インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

Bilbao,SpainPortugalMadrid,Spain(終了)2,000km(2025/9/109/20

 

当方のオートバイ・ツーリングは出発したスペインのマドリッドで終了する。

 

パンプローナからマドリッドへ直接行きツーリングを終了するのはもったいないと考え、当方が今までのスペイン滞在中に訪れたことが無かったスペイン北部のビルバオ(Bilbao)を訪れることにした。

 

ビルバオは2000年代初頭まではバスク独立を掲げるゲリラ組織(ETA)が活動しており、爆弾テロが多発した地域でもあった。 またスペイン北東部のバロセロナと肩を並べるスペインで突出した工業都市であった。

 

ビルバオの近くには20世紀の天才画家ピカソがスペイン市民戦争時にドイツ軍の空爆で街が破壊され多くの犠牲者がでた様子を描いた場所として知られているゲルニカ(Guernica)がある。ゲルニカも訪れて、街を見てみたいと思った。

 

ビルバオの後は、雨天の天気予報だったスペイン北部を避けて、内陸部のレオンへ進み、そこからポルトガルのポルトを目指して進んだ。

 

ポルトガルは今まで数回訪れているが、ポルトには訪れたことが無かった。ポルト市内を流れるドウエロー川に架かる鉄橋(ルイス一世橋)と旧市街の街並の映した写真やポスターを数度となく見たことがあった。

この機会を逃したら、ポルトへは行かないだろうと考え、重い腰をあげてポルトガルへ進んだ。

(ビルバオの世界遺産の橋。橋からゴンドラをワイヤーで吊り下げてゴンドラが動く。これが見たくてビルバオに寄った。

ゴンドラが動く写真も下部に掲載)

 

(ゲルニカ空爆のイメージ写真だ。第二次世界大戦前の初の無差別爆撃だった。)

 

最後の区間は以下のルートで進んだ。

 

Pamplona160kmBilbao2泊)~360kmLeon(泊)~420km~ポルトガル入国後Porto2泊)~240kmFatima(泊)~275kmCastilo BranccoMonsanto3泊)~スペイン再入国~240kmLagartera(泊)~220kmMadrid

(イベリア半島=スペイン・ポルトガルの地図。ビルバオ=Bilbaoはイベリア半島北部の海に面した赤丸印の位置。反時計周りにポルトガルのポルト=地図左側の海に面した赤丸印の位置~スペインのマドリッドへと移動。 スペインの首都マドリッドはイベリア半島中央の赤丸印の位置。 今回のオートバイ・ツーリングのスタート地点と終了地点だ。)

 

ビルバオ(Bilbao)とGuernica(ゲルニカ)

 

ビルバオが位置するスペイン北部は雨が多く、夏でも涼しい気候である。

幸い当方は短時間の霧雨にあったぐらいで、ほとんど晴天だった。

 

過去にバスク独立を目指して政府に対してテロ活動を行っていた過激派組織(ETA)は2011年に解散した。

バスク自治州として十分な政治的権限を与えられたからだ。

 

バスク地方には山々が広がっている。そのため車やオートバイでの移動は曲がりくねった道を通過する。しかも時速80km90kmとかなり高速だ。 曲がりくねった道路の連続は、スリルがあって面白い一面、当方の後ろに車がぴったりつくと危険を感じる。 そんな時は当方はわざとスピードを落として、後ろの車に抜いてもらうようにしている。

(ビルバオの街)

(ビルバオの名物吊りゴンドラの橋 川幅は約160m)

(橋からワイヤー吊られたゴンドラに車・バイクや人が乗る。料金は片道徒歩でも10ユーロ=約1700円と高い。)

 

 

ゲルニカはビルバオから北西部へ35km進んだ場所に位置している。

 

ピカソの<ゲルニカ>の絵のおかげで、名度は高いが、訪れる外国人の姿はそんなに多くない様子だ。

ピカソはゲルニカを一度も訪れたことが無かったと聞く。 ゲルニカの空爆があった1937426日当時、ピカソはパリ在住だった。 

 

当時スペインは共和制の政府と専制政治を唱えるフランコ将軍が率いる反政府軍が対峙していた。

フランコ将軍は同盟していたドイツのヒトラーへゲルニカ空爆を要請して、ドイツ軍とイタリア軍が空爆を行った。

 

アメリカの作家ヘミングウェイはスペイン市民戦争を題材とした<誰がために鐘がなる=For whom the bell tolls>等の小説を残している。

 

スペイン内戦はフランコ将軍の反政府軍が勝利して、フランコ将軍が1975年に死亡するまで、フランコ将軍の独裁政権が続いた。 

 

ゲルニカの絵はピカソの意思で、フランコ政権下のスペインへは戻らず、ニューヨーク近代美術館に貸し出されたままであった。 

 

フランコ将軍の死亡と、その後の民主主義政権下で、ゲルニカの絵はやっとスペインへ戻ってきた経緯があった。現在は首都マドリッドのソフィア王妃美術館に展示されている。

(ピカソがパリ万博展示用として描いたゲルニカの絵の複製)

 

(空爆で85%建物が破壊されたゲルニカの街。空爆は1937年4月26日の午後4時頃だったと言う。)

(現在のゲルニカの中心部)

 

(ゲルニカの北30km程の海に面した修道院サン・フアン・ガズテルガテ=San Juan Gaztelugatxe。当日の入場券が手に入らず遠くから修道院を眺めるだけだった。 修道院まで行くには事前のオンラインでの入場予約が必要。)

 

レオン(Leon

 

レオンは約20年前に一度訪れていたが、レオンのカテドラルの中は見学したことが無かった。

カテドラル内部の壁の下から天井に至るまでステンドグラスで飾られている。

 

もちろん一枚一枚のステンドグラスは宗教絵をモチーフとしているが、見事としか言いようがない多様の色遣いとスケール感だ。これほど立派で大きなステンドグラスの教会は初めてだった。

 

通常は教会への入場は無料であるが、観光地の有名な教会やカテドラルへの入場は有料となっている。

レオンのカテドラル(設立13世紀)への入場は、有料だったが、訪れて見学する価値は十分あった。

 

レオンはサンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)への巡礼道にあるため、当方が投宿したホステルの宿泊客は当方以外は全て徒歩での巡礼者だった。 当方がバイク旅だと知ると<何故徒歩じゃないの?>と不思議がっていた。 

 

レオンから北西へ進路をとればカトリックの三大聖地の一つのサンティアゴ・デ・コンポステラへ行けるが、海に面したスペイン北部は雨が多い。天気予報では一週間ほど天気が悪い。 晴天の内陸部を走行し続けてポルトガルのポルトへ行くことにした。

 

スペインからポルトガルに入っても国境の表示が無いので、どこが国境だったか分からない。 高速道路を避けて一般道を走行していた。 道路のアスファルト面が随分痛んでいるので、ポルトガルに入ったんだなと気が付いた。

 

やはりスペインとポルトガルには経済格差がある。因みにIMFのデータではポルトガルの一人当たりの国民所得は約28,000米ドル(約390万円)、スペインは34,000米ドル(約480万円弱)と日本と同額だ。

 

ポルトガルの風景はスペインと異なる。 起伏が多い。大地には森林や林が多い。

そのため、ゆったりした上り坂や下り坂が多い。 また、山火事も多いため、森の木々が無残に焼けて黒々としている光景をよく目にした。

 

(スペイン内陸部。パンプローナからレオンへ向かう途中の大地は乾燥している。 小麦の収穫後の広大な畑が広がっている。)

 

(レオンへ通じる自動車専用道路はカトリックの巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラに通じているので、

この道路も車両でのサンティアゴへの道=Camino de Santiagoになっている。)

 

(レオンのカテドラル。 中世のゴシック様式の建築。巨大で荘厳な建物だ。)

 

(レオンのカテドラルの内部。正面の祭壇のステンドグラスは壁の上部だけだが、横の壁は下から上まで全面ステンドグラス張りだ。)

 

(投宿したレオンの宿=Global Trotter Hostelと当方のオートバイ)

 

(ポルトガルの道路風景。写真では平らな大地見えるが、結構アップ・ダウンがある。)


 

ポルト(Porto)

 

ポルトは坂が多い街だ。 ちょうど長崎市のように平地が少なく、丘や小山を切り開いて街をつくっているため

坂の街になる。特に旧市街は坂だらけだから徒歩での観光は足が疲れる。 石畳の道路ではバイクではタイヤが滑りそうになり、走りずらい。 ポルト市内に滞在中は一度もバイクを使用しなかった。

 

国際観光都市のポルトには外国人観光客が多い。物価はフランス並みだ。旧市街の宿泊施設は修繕が進んでいない建物が多いため、床を歩くとぎしぎし音がしたり、ドアの一部が壊れていたり、外壁がくずれたりと修繕が必要だ。 

 

それでも、数百年変わっていない歴史的な街の風景は多くの観光客を魅惑する。

(ポルトの旧市街)

 

(世界遺産のドン・ルイス1世橋はパリのエッフェル塔を設計したGustav Eiffelが手掛けた。)

 

(投宿した旧市街の歩道にオートバイを2日間置きっぱなしにした。後輪にはワイヤーケーブルのロック、前輪にはディスクロックの盗難防止をした。))

 

(アズレージョと呼ばれるポルトガル独自のの青色セラミック文様の壁を施した教会)

 

(ランドマーク的なポルトのIglesia de dos Clerigosは坂道にある。)

 

(狭くて勾配が急な坂道)

 

(ドン・ルイス1世橋は下部と最上部を徒歩で渡れる。下部は自動車用、上部は電車用となっている。)

 

(川岸にはかってワインの樽を運んだ小舟が係留されている。現在は観光用だと思われる。)

 

ポルトからカトリック教徒の聖地であるファティマ(Fatima)へと進んだ。 

 

ファティマは小さな町だが、1917年にファティマに住む3人の子供たちの前に聖母マリアが出現して

奇跡を起こして人々を熱心な信者に改心させたり、3つ予言を残したとされている。

 

一つ目は地獄の実在、二つ目は第一次世界大戦の終わりと第二次世界大戦の勃発。三つ目はローマ法王の暗殺未遂とされていますが、これには疑問がついている。

 

当方は聖地と呼ばれている場所にはそれなりの敬意を払っている。

(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの外観)

(Basilica de Nossa Senhora de Rosarioの内部は意外と質素だった。)

(広大な広場の一角には近代建築のもう一つの教会、Basilica de Santissima Trinidadeがあった。)

 

(Basilica de Santissima Trinidadesの内部は数千人入れる巨大な建物。)

(Basilica de Santissima Trinidadeの十字架のキリストは東洋的な顔立ちだった。)

 

(Fatimaで投宿したホテルは無人のセルフチェックイン方式。Booking.Comで予約したのだが、セルフチェックイン方式とは知らず、現場に到着してから入口ドアに掲示されていた電話番号とWhatsApp番号に連絡してチェックイン方法が教示される。 連絡方法が無い旅人は苦労する。)

 

 

ファティマからカスティーロ・ブランコ(Castilo Branco)そしてモンサント(Monsanto

 

カスティーロ・ブランコは当方が8年前にもツーリング途中で訪れていた。しかしながら、過去のブログを読んで確認するまで気が付かなかった。宿泊した場所が異なっていたから気が付かなかった。

 

旧市街を見下ろす城跡からの風景を見た時に、どこかで見た光景だと思った。 そして

8年前のブログ記事を読み、なんとなく思い出した。

 

カスティーロ・ブランコへ寄った最大の理由は、カスティーロ・ブランコの北東50km先に存在する

岩を利用した住居があるモンサント(Monsanto)という村を訪問することだった。

 

日本のテレビ番組でモンサントの巨石を利用した住居を見た。村全体が、岩で出来た住居かなと夢を膨らませたが、岩の住居は数世帯だけだった。


(カスティーロ・ブランコ=Castilo Brancoへ行く途中の田舎道)

(Monsantoの村はこの山の左側中腹にある。)

(Monsantoの山頂付近の高台には巨石を利用した民家が数軒ある。巨石と巨石の空間を利用して居住部分としている。)
 

(Monsantoの頂上からみた村)

(Monsantoの頂上=城塞からみた周囲の景色)

 

(カスティーロ・ブランコ=Castilo Branco市内のブラジル式柔術の道場)

 

(カスティーロ・ブランコ旧市街の坂道。 坂道の頂上には城跡がある。)

(丘の上の城跡から眺めるカスティーロ・ブランコの旧市街。2017年9月にも同じ場所を訪れ、同じアングルの写真をブログに投稿していた。)

 

外国人労働者

 

ポルトガルではコロンビア、アルゼンチンやペルー等南米出身の人達と出会った。みなポルトガルに仕事を求めて来たのである。 南米の人達ならスペイン語が母国語だからスペインで働いた方が言葉のハンディーが無い分、楽なはずだ。

 

しなしながら、スペインでの労働許可の取得が難しくなっているため、ポルトガルで職を求めたと44歳の電気工事士のホルヘは言っていた。ほとんどの外国人労働者はポルトガルで市民権を取得したら、より待遇がよいフランス、ドイツ等の国々を目指すと言う。 

 

同氏は電気工事技術者として処遇は月給1,200ユーロだと言う。

また、コロンビア人の21歳の若者はポルトガルの会社に雇われてスペインのビルバオの建設現場で働いていると言った。時給10ユーロで一日10時間、週5日働いて一月約2,000ユーロ得ているという。 

 

ポルトガルでは外国人労働者がいないときつい労働条件の職場は業務が遂行できない状況だろう。

ポルトガルに限らず欧州全体がそのようになっていると推測する。

 

ポルトガルからスペインへ最入国後~LagarteraMadrid

 

カスティーロ・ブランコから70km東へ進めば、スペインとの国境となる。 この国境は一番往来が無いほぼ無人地帯の国境だった。 田舎道の川幅数メートルの橋が国境となっている。 車やひとの通行は殆どない。

 

国境だと確認できたのでは車一台が通行できる幅の小さな橋の上に国境のプレートがあったからだ。

 

スペインに再入国すると安堵感がどっと湧くと同時にツーリングが終わるんだなと少し寂しい気分になる。

 

それでも暑い中、ツーリング終了地点であるマドリッドまでの400kmを一日で走り切る気にはなれず、マドリッドの200km手前の田舎町Lagarteraで宿泊した。

 

小さな町なので、飲食店(Bar)で住民はゴシップネタを酒のつまみにしながら長話をしている。

 

見慣れない東洋人が町をあるいている姿をみて、不思議がっている。<誰だろう?><何をしているのだろう?等>

 

ホテル横の食料店で買い物をした際、レジの若い女性は当方が日本人だと知ると、爆発するような勢いでいろいろ話しかけて来た。<私はハネムーンでメキシコへ行ったことが事がある。日本はどんなところ?。物価が高くて旅行では行けない・・・>等々。 

 

当方が投宿したホテルの一階の飲食店の店主は当方がバイクで世界各地をツーリングしていると知ると、有名人に出会ったように自分のスマホの自撮りに入ってくれと依頼してきた。

 

この町の人達は何か刺激を求めているのだ。

 

翌日少し遠回りになるが、マドリッドへは高速道路を利用せず、町や村を通過する一般道でマドリッドへ向かった。 

 

マドリッドの太陽の日差しは強いが、日陰では少し肌寒く感じるくらい季節が秋へ変わりつつあった。

(ポルトガルとスペインの国境の小川。小川の右側はスペイン領。左側はポルトガル領。)

 

(国境の橋の上のプレートのEはスペイン、Pはポルトガルを示す。)

(Lagarteraで投宿したHostal)

 

(Lagarteraの小路。布地への刺繡が特産品となっている。)

(Lagarteraからマドリッドへは一般道を利用)

(日本の地方の民家のような造りだが、石造りの壁となっている。)

 

次回は中央アジア・欧州ツーリングの総集編に続く予定。

 

以上 

Dieppe, France to Pamplona, Spain 1,400km (9/49/9

 

イギリスのニューハヴェン(Newhaven)からフェリーにて約4時間でフランス・ノルマンディーのディエップ(Dieppe)に到着した。

(イギリス・ニューハヴェンの港にはフランスでツーリングするイタリア製スクーターのベスパクラブのライダー達がいた。)

 

(英仏海峡は荒れていた。強風と荒波のためデッキへ出ることは不可だった。フェリー船内から撮影。)

 

(フランス側のディエップ=Dieppeの港。海岸線はイギリスと同様白い切り立った崖だった。)

 

英仏海峡フェリーについて

 

ニューハーヴェンの港でフェリーのチケットを前日に購入した際、意外なことを知った。

 

電話あるいはフェリー会社のカウンターでチケットを直接購入すると60歳以上のシニアは2割引きになるということだ。

正規の料金の2割引きでチケットを買い得した気になった。 

 

英仏海峡の海は荒れていた。大型のフェリー船でも地震のように絶えず揺れ続けていた。

 

フランスでの走行ルートは以下の通り

 

フェリーの到着港ディエップ(Dieppe)~70km~ルーアン2泊(Rouen)~240km~モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)~30km~ジュネ泊(Genets)~370km~ラ・ロシェル泊(La Rochelle)~440km~ルルド泊(Lourdes)~160km~スペイン入国後~80km~パンプローナ泊(Pamplona)

 

(イギリス南部からスペイン北部までの地図。イギリスのNew Haven港は英仏海峡の赤色点線のイギリス側の位置。 フェリーが到着したフランス側のディエップは赤色点線のフランス側の位置。フランスのディエッペからフランス東側=ノルマンディーやブルターニュを通り南下した。ツーリングルートを示すピンク色の線の最下部がスペインのパンプローナの位置。赤色〇印は宿泊地を示す。)

 

フランス到着からルーアン(Rouen

 

フランスのディエップ(Dieppe)港に到着後、シェンゲン条約のビザが絡むため、港を出るゲートにて出入国管理が行われる。フランス入国の印をパスポート押印してもらう。

 

フランスに到着すると何故かホットしたような気分になった。 当方の最終目的地はスペインのマドリッドだからこれ以上フェリーを使わず全て陸路で行ける。

 

ちょうど北海道ツーリング時に函館から青森港に到着した時に感じた安堵感に似ている。陸路で横浜市内の自宅まで繋がっている安心感だ。

 

