インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東を走行後、2024年4月~5月オーストラリアツーリング。

オーストラリア総集編 10,000km (4/35/21

 

何故一周でなく半周ツーリングを計画したか?

 

オーストラリアの中央部を境に東西に分けて東半分を半周した。走行距離は約1km強だった。

一周だと約2km強になるとツーリング経験者から聞いていた。

 

<何故、オーストラリアを中途半端の半周ツーリングとするのか?>と他の人に聞かれたが、いろいろな理由で、是非とも一周しようとする高揚した気持ちになれなかった。

 

2017年に北米をほぼ一周したツーリング経験から、平原が広がる大陸のツーリングは直線道路が多く、あまり楽しくないだろうと想像していた。

 

半周ツーリングの時期が日本の10月~11月の秋に相当する時期だ。 一周するには急いでも3カ月のツーリング期間が必要となり、オーストラリアの冬にかかってしまう。寒さの中をオートバイでツーリングするのは楽しくない。

 

また、今回は自分のオートバイではなく、知人のオートバイをオーストラリアで借りてのツーリングだ。

半周ツーリングでオーストラリアが気に入れば、またの機会に再度行えばよいだろうと気楽さも手伝った。

(シドニーの世界遺産オペラハウス)

(メルボルン中心部を流れるヤラ川(Yarra)沿いの高層ビル群)

(クイーンズ・ランド州のバークリー・ハイウェイ。人家がある場所まで200km以上の草原が続く)

 

(ミッシェラン製オーストラリア地図。地図右半分のピンク色の線が走行ルート)

 

半周ツーリングの見所

 

オーストラリアの魅力はその雄大な自然だろう。

 

自然あふれる森や山では無く、人の開拓を許さない荒涼として、殺伐としたブッシュ(草や低木)の砂漠地帯や平原だろうとツーリングを終了してから思うようになった。

 

都市が集中するのはオーストラリアの東海岸沿いケアンズ、ブリスベン、ゴールドコースト等のクイーンズランド州東部の沿岸部、シドニーがあるニューサウス・ウェールズ州沿岸部からメルボルンがあるビクトリア州だろう。 

 

18世紀後半からイギリス人によって入植が始まり、その後開拓も進み人口が集中するようになった地帯だ。

 

当方は当初人口が多いクイーンズランド州の東部沿岸部からニューサウス・ウェールズ州を経て南のビクトリア州にツーリングの楽しみがや見所があると思っていたが、これら地域は北米や欧州と同様に都市と都市を繋ぐ高速道路しかなく、あまり印象に残る場所ではなかった。

 

印象に残った場所はアウトバックとよばれるオーストラリアの未開発で、殺伐とした低木しか生えない砂漠地帯や見渡す限り地平線が続く平原地帯であった。そこではキャンプ泊で少し不自由をしたことがその地の印象を深くしている。

 

 

(アリス・スプリングス付近のスチュワート・ハイウェイにて)

 

(ノーザン・テリトリー州からクインーズ・ランド州へバークリーハイウェイ=Barkly Highwayを通行して入る)

 

(バークリー・ハイウェイで出会った67歳のポーランド人のサイクリスト。サイクリストは1日の走行距離では町や集落へ到達できない。十分な量の水と食料を持ってツーリングをするが、このサイクリストは飲料水切れに陥っていた。)

 

(熱帯のクインーズ・ランド州北部をアラフラ海に面するカルンバ=Karumbaを目指して走行中)

 

(テナント・クリーク=Tennant Creekからバークリー・ハイウェイを東へ移動中、道路一部が冠水していた。)

(サバンナ道=Savannah wayと呼ばれるノーマントンからケアンズへ向かうクイーンズ・ランド州北部の2級国道。舗装してある部分は道路中央の一車線分。大きな車とすれ違う時は、小さい車が未舗装部分を通行して、舗装部分を大きな車に譲る。)

 

エアーズ・ロック(Ayers Rock)とその周辺

 

ツーリングで楽しみとした場所はオーストラリア大陸のへそと呼ばれる高さ約350m、周囲約9.4kmの巨大な一枚岩のエアーズロックだろう。 

 

エアーズロックへ来るまでのアウトバックと呼ばれる砂漠地帯までメルボルンから約2.5kmを走行してたどり着ける場所だ。数日かかって来たという苦労が、エアーズロックを見る価値を高める。

 

エアーズロックの50km西に位置する高さ約550mの巨大な丸形奇岩のカタ・ジュタ岩山群(Kata Kjuta)も当方の興味を沸かせた。

 

エアーズロックへはエアーズ・ロックキャンプグランドでキャンプ泊をして日の出前と夕暮れ時に行った。

朝日と夕日を浴び岩の色が変化する様子が神秘的だった。

 

カタ・ジュタ岩山群を含むエアーズロック周辺だけでも半日で約200km走行した。 

(夕日を浴びるエアーズ・ロックは色を変えていく)

(アボリジニ言葉で<多くの人の頭>を意味するクタ・ジュタ岩山群=Kuta Jkuta)

 

(カタ・ジュタの岩山と岩山の間の通り道。高さ200~300mの巨大の岩山の壁に圧倒される)

 

(エアーズ・ロックへ行く途中の道路には雨季の洪水の深さを示す柱が立つ。洪水が一番深かった時は1.4mあったという)

(オーストラリア中部の砂漠地帯はハエが多い。数十匹のハエが顔の周りに群がるので、顔を覆うネットは必需品)

(エアーズロック近くの頂上が平のテーブル・マウンテン Mt. Conner標高約860mだが、地上からの高さは300m位だろう。)

(エアーズ・ロック・キャンピンググランドでテント泊)

 

カルナボン国立公園(Carnarvon National Park

 

クイーンズランド州政府の観光パンフレットとキャンプ場で出会った人に勧められた場所だった。

 

この場所もキャンプ泊をして、終日カルナボン渓谷沿いの森をトレッキングして枯れ川の谷底を歩いたり、長年の鉄砲水で削られた川底から高く垂直にそびえる岩壁を見て感動した。

 

ここのキャンプ場へ至る農道のような道では、カンガルーが集団で道路を横切ったり、ディンゴ(犬のような動物)の姿を見る数少ない機会を提供してくれた。

(カルナボン国立公園=Carnarvon National Park)

(カルナボン国立公園をトレッキング)

(カルナボン国立公園内の枯れ川)

(カルナボン国立公園内のトレッキングコースの最終地点)

 

(カルナボン国立公園内の数万年から数千年前にアボリジニの先祖が岩壁に描いた絵文字)

 


(カルナボン国立公園内のトレッキングコースのイラスト図。最深部まで往復約20km=8時間かかった)

 

 

スチューワート・ハイウェイ(Stuart Highway)と鉱山町

 

スチュワート・ハイウェイはオーストラリア南部のポート・オーガスタからティモール海に面する北部のダーウィンを南北に結ぶ長さ約3,000kmのほぼ直線道路だ。

 

この道路沿いには町や集落はあまり無い。 

 

あるのは約200km毎にガソリンスタンドと簡易宿泊所やキャンプ場を兼ねたロードハウスと呼ばれる平原や砂漠の大きな一軒家だ。

 

こんな人気がないところでも若い男女も併設のカフェやパブで働いている。若者たちは刺激がある都会でしか働きたがらないかと思った。

 

アウトバックのハイウェイを走行するにはガソリンや食糧、飲料等を揃えておく必要がある。

 

あまりにも直線的な道路故、景色も見るのも飽きる。ロード・トレインと呼ばれる全長50m以上の4両編成のトラックが疾走する。

 

アウトバックのハイウェーの交通量は少ない。ハイウェイと言っても片側一車線の対面通行の普通の道路だ。

 

一日500km600km走行しても真っすぐな道だ。目的地まで到達するのは1,000km単位の人家も森も林も無い場所をただひたすら走行する。

 

疲れたら道路沿いに設けられた休憩所で止まり、また走行するの繰り返しだ。

 

その殺伐としたブッシュ地帯のアウトバックのツーリングが限りなく広いオーストラリアを実感する場所だった。

(ポート・オーガスタ=Port Augusta付近のスチュワートハイウェイ)

 

(ノーザンテリトリー州の制限速度時速130kmでスチュワート・ハイウェイを疾走するトラック・トレインは通常3両の荷台をけん引する)

(スチューワート・ハイウェイ沿いの休憩所)

(スチューワート・ハイウェイ沿いのエルデュンダ・ロードハウス=Erldunda Roadhouse)

 

オパール鉱山のクーバー・ペディー(Coober Peddy)

 

ポートオーガスタとエアーズロックの中間地点のスチュワート・ハイウェイ沿にクーバー・ペディー

という名のオパール採掘で栄えた町がある。 現在もオパールの採掘は続いている。

 

元オパール炭鉱だった横穴をキャンプ場とした施設にテントを張った。

洞窟内のキャンプ泊は初めてであったが、なかなか快適であった。 この時期日中の気温は30℃以上となる一方、朝や夜は冷える。

 

ただし、洞窟内の気温は18℃程度と一日中一定である。また雨で濡れる心配もない。

 

