Bilbao,Spain~Portugal~Madrid,Spain(終了)2,000km(2025/9/10~9/20)
当方のオートバイ・ツーリングは出発したスペインのマドリッドで終了する。
パンプローナからマドリッドへ直接行きツーリングを終了するのはもったいないと考え、当方が今までのスペイン滞在中に訪れたことが無かったスペイン北部のビルバオ(Bilbao)を訪れることにした。
ビルバオは2000年代初頭まではバスク独立を掲げるゲリラ組織(ETA)が活動しており、爆弾テロが多発した地域でもあった。 またスペイン北東部のバロセロナと肩を並べるスペインで突出した工業都市であった。
ビルバオの近くには20世紀の天才画家ピカソがスペイン市民戦争時にドイツ軍の空爆で街が破壊され多くの犠牲者がでた様子を描いた場所として知られているゲルニカ(Guernica)がある。ゲルニカも訪れて、街を見てみたいと思った。
ビルバオの後は、雨天の天気予報だったスペイン北部を避けて、内陸部のレオンへ進み、そこからポルトガルのポルトを目指して進んだ。
ポルトガルは今まで数回訪れているが、ポルトには訪れたことが無かった。ポルト市内を流れるドウエロー川に架かる鉄橋(ルイス一世橋)と旧市街の街並の映した写真やポスターを数度となく見たことがあった。
この機会を逃したら、ポルトへは行かないだろうと考え、重い腰をあげてポルトガルへ進んだ。
(ビルバオの世界遺産の橋。橋からゴンドラをワイヤーで吊り下げてゴンドラが動く。これが見たくてビルバオに寄った。
ゴンドラが動く写真も下部に掲載)
(ゲルニカ空爆のイメージ写真だ。第二次世界大戦前の初の無差別爆撃だった。)
最後の区間は以下のルートで進んだ。
Pamplona~160km~Bilbao(2泊)~360km~Leon(泊)~420km~ポルトガル入国後Porto(2泊)~240km~Fatima(泊)~275km~Castilo Brancco・Monsanto(3泊)~スペイン再入国~240km~Lagartera(泊)~220km~Madrid
(イベリア半島=スペイン・ポルトガルの地図。ビルバオ=Bilbaoはイベリア半島北部の海に面した赤丸印の位置。反時計周りにポルトガルのポルト=地図左側の海に面した赤丸印の位置~スペインのマドリッドへと移動。 スペインの首都マドリッドはイベリア半島中央の赤丸印の位置。 今回のオートバイ・ツーリングのスタート地点と終了地点だ。)
ビルバオ(Bilbao)とGuernica(ゲルニカ)
ビルバオが位置するスペイン北部は雨が多く、夏でも涼しい気候である。
幸い当方は短時間の霧雨にあったぐらいで、ほとんど晴天だった。
過去にバスク独立を目指して政府に対してテロ活動を行っていた過激派組織(ETA)は2011年に解散した。
バスク自治州として十分な政治的権限を与えられたからだ。
バスク地方には山々が広がっている。そのため車やオートバイでの移動は曲がりくねった道を通過する。しかも時速80km~90kmとかなり高速だ。 曲がりくねった道路の連続は、スリルがあって面白い一面、当方の後ろに車がぴったりつくと危険を感じる。 そんな時は当方はわざとスピードを落として、後ろの車に抜いてもらうようにしている。
(ビルバオの街)
(ビルバオの名物吊りゴンドラの橋 川幅は約160m)
(橋からワイヤー吊られたゴンドラに車・バイクや人が乗る。料金は片道徒歩でも10ユーロ=約1700円と高い。)
ゲルニカはビルバオから北西部へ35km進んだ場所に位置している。
ピカソの<ゲルニカ>の絵のおかげで、名度は高いが、訪れる外国人の姿はそんなに多くない様子だ。
ピカソはゲルニカを一度も訪れたことが無かったと聞く。 ゲルニカの空爆があった1937年4月26日当時、ピカソはパリ在住だった。
当時スペインは共和制の政府と専制政治を唱えるフランコ将軍が率いる反政府軍が対峙していた。