ディエップからフランス最初の投宿地であるルーアン(Rouen)へ向かった。 ルーアンは19世紀のフランス印象派画家の一人モネが絵画の題材とした場所でもあり、以前から訪れてみたいと思っていた場所でもあった。

 

ルーアンは地方都市であるので交通渋滞が殆ど無い。当方には有難い。

ルーアンでもイギリス滞在時の様にユースホステルを活用した。宿泊料が安価で自炊設備が整っているからだ。

 

ルーアンのユースホステルの受付係はフレンドリーだった。 当方はルーアンの次に訪れるモン・サン・ミシェルの入場について事前の予約が必要かどうか気になっていた。 

 

受付係がインターネットにて入場券の有無について調べてくれた。

 

1カ月前以上の事前の予約が必要であることが判った。 当方は<ええ~!>と絶句。 オートバイツーリングでは一カ月先のスケジュールは決められない。

 

ダメもとでモン・サン・ミッシェルにて入場の可否を交渉するしかない。

(ルーアンのノートルダム教会=Catedrale Notre-Dame。小塔先端までの高さは160mと非常に高い。小塔の下部は補修中。)

 

(ノートルダム教会の天井は破格の高さだ。)

 

(旧市街の時計がある門からノートルダム教会が見える。)

 

(モネが描いたノートルダム教会の絵画。ルーアン美術館展示)
 

(1831年当時のルーアンの風景図。教会の尖塔が当時のランドマーク。遠くには海と白い色の崖が描かれている。 ルーアン美術館展示)

 

(ルーアンの道路上の謎の白い点線。自転車の通行帯を示すものかなとも思ったが、地元の人に聞いたら単にバス通りを示しているとのことだった。)

 

(後部座席に子供が2人乗れる電動アシスト自転車。子供用ステップ=足の置き場が棚の様になっている。)

 

モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)

 

海に浮かぶモン・サン・ミッシェルの城の写真を見たことがある人は多いと思う。

当方は是非訪れてこの目でその風景を見てみたいと思っていた。

 

ルーアンを朝7時台に出発してモン・サン・ミッシェルへのビジッターセンターには午後1時過ぎに到着した。 ひまわり畑の道路を進むと畑の向こうにモン・サン・ミッシェルの姿が見える。 海では無く、畑の中にモン・サン・ミッシェルがあるような感じだった。

 

ビジターセンターで、モン・サン・ミッシェルの城への当日入場券が買えるかどうか尋ねると、あさり<ウイー=買える>との返答だった。 当方はホッとして胸をなでおろした。

 

駐車場があるビシターセンターからモン・サン・ミッシェルがある小島まで約3km程度の道のりだ。

 

徒歩でも30分ほどで行けるが、当方はライダーブーツを履いて歩きづらいため、無料のシャトルバスに乗って島まで行った。

 

島まで海の中の橋を渡ると思っていたが、実際は海があった場所は砂州で覆いつくされていた。砂州の上に橋がかかっている。

 

その砂州はモン・サン・ミッシェルを越えて海まで更に数キロ続いていた。 

 

周囲600m程の島の小山に立つ城に通じる小路には観光客用の土産物店やレストラン、カフェが軒を並べている。通りには観光客がひしめき合っていた。

 

城の入口は以外にも観光客はそれほど多くない。城の中もそれほど混んでいなくて順路に沿ってゆっくり 見学できる。

 

 

この日はモンサンミッシェルから約30km程離れたジェネツ(Genets=村)にあるユースホステルの個室に泊まった。

 

ユースホステルはドミトリー式の共同部屋が主流だが、個室も揃えている。

 

フランスは今回のツーリングの最終地であるスペインのマドリッドへ行くために通らねばならない。

当初ボルドーあたりを経由してスペイン北部へ入ろうかと考えていたが、カトリック教徒の聖地のひとつであるルルド(Lourdes)がちょうど良い具合に当方の経路近くにあることを知った。

(バスの窓の外に見えるモン・サン・ミッシェルへ無料のシャトルバスで移動)

 

(バスを降りた橋上からモン・サン・ミッシェルを見る。)

 

(城の入口へ通じる商店街は観光客で混雑していた。)

 

(モン・サン・ミッシェルから更に外海に向かって砂州が続いている。砂州上の黒い点は砂州を歩いてツアーする観光客達。)

(写真上部の陸上からモン・サン・ミッシェルに繋がる橋。かっては島は海で隔てられていたが、現在はかっての海の大部分が砂州で埋め尽くされてしまっている。城の最上部テラスから撮影)

 

(ジュネ=Genetsで投宿したユースホステルは全室個室タイプ)

 

(ボルドー付近のワイン畑)

(フランス南部まで来ると並木道には松の木が多くなる。)

 

ルルドには不治の病を直す<ルルドの泉>と呼ばれる場所がある。 

 

ルルドの泉の発端は185814歳のベルナデッタという少女の前に聖母マリアが現れ、<そこの泉の水を飲んで顔を洗いなさい>ということから始まった。

 

その後、その泉の場所に教会が建てられ、泉の水を飲んだ人達が当時不治の難病から治ったと言われるからだ。そして、この場所はカトリック教徒の一大聖地として多くの信者が巡礼する場所になった。

 

当方はカトリック教徒では無いが、ルルドの泉の事は以前から気になっていたので、見学した。

 

当日雨だったが、巡礼者は多かった。

 

しかしながら泉の前には巡礼者が思った以上多くない。まじかで泉をみようと30名ぐらいの巡礼者が列をなしているに過ぎなかった。

(ルルドのノートルダム教会=Basilique Notre-Dame du Rosaire)

 

(ルルドの泉はノートルダム教会裏側の基礎部分のへこんだ洞窟のような場所にある。)

 

(ルルドの泉は写真左側の岩が屋根の様になった場所にある。)

 

(泉はガラス張りで保護されている。 ガラス張り中央の泉が流れている部分は照明で黄金色に輝いて見える。)

 

(ルルドの街は坂が多く、静岡県の温泉街・熱海(あたみ)に似ていると思った。)

 

 

ルルドから山越えでスペインへ入国後パンプローナ(Pamplona)へ

 

ルルドはピレネー山脈の北の裾野近くに位置する。 ルルドの南側にあるピレネー山脈を越せばスペインとなる。 

 

当方はのどかな農村地帯を160km程度走行後スペインに入国した。 国境にはスペインの表示は無かった。 単にスペインのネバーラ県(Navarra)との表示しかなかった。

 

そして山道を80km程度走行後、牛追い祭りで有名なパンプローナ市に到着した。 パンプローナはナバーラ県の県庁所在地だ。

 

当方が大学生だった時からの友人が住んでいた。 その友人に8年ぶりに会うためにパンプローナを訪れた。

 

ナバーラ県は16世紀に来日してキリスト教を布教したイエズス会のフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)の出身地だった。 

 

その縁で、当時ザビエルが日本で布教した山口市とパンプローナが姉妹都市になっている。 パンプローナ市内には山口市の寄贈した日本庭園があり、市民の憩いの場となっている。

 

(スペインへ向かうルートにはトラクターも通るのどかな道があった。)

(見晴らしの良い峠からフランスの農村部を見渡す。)

 

(写真中央の川がフランスとスペインの国境線だ。左側がフランス領。右側がスペイン領)

 

(国境の橋を越えた道路横にはスペインのナバーラ県を示す看板が立っていた。バスク語で書いてあるため理解できず。)

 

(パンプローナに住む学生時代からの友人夫妻と昼食前のつまみを食べる。)

 

(パンプローナ市内の日本庭園で友人とツーショット写真)


以上 

 


 

Ireland UK(イギリス後半)2,300km(8/219/3

 

北アイルランドとアイルランド1,100km(8/218/26)

 

アイルランド島のツーリングは北アイルランド(イギリス領)の州都ベルファーストからスタートした。

 

30年ぐらい前まではベルファーストの名前は北アイルランドでの政治問題が先鋭化してテロ活動が頻繁発生した頃にニュースで報道されていた。 

 

現在は過去のそんな面影も無い静かな都市だ。ベルファーストで宿泊したユースホステルの受付係のアルバイト青年がオートバイライダーであったので、その青年からアイルランドのツーリングルートを教えてもらった。また、アイルランドの首都ダブリンのスズキの認定ディーラーのブラジル人営業担当者からもアイルランドのツーリング・スポットを教えてもらった。両氏に感謝したい。

 

青年は物静なデザイン工学を専攻するベルファースト大学の学生だった。オートバイの話になると目を

輝かせて地図に描いたツーリングのルートを説明してくれた。

(ベルファーストの市庁舎は歴史的建造物で立派だった)

 

(ベルファーストの高台に位置するベルファースト城から海が眺められる)

 

(ベルファーストの観光アトラクションの一つ刑務所。1960年代まで使用されていた。)

 

(刑務所で使われていたむち打ち台)

 

アイルランド島では以下の順に回った。

 

ベルファースト(Belfast(1泊)~170km~アイルランド入国後首都ダブリン(Dublin)で1泊~280km~コーク(Cork)で1泊~半島ツーリング270km~キラニー(Killanery)で1泊~モヘーの断崖(Cliff of Moher220km~ガルウェイ(Galway)で1泊~途中の半島ツーリングを中止して250km~レターケニー(Letterkenny)1泊~イギリス領北アイルランドへ入国150km~ベルファーストへ戻る。

 

 

(アイルランド島。島の北部=地図上部の灰色部分はイギリス領の北アイルランド。アイルランドは白い部分。地図右側上部ベルファーストから時計回りに赤線に沿って走行した。赤丸は宿泊地。地元のライダー達に勧められたのが、ピンク色と緑色の線のルートだ。)

 

アイルランドは人々が親切で、国土も風光明媚だから是非ツーリングしたらよいと複数の人達からアドバイスを頂いた。 確かに大西洋に面するアイルランド島西部は風光明媚だった。

 

しかし特別に親切な人々との出会いは無かった。普通の人々だった。もっとも当方が接する人達は宿、ガソリンスタンドや食料品等を買うスーパーや雑貨店の人達に限定されているので多くの人達と話す機会がなかったのも事実だ。

 

アイルランドは北海道と同程度の広さだ。人口500万人だが、一人当たりの国民所得(GDP)は世界第二(10万米ドル=1500万円)だ。 何故一人当たりの国民所得が多いか最後まで分からなかった。

 

アイルランド国外への移民が多い国

 

アイルランドから外国へ移住する人は過去の時代から多い。1845年~1850年の大飢饉の時期にはアメリカへ150万人、カナダへ34万人のアイルランド人がそれぞれ移住している。

 

現在でもより良い仕事を求めて若者を中心に年間数万人がアイルランドから外国へ移り住んでいると言う。 

 

アイルランド国外にはアイルランド人の祖先を持つ人々が3000万人いると言われている。 1960年代前半に米国の大統領だったジョンFケネディーも曾祖父がアイルランド移民だった。 

 

一人当たりの国民所得が高いノルウェーのようにBMWやメルセデスベンツ等の高級車が普及車の様に当たり前に道路を走っているわけでは無い。 見た目上は、一人当たりの国民所得が世界2位には見えないのが不思議である。

(カナダの農場へ移住を勧める過去のポスター)

 

(15歳~30歳の若い独身女性へオーストラリア及びニュージーランドへの船賃を無料とする広告。19世紀後半オーストラリアでは独身男性8名に対して独身女性は1人だけだったと言う。)

 

英国領北アイルランドとアイルランド間の入出国の手続きは無い

 

イギリス領の北アイルランドのベルファーストからカーナビの誘導に従ってアイルランドの首都ダブリンへと向かった。

 

イギリスがEUを離脱後もイギリス領北アイルランドからアイルランドへの入国手続きは無かった。いつ国境を越えたのかも気が付かなかった。 アイルランドからダブリンへ戻った際も同様だった。

 

唯一気が付いたのは、道路の制限速度がマイル表示からキロメートル表示に変わっていたことだった。

EU域内の国境を越える時と同様に、何もすることが無いのだ。 

 

イギリスはシェンゲン条約からも脱退しているので、滞在期間は6カ月となっている。アイルランドもシェンゲン条約に加盟していない。独自に3カ月の滞在期間がある。 

 

当方が不思議に思ったのは、アイルランドやイギリスは外国人の滞在期間をどのように管理しているのだろうかと。

 

(ダブリンの繁華街)

(ダブリンの中心部を流れる川沿いの風景)

(ダブリンのスズキ認定のディーラー。エンジンオイルの交換をしてもらった。料金は70ユーロ=約12,000円)

 

 

アイルランド西側の海岸線は絶好のツーリングルート

 

海岸線や海岸に近い道路周囲の風景を見渡すと北海道に似た風景に出くわした。 丘陵地の畑は北海道の富良野に似ていると思った。岬を周回していた時には海と陸の風景が網走あたりに似ていると思った。

 

ただし、あっと驚くのは大断崖だろう。 一部の高さ200mに及ぶ断崖の海岸が観光名所としてある。 モヘーの断崖(Cliff of Moher)としてユネスコ世界遺産の一つとして登録されている。

(アイルランド地方の並木道はトラックの障害にならないように木々の高い場所まで枝が刈り上げられていた。)

 

(のどかな農道)

(岬の高台道路。)

(岬の高台の道路からの見晴らしは良かった。)

 

(岬の小さなビーチで海水浴楽しむ人々。当方では寒くて海水浴をする気にならない。)

 

(小さなフェリーで海の入り江を渡った。)

(場所によっては海面からの高さが200mあるモヘーの大断崖。安全対策のため崖の近くには寄れず、迫力に少し欠けた。)

 

アイルランド北部にはこんな城ような形の山があった。今にも雨が降り出しそうな空模様。)

(アイルランドでは他のヨーロッパ諸国では見かけなかったスズキの車を比較的多く見た。小さな町のスズキの車の販売店)

 

あきれたゲストハウスの管理人

 

レターケニー(Letterkenny)で宿泊した際のゲストハウスの管理人には呆れた。 

 

その日は雨が降り出しそうな空模様だったので風光明媚な北西部の海岸ルートのツーリングを諦めて、ゲストハウスへ直行した。 チェックイン時間の前だったので、当方は荷物だけでも預かってもらえればと思っていた。

 

予約したゲストハウスに到着すると女の管理人は<まだチェックイン時間前だから、チェックイン時間になったら来なさい>と追い払うような口調で言う。 

 

予約時の規定ではそのようになっているので、荷物を預かってもらうことは諦めて出直すことにした。 その間にやはり雨が降り出してきた。

 

定刻のチェックイン時間にゲストハウスへ行くと、ドアが開かない。 そこで初めて当方は宿がセルフチェックインになっていることに気が付いた。 問い合わせ用の電話番号がドアの横に書いてあった。 その電話番号へ電話しても誰も出ない。

 

そこで予約元のオンライン・ネットサイトのBooking.Comへ管理者と連絡が取れないのでどうすべきか問い合わせをした。

 1時間後、当方のSNS(WhatsApp)へ管理人からセルフチェックインの手引きが送付されてきた。

 

セルフチェックインの場合は、ゲストハウスの管理者は事前にチェックイン方法を知らせてくるべきだった。

 

しかしながら、この宿はチェックインしようするゲストが宿に到着後に、管理人へ電話連絡してから、管理人がゲストへセルフチェックインの方法をSNSで知らせているようだ。

 

待っている間、隣人の人達は、<こんな宿に泊まらず、もっとしっかりしたB&BBed&Breakfast)に泊まった方がいいぞ>とアドバイスしてくれるが、当方は既に宿泊料金は前払いしている。

 

その後ゲストハウスの設備について管理人にSNSで問い合わせるも返答は無し。 これ以上の問い合わせは無駄だと当方は諦めた。

 

翌朝チェックアウト時に管理人は宿にいたが、当方の顔を見ない。言葉も無い。この女は客商売に向いていないと思ったが、隣人の一人がこっそり教えてくれた。管理人は以前は男だったが、いつの間にか女になってしまったと。 

(レターケニーで宿泊したゲストハウス)

(アイルランド北部の小さな町レターケニーの長屋風の3ベッドルームの家は約20万ユーロ=約3400万円で販売されていた。)

 

イギリス(後半編)ベルファーストからリバプール経由ニューヘブン(Newhaven1,200km (8/279/3)

 

イギリス後半は連日のように雨に見舞われた。 オートバイツーリングで一番やる気を失くすのが雨天の走行である。

 

トルコで雨天走行中に後続車両に追突され転倒してから、当方は雨天走行には後続車両の位置確認に特に注意を払っている。周囲の景色をみている余裕はない。

 

ベルファーストからフェリーでリバプールへ向かった。 フェリーは途中オートバイレースで有名なマン島の島影を見る。

 

フェリーの航海時間は8時間と比較的長い。フェリーの乗客は少なく、テーブルや椅子はがらがらに空いていた。 当方は航海時間を利用して、まったく手つかずだったイギリス前半編をブログに書き上げた。


 

(ベルファーストからリバプールへ向かう途中のマン島)

 

イギリス後半のツーリングルートは以下の通りだ。

 

リバプール=Liverpool(2泊)~310km~バス=Bath1泊)~350km~ペンザンス=Penzance(2泊)~イギリス最南西端 =End of Road360km~サザンプトン=Southampton(1泊)~160km~ニューヘブン=Newhaven(イギリスツーリング終了)2泊~フェリーでフランスのディエッペ(Dieppe)へ向かう予定。

 

(イギリスとアイルランドのツーリングルート=赤線。赤丸印は宿泊した場所。リバプールはイギリス本土=ブリテン島の西側=左側中央部だ。 ニューヘブンの位置はイギリス本土の南=地図最下部の右側部分)

 

 

リバプール(Liverpool)

 

リバプールはビートルズ発祥の地だ。 当方はビートルズ世代より少し若いぐらいだが、中学時代に初めて聞いたポップスはビートルズのイエスタデイーだった。

 

ビートルズ博物館、ビートルズが有名になる前に歌っていたクラブ(カラバン・クラブ)等ビートルズ関連の場所には今でもたくさんの観光客が訪れている。

 

18世紀にはアフリカからアメリカへ多くの黒人奴隷を運んだイギリス船の船主の多くはリバプールに住んでいたと言う。

巨万の富を築いたのだろう。港湾地区には立派な歴史的な建物が多い。

 