(オパール鉱山跡を利用したキャンプ場=Ribas Underground Campingのキャンプサイトへの入口)

 

(地下の鉱山だった場所にテントを張る。暑くもなく寒くもなく居心地は良かった)

 

オパール鉱山のイラスト図。深さ10m~20mの地下の坑道で細かく砕いたオパールを含む原石を直径30㎝位の筒状の吸引機で地上まで上げ、商業用になるかくず石として廃棄するか峻別する。)

 

(地下鉱山ではオパール原石を含む細かく砕いた岩石を円筒状の集塵機で地上まで揚げる)

 

(オパールの原石。特殊な光を当てるとオパールは反射する)

 

(色が黒味がかるほどオパールの価値は高いと言う。白いオパール原石は捨てられるものもあると言う)

 

(鉱山で販売されてオパールのペンダントは250~750豪ドル(約2.5万円~7.5万円)の値札が付いていた。一番右側の最上段のオパールが340豪ドル=約3.4万円、その下が300豪ドル=約3万円)

 

物価高への対応はキャンプ場でテント泊

 

計画ではキャンプ泊はエアーズ・ロックがある場所で数泊程度行おうと考えていた。

 

しかしながら、アウトバックを中心に15回キャンプ泊をする結果になった。 全てキッチン、温水シャワー、トイレ付きの有料キャンプ場だった。 簡単に夕食をすませるため、冷凍食品等をスーパーで買い、電子レンジで温めた。

 

当方は一人用の小型テントを持って行った。一人用の超小型テントの内部は狭いので、テント内ではほとんど身動きが取れず不自由するが、宿を探したり、予約する手間が省けて気楽であった。

キャンプ場の入場料は2050豪ドルと(約2千円~5千円)様々だ。 

 

有料キャンプ場を利用するには午後5時前にチェックインする必要がある。午後5時に受付が閉まってしまうからだ。

 

キャンプ泊に慣れるとドミトリー形式(相部屋)のホステル泊も苦にならない。

 

テントの設営や撤収が無く、時間が節約できるホステル泊のほうが、キャンプ泊より楽と感じるからである。 宿泊に当たり、当方の優先順位は費用も考慮してホステル ー> キャンプ泊 ー> ホテルの順であった。

 

多くのオーストラリア人は大型のキャンピングカーあるいはキャンピングカーをピック・アップトラックで牽引して家族連れや夫婦で旅をする。 

 

キャンプ場はそのようなキャンピングカーを主に対象としてするオートキャンプ場なので、テントを設営する人は少ない。当方のみがテント泊というキャンプ場が多くあった。

 

中にはキャンプ場のキャンピングカーに年単位で定住して、仕事をしている人もいた。

電源あり、洗濯機、シャワー、トイレ等の設備が整っているためキャンプ場でも快適な生活が可能だ。

(ビクトリア州ナラコーテ=Naracorteのキャンプ場 Big 4 Holiday Park)

 

(ビクトリア州ナラコーテのキャンプ場のキッチン)

 

(チャーターズ・タワーズ=Charters Towersのキャンプ場で2年住んでいると言ったウェーン氏=Wayne。同氏には

カルナボン国立公園を薦めてもらった。)

 

クイーンズ・ランドの東海岸からビクトリア州まで雨天続き。

 

都市は物が豊富で投宿には便利ではある。しかしながら、人が多すぎたり、オートバイの駐車場がなかったり、また都市へたどり着くまでの交通渋滞等のデメリットがある。

 

それ以上にいやだったのが、雨だった。天気予報で雲の動きを伝える衛星画像は東海岸沿いに雨雲が断続的に覆い、雨を降らせているのが判る。3週間位連続して雨天模様だった。

 

ケアンズ以降、オーストラリアを南下してブリスベン~シドニー~キャンベラを経由してメルボルンへ至る4,500kmのツーリングは、内陸部のルートに入った一週間を除けば、ほぼ連日の雨だった。

(ブリスベンの高台から見ると豪雨が雨雲から降り注ぐ様子が良くわかる。写真右側の白くなっている部分が豪雨)

 

ワーキングホリデー

 

ワーキングホリデーを利用してオーストラリアに来ている外国の若者が多い。そんな若者は宿泊費が安いホステルで生活する。 ワーキング・ホリデーは休暇も楽しめて、何やら楽しそうなイメージを持つが、実態は厳しい。

 

日本では農家、工場や建設関係等の特定業種の不足補うため外国人に働いてもらう研修制度がある。ワーキングホリデーは日本の研修制度より短期間であるが似たような制度だと思った。

 

出会った若者は仕事に追われてホリデーを楽しむどころではないようだ。 また、職がなかなか見つかず、財布の中身が気になりだした若者もいた。

 

当方が住む横浜のオートバイ店でオートバイパーツ注文で世話になった店主の娘婿の韓国人青年がいた。 ブリスベンでワーキングホリデー中に知り合った日本のオートバイ店の娘と知り合い、その後来日して結婚。そしてオートバイ店を切り盛りするようになったという。

 

その韓国人が<ブリスベンでは奴隷状態だった>と言ったことがあった。 当方はその韓国人が日本語を間違えて<ワーキングホリデー中はブリスベンの外にあまり出られなかったので、刑務所の囚人状態だった>と言いたかったのではと勘違いしていた。 

 

経済が崩壊状態のアルゼンチンから出稼ぎのためワーキングホリデーを利用している複数の若者にもキャンプ場、ホステル等で出会った。 ワーキングホリデーのビザは1年間限りだが、農業等の一次産業で88日間働けば2年目のビザの延長が可能だ。

 

アルゼンチンの3年の稼ぎがオーストラリアで1カ月で稼げるというのだ。

(オーストラリア最東端のバイロン・ベイ=Byron Bayの灯台隣接のカフェで働く2名の日本人女性リカコさんとアイさん。ビザを延長せず近々帰国すると言っていた。)

 

(アルゼンチンから数日前にメルボルンに来て仲介人を介して仕事を探していたカップル。仕事が決まり明るい顔になっていた。)

 

(クーバー・ペディーで出会ったアルゼンチン人カップル。2年目のビザ延長のため仕事を探していた。田舎での農業関係の仕事はアルゼンチンで女医だった彼女にはきついと言っていた。)

 

(ビールを飲みながらいろいろ話してくれた中国人移民のサムエル・シュー氏=写真中央。20年前苦学してオーストラリアの大学を卒業後、現在は会社を経営している。 オーストラリア人は裏表なく本音で接してくれて自分には合っていると言っていた。)

 

 

資源産業

 

かつてはゴールドラッシュで沸いたオーストラリアは依然資源大国だ。ニュー・サウス・ウェールズ州のシングルトンの町で、当地で最大級の石炭の露天掘り鉱山についてレクチャーを聞く機会があった。

 

そもそもオーストラリアの物価が何故高いかとの疑問を解くカギだった。オーストラリアドルを安くしなくても、オーストラリアの輸出産業は十分国際競争力を持つからだ。 石炭、鉄鉱石、天然ガス等の資源では世界有数の規模を持つ。

 

またオージービーフで代表される牧畜業も規模の優位性で生産性が高い。自動車や機械類等の工業製品を海外から輸入しても、資源や畜産物の輸出で十分賄え、貿易収支は黒字だ。 日本の様に通貨安に頼って輸出を伸ばす必要が無いのだ。

 

感じたのはオーストラリアの物価が高いのでは無く、長年のデフレに円安が加わり日本の物価が安すぎるということだ。 州によっても異なるらしいが、ビクトリア州の最低賃金は時給21豪ドル(約2,100円)と日本の2倍だ。 

 

賃金をベース考えれば、物価が日本の2倍以上高いのは異常ではない。

 

マクドナルドのハンバーガーセットが15豪ドル(約1,500円程度)、メルボルン市内のランチセット20豪ドル前後(約2千円)、床屋の散髪代が45豪ドル(約4,500円)ということは賃金比較の相対物価は日本と変わらない。

(ニュー・サウス・ウェールズ州のシングルトン付近のハンターバレーの上空からの写真。灰色な部分が長さ数kmに及ぶ石炭の露天掘鉱山。この地区には数カ所の露天掘り鉱山がある。)

 

(露天掘りはビルのような巨大な機械で石炭層を削り取り300トン積のタイヤの高さが3mくらいある巨大ダンプトラックで運び出す)

 

(マウント・アイサ=Mr. Isa鉱山。世界最大級の地下鉱山では銀、銅、亜鉛、鉛等を産出する)

 

(マウント・アイサで鉱山ツアーで削岩機の作業を試す。機械の振動と音がすさまじかった。)

 

クレジット・カード社会

 

オーストラリアほどクレジットカードの利用が普及した国はあまりないだろう。現金無しでもお金の支払いには困らない。 1ドル(約100円)の支払いでもクレジット・カードで済ませる。

 

2ヶ月弱の当方の滞在期間中、クレジットカードを使用できない場面は2回あった。

 