フランコ将軍は同盟していたドイツのヒトラーへゲルニカ空爆を要請して、ドイツ軍とイタリア軍が空爆を行った。
アメリカの作家ヘミングウェイはスペイン市民戦争を題材とした<誰がために鐘がなる=For whom the bell tolls>等の小説を残している。
スペイン内戦はフランコ将軍の反政府軍が勝利して、フランコ将軍が1975年に死亡するまで、フランコ将軍の独裁政権が続いた。
ゲルニカの絵はピカソの意思で、フランコ政権下のスペインへは戻らず、ニューヨーク近代美術館に貸し出されたままであった。
フランコ将軍の死亡と、その後の民主主義政権下で、ゲルニカの絵はやっとスペインへ戻ってきた経緯があった。現在は首都マドリッドのソフィア王妃美術館に展示されている。
(ピカソがパリ万博展示用として描いたゲルニカの絵の複製)
(空爆で85%建物が破壊されたゲルニカの街。空爆は1937年4月26日の午後4時頃だったと言う。)
(現在のゲルニカの中心部)
(ゲルニカの北30km程の海に面した修道院サン・フアン・ガズテルガテ=San Juan Gaztelugatxe。当日の入場券が手に入らず遠くから修道院を眺めるだけだった。 修道院まで行くには事前のオンラインでの入場予約が必要。)
レオン(Leon)
レオンは約20年前に一度訪れていたが、レオンのカテドラルの中は見学したことが無かった。
カテドラル内部の壁の下から天井に至るまでステンドグラスで飾られている。
もちろん一枚一枚のステンドグラスは宗教絵をモチーフとしているが、見事としか言いようがない多様の色遣いとスケール感だ。これほど立派で大きなステンドグラスの教会は初めてだった。
通常は教会への入場は無料であるが、観光地の有名な教会やカテドラルへの入場は有料となっている。
レオンのカテドラル(設立13世紀)への入場は、有料だったが、訪れて見学する価値は十分あった。
レオンはサンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)への巡礼道にあるため、当方が投宿したホステルの宿泊客は当方以外は全て徒歩での巡礼者だった。 当方がバイク旅だと知ると<何故徒歩じゃないの?>と不思議がっていた。
レオンから北西へ進路をとればカトリックの三大聖地の一つのサンティアゴ・デ・コンポステラへ行けるが、海に面したスペイン北部は雨が多い。天気予報では一週間ほど天気が悪い。 晴天の内陸部を走行し続けてポルトガルのポルトへ行くことにした。
スペインからポルトガルに入っても国境の表示が無いので、どこが国境だったか分からない。 高速道路を避けて一般道を走行していた。 道路のアスファルト面が随分痛んでいるので、ポルトガルに入ったんだなと気が付いた。
やはりスペインとポルトガルには経済格差がある。因みにIMFのデータではポルトガルの一人当たりの国民所得は約28,000米ドル(約390万円)、スペインは34,000米ドル(約480万円弱)と日本と同額だ。
ポルトガルの風景はスペインと異なる。 起伏が多い。大地には森林や林が多い。
そのため、ゆったりした上り坂や下り坂が多い。 また、山火事も多いため、森の木々が無残に焼けて黒々としている光景をよく目にした。
(スペイン内陸部。パンプローナからレオンへ向かう途中の大地は乾燥している。 小麦の収穫後の広大な畑が広がっている。)
(レオンへ通じる自動車専用道路はカトリックの巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラに通じているので、
この道路も車両でのサンティアゴへの道=Camino de Santiagoになっている。)
(レオンのカテドラル。 中世のゴシック様式の建築。巨大で荘厳な建物だ。)
(レオンのカテドラルの内部。正面の祭壇のステンドグラスは壁の上部だけだが、横の壁は下から上まで全面ステンドグラス張りだ。)
(投宿したレオンの宿=Global Trotter Hostelと当方のオートバイ)