造船業や貿易が盛んだったリバプールの港湾地区は横浜市の桜木町付近の海に面した公園地区に似ていた。 過去使われていたドック(船舶修理用)、倉庫や船が往時の姿のまま残されている。

(海上から見たリバプールの街)

(ビートルズがヒットチャートのトップになった旨を伝える1962年の業界紙。ビートルズは当時革ジャン姿だった。ポール・マッカートニー(写真一番右)の髪はリーゼントスタイル。 その後マッシュルームの髪型と学生服のようなユニホームに変えたら好感度が上昇したと言う。)

 

(ビートルズが当初演奏していたリバプール市マシュー通りのカラバン・クラブ)

 

(旧港湾地区の過去の施設。鉄道駅横の倉庫や船舶修理用のドックが保存されている。)

 

バス(Bath

 

次に訪れたバス(Bath)は地名通りかってはローマ風呂があり、温泉保養地として知られていたと言う。歴史がありそうな落ち着いた町だった。 当方は歴史的背景は知らずに、イギリス最南西のペンザンスへ行くための途中宿泊地として泊まっただけであった。

(橋の上部が家になっている世界でも珍しい橋。イギリスのバスとイタリアのフィレンツ及びベネチア以外しかない造りだと言う。)

(橋の上の家々=商店になっている。)

 

(200mほどの長い住居が2棟続いている。これほど長い建物は珍しい。)

 

ペンザンス(Penzance)

 

ペンザンス(Penzance)にはフランスのモン・サン・ミッシェルとそっくりの島があることを旅行書で知った。

その名もマウント・セイント・マイケル(Mount St. Micheal)だ。 もともとはフランスのモン・サン・ミッシェルが保有していた修道院施設だったが、時代とともに持ち主が変わってしまったようだ。

 

ペンザンスでは、マウント・セイント・マイケルを訪れる計画をしていたのだが、この島へ渡るボートが荒海のため運休していた。そのため、マウント・セイント・マイケル(城や庭園)は臨時休業となってしまった。当方は事前にオンラインで島の見学を予約していたのだが、残念ながら中止となった。

 

 

イギリスの地図をみるとこの地はイギリスの最も南西端に近い。余った時間を利用して、最南西端の<地の果て=End of the road>まで行くことにした。 最果ての地の海は荒れていた。

(マウント・セイント・マイケルの城がある島。干潮時には歩いて島まで渡れる。)

 

(イギリスの最南西端=End of Road。海上1km先の岩場には灯台が建っている。写真では白波が建っている場所に灯台がある。)

 

サザンプトン(Southampton

 

サザンプトン(Southampton)はロンドンに近い貿易港として栄えた。

タイタニック号ががアメリカへ向け出航した港でもあった。

 

サザンプトン自体はイギリスらしからぬ無味乾燥としたコンクリートの建物や家具のIKEA、スポーツ用品のデカスロン 等の大型商業施設が駅近くの港湾埋め立て地に集中していて街に似合わないと思った。

 

当方はタイタニック号についての展示があるシティーシー博物館(Citysea Museum)を見学した。

博物館にはタイタニック号の事故の責任をめぐる裁判に臨席しているような雰囲気が味わえる工夫があった。大人には一番人気がある場所だろう。 

 

タイタニック号の沈没の責任は誰も取らないままで終わってしまった。 当時は霧が出ていて視界が良くなかった、イギリスとニューヨーク間の最速記録を目指して全速力で航行していたり、見張り番が双眼鏡を持っておらず氷山の発見が遅れてしまった等の悪いことが重なり、最悪の自体となったようだ。

 

しかし、船主側はタイタニック号は絶対に沈まない大型船として認識し、船に十分の数の救命ボートを装備しなかったと言う。 

 

東京電力の福島原子力発電所の事故を思い起こすような船会社の対応だった。

(タイタニック号。1912年4月14日に氷山に衝突後、船内に海水が浸水して沈没した。)

(タイタニック号の2等寝室。暖房が無く寒かったと言う。)

 

(タイタニック号の沈没から2週間後に事故の海域を航行したフランス船が撮影。海面には氷が浮いている。下の写真ではニューヨークへ向かう船上の移民がタイタニック号が沈没した海上を見ていたと言う。)

 

ニューヘブン(NewHevan

 

ニューヘブンは偶然見つけた港だった。 イギリス一周後には再度英仏間のドーバー海峡をフェリーで渡ることを考えていた。しかしながら、ニューヘブンからフランスのデェッペ(Dieppe)へ渡るフェリーがあることに偶然気が付いた。

 

ディエッペは当方がフランスで走行するフランス北西部のノルマンディーへ行くにはちょうどよい場所に位置している。

 

(白い色の断崖。イギリス南部のNewhaven近く。Seven Sisters=7姉妹と呼ばれている場所)

 

(海岸まで階段を使っておりる。この辺りの断崖はそんなに高くなく、高さは20m~40m程度)

(断崖の上には柵がないので誤って落ちる危険性がある。)

 

イギリスのエコノミーなツーリングにはユースホステルが最適

 

どこの国にもユースホステル協会の組織があると思うが、イギリスの組織はしっかりしている。 当方はイギリスの7ヶ所でユースホステルに宿泊した。

 

ドミトリー形式なら料金は120ポンド(4千円)から30ポンド(6千円)とイギリスの物価では超エコノミーだ。

 

また家族用やグループ用のプライベートルームもある。 レストラン、バー、ラウンジ、庭園等の設備のほかに自炊用のキッチンも整っている。

 

交通の便利な場所や歴史的な建物を利用している物件が多く、オンラインでの予約も可能だ。WiFiがほとんど使い物にならないぐらい遅いのが欠点である。

 

当方は殆ど日本人の旅行者には会うことが無いが、ペンザンスのユースホステルでは当方と同年輩の元中学校の英語教師と出会った。

 

職業柄イギリスには造詣が深い様子で、ペンザンスのような日本人旅行者が来ないような場所をバックパックで歩いて旅行しているのには驚いた。

(バースのユースホステル=YHA Bathは林の中の静かな場所にあった。100年以上経た古い建物だった。)

(ニューヘブン近くのユースホステルYHA South Downsは農場を改造したような建物だった。敷地は広かった。)

 

(イングランドのユースホステル所在地を示す地図。詳細はインターネットyha.org.ukで閲覧できる。スコットランドは別のユースホステル協会が運営する。)

 

以上 

 

 

 

UK(イギリス前半) LondonScotlandBelfast 2,000km (8/1020)

 

イギリスではまずロンドンがあるブリテン島の最北端まで行く計画を立てた。 途中宿泊したり、立ち寄る場所はイギリスの友人や知り合った人達からのアドバイスを参考にした。

 

以下がイギリス前半のツーリングルートだ。

 

ロンドンは一泊したのみでオックスフォード(3泊)~415km~ウィットビー(キャプテン・クックの町2泊)~300km~エジンバラ(スコットランドの第一都市で1泊)~230km~アバディーン(北海油田のベース都市で1泊)~350kmkThurso(最北端に一番近い町で1泊)~Dunnet Head(ブリテン島最北端)~Lock Ness(ネス湖)~450kmGlasgow(スコットランド第2都市 2泊)~150kmCairnrayn(北アイルランドへフェリーで渡る出発港)~フェリーで2時間~イギリス領北アイルランドBelfast(1泊)

(イギリスのツーリングルート。矢印の方向に走行した。赤丸印のところは宿泊した場所。)

 

オックスフォード(Oxford

 

オックスフォード(Oxford)で3泊したのは当方が大学生時代に知り合ったイギリス人に35年ぶりに会うためだった。 当方がスペインのマドリッドで留学中に同じ学生寮にイギリスからの若者がいた。

 

その若者は高校を飛び級で卒業して、オックスフォード大学に入学が決まっていると言いい、大学入学までの半年をスペインのマドリッドにある銀行でインターンの研修をすると言うのだ。

 

半年同じ寮生活をした仲間であったので、その後も交信が続いていた。最後に会ったのが1990年だった。

 

当方が湾岸危機(イラクのサダム・フセイン大統領がクウェートに軍事侵攻して引き起こした軍事危機)のため当時当方が駐在していたバーレンからロンドンへ一時的に数カ月避難していた時だった。 それから35年たった。

 

イギリス人の友人は大学卒業後、ロンドンのシティーにある投資銀行に就職したが、2年足らずで退職して東アフリカ諸国との貿易を行う小さな会社に職を見つけた。

 

その延長でザンビア(アフリカ)の首都ルサカに十数年前まで暮らし、そこでパートナーと出会い、結婚した。 十数年前に子供の教育のため、イギリスに戻って来ていた。 しかしながら、当方はそれとは知らず、6年前のアフリカツーリング時にその友人を訪ねるためザンビアに寄ったが、会えずじまいだった。

 

オクスフォードは数万人の学生が暮らす大学の町だ。 町は小さいが、観光客が多い。 そのため夏には宿泊料金がかなり高くなる。 ドミトリー式のホステルでも一泊9千円だ。 安いホテルでも2万円する。

 

現在の天皇が皇太子時代にオクスフォード大学のマートン校(Merton College)に留学している。

(イギリス人の友人とオクスフォード郊外のオタマジャクシ橋=Tadpole bridgeで撮影。35年前はスマートだった友人は100㎏近い体重になっていた。)

(かってオクスフォードの交通の要所の見張り塔だったCar Fax Tower)

 

(令和天皇が皇太子時代に留学したオクスフォード大学Mertin College。大学構内へ見学できる。)

 

(Car Fax Towerから眺めたオクスフォードの町と郊外。オクスフォードの町は小さい。町の外には牧歌的な風景が広がっている。)

 

地方道

 

高速道路はなるべく避けて一般道を走行するようにしたのだが、一般道路でも制限速度は100km近い時速60マイル(イギリスは距離はマイルで表示)が主流だ。 そのうえ片側一車線の対面通行だから、当方がもたつくと後続車両が詰まってしまう。

 

当方は時速80km程度でゆっくり地方の景色を楽しみながら走行したいのだが・・・。 更に路側帯が無いのでオートバイでさえ道路に停止するスペースが無い。景色が良い場所で写真を取りたくてもオートバイを停める場所がないのが難点である。

 

(whitby手前の高原道路。遠くにはヒース=低木のブッシュが広がる荒れ地になっている。 道路には路肩がない。)

 

(パッチワークのようなWhitby近くの畑風景)

 

(エジンバラからアバディーン途中の牧草地と黄金色になった小麦畑)

(大型コンバインで小麦を刈り取る。アバディーン近くの農地)

 

(小麦刈り取り後の藁は家畜の餌として直径1.5m~2mの円形の束にする。)

 

ウイットビー(Whitby)

 

イギリス東海岸沿いのロンドンとスコットランドの州都エジンバラの中間地点の位置する小さな港町だ。

イギリス人の友人に勧められた町だった。

 

この町は18世紀にオーストラリア大陸や南極海を探検航海したキャプテン・クックが船乗りとして修業した場所だった。同氏が修行していた当時の建物をクック博物館として公開されている。

 

またブラム・ストーカー作のホラー小説<ドラキュラ=Dracula>のインスピレーションが沸いた町として知られている。 同氏は城壁に囲まれた荒廃した修道院跡やその横にあるセント・マリー教会の墓場等を小説の舞台としている。

 

ドラキュラの映画では海岸にドラキュラが動物姿で海岸に上陸して、セント・マリー教会の墓場に通じる階段道を上る場面がある、その階段坂が観光名所となっている。

 

この小さな港町を当方は気に入った。港と坂がある小さな町は旅情を盛り上げる。

 

 

(観光名所となっているウィットビーの199段の階段坂。映画ではドラキュラがこの階段を上る設定になっている。)

(199段の階段坂の頂上には聖マリー教会の墓場がある。)

(廃墟となっているウィットビーの修道院跡=Whitby Abby)

(高台から眺めるウィットビーの街並み)

 

(ウィットビーの港近くの街並み)

(キャプテンクック博物館)

(18世紀当時の太平洋の島々には人を食べる風習があったとキャプテンクックが報告している。キャプテンクックは原住民との戦闘で殺されて、当時の原住民の習慣で遺体はばらばらにされたと記録されている。)

 

エジンバラ(Edinburgh)

 

スコットランドの州都であるエジンバラはイギリスでもロンドンに次ぐ巨大都市である。毎年8月には音楽祭が開催されるため、観光客や音楽ファンが多く集まる。 

 

当方は観光名所のエジンバラ城を見学しようとしたのだが、入場者の人数制限をおこなっているため当日券は売り切れだった。2日後まで入場できないと言う。

 

エジンバラ城の見学を楽しみにしていた当方は、城の見学のため、2泊延泊するのは時間がもったいないと考え、次の目的地へ進むことにした。

(エジンバラの旧市街)

 

(エジンバラの旧市街のスカイライン。高台のカルトン・ヒル=Calton Hillから撮影)

 

(イギリスにはこのように長い集合住宅が多いが、長さ200mぐらいはある集合住宅は珍しい。エジンバラにて)

 

(入場できなかったエジンバラ城。エジンバラ城は旧市街の高台に位置しているので、城から眺めがよいと聞いていたが・・・)

 

アバディーン(Aberdeen

 

スコットランドでは3番目に人口が多い都市だ。 1970年代に北海油田が開発され、石油関連で潤った都市だった。

 

この町には幕末に薩摩藩の留学生が来ていた。

 

幕末の歴史に登場するイギリス人商人トーマス・グラバーの出身地であった。グラバーは薩摩藩へ武器の供給を仲介したり、薩摩藩と長州藩が留学生をイギリスへ派遣する手助もしていた。

 

その関係で薩摩藩の19名の留学生のうち一番若い14歳の留学生がアバディーンの私立学校で学んでいる。

 

現在アバディーン市と長崎市は姉妹都市になっている。

(洋上で原油を生産する海上リグ)


 

(写真右側の黄色い部分が原油の掘削が許可されている海上。ピンク色の線は原油を輸送するパイプライン。左側のオレンジ部分がスコットランド=イギリス北部。アバディーンは一番下のピンク色のパイプラインが結ぶイギリス東海岸に位置する)

 

 

(アバディーンの港には洋上リグへ機器等をサプライする船が係留されていた。)


(1905年に岩崎邸でのレセプション写真。写真の丸枠はグラバー氏、東郷元帥、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助氏。グラバー氏は岩崎氏=三菱グループ創始者のアドバイザーとしても活躍した。)

 

 

(アバディーンの海洋博物館にはグラバー氏と日本のつながりを紹介するコーナーがあった。グラバー氏がイギリス製の船舶を日本へ売却する際に船のイギリス人船長宛に、日本での雇用を保証する旨の手紙)

 

(アバディーンの海洋博物館=Maritime Museum)

 

 

ブリテン島最北端の町トルソ(Thurso)と最北端ドネット・ヘッド(Dunnet Head

 

トルソは小さな忘れ去られたような小さな町だった。 人通りがほとんどなく、さびれた商店やファーストフート店がある程度だった。曇天が町の様子を更に寂しく感じさせた。

 

そのトルソから約20kmに進むとブリテン島最北端のドネット・ヘッドに到着する。北緯58℃に位置する。カムチャッカ半島の付け根当たりだろう。

 

思ったより寒くない。 岬から1km程度離れた断崖の上には集落や牧草地も見える。 1カ月前に訪れたヨーロッパ最北端のノールカップ(北緯71℃)に比較したら、まだ人が住める環境だ。

 

スコットランドはブリテン島の北部に位置しているため、夏でも肌寒い。つまり夏がないところだ。不思議なことにスコットランドをオートバイで北上するに従い、道路沿いにはより多くの耕作地が広がっていた。 

 

大規模ないちごのハウス栽培、路地でのカリフラワー等の畑を見た時には驚いた。< こんな北の地で農作物がで

きるのか!>と。

(ブリテン島最北端のDunnet Headは崖だった。)

 

(最北端の記念碑前でオートバイと一緒に記念撮影)

 

(最北端から見える耕作地と集落)

 

(イチゴのハウス栽培。 アバディーン付近)

 

ネス湖(Lock Ness

怪物ネッシーの話で有名になった湖であるが、ネス湖を一目見て怪物はいないと思った。 あまりにも小さいからだ。 長さは37kmあるようだが、幅は23km程度しかない。湖というより大河のような感じだ。

 

怪獣ネッシーは作り話だったのだが、それでも観光客が訪れる観光名所の一つだ。

 

(ネス湖はこのように細長い。ネス湖中央付近)

 

(ネス湖の北。水は冷たかった。)

 

(ネス湖周囲の道路。地形が斜面になっているので、駐車スペースは限られている。)

 

スコットランドの絶景

 

ネス湖に沿って走行したおかげで、思いがけずにU字谷の風景が見ることができた。

フォート・ウイリアム(Fort William)とグラスゴー(Galasgow)を結ぶ区間にある谷間の道路を走行した。

 

この道路を進むと大きなU字谷の中に入っていく。

道路の左右には大きな壁のような氷河が削った山肌が続く。まるでノルウェーのフィヨルド谷を走行しているようだ。 更に進むと、湿地の高原が続く。地平線上邪魔するものが無い見渡す限りの湿原だ。 全く予想していなかった絶景だった。

 

(U字谷のような風景。写真を縮小したため、山が低く斜面が実際よりなだらかになっている。)

(高さ1000m程度の山だが、木々が生えておらず、迫力があった。)

(湿原道路)

 

 

グラスゴー(Glasgow)

 

19世紀のグラスゴー(Glasgow)はロンドンに次ぐイギリス第二の産業都市だった。グラスゴーは19世紀に万国博覧会を開催するだけの繁栄を謳歌していた。 

 

インド植民地経営を行ったイギリス・東インド会社にはグラスゴー商人が多く出資していたと言う。

 

当方がグラスゴーで訪れたカルビングローブ博物館(Kelbingrove Museum)にはアジアやアフリカにイギリスが植民地を造った過ちや人種差別を啓蒙した当時の教育制度を反省した言葉が掲示されていた。

 

(20世紀初頭グラスゴーの紡績工場で働く女性。平均週給20シリング=240ペンス=1ポンドで一部屋(当時は住宅不足で庶民は家族単位一部屋に住んでいたと言う)に住む家族を養えたと言う。 パン一個の値段は6ペンスだった。 つまり平均的な週給でパンが40個が買えたことになる。)