ケアンズの果物市場で23ドルの果物を買った際、クレジット・カードでの支払いはカード会社の手数料がかさむから遠慮してほしいと言われ現金で払った時と、ベナラの洗車場の機械が1ドルと2ドルのコインでしか作動しなかった時だけだった。

 

 もちろん現金での支払いも可能だが、アウトバックの雑貨店でもクレジットカード払いが可能だったことには驚いた。

(文面とは関係ないが、メルボルンの北西150kmに位置するバラット=Ballartは19世紀中ごろから20世紀にかけてゴールドラッシュで栄えた。ゴールドラッシュ時代の街並みを再現したアトラクション(ソブリン・ヒル)を観光した。)

 

(19世紀中ごろの新聞社の女性の服装)

 

(現在のバラットにはゴールドラッシュで栄えた時代の立派な建物が多く残る。 写真右側の時計台がある建物はタウン・ホール=市役所)

 


 

以上

5/135/20 シドニー~キャンベラ~メルボルン(1,100km

 

オートバイツーリングもいよいよ終盤となり、いつ帰国するかや帰国便の予約をいつ行おうか等を考えながらの落ち着かない期間だった。 

 

メルボルで経済関係の調査を行おうと考えていたが、経済の中心はシドニーに移っていることを知ったのはシドニーを離れた後だった。

 

ジェトロ(日本貿易振興会)で経済関係のヒアリングや証券取引所の見学(ツアー)が出来ればいいなと思っていたが、それぞれシドニーに所在していると気が付いたのは、アポイントを取ろうとメルボルン方面へ向かっている時だった。

 

詳細は以下記す。

 

(シドニー=地図右上の位置~キャンベラ~オーベリー~ベナラ~メルボルン=地図左下へと進む)

 

(赤線はオーストラリアの走行地図。東海岸のタウンズビルからブリスベンの区間を除けば当初計画した通りの走行ルートとなった。タウンズビルからブリスベンの区間は当初海岸沿いのツーリングを計画したが、実際は内陸路ルートへと変更した。走行した距離は44日間で1万km強だった。)

 

(カトンバ=Katoombaから望むブルーマウンテンズの渓谷)

 

5/13 シドニー~カトンバ(Katoomba)80km

 

シドニーの北西約80kmの位置にブルー・マウンテンズ(Blue Mountains)と呼ばれる大分水嶺の一角がある。 

 

巨大な渓谷が形成されている標高約千メートルの大地から見る渓谷の景色は絶景だと観光ガイドブックに紹介されていた。

 

天気が回復すれば、ブルー・マウンテンズが位置するカトンバ(Katoomba)へ行こうと考えていた。

天気が回復せねば、シドニーでもう一泊過ごそうと思っていたが、天候が回復傾向だ。

 

ブルー・マウンテンズを観光するため、カトンバの町へとオートバイで移動した。シドニーを東京都するなら、カトンバは箱根といった位置関係だろう。

 

カトンバは標高約千メートルの高台とあって、空気はヒンヤリとして寒い。 

投宿先のホステルではスチーム暖房のスイッチが入っていた。

 

シドニーから車で1時間半程度の距離なので、日帰り観光客が多い。観光バスでも多数の観光客が訪れている。

 

ここでも中国人、韓国人やインド人等の経済成長で勢いがあるアジア諸国の観光客が多かった。 日本人らしき観光客はいなかった。

 

季節は日本の11月中旬に相当するため、広葉樹が紅葉していた。

カトンバの町の雰囲気も箱根のような観光地のたたずまいでプチホテルやモーテルが多い。

 

当方はYHA Blue Mountains Katoombaに投宿。

4人部屋だが、その部屋には当方しか投宿客がおらず、快適に過ごした。(一泊36豪ドル=3600円。ビュッフェスタイルの朝食も12豪ドルで提供していた。)

 

ブルーマウンテンズ=Blue Mountainsのスリーシスターズ(写真左下の3つの山)


(ブルーマウンテンズを見物するにはちょうど良い立地のカトンバのエコーポイント展望台=Echo Point Lookout)

(カトンバの中心街)

 

(カトンバは高地とあって紅葉が進んでいた)

 

5/14 カトンバ~首都キャンベラ(Canberra) 340km

 

キャンベラは人工都市だ。 オーストラリアが連邦制となり首都が必要となった際、どこを首都にするかでシドニーとメルボルンが競い会い、互いに譲らなかった。

 

妥協の産物として、シドニーとメルボルンの間に首都を作った。 実際にキャンベラまで行ってみると、何故こんな不便な場所に首都をつくったのか不思議だ。 

 

シドニーとメルボルンを東京都と大阪に置き換えると東海道から静岡あたりで甲府方面へ6070km奥まったところに首都を造ったのだ。 

 

日本なら土地の制約があるから新しい都市は広大な遊休地や森等があるところに限定される。

 

しかし、シドニーとメルボルンの間の幹線道路沿いには広大な土地があるというのに、何故幹線道路からわざわざ6070km奥まったところに首都を造ったのだろうか?

 

キャンベラに2泊して、自転車を借りて人口都市を見物した。

 

建物、道路、公園等が計画的に造られているので無機質な感じだ。

あまりにも人工的過ぎて好きになれない。 

街の温もりや人が住んでいるという感じがしないのだ。

 

キャンベラで感心したことがあった。

 

国会議事堂が一般に解放され、上院や下院での討議が議場内の上部に設けられた閲覧席から

簡単に見学できるのだ。 

 

当方は、両院でそれぞれの議員が演説してところを見学した。 ただし、カメラやスマホの持ち込みが禁止されているため、議場での演説や討議の様子はカメラに収められなかった。

 

キャンベラでの宿泊はThe Village Hostel Canberra(ドミトリー形式 一泊40豪ドル=4千円)

 

(シドニーとメルボルン間を結ぶ幹線道路から離れてキャンベラへ向かう道路沿線は小高い丘が続く)

 

(レンタル自転車を借りてキャンベラの見所を回る。レンタル自転車は自動販売機のような機械装置にてクレジットカード支払い。レンタル料金は4時間で24豪ドル=約2,400円、24時間で36豪ドル=約3,600円)

 

(キャンベラの人工湖の岸辺の遊歩道の木々は紅葉が進んでいた)

 

(人工湖の噴水)

 

(国会議事堂を少し離れて撮影。議事堂前の芝生の広場はアメリカ・ワシントンDCの国会議事堂の配置と似ている)

 

(国会議事堂の入口ホール)

 

(戦争記念博物館=War Memorial Museum。人工湖を挟んで国会議事堂と向き合っている。)

 

5/16 キャンベラからオーベリー(Albury) 360km

 

オーベリー(Albury)は目的があって泊まったわけではなかった。 オートバイの返却先のベナラ(Benalla)がオーベリーの約130km先にあるため、翌日午前中にベナラでオートバイを返却するために好都合な場所を選んだだけだった。

 

キャンベラから西方へ進む道路沿いの景色は丘や小山が連なる景色に変わった。 小山の裾野には羊や牛が放牧されていた。 真っ平の原野や平地より景色は良い。

 

翌日にはオートバイを持ち主の親族が住むベナラで返却すると思うと、ホッとする気持ちと、もうツーリングは終わりかと残念な思いが湧く。

 

午後3時前には投宿先のモーテルに到着。

オートバイのパニアケースやトップケースに入れていたキャンプ用品も降ろして、バックパックや荷物バックにキャンプ用品等が入るか確認する。

 

投宿はGreen Door Motel(一泊95豪ドル=約9.5千円)

 

(キャンベラからオーベリーへ向かう途中の丘がある景色)

(オーベリーの中心部はアメリカ映画の西部劇に出てくるような映画館やホテル建物があった)

 

(紅葉が進んだオーベリ中心部の街路樹)

 

5/17 オーべリー~ベナラ(Benalla)

 

早朝のオーベリーは冷え込んでいた。気温は2℃と当方が住む横浜の真冬の寒さだ。

 

今までは邪魔だと思っていた厚めのダウンジャケットをライディング・ジャケットの下に着込んだ。Tシャツ等を含めるとライディング・ジャケットの下には5枚の衣服を重ね着している。

 

ライディングパンツの下も夏用下着、冬用下着やユニクロの発熱タイツ等4枚重ね着をしている。

 

冬用手袋の下にも薄手の手袋をするなど真冬の装備でオートバイに乗り、約130km先の

ベナラ(Benalla)の町まで最後のライディングを行う。

 

オートバイのグリップヒーターも作動させた。

 

オーストラリヤでは現金の使い道が無いと思っていた。

 

しかしながら、ベナラの洗車場では現金コイン式でのみ洗車機が作動した。

1ドルと2ドル硬貨で水が出るノズルを手に抱えて持つセルフ式の高圧洗浄機が作動した。 (キャンベラの洗車場ではクレジットカードしか使えなかったが)

 

ベナラでオートバイ返却後、ベナラにて電車に乗り込みメルボルまでの約200km弱の距離を電車旅で楽しむ。

 

と言っても4時間に一本ぐらいしかない上り電車(メルボルンへ向かう電車)の席はすべて予約済みで、当方は車両の端にある折り畳み式の補助座席で過ごした。(オーストラリアの電車はすべて指定席になっている。)