(ポルトガルの道路風景。写真では平らな大地見えるが、結構アップ・ダウンがある。)
ポルト(Porto)
ポルトは坂が多い街だ。 ちょうど長崎市のように平地が少なく、丘や小山を切り開いて街をつくっているため
坂の街になる。特に旧市街は坂だらけだから徒歩での観光は足が疲れる。 石畳の道路ではバイクではタイヤが滑りそうになり、走りずらい。 ポルト市内に滞在中は一度もバイクを使用しなかった。
国際観光都市のポルトには外国人観光客が多い。物価はフランス並みだ。旧市街の宿泊施設は修繕が進んでいない建物が多いため、床を歩くとぎしぎし音がしたり、ドアの一部が壊れていたり、外壁がくずれたりと修繕が必要だ。
それでも、数百年変わっていない歴史的な街の風景は多くの観光客を魅惑する。
(ポルトの旧市街)
(世界遺産のドン・ルイス1世橋はパリのエッフェル塔を設計したGustav Eiffelが手掛けた。)
(投宿した旧市街の歩道にオートバイを2日間置きっぱなしにした。後輪にはワイヤーケーブルのロック、前輪にはディスクロックの盗難防止をした。))
(アズレージョと呼ばれるポルトガル独自のの青色セラミック文様の壁を施した教会)
(ランドマーク的なポルトのIglesia de dos Clerigosは坂道にある。)
(狭くて勾配が急な坂道)
(ドン・ルイス1世橋は下部と最上部を徒歩で渡れる。下部は自動車用、上部は電車用となっている。)
(川岸にはかってワインの樽を運んだ小舟が係留されている。現在は観光用だと思われる。)
ポルトからカトリック教徒の聖地であるファティマ(Fatima)へと進んだ。
ファティマは小さな町だが、1917年にファティマに住む3人の子供たちの前に聖母マリアが出現して
奇跡を起こして人々を熱心な信者に改心させたり、3つ予言を残したとされている。
一つ目は地獄の実在、二つ目は第一次世界大戦の終わりと第二次世界大戦の勃発。三つ目はローマ法王の暗殺未遂とされていますが、これには疑問がついている。
当方は聖地と呼ばれている場所にはそれなりの敬意を払っている。
(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの外観)
(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの内部は意外と質素だった。)
(広大な広場の一角には近代建築のもう一つの教会、Basilica de Santissima Trinidadeがあった。)
(Basilica de Santissima Trinidadesの内部は数千人入れる巨大な建物。)
(Basilica de Santissima Trinidadeの十字架のキリストは東洋的な顔立ちだった。)
(Fatimaで投宿したホテルは無人のセルフチェックイン方式。Booking.Comで予約したのだが、セルフチェックイン方式とは知らず、現場に到着してから入口ドアに掲示されていた電話番号とWhatsApp番号に連絡してチェックイン方法が教示される。 連絡方法が無い旅人は苦労する。)
ファティマからカスティーロ・ブランコ(Castilo Branco)そしてモンサント(Monsanto)
カスティーロ・ブランコは当方が8年前にもツーリング途中で訪れていた。しかしながら、過去のブログを読んで確認するまで気が付かなかった。宿泊した場所が異なっていたから気が付かなかった。
旧市街を見下ろす城跡からの風景を見た時に、どこかで見た光景だと思った。 そして
8年前のブログ記事を読み、なんとなく思い出した。
カスティーロ・ブランコへ寄った最大の理由は、カスティーロ・ブランコの北東50km先に存在する
岩を利用した住居があるモンサント(Monsanto)という村を訪問することだった。
日本のテレビ番組でモンサントの巨石を利用した住居を見た。村全体が、岩で出来た住居かなと夢を膨らませたが、岩の住居は数世帯だけだった。