 

 

(グラスゴーの繁華街ブキャナン通り)

 

(グラスゴー駅の近くのSt. Vicente Placeという一等地でもビル一棟貸の物件があった。地方都市は地盤沈下気味だろう。)

 

グラスゴーから140km程度南下した西海岸沿いのカイルンライアン(Cairnryan)からフェリー船でアイルランド島の英国領北アイルランドのベルファーストへ渡る。 ブリテン島とアイルランド島はフェリーで約2時間ほど結ばれている。フェリー料金はオートバイ料金を含め55ポンド(約11,000円)

 

フェリーは乗船の前日にオンラインで予約をしておいた。

(アイルランド島へのフェリー発着港があるCairnryanのフェリーふ頭)

 

(アイルランド島へ向かうフェリー船上)

 

(アイルランド島ベルファースト付近は崖地だった。)

 

以上 

 

 

 

 

ノルウェーのオスロからイギリス首都ロンドまで (2025/7/318/9) 2,000km

 

ノルウェーの首都オスロから国境を跨ぐエーレスンド海峡大橋(Oresund)と国際フェリーを2回乗り継ぎスウェーデン~デンマーク~ドイツ~ベルギー~フランス~イギリス(UK)の首都ロンドンまで最短距離を一気に走行した。

 

移動に効率が良い高速道路を使って移動したので、ツーリングの面白さは無い。

 

EU圏内は国境があっても、国境の往来が自由なため国境を跨ぐと言っても、日本の県境を跨ぐ感覚と同じで旅情が湧かない。実際どこで国境を越えたのかさえ分からない場合がある。

 

日本的な感覚ではスウェーデンのマルモ(Malmo)とデンマークのコペンハーゲンを結ぶエーレスンド大橋(Oresund Bridge)以外は高速道路が無料なのは有難い。 

 

日本の高速道路が全て有料になっている方がグローバルスタンダードから外れていると言った方が適切だろう。

 

以下ツーリングルートである。

 

オスロ(ノルウェー)~310km~スウェーデン・ヨーテボリ(Gotenburg)泊~マルモ~スウェーデンとデンマークのZealand島を結ぶエーレスンド大橋(20km)を渡り~320km~デンマーク・首都コペンハーゲン(2泊)~ロドビー(Rodby)から国際フェリーでドイツ・Puttgardenへ~320km~ハンブルグ(1泊)~130km~ブレーメン(2泊)~360km~オランダ・首都アムステルダム(2泊)~280km~ベルギー・ブルージュ(Brugges)泊~フランス・カレイ(Calais)から国際フェリーでイギリス(UK)ドーバーへ~270km~首都ロンドン

 

(ノルウェー・オスロからスウェーデンへ向かう途中の高速道路沿いの小麦畑。収穫の時期を迎えていた。)

 


 

(ノルウェーの代表的な画家ムンクの代表作<叫び=Scream>の油絵。ムンクは油絵のほかにクレヨン画と版画でも同一の絵を描いていた。)

 

(クレヨン画)

(版画。ムンクは多くの絵を版画でも描いていた。)

 

(ムンクの油絵<叫び=Scream>に照明の光でも悪影響を及ぼすため、一日数回30分程度しか展示しない。展示時間になると絵の前はこのように混雑する。)

 

(ムンク美術館。個人の作品のみ展示する美術館としては世界最大級。6~7階建て建物の3フロアにてムンク個人作品が多数展示されていた。)

 

(ノルウェーのオスロからイギリスのロンドンまでの走行ルートをピンク色で示す。オスロは地図右上部の赤丸印。ロンドンは地図左下の赤丸印の位置)

 

 

スウェーデン

 

スェーデンはヨーテボリ(Gotenburg)に一泊したのみで通過しただけだった。ガソリン代がノルウェーより約3割安かった。それでも1リットル当たりの価格は約16スウェーデン・クローネ(約225円)。

 

スーパーでの食料品の価格はノルウェー並みか、ノルウェーより少し安い程度であまり変わらない。

 

驚いたことには宿泊した大型のホステル(Hostel Gotenburg)には無料サウナの施設があり、サウナが好きな当方には有難かった。

(スウェーデンの第2都市ヨーテボリ=Gotenburgの旧市街)

 

(スウェーデンのマルモとデンマークのコペンハーゲンを繋ぐエーレスンド大橋。スウェーデン側からデンマーク側を臨む。)

 

 

コペンハーゲン

 

当方が大学2年生の9月末にバックパック旅行でコペンハーゲンを訪れた。1976年のことだった。

そしてアンデルセン童話に出てくる人魚姫の銅像をコペンハーゲンの港の片隅のさびれたところで見つけた。

観光客がほとんど来ないような所であった。

 

その当時、人魚姫の銅像があった場所が気になり、人魚姫の銅像を見に行った。現在は整備された公園の一角の海に面した岩場に当時と同じようにある。しかし観光名所になっている。

 

49年前コペンハーゲンはよく覚えていない。街がきれいで清潔だったぐらいしか記憶にないが、現在は道路インフラや建物の劣化が目立つようになっていた。

 

(コペンハーゲンの人魚姫の銅像前で記念撮影。人魚姫の頭部は過去2回切り落とされたと言う。)

 

 

(1976年9月当時の筆者と人魚姫の銅像。寒かったことを覚えている。)

 

(デンマークの警察官が乗るオートバイはイタリア製のドカティ=Ducatti。オートバイで走行中の当方を前々日にも見かけたとのことで声をかけてきた。)

 

 

ドイツの社会問題

 

ドイツではハンブルグとブレーメンに宿泊したのみだった。ブレーメンには当方が大学生の時に知り会ったドイツ人の友人宅にお世話になった。

 

8年前の世界一周ツーリング時以来の再会であった。 ブレーメンの街を8年前に訪れた際、トラム(路面電車)の車内で数名のアラブ系の移民若者を見かけた。彼らがドイツ社会でうまくやっていけるかなと少し心配した思いだったが、現在はトラムの乗客の3割が移民らしきドイツ系以外の人達だった。

 

ドイツ人の友人の言葉を借りると、ある公立小学校ではクラスの4割が移民の子弟になっていると言う。

将来はドイツ人の人口と移民の人口が逆転するという。 

 

また、ドイツで4番目に大きいケルン市ではイスラム寺院がスピーカーで民衆にイスラムのお祈りを呼びかけてるのが許されていると言う。 キリスト教国のドイツでイスラムのコーランが高々と唱えられるのだ。

 

 

フランスや英国は歴史的に北アフリカやインド・パキスタン等の南西アジアからの移民が多い国だった

ドイツが多くの移民を受け入れだしたのはメルケル前首相の時代からだった。当時はシリアからの難民の受け入れが欧州で問題となっていた。

 

ドイツの政治家は移民問題について議論を避けていると言う。移民問題を議論すると右翼のレッテルが張られるからだと言う。 

 

日本で定住外国人が全人口の3割とかになったらどうなるのだろうかと考えてしまう。

 

友人はかっては法律で制限がかかっていた国の財政上の借金の足枷がなくなり、借金で軍事費は大きく増える一方、教育費や社会保障が削られていく現状を嘆いていた。

(ブレーメンの市庁舎は歴史的な建物だ。)

 

(観光客で賑わう旧市街の狭い路地。その昔は漁民が多く暮らした地区だと言う。)

 

(ブレーメンの守護人ローランド像前で筆者と友人)

 

(ハンブルグで出会ったイタリア人ライダー。アイスランドへフェリーで渡り、オフロード走行をすると言っていた。そのため、オフロード用のタイヤを持参していた。)

 

オランダ

 

アムステルダムで2泊したのみで、歴史も社会もあまり知らない。

 

どのように人口が2千万にも及ばない小国が15世紀~16世紀に躍進して欧州の強国の一つになったのか知りたいと思った。

 

高速道路沿いにも工場やオフィースのビルが立ち、工業立国らしい状況が伺われる。 高速道路でも他国では無かった渋滞がアムステルダム周辺や、ロッテルダム周辺等の3か所であった。人口密度が高く大都市と大都市が隣接しているためであろう。


 

(オランダは風力発電の巨大風車が多い。道路右側は海のため、洪水対策として高い堤が築かれていた。)

 

 

(アムステルダムの代表的な美術館。 Rijiksmuseum)

 

(風車=Windmill Pauk Gabriel作)

 

 

(レンブラント=Rembrandtの代表作<夜警=Night Watch> レンブラントは肖像画を得意とした。複数の人々の肖像画がこの絵の中に描かれている。)

 

(ゴッホ=Van Goghの自画像。病み上がりのためか頬がすこしこけている。)

 

フェルメール=Vermeerのミルクメイド=Milkmaid。フェルメールは青色の扱いが得意だったと言われている。)

 

(アムステルダムの運河)

 

ベルギー

 

3つの言語がある国で国民の一体感に欠けると宿泊したホステルのベルギー人年配者が言っていた。

フランス語圏の住人はフランスのテレビを見て、フランスに親近感を抱き、オランダ語圏やドイツ語圏の住民との交流は無いと言う。 

 

ドイツ語圏の住民は戦争の犠牲者でもある。第一次大戦の結果(ドイツの敗戦)、旧ドイツ領の一部がベルギーに割譲されてしまったからである。

 

ベルギーではブルージュ(Brugges)という中世の時代に毛織物貿易で栄えた都市に宿泊したのみであった。

ブルージュは美しい街だということは学生時代から聞いていた。しかしながら今日まで訪れる機会が無かった。

 

宿泊したホステルの受付嬢は、当方が<ブルージュのことは何も知らない>と言ったら、<ブルージュは世界でも5本の指に数えられるほど有名な観光地だ>と自慢していた。

(ブルージュのカテドラルの塔は高さ70m~80mある。 中世の時代に巨大建造物を作れるほど豊かだった。)

 

(ブルージュの運河を観光船が進む)
 

(ブルージュの運河を見る犬。人間の様に後ろ足で立っている。)

 

(ブルジューの狭い運河を長さ70m~80mの大型船が進む。運河に架かる橋は可動式。)

(運河に架かるスライド式の可動式の橋。運河を航行する船が来ると橋はスライドして真横に向きを変える。)

(ブルージュ。多くの自転車には荷物を載せるサイドバッグがつけられている。)

 

(子供2人を前部に乗せられる電動アシスト式自転車。長さが3mぐらいあるので小回りは利かない。)

 

国際フェリーの料金

 

国際フェリーに乗る際には事前にオンライン等で予約すべきか、フェリー乗り場の現地で直接チケットを買うべきか迷う。

 

エストニア・タリンからフィンランド・ヘルシンキへのフェリーの場合

 

エストニアのタリンからフィンランドのヘルシンキへ国際フェリーで渡る際には、フェリー乗り場のチケットオフィーの窓口で前日に説明を聞きながら購入した。 分かりにくいオンラインでの予約よりで安く買えた。料金はオートバイ料金込みで62ユーロ(約1万円強)。 約2時間の航海時間だった。

 

(エストニア・タリンとフィンランド・ヘルシンキを結ぶ国際フェリー内部ののフードコート)

 

 

デンマークのロドビーからドイツへのフェリーの場合

 

デンマークのロドビー(Rodby)から国際フェリーでドイツのパットガルテン(Puttgarden)へ渡る際には、フェリー乗り場でチケットを買ったら、事前にチェックしたオンラインの価格の約2倍の料金だった。40分と短い航海だが634デンマーククローネ(約1.5万円)と高かった。

 

(デンマークのRodbyとドイツのPuttgardenを結ぶ国際フェリー)

 

ノルウェー国内フェリーの場合

 

ノルウェーのローフォテン諸島のモスケネス(Moskenes)から本土のボドー(Bodo)へ国内フェリーで3時間で渡る際は事前にオンライン予約をした(料金421ノルウェークローネ(=6千円強)だった。

 

後でわかったことだが、フェリー乗り場ではオンライン予約の1/2以下の料金177ノルウェークロネ(=2,600円)でフェリーに乗船できた。

 

という具合にはオンライン予約が得かフェリー乗り場でチケットを購入した方が得か事前に分かりずらい。

 

(ノルウェーのロフォーテン諸島と本土のボドー(Bodo)を結ぶノルウェーの国内フェリー)

 

フランス・カレイ(Calais)からイギリス・ドーバー(Dover)へのフェリーの場合

 

事前にオンラインで予約を試みたが、クレジットカードで代金を支払う際の認証(クレジットカード会社から支払いの際に電子メールで伝えられるパスワード番号)がスマホのサイト上で入力できない。 3つの異なるクレジットカードとデビットカードで試したが、認証番号が入力出来ない。  

 

デビットカードで支払いを試みた際には、認証ができないにも関わらず、デビットカードの運営会社からは即座にデビットカードでの支払いがありましたとのメール連絡を受ける。 もちろんフェリー運航会社からはオンライン予約の確認メールが届かないし、チケットも送付されてこない。

 

 

結局フランス・カレイ(Calais)のフェリー乗り場のチケット・オフィースの窓口でオンラン予約の有無を確認すると予約はされていなかった。 

 

チケット・オフィースでの料金はオンライン予約と同一の90ユーロ(約1.5万円)だった。航行時間は約1.5時間。

 

(フランス・カレイとイギリス・ドーバーを結ぶ国際フェリー)

 

(ドーバーの港へ入港する国際フェリー船。イギリスの白い断崖は高さ100mある場所もある。)

 

 

ネット社会は便利になったが、システムがしっかり稼働していない場合があった。

 

例えばスウェーデンとデンマーク間の海峡にかかるエールスンド大橋の通行料金を事前にオンラインで支払った際に、運営会社はオンラインで事前に届けてあったオートバイのナンバープレート番号を自動識別するので料金所ではゲートが自動的に開くと説明していた。

 

しかしながら、実際には料金所のゲートは開かず、当方はインターホンを通して係員に事情を説明してゲートを開けてもらった経緯があった。

 

また、ノルウェーの無人駐車場ではオートバイのナンバープレート番号を駐車場に入庫時に機械が自動的に読み取るので、料金精算時にはナンバープレート番号を入力後、料金をカードで支払うシステムになっていた。

 

しかしながら、当方がナンバープレート番号を精算機に入力してもエラー表示しか出ない。結局、当方は料金を支払わずに駐車場から立ち去った。

 

テスラ(Tesla)の電気自動車が多い欧州。韓国車も健闘。

 

特にノルウェーでは環境問題に関心が高い。そのためかテスラの電気自動車が多い。他のメーカーの電気自動車も走行しているが、テスラが圧倒的に多かった。

 

欧州は欧州製以外の自動車メーカーがなかなか受け入れられていない。トヨタ車でさえそんなに多く見かけない。 HyudaiKIAの自動車を欧州車以外ではよく見かけた。韓国製自動車が健闘しているのが分かった。

 

イギリスの自動車保険(強制保険)が厄介

 

欧州では日本同様、オートバイを含め自動車は対人対物の強制保険(Third Party Only Insurance)に加入せねばならない。 イギリスがEUから脱退したため、多くの欧州の自動車保険(グリーンカードとも呼ばれている)がイギリスを対象外としている。

 

スペインの保険会社にてEU諸国を対象としている自動車保険に加入していたが、イギリスは対象外だった。

同社も含め、イギリスとイタリアの業者に、イギリスの自動車保険の加入(購入)の可否をメールで問い合わせたが、取り扱っていないとのことだった。

 

唯一ドイツの業者(Tour Insure GmbH)がイギリスやスイスも含めたEU諸国の自動車保険を取り扱っていたので、その業者にイギリスを含むEU自動車保険の加入を依頼した。 元受け保険会社はAXAだった。

 

フランスからイギリスへ渡航する際の手続き

 

フランスからイギリスへ国際フェリーで渡る際、イギリスのパスポートコントロール(イミグレーション)やオートバイの通関手続きに時間がかかるだろうと思った。 

 

しかしながら実際には、フランスのカレイ港でフェリー乗船前にEU圏内からの出国印の押印とイギリス入国のパスポートコントロールを一つのドライブスルーの窓口で行ったのみで、オートバイの税関手続きは無かった。 1分~2分程度の短時間で済んだ。

 

イギリスのドーバーにてフェリーから下船する際の手続きは何も無く、オートバイでフェリーから通りへと出た。

 

 

以上 

 

 

 

ノルウェー・ノールカップ~首都オスロ2,900km(2025/7/197/29

 

ノルウェーはオートバイライダーのパラダイス

 

ノルウェーはオートバイ・ライディングを十二分に楽しめる国だ。

 

フィヨルドによる複雑な海岸線や山々の裾や谷を通り抜ける曲がりくねった道路、起伏がある道路等

いろいろなタイプの道路がある。

 

その上、太古の氷河が創り出した壮大なU谷やフィヨルド海岸等、あっと驚くような絶景が数々ある。

 

そんな絶景を見られるライディングルートをキャンプ場やホステルで知り合ったライダー達が教えてくれた。

 

そのおかげで、当方はノルウェーのオートバイツーリングを休息日を取るのも惜しんで、十分楽しむことができた。

 

(ノルウェー北部の海岸には海からそびえ立つ雪山があった。

テレビ番組で見た南極大陸を見ているような気がした。)

 


(ノルウェー北部の海岸線を走行中。北極圏のため標高が高くなくても山には雪が残っていた。)

 

(ノルウェー北部のフィヨルド)

(キャンプで知り合ったフィンランド人のクリスティアン=Cristian氏にはローフォテン諸島の見所を詳しく教えてもらった。同氏は2週間前に車関連用品の仕事で東京へ行ったばかりだと言っていた。日本人の仕事の手際よさに驚いたと言う。

仕事で訪れた展示会終了後、展示会の会場が解体業者によりあっという間にかたずけられ、その効率の良さに驚いたと言う。)


 

ノルウェー最北端のノールカップ以降は以下のルートを910日で通った。

 