 

電車でメルボルン進む間に天気は晴れから曇りに変わり、そして雨になった。 

 

オートバイなら雨具が必要なのだが、電車旅は天気に左右されず楽である。

しかし、車窓から見る景色にはオートバイでは感じられる空気、匂い、風、暑さ、寒さ等のリアル感が無いと思った。

 

メルボルンの投宿はYHA Melbourne Central(一泊45豪ドル=約4,500円)

 

 

(落ち着いたベナラの街)

 

(オートバイでのツーリングをベナラで終了。 ベナラ駅から約200km先のメルボルンへは電車で向かう)

 

(ベナラからメルボル向かう電車は混んでいた)

 

(終着地のメルボルン・サザンクロス駅)

 

メルボルン滞在(5/185/20)

 

メルボルン到着の翌日はブログ更新作業に終日追われた。

 

スマホで取った写真をパソコンに取り込みながら、それぞれの写真にタイトルをつけてパソコンに保存する作業が特に時間がかかる。

 

到着後2日目にやっと自由時間ができた。

 

オートバイツーリングをスタートしたコラック(Colac)のバイク店でメカニックとして働く日本人の知人からオーストラリアと日本の友好を記念したジャパン・フェスティバル(Japan Festival)がメルボルンの郊外で開催されることを教えてもらった。

 

知人にはツーリング出発前にオートバイの整備を行ってもらい、オーストラリアのツーリング情報ももらったりしてお世話になっていた。

 

帰国前に同氏と再会することも兼ねてメルボルン・サザンクロス駅から電車で30分程乗った郊外のボックス・ヒル市(Box Hill)へ行き、同市の市民ホール(Town Hall)会場でジャパン・フェスティバル(日本祭り)を見学した。

 

海外では現地社会と日本を繋ぐ親善団体や日本人会のような現地在住の邦人の団体が主体となり、現地進出の日系企業等からの寄付等も募り、お祭りが開催される。

 

現地社会の人々に日本を理解してもらう良い機会でもあり、在留邦人の集まる機会や楽しみとしても役立っている。

 

当方が会社員時代にバーレンやスペイン等で駐在した際にも、同様なお祭りを経験した。

 

オーストラリア人の日本への関心は高いようだ。タウン・ホールの会場は入場者で満員の状況だった。

 

現地の同好会による和太鼓のパフォーマンス、小学生グループ合唱、各種武道のパフォーマンス、生け花の展覧等日本文化の紹介に事欠かない。

 

現地の人々(オーストラリア人)の参加者や展示品が多くあり、オーストラリアの人々が多数お祭りの実行に関わっていた。

 

ほとんどオーストラリア人で結成されている和太鼓チームや武道チームの参加もあった。

 

日本のアニメには海外の多くの若者が関心を示し、アニメを通して日本文化を理解したり、日本語を話すようになったとよく聞く。 アニメのコスチュームを着たダンスパフォーマンスも人気を博していた。

 

お祭りには食べ物が欠かせないが、和菓子の団子販売の模擬店の前は買い求める人達でにぎわっていた。

 

一番人気は焼き鳥だろう。買い求める人の長蛇の列で当方は焼き鳥を買うのを諦め、人気がほとんどなく直ぐに買えたカツカレー弁当を食べた。

 

(ジャパン・フェスティバルのパンフレット)

 

(ジャパン・フェスティバルの会場だったBox Hill Town Hall)

 

(会場内で和服コンテストを見る人たち)

 

(和服コンテスト参加者達。 左から4人目の参加者はミニスカートと和服の組み合わせというユニークな姿だった)

(団子販売の模擬店)

 

(アニメのコスチューム姿でダンスを披露する地元チーム)

 

(ボックス・ヒル市は中国系の住人が多い。駅前には漢字の看板を掲げた店やビルが多い)

 

(ボックス・ヒル市の通り。漢字の看板の商店ばかりだった)

 

以上

 

 

BrisbaneCoffs HarbourSydney 1,100km (5/65/12

 

ブリスベン滞在からオーストラリア最大都市シドニーに至るツーリングを記した。

 

この期間も雨が多く、オートバイツーリングにとっては辛かった。

 

途中寄ったバイロン・ベイ(Byron Bay)とコフズ・ハーバー(Coffs Harbour)ではワーキング・ホリデーを利用して働く日本人の女性4名と出会った。(アフリカツーリングの時も何故か日本人の女性しか会わなかったが)

 

ニューカッスルに近いハンター・バレーで(Hunter Valley)はオーストラリアの重要産業である石炭産業の知識を深める機会を得た。

 

ハンター・バレーでは日本企業も含め世界の有数の資源会社が石炭の露天掘りを行っている。 日本の電力会社や高炉製鉄企業もここから石炭を輸入している。

 

シドニー手前のゴスフォード(Gosford)の森の中の一軒家ゲストハウスでは、経営者の中国人が無料で食べられないぐらいの量のごはんと夕食を作ってくれた。

 

その中国人からはこのゲストハウスに来る日本人は皆オートバイライダーだと言われ、同氏も刺激を受けていると言う。  

 

それもそのはず、このゲストハウスを最近訪れた日本人ライダー達は、口コミや紹介で訪れているので、偶然ではない。

 

詳細は以下に記す。

 

(ブリスベンからシドニーまでの東海岸の走行地図。赤線は走行ルート。地図右上がブリスベン、地図右下がシドニ一の位置。赤丸印の場所は投宿した町や都市)

 


(シドニー湾をハーバー・ブリッジから見渡す。写真右側にオペラハウスの建物が見える。)
 

ブリスベン滞在

 

ブリスベンでの3連泊はあっという間に終わった。

 

一日はブログの更新に終日かかった。ブログ原稿書きとスマホの写真の整理に時間がかかる。

また整理した写真をパソコンのアプリでデジタルサイズ(ビット容量)を縮小する。

縮小しないとブログが容量超過になってしまうからだ。

 

天候が不安定だ。晴れ間がでても直ぐに黒い雨雲が現れて豪雨となる。ブリスベン市内を見渡せる

標高100m位の丘がある。

 

丘の上の展望台からはブリスベン市内はもとよりブリスベンを囲む郊外の森や更に森の背後の山々も見える。観光名所となっている。

 

この展望台からブリスベン周辺の雨雲がよく判る。 ある地域では黒い雨雲から降っている豪雨で空中が真っ白になって、生き物のように動いている。

 

ブリスベンには思い入れは無かったが、テニスの全豪オープンの前哨戦としてブリスベンでの大会がある。数年前までは日本の錦織圭選手がよく出場していた。

 

2032年には当地で夏季オリンピックが開催される予定だ。 街の中心部のビジネス街は高層ビル群があるが、それ以外は意外と低層の建物が多い都市だった。 

 

街の中心部では建設中の複数の高層ビルが目立った。 オリンピック誘致の経済効果だろうか。

(ブリスベン郊外のマウント・コーサ展望台からブリスベン中心部を見る。写真右側の地区は豪雨が降っていた。)
 

(ブリスベン市内中心部の高層ビル群とブリスベン川)

 

(ブリスベンのビジネス街)

 

(ブリスベン中心部。写真右の時計台がある建物はタウン・ホールとブリスベン博物館。写真中央の高層ビルの上部には日本のNTTの看板文字が見えた。)

 

(1880年のブリスベン湾の様子)

(ブリスベン博物館展示の浮世絵のような絵。1952年Kenneth Jade作のGrey St. Bridgeの題名)

 

5/8 ブリスベン~バイロン湾(Byron Bay)経由コブス・ハーバー(Coffs Harbour460km

 

ブリスベンからほぼ海岸と並行して南下する無料高速道路M1を通って本日の投宿予定地のコブズ・ハーバー(Coffs Harbour)を目指す。

 

ブリスベンから南に約100km区間は交通渋滞が激しい。

この区間にはオーストラリア屈指のリゾート地であるゴールド・コーストが控えるためだ。 片側3車線から4車線の高速道路は車両でギュウギュウ詰めといったところだ。 当方はコールド・コーストを素通りした。

 

ブリスベンから郊外へ向かう車線はまだ動きがあるが、ブリスベン方向へ向かう車線は超渋滞で車が動いたり止まったりという状況だった。

 

バイロン・ベイ(Byron Bay)はオーストラリア大陸の最東端ということで訪れたかった。 オートバイライダーは大陸の端とか島の端を目指す癖があるようだ。

 

バイロン・ベイには三日月形のこじんまりとしたビーチがあり、サーファーが多くいた。サーファーは若者ばかりでなく、中年のおじさんが多いことに驚いた。

 

高台にはオーストラリアの灯台の中で一番遠方まで灯台の明かりが届くバイロン湾灯台がある。

 

この海域で海難事故が多く、1901年に建てられたという。灯台の明かりが50km遠方の海上から確認できるという。

 

バイロン湾の灯台に隣接する場所に屋外テラスがあるカフェがあった。 高台から海を眺めるのにちょうど良い場所だった。若い東洋人の女性が2名が働いていた。 英語で話しているうちにワーキング・ホリデーを利用して働いている日本人だと判った。