(カスティーロ・ブランコ=Castilo Brancoへ行く途中の田舎道)
(Monsantoの村はこの山の左側中腹にある。)
(Monsantoの山頂付近の高台には巨石を利用した民家が数軒ある。巨石と巨石の空間を利用して居住部分としている。)
(Monsantoの頂上からみた村)
(Monsantoの頂上=城塞からみた周囲の景色)
(カスティーロ・ブランコ=Castilo Branco市内のブラジル式柔術の道場)
(カスティーロ・ブランコ旧市街の坂道。 坂道の頂上には城跡がある。)
(丘の上の城跡から眺めるカスティーロ・ブランコの旧市街。2017年9月にも同じ場所を訪れ、同じアングルの写真をブログに投稿していた。)
外国人労働者
ポルトガルではコロンビア、アルゼンチンやペルー等南米出身の人達と出会った。みなポルトガルに仕事を求めて来たのである。 南米の人達ならスペイン語が母国語だからスペインで働いた方が言葉のハンディーが無い分、楽なはずだ。
しなしながら、スペインでの労働許可の取得が難しくなっているため、ポルトガルで職を求めたと44歳の電気工事士のホルヘは言っていた。ほとんどの外国人労働者はポルトガルで市民権を取得したら、より待遇がよいフランス、ドイツ等の国々を目指すと言う。
同氏は電気工事技術者として処遇は月給1,200ユーロだと言う。
また、コロンビア人の21歳の若者はポルトガルの会社に雇われてスペインのビルバオの建設現場で働いていると言った。時給10ユーロで一日10時間、週5日働いて一月約2,000ユーロ得ているという。
ポルトガルでは外国人労働者がいないときつい労働条件の職場は業務が遂行できない状況だろう。
ポルトガルに限らず欧州全体がそのようになっていると推測する。
ポルトガルからスペインへ最入国後~Lagartera~Madridへ
カスティーロ・ブランコから70km東へ進めば、スペインとの国境となる。 この国境は一番往来が無いほぼ無人地帯の国境だった。 田舎道の川幅数メートルの橋が国境となっている。 車やひとの通行は殆どない。
国境だと確認できたのでは車一台が通行できる幅の小さな橋の上に国境のプレートがあったからだ。
スペインに再入国すると安堵感がどっと湧くと同時にツーリングが終わるんだなと少し寂しい気分になる。
それでも暑い中、ツーリング終了地点であるマドリッドまでの400kmを一日で走り切る気にはなれず、マドリッドの200km手前の田舎町Lagarteraで宿泊した。
小さな町なので、飲食店(Bar)で住民はゴシップネタを酒のつまみにしながら長話をしている。
見慣れない東洋人が町をあるいている姿をみて、不思議がっている。<誰だろう?><何をしているのだろう?等>
ホテル横の食料店で買い物をした際、レジの若い女性は当方が日本人だと知ると、爆発するような勢いでいろいろ話しかけて来た。<私はハネムーンでメキシコへ行ったことが事がある。日本はどんなところ?。物価が高くて旅行では行けない・・・>等々。
当方が投宿したホテルの一階の飲食店の店主は当方がバイクで世界各地をツーリングしていると知ると、有名人に出会ったように自分のスマホの自撮りに入ってくれと依頼してきた。
この町の人達は何か刺激を求めているのだ。
翌日少し遠回りになるが、マドリッドへは高速道路を利用せず、町や村を通過する一般道でマドリッドへ向かった。
マドリッドの太陽の日差しは強いが、日陰では少し肌寒く感じるくらい季節が秋へ変わりつつあった。
(ポルトガルとスペインの国境の小川。小川の右側はスペイン領。左側はポルトガル領。)
(国境の橋の上のプレートのEはスペイン、Pはポルトガルを示す。)
(Lagarteraで投宿したHostal)
(Lagarteraの小路。布地への刺繡が特産品となっている。)
(Lagarteraからマドリッドへは一般道を利用)
(日本の地方の民家のような造りだが、石造りの壁となっている。)
次回は中央アジア・欧州ツーリングの総集編に続く予定。
以上