ノールカップ~150km~レッパーフィヨルド(Repparfjord)ワイルドキャンプ~470km~トロムソ(Tromso)ホステル泊~240km~ナルビック(Narvik)教会ホステル泊~ロフォーテン諸島=Lofoten(絶景のツーリングルート350km)の先端部のフレッドヴァング(Fredvang)ホステル泊~モスケネス(Moskenes)からフェリーにて約3時間でノルウェー本土のボード(Bodo)へ渡り330km~モスジョエン(Mosjoen)久しぶりにホテル泊~410km~トロンドヘイム(Trondheim)ホステル泊~350km(途中ノルウェー最大級のフィヨルド・トロルスティンゲン=Trollstigen見学)~ゲルデ村(Gjerde)のキャンプ場でバンガロー泊~230km(途中カランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordやブリクスダール氷河=Briksdalsbreen見学)Byrkelo村のキャンピング場でバンガロー泊~410km~首都オスロ

 

太字でアンダーランを引いたルートや場所はこの地を良く知るライダーから勧められた場所であったので、絶景やオートバイライディングを堪能することができた。 

 

9泊中2連泊したのはトロムソだけだったが、絶景の連続で毎日移動していても疲れを感じなかった。むしろ充実していたぐらいだった。

 

(フィンランド~ノルウェーの走行ルートを赤線で示す。地図の一番上がノールカップ。地図左側がノルウェー、右側がフィンランド。ノルウェー側の一番下の赤丸印は首都オスロの位置だ。)

 

(ノルウェー北部をノールカップを目指して進むサイクリスト。

写真ではわからないが結構急な上り坂をサイクリストは登ってきた。)

 

(ノルウェー北部の雪山)

 

(ノルウェー北部の都市トロムソ=Tromsoのライダーズクラブのメンバー。背後の建物はライダーズクラブHells Angelsの建物。一年に3カ月程度の期間しかオートバイには乗れないと言っていた。)

(トロムソの中心部と本土を結ぶ橋。長さ500m程度で、景色を楽しみながら歩いて橋を渡った。)

 

(ノルウェー側の北極圏=Arctic Circle=北緯66度地点。 ドイツから赤色のホンダ・ゴールドウイング2台でツーリング中だった3人。一台は夫婦で二人乗り)

 

(フィヨルドで魚の養殖)

 

(山の中に入れば雪解け水が勢いよく流れている川が多い。)

 

ロフォーテン諸島(Lofoten Islands

 

このルートの一押しはここだろう。 火山島のように突然海面から生えたような奇妙な形の岩山や美しい海や海岸線が魅力だろう。 

 

ナルヴィック(Narvik)からスタートして一日でロフォーテン諸島のほぼ先端部分のフレッドヴァング村まで約350kmを走行した。 一日では時間が足らず途中予定していたヴァイキング博物館(Viking Museum)には寄れなかった。

 

ロフォーテン諸島の中間地点に”出べそ”のように突き出たヘニングヴァール(Henningsvaer)もぜひ立ち寄るとよいと勧められた場所であった。 

 

その出べそのような小さな島のトレバレファブリッケン=Trevarefabrikkenという名の宿泊施設兼カフェ・レストランのテラスから飲み物を口にしながらロフォーテン諸島を眺めたら良いと勧められた。

 

宿泊したホステルでは釣りをした宿泊客が釣りあげてきた40㎝位の大きさの白身魚の切り身をフライパンで焼いて食した。 醤油があれば、刺身で食べても旨かっただろう。

(ロフォーテン諸島へのスタート地点。 昨年ツーリングした九州の島原半島に似ていた。)
 

(壁のようにそそり立つ山は印象的だった。写真では迫力が伝わらないが、実際は壁がそそり立ち、行く手を阻むような感じだった。)

 

(景色が良いので思わず写真を撮りたくなる。 山と海)

(ロフォーテン諸島ののどかな風景。海岸沿いの民家。)

(出べそのような小さな島ヘニングヴァール=Henningsvaerの港)

(へニングヴァール=Henningsvaerのトレバレファブリッケン=Trevarefabrikkenという名の宿泊施設兼カフェ・レストランのテラス)

 

(当方と同名の"FURU Hotel & Cafe"があったので、表敬訪問した。 オーナーのカリーナ女史にFURUとはノルウェー語で”松の木”を意味する旨を教えてもらった。)

 

(ロフォーテン諸島先端部のフレッドヴァング=Fredvang村付近。朝6時前の時間帯)

 

(海上のフェリーからロフォーテン諸島を見るとのこぎりの歯のような山々だった。)

 

ノルウェーの暗い過去

 

第二次世界大戦中ノルウェーは当初中立の立場だったが、旧ナチス・ドイツ軍に占領されていた。ドイツ軍は鉄鉱石等の地下資源が豊富なスウェーデンからの積み出し港があるナルヴィック(Narvik)を確保したかった。

 

イギリスをはじめとする連合国側は、戦争当初ドイツ軍にナルヴィック港を占領させないように狭いフィヨルド内で軍艦や潜水艦をもちいた大がかりな海戦や陸上で戦闘を行ったと言う。 

 

結局ドイツ軍が戦争終結直前まで占領下に置いたのだが、ドイツ軍に協力する人々と抵抗する人々の間の葛藤や分断があったようだ。 

 

そんなことをナルヴィックにある戦争博物館(War Museum)が教えてくれる。 大戦中にノルウェーでは約1万人の戦死者がいたと言う。その1/3は連合国側の物資輸送に協力した船乗り(Seaman)だったと言う。

(ナルビック=Narvikで宿泊したホステルはキリスト教会が運営していた。ホステルと教会チャペルが隣接)

(ナルビック戦争博物館内の展示品に第二次大戦中に使っていた軍事用のBMW製オートバイとサイドカーがあった。)

 

ノルウェー南部の見所

 

ロフォーテン諸島のフレッドヴァング村のホステルで出会ったオスロ在住のスロバキア人ライダーにノルウェー南部の見所を教えてもらった。

 

ノルウェー最大級のフィヨルドや氷河が見れるツーリングルートがあると言うのだ。 当方は地図を片手にそのライダーが話す言葉をメモ書きし地図上に照らし合わせた。 

 

当方が当初考えていたルートと全く違っていた。当然勧められたルートを辿るべく変更した。オートバイツーリングで一番気になるのが天候だ。 スカンディナビア半島のツーリング計画時には、ノルウェーの海岸沿いは雨が多くて、寒いだろうと考えていた。

 

それが、幸運にも殆ど晴天続きだ。 晴天だが空気が冷たい。 炎天下で動かずじっとしていれば、暑く感じるが、オートバイで走行すると風が冷たい。 そのため、冬用のツーリングジャケットを着用していた。

 

ノルウェー南部のフィヨルド観光の中心地はオンダルネス=Andalsnesということを教えてもらった。

 

オンダルネスからスタートしてトロスティンゲン=Trollstigenフィヨルド、 ガイランゲルフィヨルド=Geirangerfjordやその先にあるブリクスダール氷河=Briksdalsbreenを見学したらよいと聞いた。

 

この地域は観光名所にもなっているので夏季のホテルやホステルの確保は難しい。しかし、キャンプ場がたくさんある。また、公式キャンプ場でなくても、野原でも、海岸でもどこでキャンプ泊しても問題無いと言う。

 

事実キャンピングカーを自分の気に入った海岸や川辺の空地に停めて、キャンプ泊中の旅行者を多く見かけた。

 

(オンダルネス=Andalsnes付近に谷間の道路。高さ100mぐらいの滝が右手に見える。)

 

(展望台から見るノルウェー最大級のトロスティンゲン・フィヨルド=Trollstigen Fjord。フィヨルドと言っても海ではなくて陸上のU字谷だ。)


 

カランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordに停泊の大型クルーズ船が写真奥に見える。クルーズ船は10階建て位ある巨大な船だったが、500m位の高台から見ると小さく見えた。)


標高約1500mの展望台から写真奥のカランゲル・フィヨルド=Geirangerfjordを見る。フィヨルド湾の手前の岸に小さく見えるのがクルーズ船だ。)

 

(ブリクスダール氷河=Briksdalsbreenの先端が見えるポイントまでは徒歩で行く。更に数時間かけて山を登れば、氷河まで行けるようだ。 冷蔵庫の中にいるようで寒かった。)

 

(道路は氷河が動いて作ったU谷やフィヨルドの谷の底にある。)

(谷底の道路から見ると両側が壁に阻まれているように見える。)

 

キャンプ泊ではバンガローを利用

 

南ノルウェーでも宿泊地を事前に決めていなかった。 夜半まで明るいので宿泊地の心配はしていなかった。 I Overlanderのアプリでキャンプ場の情報をチェックして、夕刻に到着している地点でキャンプ場を探した。

 

フィンランドのキャンプ場でのテント泊では蚊で悩まされたので、キャンプ場にバンガローがあればバンガロー泊をしたいと思っていた。 バンガローは2段ベットや簡単な自炊用電気コンロ等が装備されている。 トイレやシャワーは共同利用の施設が整っている。

 

また、 WiFi設備もあるので、自然の中で過ごしたい人にはバンガロー泊がおすすめだ。 また、雨天の際、テントを撤収するのは苦手な人が多い。当方も雨天のテント泊は避けたかった。 

 

当方はGjerdeByrkeloという地図にも載っていないような小さな村にあったキャンプ場で2回バンガロー泊をした。一泊400500クローネ(一泊6千円~7.5千円)と都市部のホステル並みの手頃な料金だった。

 

 

(Gjerde  Campingのバンガロー)

 

(Gjerde Campingのバンガローの内部。2段ベット、テーブルとイス、簡単なキッチンがあった。トイレとシャワーは別棟)

 

(ブリクスダール氷河=Briksdalsbreen近くで泊まったByrkelo村のGasemyr Campingのバンガロー)

 

(Byrkelo村のGasemyr Campingでバンガローの横で車中泊していた一人旅のドイツ人は当方に朝食やコーヒーを差し入れしてくれた。)

(ノルウェー初日はこんなノールカップから150km程離れたRepparfjordの川岸でワイルドキャンプをした。)

 

(ワイルド・キャンプのテント)

 

何故ノルウェーの物価が高いか考える。 

 

ノルウェーの一人当たりのGDP2023年のIMFデータでは87,000米ドル(約12.6百万円)だ。 フランスの2倍弱、日本の2.5倍と大きい。 

 

フランスは46,000米ドル(約6.7百万円)。日本は34,000ドル(約4.9百万円)となっている。 

 

因みにフィンランドは53,000米ドル、スウェーデン55,000米ドル、デンマーク68,000米ドル、米国83,000米ドルとなっている。

 

一人当たりのGDPを年収と見なすと年収が大きい分、物価が高くて当然だとも言える。 問題はドル建ての数字に換算する際の為替レートだ。 

 

日本は継続的な円安のため、ドル建てGDPの数字は年々減少して、収入が減っている様に見える。外国人から見れば、日本の物価は安く写る。

 

物価を収入に見合った形で表す購買力平価という考え方もある。購買力平価で比較すればノルウェーも日本もあまり変わらないだろう。 ということはノルウェーの為替レートが過大評価されているとも言える。

 

ノルウェー経済を調べていないので、断定は出来ないがノルウェーは通貨安政策を取る必要が無いのだろう。

おもな輸出品は天然資源である原油やガスだ。天然資源の場合、国際価格が決まっているので、自国通貨が安くても輸出価格には反映されない。 

 

一方、車や輸送機器等の工業製品や農産物が主な輸入品だ。国内のインフレを抑えるのには為替レートが高いほうが有利だともいえる。

 

以上

 

 

 

フィンランド・首都ヘルシンキからノルウェー(欧州)最北端ノールカップ 1,680km(2025/7/137/19

 

フィンランド首都ヘルシンキ

フィンランドの首都ヘルシンキは大きな都市ではない。街の中心地は歩いて観光できる大きさでちょうどよい。また街の中心部との商業地でもあまり混んでいないので当方にとっては居心地が良かった。

 

気に入ったのが中央駅近くに位置する図書館だった。

 

図書館と知ってその場所に入ったわけではなかったが、4階建てぐらいの建物の高さにウッドデッキがあり、眺めがよさそうである。

 

軽食や飲み物を摂りながら休憩している人達がいたのが見えたので、そこへ行くことにした。

 

そこが図書館だった。図書館というより広い空間に本棚がおかれて誰でも本を読みながら休憩できる場所だった。

 

テーブルと椅子、さらにソファーや寝そべるクッションもあり、実際に寝そべっている人やパソコンでパソコンを操作している人もいる。 

 

ゆったりしたスペースで人が多くない。 場所も駅の近くで便利が良い。こんな公共空間が身近にあったら便利で使い勝手があると思った。

(エストニア・タリンからヘルシンキまで国際フェリーでバイクとともに移動する。フェリーから見たヘルシンキの港)

 

(ヘルシンキの図書館。内部は緩い階段で3階の高さまで続く)

 

(ヘルシンキの港の一角には天幕を張ったストリートショップで賑わっていた。)

 

(ストリートショップでは魚介類の料理をふるまっていた。料理の写真と価格が判りやすく表示してあるので

観光客には評判が良い。)

(一口イワシのから揚げ。塩味が利いて旨かった。一皿では量が多すぎた。10ユーロ=約1,700円)

 

(暑い夏の日でも、人々は陽が当たるベンチを選んで座っていた。)

 

(公園にあったおもちゃのような超小型水車発電機には手すりに充電用USBの入力口が取り付けてあった。)

 

 

物価高対策

北欧諸国は物価が高い。それに円安が加わるので、肌感覚で日本の1.5倍~2倍程度の物価だと感じる。

 

物価高の対策として、都市部で宿泊する時は宿泊料金が手頃なホステルを利用する。ホステルが無い地方都市や田舎町ではキャンプ場を利用する。

 

今回のツーリングでは北欧諸国の対応策として鍋やガスバーナー等の調理器具も含め、テント、寝袋等のキャンプ用品を全て持参している。

 

フィンランドでの当方のツーリングルートは以下の通り:

 

首都ヘルシンキ(ホステル泊)~430km~ヴァーサ(Vaasa)=キャンプ場テント泊~540km~ラップランド地方の中心地ロヴァニエミエ(Rovaniemie)(ホステル泊)~400km~カクツヴァリン(Kaktsvarrin)=キャンプ場テント泊~30km~ノルウェー入国~280km~ノルウェー最北端ノールカップ(NordKapp)=今回ツーリングの第二目標地点

 

(エストニア・タリンからフィンランドを経てノルウェー最北端のノールカップまで赤線で示してある。

地図の下の赤丸印の場所がタリン。地図の上の赤丸印がノールカップ。)

 

フィンランドは直線的な道路が多い。

のどかな牧草地もあるが、基本的には町と町を繋ぐ直線的な道路が多いため、オートバイツーリングでは飽きる。森の中や牧草地と皆似たような景色が繰り返される。  

 

ヘルシンキが位置する北緯60度(カムチャッカ半島の付け根あたりの位置)以北でも小麦畑があり、菜の花畑があることには驚いた。 地球温暖化のため作物の北限が以前よりも北に位置しているのだろう。 ヘルシンキでも気温が29℃と歩いていると汗ばむ日があった。

 

 

 

(森の中を通る直線的な道路が多い。)

 

(ヘルシンキ郊外の小麦畑)

 

(菜の花はやっと咲いたばかりだった。)

 

(バス停のベンチでは眠くなるたびに休憩した。)

 

(ラップランドの幹線道路の一区間には飛行機の滑走路になるように道路幅が100mぐらいあった。)

 

白夜対策

ヘルシンキ(北緯60度程度)あたりでも、この時期の日没はあるのか無いのか分からない。23時ごろになっても明るいので、寝るタイミングが遅れてしまう。

 

北極圏(北緯66℃以北)に入ると太陽は沈まず、真夜中でも明るい。 夜中に山々をハイキングしたり、マウンテンバイク(自転車)で荒れ地を駆け回りして朝帰りする人達が当方が投宿していたホステルにもいた。

 

当方がヴァーザ(Vaasa)のキャンプ場でテント泊した時には、キャンプ場が接する海で夜の11時に水上スキーを楽しんでいる人たちがいた。

 

真夜中でも薄明るいので朝なのか、夜なのかも分からず睡眠不足になる。

この時期に北極圏を旅する人は安眠するためにアイマスクは必需品だ。

 

フィンランドの北部地方はラップランドと呼ばれる。このラップランドにはサミー族(Sami)と呼ばれる民族がいる。トナカイの放牧や川での魚の捕獲で暮らしていた人々で、独自の言語や習慣があったと言う。

 

現在でもトナカイは放牧されている。ラップランドの道路を走行中にトナカイに遭遇したが、野生のトナカイでは無かった。耳に鑑札を付けた放牧中のトナカイだった。

(ヴァーサ=Vaasaのキャンプ場でテント泊)

 

(ラップランドのサミー族の写真=Arctic Center)

 

(サミー族の婚礼時の衣装)

 

 

(ラップランドの州都ロヴァニエミエはこのような森の中にあった。)

 

(ロヴァニエミエ郊外のサンタクロース村。宿泊施設とショッピングモール、レストラン等がある。やはりクリスマスシーズンでないと雰囲気が出ない。)

 

(ロヴァニエミエ郊外の北極圏=北緯66度入りのモニュメント)

 

1939年の冬の戦争

フィンランドが欧州での第二次大戦初期に旧ソ連と戦争をしていた事実を当方は知らなかった。 

 

1939年冬に旧ソ連軍がフィンランドに侵攻してきたのだ。 

 

フィンランド軍は地の利を生かして大国を相手に善戦して、数カ月の戦いで旧ソ連と停戦まで持ち込んだ。 フィンランドではその戦争のことを<冬の戦争>と呼んでいる。 その後、旧ソ連の脅威から守るため、フィンランドは旧ナチス・ドイツと同盟を結んだ事実があった。

 

北極圏への入口となるラップランド地方の州都ロヴァニエミエ(Rovaniemie)にはそんな地元の歴史や過去の生活や文化をを伝える北極圏センター(Arctic Center)があった。

 

北極圏のキャンプ場

ロヴァニエミエからノルウェーとの国境を目指してラップランドを更に北へと進んだ。 もともと人口が少ないフィンランドでもラップランドは人口が極端に少ない。

 

民家や人も見かけないので、少し心細くなる。こんなところにキャンプ場があるだろうかとカーナビを頼りに半分疑いながら進んだら、林の中に目指していた小さなキャンプ場(Kaktsvarrim Eramajetキャンプ場)があった。 