 

ブリスベンから約200km走行したバイロン・ベイまでは雨に降られずに済んだが、雲行きが怪しくなった。高速道路上での停車は禁止されているし、また、危険を伴うのでバイロン・ベイで給油した際にレインウェアを着込んだ。

 

雨雲に追われるように先を急いだ。 バイロン・ベイからコブズ・ハーバーまで約240kmの距離があったが、豪雨に見舞われたのはコブズ・ハーバー到着前の10km位の区間だけだった。

 

コブズ・ハーバーのホステル(Jetty Blue Backpackers 一泊30豪ドル=約3千円)でもワーキング・ホリデーを利用してコブス・ハーバーのパブで働く日本人の女子大学生と求職のためコブズ・ハーバーに来たという日本人女性と出会った。 女子大学生はビザ延長のため農業関連のアルバイトでベリーの収穫も朝から日没まで手伝ったという。 

 

ワーキング・ホリデーには1年間のビザしか付与されないが、農業等の第一次産業の特定業種に88日間従事すると2年目の延長が可能だという。  

 

不人気の業種の人手不足を外国人の若者の労力で補う制度だ。 日本で働く外国人の研修制度(労働)をより簡素化した制度だ。 よく考えられていると思った。

 

(オーストラリア最東端のバイロン・ベイ=Byron Bayの灯台)

 

(バイロン・ベイの海岸)

(1944年当時のバイロン・ベイ灯台の航空写真)

 

(1921年起きたバイロン・ベイの座礁事故。大型船は強風と波を受けて座礁)

 

(バイロン・ベイ灯台隣接のカフェで働くエリカさんとアイさん)

 

(バイロン・ベイ灯台付近はすべて有料駐車場だった。オートバイのナンバープレートの番号を機械にインプット後、クレジット・カードで駐車料金を支払ったが、駐車料金を払ったか否かどのように確認しているのか分からなかった。)

 

(コフズ・ハーバー=Coffs Harbourで投宿したホステル。4人部屋なのに、この時期宿泊客が少ないようだ。一人で部屋を使用することが出来た)

 

(早朝のコフズ・ハーバーの海岸)

 

(コフズ・ハーバーは漁港だが、クルーザーも多く係留していた。)

 

5/9 コブス・ハーバー~シングルトン(Singleton) 450km

 

数日前まではシングルトン(Singleton)は日程の中に入っていなかった。 

 

クーバー・ペディー(Coober Peddy)でオパール鉱山ツアーに参加した際、 ツア参加者一人から、ニューカッスル(Newcastle)近くの石炭の産出で有名なハンター・バレー鉱山(Hunter Valley Mines)では、一般の人でも石炭鉱山の見学が可能だと聞いたことを思い出したからだ。

 

インターネットで調べてみるとハンター・バレーには複数の鉱山会社あり、その中心となっているのが

シングルトン(Singleton)の町だと分かった。 ニューカッスルの約70km西に位置する人口1万程度の町だ。

 

更にそのシングルトンに所在する石炭産業センター(Coal Industry Centre)がツーリストにも石炭鉱山のツアーを行うとインターネット上で情報を得た。

 

同センターへ電子メールで問い合わせてしてみると、雨天が続き露天掘りの石炭採掘現場の道路状態が悪いため、現場まで行けないとのことだった。

 

しかしながら、当地の石炭産業の説明とシングルトン付近の石炭関連施設の見学は可能との返事をもらった。 参加費用は150豪ドル(1.5万円)。

 

せっかくオーストラリアの重要産業の現場近くまで来たのだからと思い、同ツアーに急遽参加するためシングルトンへ行くことにした。

 

コブズ・ハーバーからシングルトンへはシドニー方面へ向かうハイウェイーM1を南下する。

 

朝から雨だ。 コブス・ハーバーを出た直後は20km程度渋滞があったが、その先は交通量は多いものの車の流れは順調だ。 

 

雨が多い土地のため、高速道路沿いの森の木々が高さ20m程度にまで育ち大きい。

 

シングルトンの町が近づくと15m20m先も見えないぐらい視界が悪い豪雨になった。 当方の前方を走行する車も見えず、まだ午後の3時台だというのに、夜のように暗くなった。

 

事前にBooking.Comで予約していたホテルへカーナビ(Maps.Me)を頼りに辿り着く。

 

投宿ホテルはRoyal Hotel Singleton(一泊80豪ドル=約8千円)(1階がパブになっている)

(コフズ・ハーバーからシングルトンへ向かうハイウェイ。高速道路沿いの木々は降雨の恩恵か背が高い)

 

(シングルトン=Singletonの町)

(シングルトンで投宿したRoyal Hotel Singleton)
 

5/10 石炭産業センターでのツアー参加(シングルトン)~ゴスフォード(Gosford140km

 

前日に予約した石炭産業センター(Coal Industry Centre)は2階建ての小さな建物の一部を間借りしてあった。 大仰な名前に反して小さな組織のようだ。 

 

定年退職後の初老の男性と初老の女性しかいない。 参加者は当方一人のみだった。

 

名前から想像して、公益法人かなと思ったがそうでは無く、石炭産業の理解を深めるための研修等を請け負っている団体のようだ。

 

ここで、元地元の高校教師だったという男性からハンターバレーで操業する石炭鉱山について1時間ほどレクチャーを受ける。 

 

この鉱山の特徴は地上の地面を堀り、石炭を採る露天掘りだ。 採掘コストが安価で、鉱山事故が少なく地下炭鉱より安全だという。

 

このハンターバレーの鉱山では火力発電所で使用される一般炭を中心に年間2億トン産出される。その8割がニューカッスルの港から輸出されている。日本が最大の輸出向け地だという。

 

(石炭には発電所等で燃やされだけの燃料用の石炭=一般炭と高炉鉄鋼会社で鉄鉱石と一緒に鉄の原料となる原料用石炭=一般炭より付加価値が高く高値で取引される2種類がある)

 

ハンターバレーには鉱山会社専用の貨物列車の引き込み線があり、貨車一台に50トンの石炭を積み込み、100両編成(5千トン)の石炭専用列車として70km先のニューカッスル港へ運ぶ。

 

ニューカッスル港では排水量510万トンクラス(専用貨車での輸送1020回分=貨車千~2千両分)の石炭運搬船に積み替えられて輸出されるという。

 

ニューカッスルの石炭産業は2.5万人を直接雇用して、州政府も14億豪ドル(約1,400億円)の鉱山会社からロイヤリティー収入を得ているという。 石炭に関連する税収を含めれば、州政府の最大収入源の一つだという。

 

日本の三井物産もこのハンターバレーの鉱山に権益を持つようだ。 

 

その後、説明してくれた男が運転するトヨタのランドクルーザーに乗り込み、周辺のビジネスパーク内に事業所を構える鉱山用重機のタイヤ販売業者、鉱山機器の安全点検を行う業者、石炭の品質検査を行う業者や石炭採掘現場付近をドライブしながら、説明を受ける。

 

オーストラリアでの労働者の平均年収は約9万豪ドル(約9百万円)だと言うが、鉱山会社の従業員は12時間交代の週40時間労働で年収約20万ドル(約2千万円)を得ているという。

給与水準が高いため、人気の業種らしい。

 

シングルトンの町も、鉱山関係者のお陰で潤っているという。

 

石炭産業ツアーの所要時間はレクチャーも含め約2時間程度で午前中で終了した。

 

午後にはシドニーへ向かう途中のゴスフォード(Gosford)の森の中の一軒家のゲストハウス(Farm Guests House)で一泊した。 一泊70豪ドル(7千円)

 

(ハンター・バレーの航空写真。灰色の部分は石炭の露天掘り現場。)

 

(どのように石炭層を露天掘りするか説明するイラスト図=プレゼン資料からの抜粋)

 

(石炭産業センター=Coal Industry Centre展示の岩のような石炭。

透明のケースの上段入っているのは粉末状の石炭パレット。掘り出した石炭の塊は小さな岩に砕き、水で洗浄された上で粉末状にされる。粉末状にすると爆発するように燃えると言う。石炭の塊は軽いので水に浮く。)

 

(石炭と一緒に採掘された岩は捨てられる。処分する岩を超大型トラックで運び出す。処分された岩の山は時間をかけて

植林して採掘前に近い自然環境に戻されると言う。)

 

(石炭を運ぶ貨車の引き込み線がある石炭の集積場。白く見える機械で貨車に積まれる。)

 

(マン・ツー・マンで説明してくれた石炭産業センターのMr.Ross Fleminng)

 

 

(ゴスフォード=GosfordのFarm Guests Houseオーナー=写真右のJesse Leng氏はオーストラリア在住歴20年の中国人。家族をシドニーに残して一人で住んでいる。62歳だと言う)

 


(Jesse Leng氏が作ってくれた夕食。大皿いっぱいに野菜炒めを作ってくれた。ごはんも2~3合くらい炊いてくれて、全部食べてくれと言ったが、とても食べきれる量ではない。)

