まで約350kmを走行した。 一日では時間が足らず途中予定していたヴァイキング博物館(Viking Museum)には寄れなかった。

 

ロフォーテン諸島の中間地点に”出べそ”のように突き出たヘニングヴァール(Henningsvaer)もぜひ立ち寄るとよいと勧められた場所であった。 

 

その出べそのような小さな島のトレバレファブリッケン=Trevarefabrikkenという名の宿泊施設兼カフェ・レストランのテラスから飲み物を口にしながらロフォーテン諸島を眺めたら良いと勧められた。

 

宿泊したホステルでは釣りをした宿泊客が釣りあげてきた40㎝位の大きさの白身魚の切り身をフライパンで焼いて食した。 醤油があれば、刺身で食べても旨かっただろう。

(ロフォーテン諸島へのスタート地点。 昨年ツーリングした九州の島原半島に似ていた。)
 

(壁のようにそそり立つ山は印象的だった。写真では迫力が伝わらないが、実際は壁がそそり立ち、行く手を阻むような感じだった。)

 

(景色が良いので思わず写真を撮りたくなる。 山と海)

(ロフォーテン諸島ののどかな風景。海岸沿いの民家。)

(出べそのような小さな島ヘニングヴァール=Henningsvaerの港)

(へニングヴァール=Henningsvaerのトレバレファブリッケン=Trevarefabrikkenという名の宿泊施設兼カフェ・レストランのテラス)

 

(当方と同名の"FURU Hotel & Cafe"があったので、表敬訪問した。 オーナーのカリーナ女史にFURUとはノルウェー語で”松の木”を意味する旨を教えてもらった。)

 

(ロフォーテン諸島先端部のフレッドヴァング=Fredvang村付近。朝6時前の時間帯)

 

(海上のフェリーからロフォーテン諸島を見るとのこぎりの歯のような山々だった。)

 

ノルウェーの暗い過去

 

第二次世界大戦中ノルウェーは当初中立の立場だったが、旧ナチス・ドイツ軍に占領されていた。ドイツ軍は鉄鉱石等の地下資源が豊富なスウェーデンからの積み出し港があるナルヴィック(Narvik)を確保したかった。

 

イギリスをはじめとする連合国側は、戦争当初ドイツ軍にナルヴィック港を占領させないように狭いフィヨルド内で軍艦や潜水艦をもちいた大がかりな海戦や陸上で戦闘を行ったと言う。 

 

結局ドイツ軍が戦争終結直前まで占領下に置いたのだが、ドイツ軍に協力する人々と抵抗する人々の間の葛藤や分断があったようだ。 

 

そんなことをナルヴィックにある戦争博物館(War Museum)が教えてくれる。 大戦中にノルウェーでは約1万人の戦死者がいたと言う。その1/3は連合国側の物資輸送に協力した船乗り(Seaman)だったと言う。

(ナルビック=Narvikで宿泊したホステルはキリスト教会が運営していた。ホステルと教会チャペルが隣接)

(ナルビック戦争博物館内の展示品に第二次大戦中に使っていた軍事用のBMW製オートバイとサイドカーがあった。)

 

ノルウェー南部の見所

 

ロフォーテン諸島のフレッドヴァング村のホステルで出会ったオスロ在住のスロバキア人ライダーにノルウェー南部の見所を教えてもらった。

 

ノルウェー最大級のフィヨルドや氷河が見れるツーリングルートがあると言うのだ。 当方は地図を片手にそのライダーが話す言葉をメモ書きし地図上に照らし合わせた。 

 

当方が当初考えていたルートと全く違っていた。当然勧められたルートを辿るべく変更した。オートバイツーリングで一番気になるのが天候だ。 スカンディナビア半島のツーリング計画時には、ノルウェーの海岸沿いは雨が多くて、寒いだろうと考えていた。

 

それが、幸運にも殆ど晴天続きだ。 晴天だが空気が冷たい。 炎天下で動かずじっとしていれば、暑く感じるが、オートバイで走行すると風が冷たい。 そのため、冬用のツーリングジャケットを着用していた。

 

ノルウェー南部のフィヨルド観光の中心地はオンダルネス=Andalsnesということを教えてもらった。

 

オンダルネスからスタートしてトロスティンゲン=Trollstigenフィヨルド、 ガイランゲルフィヨルド=Geirangerfjordやその先にあるブリクスダール氷河=Briksdalsbreenを見学したらよいと聞いた。

 