 

ノルウェーとの国境まで30km程の山の中のキャンプ場だった。

 

温水シャワーがある洗面所・トイレとキッチンがある個人経営のキャンプ場だった。(入場料は30ユーロ=約5千円) テント泊は当方のみ。数名いたキャンパーたちはキャンピングカーかバンガロー(料金50ユーロ=約9千円)を借りて宿泊していた。

 

テントを張る作業をしている間にも、腕や頭を蚊にさされる。凶暴な蚊だった。フィンランドのスーパーで買い求めた虫よけスプレーの効果はあまり感じなかった。

 

蚊に悩まされた当方はバンガローを借りれば良かったと後悔した。

 

この辺りまで来ると夏場でも木々の育成は遅くなる。道路周辺の森の木々は高さ3m程度と低くて幹も細い。

 

フィンランドから日本の県境を跨ぐようにノルウェーへ入国する。 国境を管理していた時代の建物が無ければ、いつ国境を越えたのか分からない。

 

(ノルウェーとの国境近くまで北上すると森の木々は大きく育たない。)

 

(森の中のカクツヴァリン(Kaktsvarrin)キャンプ場。 キッチンやシャワー室がある建物の裏の日陰にテントを張った。)

(フィンランドとノルウェーの国境。写真左の建物は国境の往来が管理されていた時代の国境管理事務所=現在は使用されていない。)

 

ノルウェー(欧州)最北端のノールカップ(NordKapp)を目指す。

ノルウェーに入国後、しばらく走行すると海に出た。 岩場の海岸線に沿って更に北を目指す。

 

欧州最北端を目指すキャンパーやライダーが多くなる。 景色の良い海辺の空地にはワイルドキャップをしている人達を多く見かける。 この時期バイクツーリングするライダーの多くはキャンプを楽しみながらツーリングをする。

 

ノールカップに至る山や荒れ地には木は生えていない。 地の果ての地という寂寥感がある。 

長さ7kmの海底トンネルを通過してノールカップに至る。そのノールカップを自転車で目指すサイクリストも多い。中には徒歩でノールカップを目指す人もいた。 

 

海底トンネルで一人歩いているアドベンチャー野郎を見かけた時には、<こんな場所を歩いている人がいるのか!>と驚いた。 海底トンネルの道路端には歩行者一人がやっと通行可能な幅の狭い通行帯のような歩道があった。

 

(ノルウェー領内の海。ノールカップ手前)

 

(ノールカップに繋がる最後の道路)

 

(ノールカップ手前の殺伐とした入り江)

 

(ノールカップ=岬は高さ50m~70m位ありそうな断崖絶壁だった。)

 

(ノールカップ=北緯71度のモニュメントには観光バスや乗用車、キャンピングカーで訪れる観光客やバイカー、サイクリスト等で一杯だった。)

 

(ノールカップ付近の崖はこのように断崖になっている。)

 

以上

 

 

 

 

ロシア・ウファ(Russia Ufa)~モスクワ(Moscow)~エストニア入国(Estonia )2,750km(2025/7/37/12

 

ロシアでは以下のルートを走行した。走行したと言うよりエストニアを目指して通過したと言う方が実態だろう。

 

ウファ(Ufa=風邪)~470km~サマーラ(Samara=戦略都市でGPS作動せず)~420km~ペンザ(Penza)~

450km~リャザン(Ryazan)~280km(途中からGPS機能せず)~モスクワ(Moscow)~130km~ボロジノ(Borodino Historical Battlefield)古戦場跡見学(1812年のナポレン軍との戦争)~280km~リゼブ(Rzhev)~530km~ポスコフ(Pskov=エストニアとの国境に近い町)~60km~エストニアとの国境からロシア出国/エストニア入国~280km~エストニア首都タリン(Tallinn

 

厳しかったロシアのオートバイ走行と滞在

 

ロシアでの走行は連日の雨天のためツーリングを楽しむどころでは無かった。 北半球の高緯度地域の夏は雨期なのだ。

 

連日の雨は、森や植物、動物にとっても自然の恵みとなり感謝すべきものなのだが、オートバイライダーにとっては有難くない。

オートバイで数百キロメートル移動中、終日雨にあたることはめったにない。

短くて30分程度から長くて数時間程度の雨天走行だった。 

 

道路脇で行う雨具の装着と脱着は面倒だ。 特に腰をかがめた格好での

ブーツ(バイク専用ライダーシューズ)のレインカバー装着は腰の負担が大きい。 腰痛時にこの作業をやるのは厳しかった。

 

ウファ(Ufa)で風邪のため2泊した。

2泊だけでは十分でなかったが、モスクワにて会社員時代の元同僚たちと会う約束をしていたため、先を急いだ。 

 

風邪が治らず、咳が止まらない。 

3カ月もオートバイツーリングをしていると体力も消耗する。今度は腰痛になってしまった。 3ケ日間位で酷い腰痛は直ったが、無理をすると再発しそうで腰をいたわりながらツーリングを継続した。

 

更に弱り目に祟り目で、結膜炎で目が痛い。目ヤニがたくさん出る。 持参していた結膜炎用の薬用目薬で対応して1週間程度で治ったが、目が腫れぼったく、いかにも病人顔になっていた。

(ウファ=Ufaからサマーラへ向かう途中。モスクワまで約1,400kmの距離がある。)

 

(トラックが多い幹線道路。)

 

(サマーラ=Samaraで当方を追ってきた白バイ警察官の検問を受けるが、そこはライダー同士。すぐに打ち解けあう。

白バイはBMW製)

 

(リャザン=Ryazanの街並みは美しい。4階建てくらいのクラシックな建物で端正な街並みだった。)

 

(元同僚が住むモスクワ郊外のRomashokovoの湖畔。モスクワの不動産価格は高騰していると言う。)

 

(ボロジノ=Boroginoからリゼブ=Rzhevに至る郊外の道路は交通量が少なく気持ちよく走行できた。)

(ロシア北西部ポスコフ=Pskovへ向かう幹線道路は森の中を通る。木の高さは20m以上と高い。)

 

(サマーラ=地図右側からモスクワ(地図中央)を経てエストニアとの国境の町ポスコフ=地図左側へ至るルートはピンク色で示す。色付けしてある都市は宿泊地)

 

宿探しに苦労

 

サマーラ(Samara)はソ連時代には外国人の立ち入りが禁止されていた戦略都市の一つだった。

 

サマーラにはロケットや戦車の工場があったからだ。 サマーラでホテル探しをした際、2軒のホテルで、受付係が当方の顔を見るなり、<満室だ>と言い、門前払いをくらった。

 

受付係の対応も悪かった。面倒には関わりたくない様子で、満室を詫びるより、当方に早く立ち去ってくれという態度を示す。

 

また、サマーラでは当方が市内にはいると警察の2台のオートバイが当方を追跡して来て当方に停止を命じた。 戦略都市に入った当方の姿を監視カメラが捉えて警察が検問に来たのだろう。 停止を命じた警察官は誰かとインターコム(ヘルメット取り付けられている無線電話)で連絡を取り合いながら当方の身元確認を行った。

 

モスクワでホテルを探した際には、ある高級そうなホテルでは受付係の対応がよかった。しかしながら、<外国籍の方の宿泊はお断りしています>と丁重に断られた。 門前払いよりましだったが、当方はこのホテル側の対応には何かがあるとにらんだ。 <外人の宿泊お断り>は政府の指導ではないかと推測した。

 

一夜の宿を確保するのに数軒のホテルやホステルを廻ることになった。 ロシア最後のポスコフ(Pskov)の町では雨の中、6軒のホテルを廻り、7つ目ホテルでチェックインできた。

 

ホステル(ベッドののみの簡易宿)の方は<外人お断り>とは言わなかった。 そのため、ホステルがある都市ではホステルを探した。

(リゼブ=Rzhevの木の教会。ロシア正教にしては珍しいとんがり屋根の教会だ。)

 

(リゼブの町の中心部。リゼブでも4軒目のホテルでチェックイン出来た。)

 

(ポスコフ=Pskovで7軒目のホテルでやっとチェックインできた。 チェックイン出来たホテル・バルトハウス=Hotel Balthouse)

 

カーナビ(GPS)が作動しない。

 

当方はオフライン(データー通信に接続しない)でも作動するオーガニック・マップス(Organic Maps)をカーナビ用のGPSとして使っている。衛星シグナルを受信してカーナビとして作動するが、ロシアの戦略都市では妨害電波のためカーナビが動かなくなる。 ロシアに限らずイランでも経験したことだ。

 

ただし、サマーラでスマホのデーター通信をONにするとカーナビとして作動することを発見した。多分、携帯電話の基地局の電波でGPSシステムが作動するのだろう。

 

ただし、この方法でも、モスクワ市内では通用しなかった。 

 

ロシアの首都を防衛する意味で、より強力な妨害電波が張られているのだろう。 そのためモスクワでのオートバイ走行には手間取った。 カーナビに頼らず、約15年前の会社員時代のモスクワ駐在時の記憶を頼りに中心部からモスクワ郊外へと進んだ。

 

携帯電話の通信制限

 

当方は携帯電話にロシア対応のeSIMを入れていた。 しかし夕方になるとeSIMが使えなくなった。一時的な現象かなと当初思ったが、連日夕方から翌朝までeSIMが機能しなくなった。政府が通信規制を行っていると推測している。

 

いろいろな制約

 

国際的な金融制裁のため、ロシア国外の金融機関で発行されたクレジットカードは機能しない。そのため、ドルの現金を持参して、ロシアの銀行で両替をしていた。

 

一般のロシア人はそんなことは知らない。当方がスーパーで買い物時、日本のクレジットカード(VISA)で支払いを試してみると、カード端末が受け付けない状況にレジ係の人は<おかしいわね、このクレジットカードはダメみたい>と首をかしげるのみだった。

 

インターネットの閲覧にも政府は制限をかけている。 一般のインターネットではフェースブック(FaceBook)は繋がらない。宿の予約に使うBooking.Comもしかりだ。 LineSNS)は繋がった。

 

そのため、当方は事前に有償VPNExpress VPN業者製)をスマホにインストールしてフェースブックや他のインターネット閲覧を確保した。

 

更にBooking.Comの代わりにロシア版のホテル予約サイトアプリのOstrovokをスマホにインストールしていた。

.

 

 

このルートの約2,800kmの走行で連泊したのはモスクワの2泊のみで、そのほかの都市は1泊のみだけだった。

 

風邪をこじらせたり、腰痛になったりと良いことが殆ど無かったが、幸いしたのは会社員時代のモスクワ駐在時のロシア人の元同僚達に会えた事だった。8年前初めてのシベリア経由の世界一周時にもモスクワに立ち寄り、元同僚達に会っていたが、今回も再会できた。 ロシア人の義理堅さだろう。 

 

ロシア人は寡黙で、とっつきにくいが一度知り合えば、非常に義理堅い。 ウクライナ戦争のため、当方が勤務していた会社はモスクワ事務所を閉鎖していた。そのため、元同僚達は転職を余儀なくされていたが、快く当方を迎えてくれた。

 

元同僚曰く、ロシアの景気は悪くない。 インフレが年率10%なのに、銀行金利は20%と高く、貯金がある人は金利だけでも食べていけると言う。 実質金利(名目金利からインフレを引いた金利)が高いため、銀行預金が利益となっている。実質金利が10%ということでルーブルの為替レートも強い。

 

もっとも実質金利が10%あることは強い金融の引き締めのため、景気が悪化するのが経済のセオリーだ。

 

ウクライナ戦争の影響は?

 

専門家から話を聞いていないので、実態は分からないが、 戦争継続のため政府が巨額な支出をしている。その支出で景気がかなり刺激されているのではと考えている。 

 

道路建設や道路補修等の公共事業も継続されているのが分かる。 ただし、都市部での民間のビル等の建設はあまり見ていないので、民間企業は景気の先行きを慎重に考えているかもしれない。

 

ロシアの人々は普通の生活を送っている様に見える。戦争を行っている国で普通の生活や経済活動が続けられているようだ。ただ労働者の人で不足があるのではと疑っている。当方は多くの若者が徴兵を嫌って近隣国へと生活拠点を変えたと戦争当初の報道で聞いていた。

 

当方が宿泊したホステルには労働者が生活していた。ペンザ(Penza)の大きなホステルは建物の一部が労働者等の長期滞在者専用となっていた。

 

 ウズベキスタンやキルギス等中央アジア諸国からの出稼ぎ労働者の他にも、複数のインド人の労働者がいた。 たぶん人手不足で、中央アジアからの労働者だけでは足りず、インド人にも労働市場を開放しているのではと思う。

 

兵士募集の看板を道路沿いで多く見かけた。兵士が足らないのだろう。 

 

異常に見えたモスクワ・クレムリン周辺の警戒と花の飾り付け

 

モスクワ中心部のクレムリン周囲の橋や至る所が花で飾られていた。高級レストランの入口もだ。

 

晴天の日曜日の昼下がりでもあり、多くの人々がクレムリン周辺を散歩したり、観光している。人々はクレムリン周辺の美しい光景を写真に収めていたが、当方は葬式の際の献花のように見えた。 たぶんウクライナ戦争の戦没兵士を忌っているのだろう。

 

当方は、ロシア人にウクライナ戦争の事は聞かなかった。そんなことを聞くとロシア人に警戒されたり、ロシア内務省関係の人達に密告されると危惧したからだ。 

 

2ヶ月前にロシアのアストラハン(Astrahan)からカザフスタンへと出国した際には、ロシアの出国事務所でロシア内務省の役人とおもわれる人からウクライナ戦争について尋問を受け、当方のスマホの内部も詳しく検閲された。

 

今回ロシアのポスコフ(Pskov)からエストニアへ出国した際には、そのような役人によるウクライナ戦争についての尋問は無かった。

 

(モスクワ中心部のクレムリンから数km離れているがモスクワ川の大きな橋はこのように花で飾られている。)

 

(8年前より高層ビルが多くなっていたモスクワ市内ニューアルバート通り周辺。通りにはゴミが一つも落ちていないほどよく清掃されていた。)

 

フランス・ナポレオン軍とのボロジノ古戦場跡の見学(Borogino Historical Battlefield

 

ロシアでは第二次世界大戦のの他に1812年フランス皇帝ナポレオンが率いるフランス軍がロシアへ侵攻際の戦争を祖国防衛戦争として歴史上大きく扱っている。

 

モスクワの西方約130kmのボロジノ(Borogino)の平原で繰り広げられたフランス軍とロシア軍の戦いが一番知られている。

 

そのボロジノの戦いではロシア軍は戦場から退却して、フランス軍が勝利したように見えた。

フランス軍はモスクワまで侵攻したが、モスクワは住民が避難して空っぽだった。

 

その時、10月になっていたため、ナポレオンは厳しい冬の到来を嫌って、ロシアから撤退することを決めた。

しかしながら、フランス軍が帰路についた時には冬が始まっていた。厳冬で無事に帰国できたフランス軍兵士は少なかったと言う。 ナポレオン軍はロシアの冬に敗れたとされている。 

 

19世紀のロシアの著名な作家トルストイ作の<戦争と平和>ではボロジノの戦いは詳しく描かれている。

 

(ナポレオン軍との戦争時ロシア軍の総司令官クソーゾフ=座っている男はロシアでは知らない人はいないほどの英雄だ。)

 

(ボロジノの博物館にある戦いの様子のパノラマ絵)

(ロシアから撤退するナポレオン軍)

 

(ボロジノの古戦場跡は広い草原)

 

ロシア出国とエストニア入国

 

ポスコフ(Pskov)から最寄りのエストニアとの国境は小さな国境事務所で、通過旅客は数名程度だった。

 

イミグレーション兼税関担当の国境役人からオートバイ持ち込み時の輸入申告書(一時輸入許可書)を提出してほしいと要求された。 当方は約10日ほど前にカザフスタンからロシアへ入国した際に有効期限の延長手続きをしたキルギスの一時輸入許可書を提出した。 その書類は後で返却されたが、オートバイのロシア出国に問題なしということだ。

 

無駄骨になるかもしれないと思ったが、約10日前にトロイトスク(Troitsk)の税関本部でキルギス入国時に作成した一時輸入許可書の延長手続きをやっておいて良かったと思った。

 

出国手続きに約1時間。

 

エストニア入国審査は厳しかった。

 

イミグレーション係は当方のパスポートの出入国記録を2030分くらいかけてすべてチェックした。アフリカや中南米諸国の出入国記録もだ。 旅行保険についても提示を求めてきた。(旅行保険の加入証明を要求されたのは初めてだった)。

 

当方のパスポート上にビザや出入国の押印数が多いため、パスポートを切り替えたほうがいいとアドバイスしてきた。

 

更に当方のオートバイの登録証書(Registration Certificate)と国際運転免許証および日本の運転免許証についても専門の担当官が30分以上にわたり本部の建物でチェックした。EUでのオートバイの保険(通称グリーン・カード)の提示。

 

エストニア入国審査で1時間以上かかった。

 

入国審査が終了ししたのは午後4時前だった。ここから首都タリンまで約280kmあるが、この時期の日没は午後の10時ごろと遅い。

 

タリンの宿はブッキング・コムで予約してあるので宿探ししなくて済む。 いつもより余裕があった。

 

エストニアの首都タリン(Tallinn)で3

 

8年前にタリンを初めて訪れていた。そのため今回は観光等は一切なしでスカンジナビア半島の最北端ノードカップ(Nord Cupp)へのツーリング準備や、なかなか出来なかったブログ更新等の事務作業を行った。また風邪の咳が一向におさまらないので、タリンの総合病院で医師の診断を受けた。

 

病院では医師が聴診器を当方の胸や背中にあて健康状態をチェックの上、血液や鼻の粘膜の検査及び胸部のレントゲン撮影も行った。 風邪の一般的な症状だが、治りかけているので薬より自然治癒を待った方が良いとアドバイスされた。 薬の処方箋の作成もなく診断料金は125ユーロ(2万円弱)。

 

タリン港からフィンランドのヘルシンキ港へフェリーでヘルシンキ湾を渡る計画だった。 そのフェリーのチケットの購入もせねばならない。やることはたくさんあった。

 