 

5/11ゴスフォード~シドニー(Sydney)  オートバイのエンジンオイル交換 80km

 

借りているオートバイを返却する時期が来た。ベナラ(Benalla=メルボルンから約200km東の町)の知人へオートバイを返却する前にエンジンオイルとオイルフィルターの交換を済ませたいと思い、5店ほどのオートバイ店に電話でオートバイを持ち込めば直ぐにエンジンオイルの交換をしてくれるか問い合わせた。

 

すべてのオートバイ店では事前にアポイントがないと対応できないと言う。中には<6週間先までアポイントが一杯だ>とか、<6月に入ってからなら対応できる>等のさんざんな返答だった

 

それなら、アポなしでオートバイ店を訪問して、直接交渉してみようとシドニー市内のスズキのオートバイも取り扱うバイク店を訪れた。

 

やっぱり、修理・サービス関係の対応は断られた。 メカニックが一人しかおらず、仕事が溜まってニッチもサッチも行かないとの理由だった。 

 

その代わり、そのオートバイ店の近所にバイクの修理屋らしき零細の業者があることを教えてもらった。

業者の看板が出ていないので、先に訪れたオートバイ店にて教わった場所へいくと5坪ほどの小さな修理屋らしき建物があった。

 

オーストラリアに12年在住のスペイン人が趣味でオートバイを改造する小屋だと言う。当方が学生時代と会社員時代にスペインに住んでいたことがあると言うと、その男と意気投合して、直ぐにエンジン・オイルとオイルフィルターの交換をしてもらった。

 

通常のオートバイ店だとエンジンオイル交換の工賃だけでも150豪ドル(約1.5万円)する。 2.2Lのオイル代を含めれば200ドル(2万円)以上するだろう。

 

問い合わせしたオートバイ店の中には、エンジン・オイル交換だけは行わず、エンジンオイル交換と簡単なバイクの検査のセット価格が350豪ドル(約3.5万円)と費用見積もりをした店もあった。

 

しかしながら、このスペイン人には175豪ドル(約1.75万円)でオイルとオイルフィルターの交換(交換部品は持参)、更にチェーンの清掃およびチェーン・テンション(張り具合)の調整をしてもらった。

 

シドニーの投宿はNomads Sydneyというドミトリー形式のホステル(一泊50豪ドル=5千円)

 

(エンジンオイルとオイルフィルターを交換後、チェーンを張り具合を調整する前にチェーンを洗浄する。)

 

(オーストラリア在住12年のスペイン人Francisco Garrido氏。スペインのガリシア地方出身。オーストラリアは全てを受け入れてくれて居心地良いと言う。)

 

 

シドニー2泊目(一日市内観光観光)5/12

 

シドニーを地図で見ると湾が陸地の奥まで入り込み、市街地が大きい。

 

実際、前日オートバイでゴスフォードの町からシドニー入りをしてオートバイショップを探している時には湾に架かる大きな橋を2回程通過した。

 

こんなに大きな都市なのに2泊しかぜず観光ができるだろうかと思ったが、当方のような外国からの観光客が訪れる場所は限られている。

 

19世紀の港や倉庫等の港湾設備があったザ・ロックス(The Rocks)と呼ばれる旧市街とハイドパーク(Hyde Park)周辺から世界遺産のシドニーオペラハウスに至る場所とジョージ・ストリート(George Street)と呼ばれるザ・ロックからビジネス街を通り内外のブランド店等が並ぶショッピング街だろう。

 

午前9時から市内中心部の投宿先から歩きながら、市内見物を始めた。前述した界隈を駆け足で回ったのだが、結局この時期の日没時刻の5時まで歩き回っても、時間が足らなかった。 

 

ショッピング街には日本のユニクロや良品計画のMUJIの店舗もあった。ユニクロでは同じような商品でも日本の2倍近くの価格で販売されていた(オーストラリアの個人所得が日本の2倍あるので、所得比較では日本と同じ価格となるが)。

 

ウルトラライトダウンのベストが100豪ドル(約1万円)。これで売れるのだろうか?

 

MUJIの店舗では店内の客数に人数制限を設けており、店舗の外で列を作って待って入店を待っている客が数十名いた。当方は良品計画の株主でもあるので、店舗の中を見てみたかったのだが、入場制限のため入れなかった。

(ハーバー・ブリッジから見たシドニーのオペラ・ハウス)

 

(シドニー・ハーバー・ブリッジを見る。日曜日の昼下がりは観光客がリラックスして、生バンドを聞きながらビールや食事を楽しんでいた。)

 

(シドニー・ハーバー・ブリッジ。この鉄橋の頂上まで登るツアーもある。)

 

(オペラハウスから見たビジネス街の高層ビル群と観光船がでる写真奥の波止場)

 

(波戸場付近にあるザ・ロックス=The Rocks地区の元倉庫を使ったショッピングビル。横浜市の赤レンガ倉庫のような存在だ。) 

 

(シドニータワー。高さ260mの展望台がある。)

 

(シドニ湾入り口にあるミセス・マクワイリー・ポイント=Mrs. Macquarie's Point から見た100年以上前の写真)

 

(上の写真と同じ場所から撮影すると100年以上前にあった島がない)

 

(シドニーのASX証券取引所ビル。写真を撮った際には博物館の職員に現在は証券取引所としては使用されていないと聞いたが、インターネットで調べると依然使われているようだ。どちらが本当か判らなかった。)

 

 

以上

 

ケアンズからグレート・インランド・ウェイ経由ブリスベンへ進む(CairnsGreat Inland WayBrisbane) 2,000km(4/255/5

 

(要約)

 

ケアンズの後はオーストラリア東海岸沿いに南下する計画だった。 

 

ケアンズから約350km南のタウンズビル(Townsville)まで海岸沿いの国道(Bruce Highway)を進んだ。

対面通行の国道は交通量が多く、絶えず後方に続く車が当方に迫ってくる。 

 

当方は後ろに続く車の邪魔にならないようにスピードをあげるが、自分の走行ペースが乱れて居心地が悪い。

 

タウンズビルで訪れた博物館の職員に19世紀にゴールドラッシュで栄えて、今も当時の面影を残す内陸にあるチャーターズ・タワーズ(Charters Towers)への観光を勧められた。 

 

また、チャーターズ・タワーズから東部海岸と並行して内陸部を1000km以上南下するグレート・インランド・ウェイ=Great Inland Wayがクイーンズランド州の観光地図に車で旅をする人たちへ推奨ドライブルートとして載っているのを見つけた。

 

ルートの途中には絶景の渓谷があるカルナルボン国立公園があることを知った。

この場所をぜひ訪れようと走行ルートを急遽内陸ルートにした。 

 

タウンズビル~ゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズ~クレモント(Clermont)~カルナルボン国立公園(Carnarvon National Park)~ミルズ(Miles)~ブリスベンへと約1週間かけて

走行した。

 

見どころはアメリカ映画の西部劇に出てくるようなゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズの街並みと各種の観光ツアーだ。 

 

当方は金を含む原石から金を摘出する元作業所(Gold Battery)のツアーに参加したが、元作業所が半分朽ちた廃屋とは知らず、少しがっかりした。

 

チャーターズ・タワーズの夜の墓のツアーや金の幽霊ツアー等の有料の観光ツアーもあった。

 

それからカルナルボン国立公園の渓谷だろう。枯れ川の谷底から見上げる川の両側に立った崖は見ごたえがあった。

 

この国立公園に至る農道ではカンガルーやディンゴが目の前で道路を横切るのを見た。野生の動物が身近に感じられた。

 

詳細は以下に記述する。

 

(19世紀の面影が残るチャーターズ・タワーズの中心部)

 

(カルナルボン国立公園内の枯れ川の谷底)

 

(オーストラリア東海岸のケアンズから内陸路=グレート・インランド・ウェイを進んでブリスベンまでの走行ルート(ピンク色の線)。赤丸印が宿泊地。写真のデジタルサイズを専用アプリで縮小したら縦が圧縮してしまった。海岸沿いの地図右上がケアンズ。右下がブリスベンの位置)

 

(オーストラリア東半分の地図。本来は右側が北になる。赤線はメルボルンの近くコラックからブリスベンまでの走行ルート。走行距離は8千kmに達した。)

 

4/254/27 ケアンズ3

 

ケアンズの3泊はあっという間だった。 

 

ケアンズ滞在中の一番の目的はブログの更新と携帯電話のSIMカードの更新だった。

ブログを更新している合間に市内を散策して、南国リゾートの雰囲気を味わったり、オートバイで

160km走行してイチジクの根のカーテン(Curtain Fig Tree)を見に行った。

 

ケアンズでは南国らしい熱帯雨林の木々が街路樹や遊歩道に植えられ、熱帯の雰囲気を醸し出す。

しかしながら、ハワイのように一目で観光客と思われる人々の姿は多くないと感じた。

 

街並みは1980年代のような23階建ての建物と歩道をすべて覆うアーケードの屋根だった。

日本の地方都市の昔の商店街を彷彿させるような街並みだった。

 