この地域は観光名所にもなっているので夏季のホテルやホステルの確保は難しい。しかし、キャンプ場がたくさんある。また、公式キャンプ場でなくても、野原でも、海岸でもどこでキャンプ泊しても問題無いと言う。

 

事実キャンピングカーを自分の気に入った海岸や川辺の空地に停めて、キャンプ泊中の旅行者を多く見かけた。

 

(オンダルネス=Andalsnes付近に谷間の道路。高さ100mぐらいの滝が右手に見える。)

 

(展望台から見るノルウェー最大級のトロスティンゲン・フィヨルド=Trollstigen Fjord。フィヨルドと言っても海ではなくて陸上のU字谷だ。)


 

カランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordに停泊の大型クルーズ船が写真奥に見える。クルーズ船は10階建て位ある巨大な船だったが、500m位の高台から見ると小さく見えた。)


標高約1500mの展望台から写真奥のカランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordを見る。フィヨルド湾の手前の岸に小さく見えるのがクルーズ船だ。)

 

(ブリクスダール氷河=Briksdalsbreenの先端が見えるポイントまでは徒歩で行く。更に数時間かけて山を登れば、氷河まで行けるようだ。 冷蔵庫の中にいるようで寒かった。)

 

(道路は氷河が動いて作ったU谷やフィヨルドの谷の底にある。)

(谷底の道路から見ると両側が壁に阻まれているように見える。)

 

キャンプ泊ではバンガローを利用

 

南ノルウェーでも宿泊地を事前に決めていなかった。 夜半まで明るいので宿泊地の心配はしていなかった。 I Overlanderのアプリでキャンプ場の情報をチェックして、夕刻に到着している地点でキャンプ場を探した。

 

フィンランドのキャンプ場でのテント泊では蚊で悩まされたので、キャンプ場にバンガローがあればバンガロー泊をしたいと思っていた。 バンガローは2段ベットや簡単な自炊用電気コンロ等が装備されている。 トイレやシャワーは共同利用の施設が整っている。

 

また、 WiFi設備もあるので、自然の中で過ごしたい人にはバンガロー泊がおすすめだ。 また、雨天の際、テントを撤収するのは苦手な人が多い。当方も雨天のテント泊は避けたかった。 

 

当方はGjerdeByrkeloという地図にも載っていないような小さな村にあったキャンプ場で2回バンガロー泊をした。一泊400500クローネ(一泊6千円~7.5千円)と都市部のホステル並みの手頃な料金だった。

 

 

(Gjerde  Campingのバンガロー)

 

(Gjerde Campingのバンガローの内部。2段ベット、テーブルとイス、簡単なキッチンがあった。トイレとシャワーは別棟)

 

(ブリクスダール氷河=Briksdalsbreen近くで泊まったByrkelo村のGasemyr Campingのバンガロー)

 

(Byrkelo村のGasemyr Campingでバンガローの横で車中泊していた一人旅のドイツ人は当方に朝食やコーヒーを差し入れしてくれた。)

(ノルウェー初日はこんなノールカップから150km程離れたRepparfjordの川岸でワイルドキャンプをした。)

 

(ワイルド・キャンプのテント)

 

何故ノルウェーの物価が高いか考える。 

 

ノルウェーの一人当たりのGDP2023年のIMFデータでは87,000米ドル(約12.6百万円)だ。 フランスの2倍弱、日本の2.5倍と大きい。 

 

フランスは46,000米ドル(約6.7百万円)。日本は34,000ドル(約4.9百万円)となっている。 

 

因みにフィンランドは53,000米ドル、スウェーデン55,000米ドル、デンマーク68,000米ドル、米国83,000米ドルとなっている。

 

一人当たりのGDPを年収と見なすと年収が大きい分、物価が高くて当然だとも言える。 問題はドル建ての数字に換算する際の為替レートだ。 

 

日本は継続的な円安のため、ドル建てGDPの数字は年々減少して、収入が減っている様に見える。外国人から見れば、日本の物価は安く写る。

 

物価を収入に見合った形で表す購買力平価という考え方もある。購買力平価で比較すればノルウェーも日本もあまり変わらないだろう。 ということはノルウェーの為替レートが過大評価されているとも言える。

 

ノルウェー経済を調べていないので、断定は出来ないがノルウェーは通貨安政策を取る必要が無いのだろう。

おもな輸出品は天然資源である原油やガスだ。天然資源の場合、国際価格が決まっているので、自国通貨が安くても輸出価格には反映されない。 

 

一方、車や輸送機器等の工業製品や農産物が主な輸入品だ。国内のインフレを抑えるのには為替レートが高いほうが有利だともいえる。

 

以上