1年ぐらいまでロシアのサンクトベルグからヘルシンキまで陸路国境を通過して行くころができたが、ウクライナ戦争のため、このロシアとフィンランド間の陸路国境は閉鎖されていた。

 

(エストニア入国後タリンへ向かう道路。ドライバーは制限速度を守り、前後の車と十分な車間距離を取る。)

 

(タリンの港地区は新しい街)

 

(タリン市内のオートバイ店Street Motoではメカニックが足らなくて一週間前に予約しないとエンジンオイル交換はできないと言われ、工具とスペースを借りて、自分でエンジンオイルの交換を行った。 エンジンオイルは必要量の2.2リットルのみ量り売りしてくれた。廃油も処分料も含め費用はエンジンオイル代のみの27.5ユーロ=約4000円。)

 

(タリン市内の総合病院。East Central HospitalのEmergency Department(応急処置)で診てもらった。)

 

(タリンで理髪店長くなった髪の毛を刈り上げた。料金は15ユーロ=約2千強)

 

以上

 

 

 

KazakhstanAlmatyRussiaUfaまで2,750km (2025/6/257/1

 

カザフスタンへ再入国後は初回のカザフスタンと同様にカザフ・ステップ(カザフの草原)を走行する長くて単調なツーリングだった。

 

ツーリングルートは以下の通り:

 

Almaty(元首都)~390kmSiganag(国道沿いのシャワー無し宿で宿泊)~280kmBalkash(道路が未整備の寂しい町)~600km途中から寒くなるAstana(首都)~410kmEsil(寂しい町)~410km途中のKostanaiの町でカザフのライダー達とランチKarabelik(国境近くの集落)~45km~国境・ロシア入国~20kmTroitsk(一時輸入許可証延長)~140kmChliyabinsk430kmUfa


 

1997年にカザフスタンはアルマティー(Almathy)からアスタナ(Astana)へと遷都を行った。

 

遷都の理由はアルマティーはカザフスタンの中心から離れすぎてロシア系住人が多く住むカザフスタン北部が分離独立する懸念があったためとも、アルマティーは地震多発地帯に立地するため、地震で首都の機能が失われるリスクがあったとも等言われている。 

 

アルマティーを日本に例えると首都が北海道にあったような感じだ。

 

しかし、新首都のアスタナがカザフスタンの中央といえどもカザフスタンを東西に横断する高速道路がないため、カザフスタンの地方の人々にとっては首都アスタナへの道のりは遠いことには変わりない。

 

アルマティーからアスタナまで約1300kmの距離、更にアスタナからロシアの国境まで約850kmと単調な景色の中を走行する。 アスタナ以外途中で宿泊した町はほどんど記憶に残らない。

 

それでもあえて言うと、途中に一夜を過ごした町バルカシュ(Balkash)やエシル(Esil)には、アルマティーやアスタナのような立派な舗装道路や建物が少なく、ソ連時代の集合住宅のベランダが朽かけ、寂しい町だった。 大都会と地方の町の格差が非常に大きいと思った。

 

エシル(Esil)では幹線道路から町に通じる道路でさえ、未舗装で雨の後は道路のいたるところに水たまりができ、走行するにも骨が折れる。

(カザフスタンの道路看板。首都アスタナ(Astana)まで964kmある。)

 

 

 

(アルマティー=地図右下で手書きの赤丸印のところからロシアのウファ=地図左上の青色矢印マークまでの走行ルート。

手書きの赤色矢印の順に走行した。走行ルートの距離感が判りずらいが日本の北海道から鹿児島まで以上の距離がある。)

 

(シガナグ=Siganag近くの国道脇の食堂と宿泊施設。シャワーは無く、トイレも駐車場の外れにあった汲み取り式共同トイレ。トイレにはドアは無い。)

 

(首都アスタナの高さ105mバイテック・タワー。球状の展望台は人気があり、入場者は長蛇の列で待たなくてはならない。)

 

(超モダンな建物が多い首都アスタナ)

 

(地方都市バルカッシュ=Balkashの住宅街道路は未舗装のままだった。)

 

(地方都市バルカッシュの中心部のスーパーマーケット)

 

(地方都市エシル=Esilはロシア系のカザフスタン人が多いような感じの町だった。この時期は雨・曇りが多いため、人通りも少なく寂しそうに見えた。)

 

(アスタナの国立博物館所蔵の目玉展示品。ゴールドマン=Goldman。BC4世紀から3世紀ごろの17歳~18歳ぐらいの王子のものと思われる金の衣装)

(13世紀のチンギスハン=モンゴル軍襲撃時の絵。アスタナの国立博物館)

 

(1700年にオランダで出版された世界地図。 アスタナの国立博物館)

(1795年パリで出版されたアジア地図。日本の北海道はまだ知られていなかったようだ。)
 

(バルガシュ~アスタナへ向かう途中の草原の岩山。オーストラリア中央部のエアーズロックに似ていた。)

 

(バルガッシュ~アスタナ途中の地下資源の開発現場)

 

(アスタナが近づくと雨が多いせいか広大な小麦畑が広がっていた。気温も低くなり寒くなってきた。)

 

(カザフスタン北部には広大な農地がある。 長さ4km以上あった菜の花畑。当方がこれまで見た中で最大級の広さだった。)

 

                                                                                                                                    (カザフスタン北部の広大な農地=小麦畑の周辺には巨大な穀物倉庫が複数あった。ビルのような形の穀物倉庫は高さが10階以上のビルの以上と巨大だった。)

 

 車両保険はカザフスタン入国時の国境で買うべきだった。

 

国境から近い最初のカザフスタンの町だったKegenで保険を買う予定だった。

しかしながら、カザフスタン入りした日はカザフスタンの祭日だった。 そのため、保険を扱う業者が休みだった。仕方がないので、 当方はアルマティーで買えば良いだろうと安易に考えた。

 

アルマティーには保険会社はあるが、バイク保険を扱っていなかったり、そもそも保険会社の場所をしらべてもその場所にはなかったりと、なかなか業者まで行きつかない。

 

最終的に保険が買えたのは、アルマティー市内の大学の総務部だった。 たぶん学生とか職員のために、保険加入の事務手続きを行っているのだろう。当方は大学関係者の善意でオートバイの保険加入の手続きを行ってもらった。

 

(オートバイの保険を購入したアルマティー市内のカスピアン大学)

 

草原の怪奇現象

 

当方が、アルマティーからシガナグ(Siganag)へ向かっている途中、数キロメートル前方の道路付近で雲が地面から湧き上がっているように見え、分厚い雲に覆われている。

 

どのタイミング雨具を着込むべきか考えながら、反対側から向かってくる(対向車)のウインドシールに雨粒がついているかどうかチェックしながら、その先へ向かった。 反対側から向かってくる車は雨で濡れていないが,

目前に暗雲が迫っている。

 

道路わきに少し停車して、目前の状況をよく見ると、地面から雲が湧き出るように見えた現象は、激しい砂嵐だった。

 

その砂嵐が移動しながら当方へ迫ってきて、周辺が地上から舞い上がった砂でよく見えない。風も強烈で30分ぐらい続いたが、その間当方はスピードを落として走行し続けた。

 

停止すると、強風でオートバイと一緒に倒されると思ったからだ。 強風でオートバイは5m(一車線分)位は右へ、左へと揺れ動いた。怖かった。

(地上から雲が沸き上がっているように見えた砂嵐)

 

超フレンドリーなカザフのオートバイライダー達

 

このルートを走行中に2回オートバイライダー達と遭遇した。

一人はアスタナへ向かう途中、当方を抜き去ったホンダ製のチョーパー型大型バイクのライダーだった。

 

そのライダーは前方の休憩所て当方に手を振りながら<止まってくれ>の合図をする。 

当方は、高速で走行しているので、直ぐに停止できず、Uターンしてそのカザフライダーのもとへ行き停止した。

 

英語を交えて話すが、そんなに多くのコミュニケーションは取れない。写真を一緒取り合った後、一緒に高速道路を先へと進む。 しばらく走行後、アスタナ手前休憩所で別れたが、その際、当方へ<受け取ってほしい>とカザフスタンのチェコレート3つと清涼ドリンクを当方に差し出して来た。

 

当方はそこまでしなくてもいいのにと半分思いながらも、有難く受け取った。

 

2回目はアスタナからロシア国境手前のカラバリック(Karablik)を目指していた路上だった。

暗雲が前方に迫ってきたので、当方が雨具を着込んでいる時、ホンダ製アフリカツイン(大型アドベンチャーバイク)に跨るロシア系カザフ人が当方へのところで停止した。

 

そのライダーの兄弟がシムケントで日本人のオートバイライダーを見かけたと言って当方に挨拶してきた。

当方は、当方をシムケントで見かけたと思い、1カ月前のシムケントでの出来事を思い起こしたが、記憶にない。

 

雨の中を二人で一緒に走り出した。 ライダー同士は一緒に走行することで、連帯感が生まれる。

ガソリンスタンドで給油をした際、そのカザフ人ライダーは当方のガソリン代を支払うではないか。

 

その後、途中のコスタナイ(Kostanai)の町で、同氏の友人ライダーも加わり、一緒にランチを取ろうと誘われる。当方は通常ランチを食べないが、カザフの事情を聞くには良い機会だと思いしゃれたレストランへ同行した。

 

今度は新たに加わったライダーが<ランチはごちそうする>と言って、当方に払わせない。更に、<自分のガレージでチェーンの洗浄や他のメインテナンスができるので、ぜひガレージに来い>と言う。 

 

当方はその申し出に甘えて、同氏のガレージでチェーンの洗浄をしてもらった。

 

カザフスタンのオートバイライダーは一期一会を大事にする人達だと思い知った。

 

ライダーでなくてもカザフスタン人は優しく、親切だったが。

 

エシル(Esil)というアスタナの次に宿泊した小さな町で当方はホテルを探していた。 Booking.Comも小さな町の宿泊施設はカバーしていない。 Google Mapで目をつけていたホテルへ行ったが、宿泊客は受けていないと言う。 そこにいた中年のカザフ人が、<俺がホテルへ連れて行ってあげる>と言い、自分の車について来いという。

 

そこで到着したホテルで、交渉までしてくれる。

(アスタナへ向かう途中で会ったカザフ人のライダー)
 

(前方では雨が降り出している。 カザフスタン北部では雨のおかげで広大な農地が広がる。常時動いている雨雲は

広大な農地の灌漑システムの役割を果たしている。)

 

 

(コスタナイでランチ後に集まってきた人たちも交じって写真を撮る。ガソリン代をおごってくれたアフリカツインのライダーとアナトリー=Anatoliy(当方左側)とランチをご馳走してくれたザニック=Zhanik氏(当方右側)

 

(当方のオートバイのチェーンを洗浄してくれたザニック=Zhanik氏。トヨタ自動車のコスタナイ工場で勤務した経験がある。同氏はカザフスタンの重量挙げの元チャンピオンで重量挙げ550㎏の記録を持つ。 当方のオートバイを荷物を載せたまま=約250㎏を上り坂道でも容易に扱っていた。)

 

議論好きなあるカザフ人学者

 

アスタナのホステルに英語を話す議論好きな中年のカザフ人がいた。

カザフ国会の委員会で微生物学の専門家として農地を如何に肥沃させるべきかの検討会に招かれていると自己紹介をした。

 

その同氏が、当方が日本人と知ると<何故日本人は大家族制度を捨てたのか>と議論も持ち込んできた。

確かに第二次大戦前の日本の農村では兄弟姉妹が多く2世代、3世代が同居する大家族が普通だった。

 

当方がその当時の時代背景(高い幼児死亡率、子供が労働力になる等)がそのような大家族制度を支えた要因であり、合理性があったと説明しても聞く耳を持たない。同学者は一方的に誤った認識に基づき持論を展開するのみだった。 当方はあきれて、聞く耳を持たない人と議論をしても意味がないと同氏の相手をするのを止めた。

 

すると同氏は今度は同じイスラム教徒であるモロッコ人に民主主義について議論を持ち込んだ。同氏の認識は<民主主義はろくなものではない。 選挙の際にお金で票を買っているだけだ。 独裁の方がスピーディーに物事を決められて優れている。>と独裁政治を評価するのではないか。 

 

結局二人の議論は平行線のままで終始して、最後にはモロッコ人が怒って席を立って終った。

 

カラバリック(Karabalik)~ロシア国境通過してロシア入り~トロイトスク(Troitsk)~チェリアビンスク(Cheliyabinsk)~ウファ(Ufa

 

国境越えには事前の準備が必要だ。

新たに入る国で車両保険は買えるか? 国境で両替は出来るか?等。

 

カラバリック(Karabalik)はカザフスタン最後の町というより集落だった。 国境越えする人たちやロシアから入国した人たちが立ち寄るところだ。

 

道路沿いに保険業者、両替商、食堂、小型スーパーマーケットや宿泊施設がある複合施設があった。カラバリック・キャンピングだ。 当方はこの複合施設にある保険業者でロシアの車両保険を購入した。更に使い切れなかったカザフスタン通貨をロシア通貨へ両替して、この複合施設のホテルに宿泊した。

 

カラバリックからロシアとの国境まで45kmしかないので、1時間もかからない。

(カラバリック=Karabalikの複合施設カラバリック・キャンピング)

 

国境通過手続き

 

カザフスタンの国境通過手続きは30分と比較的短かった。

 

それでも、イミグレーション係官は当方の100ページあるパスポートを1ページづつめくって15分から20分かけて当方が過去に出入国した国々を入念に調べた。 こんなに入念に調べる係官は初めてだった。

 

ロシア入国も1時間程度で済んだが、ロシアの税関では一時輸入許可証についてはなんの言及もなかった。

当方は、そのまま立ち去ることも出来たが、ロシアを出国する際に書類不備で問題にならないように、イミグレーション係官と税関職員に当方オートバイのロシアの一時輸入許可書の作成有無について尋ねた。

 

複数の外国人ライダーがロシア出国時にロシアの一時輸入許可書が無くて出国に時間を要したり、税関職員に<ロシアに入国した際の国境まで戻って一時輸入許可書を作成して来い>と言われたことを聞いていた。

 

このロシア国境の現場では一時輸入許可書に関する手続きは一切知らないとのことだった。 国境税関が属するトロイトツク(Troitsk)の税関本部で相談してほしいと言われたので当方はそれに従った。

 

トロイトツクは国境から20km入った小さな町だった。町外れの税関本部でも一時輸入許可書のことは関知しないようだった。 数名の税関職員と議論をして次のことが分かった。

 

1.

この国境のロシア税関はカザフスタン、キルギスタン等中央アジア諸国から来た人々が通過するため、この国境では外国車両の一時輸入許可書を作成しない。

 

2.

ロシア入国前のカザフスタンやキルギスタン等で既に一時輸入許可書が作成され、それらの書類がロシアでも有効だと言う。 

 

当方はキルギスタンー>カザフスタンー>ロシアの順に国境を通過してきた。そして、キルギスへ入国した際の1カ月有効の一時輸入許可書を持っていた。 この三ヶ国は関税同盟を結んでいるので、ロシアでは一時輸入許可書を作成する必要がないというのだ。 

 

3.

ロシア出国時にキルギスの一時輸入許可書を税関で見せればよいと言う。

ただし、キルギスで作成した書類の失効期限が迫っているので延長手続きを取る必要があると言う。

 

その手続きに3時間かかる。

 

ロシアは法律や規則が多い国だ。法律や規則を実務的に執行する際には、建前と実務に矛盾があってはならないので、解釈が難しい手続きには時間がかかることを当方は会社員時代のモスクワ駐在時に経験していた。

 

当方の相談が稀なケースだったから、税関本部と言えども結論を出すのに時間がかかったのだろうと理解した。

  

(キルギス入国時に税関で作成したオートバイの一時輸入許可書。ー朱色の押印部分がトロイトツク=Troitsk税関本部で期限を延長した箇所)

 

急激の気候の変化で風邪を引き体調を崩す。

 

既にアスタナから涼しいと感じていた。雨が多くなって、連日雨が降る。 カザフスタン北部は緑あふれる広大な農地が控えている。

 

ロシアに入ると雨の量が多くなった。連日の雨で、気温も10℃台と寒い。この変化に体がついていけず、ウファ(Ufa)で風邪の症状がでた。 静養が必要だ。

(ロシアの農地や平原には森や林が必ず見える。カザフの草原とは違う。)

 

以上

 

 

KyrgystanKazakhstanAlmati 1,700km 6/1021

 

キルギス入国後の最初の投宿地オシュ(Osh)から以下のルートでキルギスをツーリング後、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)へと向かった。

 

Osh(4泊)~300kmAla Buka(2泊ホームステイ)~300km~Toktogul(1泊)~280km(標高3000級の峠越え)~首都Bishkek(2泊)~210km途中でユネスコ世界遺産のNavekat仏教遺跡とBurana Tower(イスラムのミナレット)の見学~Balykchy=イシク・クル湖西端(1泊)~イシク・クル湖南岸沿いに230km進み~Karakol(3泊)~120km~カザフスタン入国~270km~カザフスタンの旧首都Almati到着

 

 

キルギスは居心地が良かった。

 

当方の通常の駆け足ツーリングでは1ケ所にせいぜい2泊位しかしないのだが、居心地が良こともあり、オシュ(Osh)では4泊、カラコル(Karakol)では風邪を引き静養を兼ねて3泊それぞれした。

 

特にカラコルでは計画をしていたことが風邪静養のため、何も出来ずに悔やまれる。

 

カラコルは市内の背後に控える標高3千メートルから4千メートル級の山脈への登山やトレッキングの拠点となっている。 

 

付近には温泉地もあり、当方は温泉につかるため水着を用意していたが、風邪のため温泉行は断念した。 

 

時間の余裕があればキルギスにもっと滞在したかったが、この先の欧州でのツーリング計画を考えて、先へ進むことにした。 

 

キルギス人は日本人と本当によく似ている。 思わず日本語で声をかけたくなるような人が多い。当方もキルギス人に間違えられて、現地語でよく話かけられた。

(Oshの市街地を高台のSulaiman Too=聖地から展望)

 

(Oshの聖地Sulaiman Tooの高台=標高80m位の小山。頂上にはモスクと展望台がある。)

 