観光客はケアンズには留まらず、ここを起点にグレート・バリアー・リーフの観光を楽しむだろう。

この町にはワーキング・ホリデーの制度を利用してアルバイトをしながらオーストラリア旅行を経験する海外の若者が、ビザの更新のためケアンズで仕事を探すと聞いた。

 

ワーキングホリデーでは1年のビザが付与されるが、ビザの更新が可能だ。 ビザの更新には地方である一定期間働く必要があるようだ。 ケアンズにはアルバイト先を探したり、アルバイトしている外国の若者が多くいる。

 

投宿先のホステルで、当方はそのようなビザ更新のためケアンズにアルバイトををしながら滞在している日本人女性と話す機会があった。

(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Treeがある熱帯雨林。手摺がある歩道デッキの奥にカーテン・イチジクの木があった)

 

(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Tree。高さ15mぐらいある。)

 

(カーテン・イチジクの木は当初、他の大木の枝に芽生え、イチジクの根が地に降りるように成長して大木を倒し、大木に寄生するように成長した過程を説明した案内図)

 

4/284/29 タウンズビル(Townsville)に2

 

ケアンズからタウンズビルへブルース・ハイウェイ(Bruce Highway)を海岸沿いに約350km南下する。

移動した日はケアンズを出発するときから雨だった。 350kmを走行しても、時々曇ることはあっても終日ほとんど雨だった。

 

時々豪雨となり、前方を走行する車の姿が見えなくなる。レインウェアに当たる雨水の粒が大きくて、

腕に雨水の衝撃を感じる。 レインウェイを着ていても、豪雨には勝てず、水が衣服にしみてきて寒くなる。

 

途中のロードハウスで、暖をとるため熱いカプチーノを買い求めた。そして着ていた長袖のTシャツを脱ぎ、それまで着用していなかった厚手のライディングウェアをレインウェアの下に着用して暖を取った。

 

やはり、雨天のオートバイ走行はいやだ。 

走行中に、反対車線の車に驚いた小鳥が飛び出してきた。 足元でカーンと何かが金属に当たる衝撃音が聞こえた。

 

路肩にバイクを止めると、小鳥がエンジンの鉄製のアンダーガードに衝突した跡があった。

小鳥は、即死したようだ。

 

小鳥が当方の足に当たっていたら、当方は足にけがをしていたかも知れないとぞっとする。足に当たればそれなりの衝撃を受ける。

 

そうなれば、ハンドル操作を誤って、オートバイと一緒に転倒する危険性もあった。 そんなことにはならず、無事で何よりだった。 

 

ブルース・ハイウェイは交通量はそれなりにあるが、やはり対面通行の道路のため

当方の後方から車が近づいて車間距離が短くなると威圧感を感じる。

 

そのため、タウンズビルから先は幹線道路を避けて南下するルートを検討した。

 

タウンズビルでは町の中に高さ260mの砦のような丘がある。その丘の上からタウンズビル周辺が一望できるとガイドブックに書いてあった。 興味をそそった。

 

その丘から周囲の地形をみると、海岸沿いに平地が広がり、その奥(内陸側))には大分水嶺山脈(Great Dividing Range)が南北に連なっているのが良く判る。

 

タウンズビルではサンゴ関連の研究所を備えた水族館(Tropical Aquarium)があると旅行書にかいてあったので、グレート・バリアー・リーフの実物の代わりに水族館でその気分を味わおうと出かけた。

 

しかしながら、水族館は壁が壊れて2019年に取り壊したままで、再建の目途が立っていないと

水族館横のタウンズビル博物館の受付の館員が教えてくれた。

 

この受付の館員は暇なのか、当方が水族館を見たくて残念がっていると、タウンズビルの歴史をとうとうと30分ぐらい説明してくれる。

 

タウンズビルはその昔、オーストラリア東海岸ではシドニーに次いで2番目に栄えていたという。内陸から集積される金、銀、銅や家畜等をタウンズビルから輸出したという。

 

アジアから入る貿易船はオーストラリアで最初にタウンズビルに寄港したという。 当時の栄えた様子が、港があった川沿いの街並みに残っているという。当時の銀行や商社、ホテルや飲み屋の建物が確かにある。

 

この館員がタウンズビルから150km程度内陸にあるチャーターズ・タワーズ=Charters Towersを訪れることを勧めてくれた。 チャーターズ・タワーズは19世紀後半ゴールドラッシュで栄えた町で、今でもその面影が残るという。

 

当方は交通量が多い東海岸沿いのハイウェイを南下するのは乗る気で無かったので、これ幸いと

この話に乗り、翌日からの走行ルートを内陸のグレート・インランド道(Great Inland way)沿いに南下することにした。

(ケアンズからタウンズビルの国道沿いの広大なサトウキビ畑)

 

(タウンズビルのランドマーク的なキャッスル・ヒル=Castle Hill。高さ260m)

(キャッスル・ヒルからタウンズビルの町を見下ろす)

 

(キャッスル・ヒルから西側=内陸方向を見るとグレート・ディバイディング・レンジ=大分水嶺山脈が望める)

 

(キャッスル・ヒルズから北側=ケアンズ方向の海岸線を臨む)

 

(タウンズビル川河口にはかっては港があった。)

 

(貿易で栄えたころの建物が残るタウンズビルの街並み)

 

(昼間は人通りが少ない)

 

(タウンズビルのビーチ)

 

4/30 タウンズビル~チャーターズ・タワーズ(150km

 

タウンズビルから真西に内陸へ入るオーバーランダーズ道(Overlanders way)をマウント・アイサ方面へ進む。

 

チャーターズ・タワーズで1871年に金が発見された話が一気に伝えられ、一攫千金を狙う男たちが

チャーターズ・タワーに集まり、町ができたという。

 

19世紀の面影が残る街並みは、道路に自動車がなかったら西部劇を見ているような感じの街並みだ。

この町には東海岸で最初に証券取引所が設立され、金鉱会社やその関連の株式が取引されたという。

また金地金の相場も立っていたという。

 

当方は鉱物資源には関心ある。 かって使われていた金を含んだ原石から金を取り出す作業所(工場)のツアーがあると言うので、早速そのツアーに申し込みをした。

 

チャーターズ・タワーズでのモーテルとホテルが100豪ドル未満なら宿泊したいと思っていたが、100豪ドル未満の宿は無いので、町はずれのキャンプ場でテント泊になってしまった。

宿泊したキャンプ場はDalrymple Tourist Van Park30豪ドル)。 

 

翌日、金を原石から取り出す元作業所ツアーに参加すると、元作業所は建物が崩れんばかりの廃屋だった。

 

そこにジーパン姿でカーボイハットをかぶったひげ面の中年の男がピックアップトラックで乗りつけてきた。 

この男が、元作業所の説明をするというのだ。

 

1872年から約100年使われた金摘出の作業所では、金を含む原石を採掘者が荷車で持ち込み、原石の重量を計測して、原石を小石に粉砕するとこから始まる。

 

19世紀の作業所故、簡単な機械装置の設備だ。

 

粉砕した金を含む原石を更に細かく砕き、水銀を加えて金を分離させるが、工場が出来た頃は化学的に金を分離する方法が発明される前のため、原石の半分は捨てていたという。

 

十数年後に化学的分離方法が発明された後には、廃棄された原石からも金が摘出されたという。

 

この作業所はあくまでも個人の採掘者が利用するもので、作用所の使用料が最終的に摘出された金の半分もしたと言う。すなわち採掘者と作業所経営者が金を折半したことになる。

 

金の分離には水銀を多量に使用した。その水銀を含む汚染水はそのまま廃棄されたため、後に井戸水を汚染することになり、住民の健康を害することになったという。

 

当時の住民の平均寿命は40歳程度と言われていた。

 

この廃屋見学がガイドの説明付きとは言え、30豪ドル(約3千円)では高いと思った。

この程度の見学では観光客は満足しないのではないかと思った。

(チャールズ・タワーズの金が発見された丘=タワーズ・ヒルから町を臨む。 町の向こうには大平原が広がる。)

 

(チャールズ・タワーズの町の中心部は19世紀の面影が残る)

 

(19世紀のチャールズ・タワーズの町)

 

(チャールズ・タワーズの元株式取引所建物。現在はカフェやレストランに使用されている。)

 

(金の原石から金を取り出す元作業所=Gold Battery内の金を含む原石を粉砕する19世紀の機械装置)

 

(金を含む原石を採掘現場から作業所=Gold Batteryまで運んだ荷車)

 

(元作業所=Gold Batteryは現在廃屋だ。 屋根の上には蒸気を動力とするためのボイラーがあった。)

 

(キャンプ場に2年住み、地域で水関連の仕事をするウェーン氏からツーリング情報を教えてもらった。)

 

5/1チャーターズ・タワーズ~クレモント(Clermont) 約380km

 

グレート・インランド・ウェイ=Great Inland Wayを南下した。 

 

クレモント=Clermontの町を観光しようと寄ったのではなく、このルートの先にカルナルボン国立公園=Carnarvon National Parkへ行くために途中で宿泊したのみだった。