(キルギスの国民的な飲み物。当方は写真右のマクシムを飲んだ。発酵させた小麦とヨーグルトを混ぜた飲料だが、酸っぱくて口に合わなかった。)

 

(外食すると油でおなかを壊すため、宿のキッチンを借りて自分で豆スープを作った。)

 

(ピンク色の線はキルギスのツーリングコース。地図の左下の赤丸印がOsh。地図右側上部の最終地点はカザフスタンのアルマティ。地図右側の真ん中の大きな湖がイシク・クル=琵琶湖の約9倍の広さがある。)

 

(キルギスの地図だが、標高を表す地形図だと高い山々があるのが判る。)

 

 

アラ・ブカ(Ala Buka)でのホームステイ(2泊)

 

ウズベキスタンのタシケントで知り合ったキルギス人のサイクリストから実家へぜひ遊びに来てほしいと招待されていた。

 

招待されなければ、キルギス人の家庭に滞在する機会は無かっただろう。

 

招待してくれたのは自転車で世界ツーリング中の33歳のサイクリストの若者だ。日本の沖縄へ語学留学後、日本のANAで就労経験もある日本通だ。ウソン・バティールベキフ(Uson Batirbekiv)氏と言う。

 

ウソン君自身は首都のビシュケクに住むが、一人暮らしの母親がいる実家へ帰省していた。

 

その実家はウズベキスタンの国境から近いジャラール・アバッド県(Jala Abad)のアラ・ブカ(Ala Buka)という小さな町の外れにあるカシュカラック(Kashkalak)村にあった。

 

当方はキルギスの農村の暮らしがどのようなものか興味があった。

 

滞在していたキルギス第二の都市オシュ(Osh)からウズベキスタンとの国境沿いに北西へ進みアラ・ブカへ向かった。 

 

アラ・ブカまで100km位の距離に迫ると、道路の舗装状態が悪くなり、そのうち舗装面をはがしたダート道へと変わっていく。 スペインから乗り出した今回使用中のオートバイは舗装道路用の重量があるオートバイなので、ダート道での操作性は悪い。 

 

当方は100kmもダート道を進むのは<勘弁してほしい>と独り言をつぶやきながら進んだが、舗装をはがしたダート道は10km程度で終わった。  しかしながら、ウソン君の実家がある村では村を貫くメイン道路以外は全てダート道だ。 

 

日本でも当方が少年時代の50年~60年位前は地方の田舎道はダート道が多かったので、違和感は無い。

 

ウソン君の実家に到着すると、ウソン君の母親がお客さんをもてなす肉と野菜をつかったキルギス名物の料理ディルマを裏庭に用意した鍋で作ってくれた。 

 

ウソン君の実家には母親以外にも、ウソン君の姉の子供たちが朝から預けられていた。また、今年大学生になるいとこの男の子が寝泊りしていた。

 

当方を含めて皆で食卓を囲むのかなと思っていた。 しかしながら、食事を共にしたのはウソン君のみだけで、母親と親戚の子供たちは別々に食事を取った。

 

中近東のイスラム諸国では女性や家族は客人と一緒に食卓を囲まないのが普通だ。キルギスもイスラム教主体の国故、同じような習慣があるのかなと考えた。

 

家族や親戚のつながりが強い

 

当方がウソン君の村に来た初めての日本人だった。日本人に会ってみたいということで当方は引っ張りだこになった。 ウソン君の親戚だけでも4軒訪問した。 また、ウソン君の同級生や知人等も含めると多数の人たちに会った。

 

訪問先では当方の年齢を聞かれた。当方の年齢を知ると、キルギス人の同年齢の人たちより10歳から

15歳若く見えると言うのだ。 事実当方が訪問したウソン君の叔母の夫は当方より年上だと思ったが、後で年齢を聞くと当方より10歳若かった。

 

<日本人は何故若く見えるのか?>と聞かると、当方は<日本人は魚をたくさん食べるからだ>と答えた。

 

 

農村の生活は自給自足だ。 

 

農家では羊、牛や馬などの家畜を飼育している。数十頭の牛や羊を飼う農家もいる。

 

ウソン君の実家では父親が十数年前に他界していたため母親一人暮らしだ。

一人では家畜の放牧が出来ないので、 他人に委託して羊の放牧を行っていると言う。

農村の家庭では羊を毎月1頭の割合で処分して食用にすると言う。

 

農地は村と離れた場所にある。農繁期には自宅へ帰る時間を惜しんで、畑に隣接する場所に小さな仮住まいを設けている農家もある。

 

農家では冠婚葬祭のため、数十人から場合によっては100名単位の人たちが飲食できるような家の造りになっている。そのため、普段は使用していないが、業務用のような大きな窯や、直径1m程の鍋まで揃えている。大量のパンも窯で焼くことが出来る。

 

キルギスも含めて中央アジアで感心するのが、子供がよく挨拶できると言うことだろう。 <アッサラーム>と挨拶の言葉を口にして、握手の手を差し伸べてくる。日本人の小学生がこんなことできるだろうか?

 

広い家やひろい庭。そして、 のんびりとした生活環境は申し分ない。

改善の余地は下水道の普及と道路の舗装化だろう。 農村では下水道は殆ど普及していないので、便所が汲み取り式で家の外にある。

 

ダート(未舗装)道では車の乗り心地が悪く、スピードも出せない。また土煙もたち、喉や肺を痛めやすい。 

 

(日本の援助で建設した橋)

 

(Oshからアラ・ブカへ向かう途中のウズベキスタンとの国境線=写真右側の柵。国境線から幅50~70mは中立地帯となっている。)

 

(Oshからアラ・ブカへ行く途中の枯れた川。川幅100mぐらいある。)

(アラ・ブカ郊外のカシュカラ村へ行く生活道路はほとんどが未舗装だ。)

 

(道路脇のベリーの木は甘い実をつけているが、ほどんどの人は実を取らない)

 

(道路脇のベリーの実。甘くておいしいかった。)

 

(ウソン君の実家でお母さんが作るキルギスの伝統料理ディルマ)

 

(羊の肉と野菜をふんだんに使ったディルマ)

 

(ウソン君の実家に2泊した。)

 

(ウソン君の実家で飼う食肉用の羊たち)

 

(ウソン君とお母さん、そしてウソン君のお姉さんの子供たち。当方はキルギスの伝統的な帽子を被っている。お母さんからのプレゼントとして頂いた。)

 

(ウソン君の叔母の家。部屋数が多い広い屋敷だった。)

 

(ウソン君の叔母の夫と写真。57歳だと言う)

(ウソン君の親戚の家ででもごちそうになった。)

 

(ウソン君の祖父の兄弟にあたる親戚筋。写真中央の若い女性は6月に高校を卒業して、9月から日本の大学へ留学する予定だと言っていた。)

 

(ウソン君の通った小学校から高校までが一緒になった一貫教育の学校。キルギスでは高校まで義務教育だと言う。)

 

(畑の一角にある仮住まい。農繁期に利用する。)

 

(馬牧場で馬のミルクを飲むウソン君。当方も馬ミルクを飲んだ。酸っぱかった。)

 

 

(ウソン君とともにハイキング)

 

(道路をふさぐ羊の群れ。小学校高学年の男の子なら馬に跨り、立派なカウボーイとして放牧の家畜を先導する。)

 

アラ・ブカでホームステイ後、首都のビシュケク(Bishkek)へ向かった。 一日ではビシュケクへ到着できないため、途中トクトグル(Toktogul)という町のホステルで一泊した。

 

地方都市で英語を上手に話す人にはめったに出会わないが、当方が投宿したそのホステルを切り盛りしている若い女性は英語を上手に話した。 宿泊料金の交渉もそつなくこなす。 当方は大学生のアルバイトかなと思った。 

 

その若い女性は、学校が夏休みの間、午前11時から午後11時まで受付、掃除、料理や雑用を手際よくこなしていた。将来の夢は女医になることだと自分の夢も語る。女医になる希望があるなら、医学部の学生かなと思い聞いてみると、まだ15歳の少女であることが分かった。

 

当方もびっくりしたが、同じ宿に投宿していた外国人もそのことを聞いてびっくりした。 15歳とは思えない宿泊客との接し方は、どこで覚えたのだろうか?

 

Toktogulの投宿はRahat Guesthouse 一泊800ソム(約1500円)

(トクトグル=Toktogul付近の写真。Toktogulは人造湖のほとりに位置する。)

 

(Toktogul付近のダム湖)

 

(Toktogulで投宿したRahat Guesthouseにはユルト=テントの部屋もあった。)

 

 

山岳コースのツーリング

 

トクトグルから首都ビシュケック(Bishkek)まで約280kmの道のりがあった。そのうち約200km位が山岳地帯を走行する。 標高3200mまでの峠上りが2回ある。

 

標高3200mあたりの山の斜面には溶けかかった雪が残っている。更にそれ以上の高い山々の斜面は氷河の様に雪が積もり残っている。

 

標高1000m位の平地では当方は夏用の薄いオートバイ専用のジャケットを身に着けていた。しかしながら、標高が高い峠では気温が数度(℃)に低くなり、寒さに耐えられなくなっていた。 荷物から冬用のジャケットを引っ張り出して、身に着けた。

 

長い登坂があれば、その逆の長い下り坂もある。なだらかな高原の走行もあり、キルギスで一番楽しいオートバイ走行が堪能できた。

 

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう山岳ルートの始まり)

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう途中の最初の峠の標高は3175m)

 

(標高2500mぐらいの高原を進む)

 

(標高2500mぐらいの高地から標高4000m級の山々を臨む)

 

(標高3200mに位置するトンネルを出た直後の写真。オートバイの背後にトンネル出口が見える。)

 

(標高3200mから一気に1000mくらい、急な坂道を下り、谷間の道路をビシュケクに向けて進む。)

 

(ビシュケク向かう途中に出会ったカザフスタンのライダー達)

 

 

闇経済から表の経済へ変革

 

首都ビシュケクではキルギス証券取引所を訪れた。事前に電子メールでアポイントをお願いしたが、返事がないのでダメもとで直接証券取引所へ赴いた。

 

キルギス証券取引所は1995年の設立で、現在37銘柄が上場されている。 うち二十数銘柄は株式の上場だが、債券のみ上場している企業もある。

 

証券取引所の副社長が応対してくれた。副社長と言っても社員15名と小規模の組織であるので、デンと構えているわけではない。

 

同副社長に当方の疑問を投げかけた。 <一人当たりのGDP2200米ドル(約30万円)の国の市民が広い家に住み、道路には高級車がたくさん走っているのは何故か?>と。

 

答えは簡単だった。統計数字に現れない闇経済が活発だからだと言う。 領収書が無い金銭と物のやり取りが多いと言うことだと教えてくれた。政府は闇取引を減らそうと規則を改正している。

 

規則の変更に伴い、GDPが増加していると言う。

 

2005年から2025年の20年間でキルギスのGDPは約10倍になったと言う。

2021年から2024年の直近4年間ではGDPの規模が2.5倍に増えた事実があった。

規則の変更で闇の部分だった経済が、表面に現れてきたためだと言う。

 

中央アジア諸国は海に面していない分、海外貿易にハンディーを負っている。経済を発展させるうえで足かせになっているのは事実だろう。

 

当方が、<キルギスの経済の将来性は如何に?>と同副社長へ問うと、同氏は中国と欧州の架け橋となるよう鉄道網の整備で(第二のシルクロード)、ビジネスチャンスを見出そうとしていると言う。

 

その一環として、キルギスはウズベキスタンと中国の3ケ国で経済協定を締結したと言う。

(キルギス証券取引所建物)

 

(キルギス証券取引所で応対してくれた副社長Myktybek Abirv氏)

 

ビシュケクでキルギス人人懐っこさを実感

 

当方が市内を散歩中に、トヨタの高級ブランドであるレクサスの乗用車とトヨタの大型四輪駆動のランドクルーザーが駐車してある大きな屋敷があった。

そこにいた中年の男に当方は<いい車を持っているね>とほめた。

 

するとその男(車のオーナー)は当方をその屋敷の中へ案内して、<お茶でも飲んで行け>と言う。当方は

その男について、家の中に上がり、お茶をごちそうになり、そろそろ帰ろうとした。

 

 

その男は、当方へ<俺の車で市内を案内する>と言うではないか。当方は、折角の申し出だからと思い、その男の車に乗り込んだ。

 

大通りをガンガン飛ばして走り、いろいろ説明してくれるが、ある目的地を目指してカーナビを操作しているのではないか。 

 

同氏はもともとは医者だった言ったが、今は投資会社を経営していると言う。

目的としていた郊外の場所はどうやら不動産の物件のようだった。

 

物件先で、同氏が長話をして帰る気配が無いので、当方は<やるべきことがあるので、市内へ戻りたい>と同氏へ自宅へ帰るように促した。同氏も渋々同意して帰ることにした。

 

同氏の自宅で別れ際に、同氏が<明日も一緒にどうだ?>と当方を誘ったので、当方は<明日は計画がある>と丁重に断った。

(ビシュケクのシンボル的なアラ・トー広場=Ala Too Square)

 

(ビシュケクの大通り)

 

(ユネスコ世界文化遺産があるNavekat仏教遺跡付近。古のシルクロードを想像してダート道を走行した。)

(ユネスコ世界文化遺産のNavekatの7世紀~12世紀の仏教遺跡 。遺跡の一部を大屋根で覆っている。)

 

(仏教遺跡の壁が復元されていた。)

 

(Navekatの仏教遺跡は今も発掘調査中だった。)

 

(11世紀に47m位の高さがあったミナレット=Burana Tower。地震等で崩れて現在は高さ26mぐらいになった。

ユネスコ世界文化遺産)

 

(キルギス中部に住んでいた古の民族は、石に人の顔を彫った。墓石としても使ったと言う。)

 

気温の変化に体がついていけず風邪をこじらせてしまう。

 

ビシュケクは標高800mに位置するが、日中は日差しが強く、夏の暑さだ。

ビシュケクからこの先向かうイシク・クル湖やカラコル(Karakol)は標高1700mの高地に位置していた。

 

オートバイツーリングでは走行風を身体に直接受けるため、気温の変化には敏感だ。 標高が高くなるに従い空気が涼しくなる。夕方になると一気に気温が下がり、寒くなる。 この気温の変化に体がついていかず、とうとう風邪を引いてしまった。

 

ビシュケックから東方向へ約450km離れたカラコル(Karakol)は市内の背後に控えた4000m級の山々への登山やトレッキングの拠点となる町だ。 市内ではトレッキング姿の外国人旅行者をよく見かける。

 

カラコルから12日のトレッキングや渓谷巡り、そして温泉地行きを計画していた。しかしながら、風邪をこじらせてしまったため、先のことを考えて宿で静養することにした。

 

カラコルで3泊後、 カラコルの東120km先のカザフスタンとの国境を越えて、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)を目指した。

 

カラコルの宿はHostel Nice ドミトリ式のベッド 1泊700ソム(約1200円)

(ビシュケックからイシク・クル湖方面へと標高が高くなり、涼しくなる。)

 

(ビシュケクからカラコールへ向かう途中にバリクチー=Balykchyの町で一泊した。 寂しそうな町だった。)

 

(キルギスのレストランのメニュー。メユー内容が判らないので困った。)

 

(泳ぐ人もいたイシク・クル湖。湖の水はあたり冷たくなかった。)

 

(イシク・クル湖で釣りをする人たち)

 

(イシク・クル湖と雪をかぶった山々。カラコールへ向かう途中)

 

(バリクチからカラコール間の230kmはダート道と舗装道路の繰り返しだった。

当方は埃まみれになり、埃で喉も傷めた。)

 

(カラコール付近の標高は1700m位と高地のため、6月中旬でやっと菜の花が咲く。)

 

(当方が木陰で休憩しているとロバに乗った少年が挨拶に来た。)

 

(カラコール市内の商業地区)

 

(カラコール市内のキリスト教会=Holy Trinidad Church。1895年建造)

 

(カラコール市内のDungan Mosque。Dunganとは中国人のイスラム教徒のこと。1907年建造)

 

(カラコールの博物館)

 

(1932年=昭和7年のビシュケクの東方約50km地点に位置するTokmokの茶店風景)

 

(1932年当時のキャラバン。中国カシガール=Kashkarの北西のシルクロード。一頭が約80kgのウールを運んだと言う。)

(1932年当時の馬でのツーリング。イシク・クル湖南岸を進む)

 

(1932年に中央アジアを冒険旅行したElla Maillart女史は多くの写真を撮った。

同女史の写真展の案内ポスター)

 

(カラコールの黄昏時を題名とした絵画)

 

 

(カラコールで出会ったイギリス人の47歳のサイクリスト、ロビー=Robbie氏。日本も北海道から福岡まで自転車で走ったことがあると言っていた。)

 

(カラコールで投宿したHostel Niceは居心地が良かった。英語が上手だったオーナー夫人のJanlyさん)

 

カザフスタンとの国境越え

 

2022年にこの国境をオートバイで通過した日本人ライダーのS氏と連絡を取り、国境へ至るルートや道路状況等を問い合わせると、S氏から国境へ向かう道はダート道だったと教えてもらった。

 

当方の経験でも国境へ向かう道路は整備されていないことが多かった。

カラコールから国境まで120km程度しかないが、当方は国境到着まで4時間見込んでいた。 朝7時に宿を出発後、午前中に国境へ到着できれば、国境から270km先のアルマティー(Almati)へは同日中に到着できるだろうと考えていた。

 

その国境までの道路は最近整備され、時速90kmで通行可能な舗装道路となっていた。そのため国境へは午前9:00に到着した。

 

この国境(Kegen国境)は、小さな検問所があるマイナーな国境だった。国境を通過する旅客が少ない。

 

そのため、キルギスタンの出国、カザフスタン入国はスムーズで合計30分程度の短時間で済んだ。当方が経験した国境では最短時間のでの通過だった。

(カザフスタンとの国境へ向かう道はスイスのような美しい景色だった。)

 

(カザフスタンへ入国直後の写真。オートバイの背後にはカザフスタンの国境管理事務所が見える。)

 

(カザフスタンの旧首都アルマティーへ向かう平原風景。またステップ=草原かとため息が出た。)

 

(アルマティー市内の商業ビル。バーガーキングの看板文字が見える。)

 

(アルマティー市内の様子)

 

以上