 

交通量が少ない。

先に走行したクイーンズランド北部と同様に、5分~10分程度に対向車とすれ違うぐらいだ。

 

マイペースで進める道路だ。

 

カンガルーが2匹いきなり道路に飛び出してきた。危ないと思いオートバイにブレーキをかけ減速すると、更にまた2匹飛び出してきた。 4匹の集団だったが、5m10m程度のまじかでカンガルーがジャンプしながら道路を横切る姿を初めて見た。

 

陸上競技の三段飛びでホップ・ステップ・ジャンプのようなリズムの走り方だから、ゆっくりとしたスピードだ。カンガルーが交通事故にあう理由が分かったような気がする。

 

クレモントの約200km手前のベルヤンド交差路(Belyand Crossing)の原野の一軒宿(ロードハウス)で一泊することを当初考えていた。

 

しかしながら、ロードハウスの設備が良くないため、約200km先の次の町のクレモントのキャンプ場で宿泊することにした。 

 

この地域もガソリンスタンドがある集落や町が各々200km位は離れている。

 

クレモント・カラバン・パーク(Clermont Caravan Park) テント泊30豪ドル(3千円)

(内陸部には高床式の家が多い)
 

(地方道では交通量は極端に少ないが、直線道路が続く)

(当初一泊しようとした道路横のロードハウス=Belyanndo  Crossing Road Houseは文字通り一軒家だった。)

 

(クレモントのキャンプ場でテント泊)

 

(クレモントの小さな郵便局)

 

5/2 クレモント~カルナルボン国立公園(Carnarvon National Park360km

 

クイーンズランド州政府の観光パンフレットでカルナルボン国立公園の大きな崖の写真を見た。この崖を近くで見てみたいと思って、急遽カルナルボン国立公園に寄り道することにした。

 

チャーターズ・タワーズのキャンプ場で当方に声をかけてくれた中年の男がいた。

 

自らもオートバイに乗るライダーと言う。 親切にも当方がこれから通るグレート・インランド・ウェイ沿いの見どころやカルナルボン国立公園についても教えてくれる。

 

国立公園内にキャンプ場があることを知り、そこを目指して行くことにした。

 

グレート・インランド・ウェイから逸れて40km程度牧場と林に囲まれた農道のような田舎道を奥へ入るとキャンプ場(Big 4 Breeze Holiday Camp)があった。

 

ここに2泊することにした。2泊で105豪ドル(10,500円)と当方が泊まったキャンプ場で一番高かった。

(テーブル・マウンテンのような山。平原から山がある景色になる。)


 

 

(畑の井戸水を汲む水車。内陸部は荒れ地が多かったが、このあたりから大規模農地を見かけるようになった。)

 

(道路沿いには松の木ような細長い葉をつけた木があった。松の木の一種と思う。)
 

(カルナルボン国立公園のキャンプ場に現れるカンガルーの親子)

 

その翌日(5/3)、朝8時から行動を開始した。

 

キャンプ場から5km程離れたトレッキング出発地までオートバイで乗りつけ、そこから片道約10kmの森の中や渓谷沿いの小路を歩く。

 

国立公園内故、小川やクリークには橋がない。

 

川の中の飛び石を頼りに合計17カ所の小川や瀬を渡る。 小川の中の飛び石を踏み外して小川の中に足を落とす人もいる。 

 

森の中で他のハイカーの姿を見失うと少し心細くなる。

 

案内看板がある一本道のトレイル故、道に迷うことはないだろうと3時間ほど歩くと終点になる。鉄砲水の勢いで削られている高さ30m50mの大きな崖が現れる。 

 

乾季に枯れ川となっている谷底を進むと、枯れ川の両側が垂直に切り立った崖になっている。

もし突然、鉄砲水が出てきたら、岩の壁に叩きつけられオダブツだろうという恐怖感が湧くような場所だ。 

 

往復で約20km歩くと、足が棒の様になり、その日は疲れて早めに寝入ってしまった。

(カルナルボン国立公園内の森の中のトレイル=小路)

(飛び石沿いに小川を渡るハイカー達)

 

(砂岩の崖)

 

(崖には数千年前からアボリジニの壁画が描かれている。)
 

(枯れ川の底を歩くハイカー達。長い年月の水流れで川の両壁が削られている。)

 

(枯れ川の谷底)

(カルナルボン渓谷の立体イラスト図。奥まで片道10km=約3時間の歩行距離)

 

5/4 カルナルボン国立公園~ミレス(Miles400km

 

グレート・インランド・ウェイを約1,000km走行後(南下後)、クイーンズランド州の州都ブリスベンを目指すことにした。

 

ブリスベンはカルナルボン公園から約700km2日間で到達する距離だ。

一泊目は中間地点のミレス(Miles)まで進んだ。

 

カルナルボン公園近くの牧場に囲まれた農道でカンガルー8匹とディンゴ一匹を見かけた。それぞれ当方が走行する道の前方を横切るのだ。

 

自然の中で遭遇する動物には感動を思える。カンガルーとの距離は5m10m程とほぼ至近距離だった。

 

放し飼いの牛はオートバイの姿に驚き、逃げ出す。

 

勇猛なそうな雄牛は当方に突進するような構えをするが、結局逃げ出した。オートバイを見知らぬ危険な生き物と勘違いしているのだろう。

 

走行しているうちに景色も変わり、山があったり、広い農耕地になったりと変化に富んでくる。

 

17時にはキャンプ場の受付が閉まってしまうので、17時までに到達できるミレス(Miles)でキャンプ泊

Miles Caravan Camp(一泊35豪ドル=3,500円)をすることにした。

(カルナルボン国立公園へ至る農道でカンガルーやディンゴを見かけた。)

 

(小麦が刈り取られた畑と穀物サイロ。5月はオーストラリアでは秋の季節だが、雲はまだ夏のようだ。)


 

5/5 ミレス~ブリスベン(Brisbane340km

 

ミレスのキャンプ場は国道沿いだった。 夜間でも通行するトラック等のエンジン音で安眠は出来なかった。

 

朝から曇り空だ。雨が降らなければいいなと思っていると、霧雨が降り出した。 霧雨の中でテントの撤収作業を行う。 こんなことなら前夜はモーテル泊にしておけば良かったと後悔する。

 

霧雨は当方がキャンプ場を出発する頃には止み、その後晴れ間が出てきた。

走行ルート上には忘れ去られたような寒村があった。

 

トタン屋根のいかにも年代物とわかる雑貨屋が営業していた。その横には今は使われていない古めかしい平屋建ての集会場(Town Hall)があった。 建物の正面には1929年(昭和4年)~2004年まで使用されたとが表示されている。 

 

古くなったらからと言って、取り壊すのでは無く、この村の歴史を伝えるために保存しているようだ。

当方はこの村の歴史(いつ教会が建てられたとか、郵便局がいつ開設された等)や主な産業を記した看板が立てかけられていたことに感心した。

 

この村にたまたま立ち寄った当方のような外人でも、この村についてガイドブックに載っていない知識を得られるからだ。

 

ブリスベンでは6日ぶりにベットで寝付ける。

Breeze Lodge(一泊55豪ドルのドミトリー式のホステル)

(トタン屋根の寒村=ブリガローの雑貨店)

 

(2004年まで使用されていたブリガロー集落のタウンホール=公民館。電信柱は原木だ。)

 

(ブリガロー集落の歴史や産業を伝える案内看板)

 

(砂地でも栽培可能な綿花が広がっていた。)

 

(1910年=明治末期から大正初期のToowoomba=ブリスベンの約100km西にある中規模の都市の街並み。途中立ち寄った寒村のガソリンスタンドの壁に掛かっていた写真)

 

以上

 

Alice SpringsMount IsaCairns(ケアンズ)2,700km 4/194/26

 

アリス・スプリングスからケアンズまで約一週間かけてノーザンテリトリー州北部からクイーンズランド(Queens Land)州へと入った。

 

この辺りはオーストラリアでも最も人口が希薄な地域らしい。 150kmから200kmごとに簡易宿泊所を兼ねたガソリンスタンドしかない。

 

最長では260km区間ロードハウス(ガソリンスタンド)も民家もなかったところがあった。親切にも道路わきの標識には<次の260km区間には補給がない>と注意書きがあった。

 

雨季には洪水になる地域が多く、道路端の標識には<洪水の場合は通行不可>との注意書きも書いてある。 

 

川がないため、多量の降雨があると雨水が行き場所が無く、その場所に溜まるのだろう。一見水はけよく見える乾いた土地の地下は雨水を通さない岩盤になっているのだろう。

 

南のポート・オーガスタと北のダーウィンを結ぶスチュワート・ハイウェイ(Stuart Highway)からテナント・クリーク(Tennant Creek)にてバークリー・ハイウェー(Barkley Highway)へとケアンズ(Cairns)がある東方向へと変えた。 

もっともここからケアンズまでは約2,000kmの距離がある。

 

降雨で湖の様になった低地あり、牧草地帯あり、そして山あり谷ありの風景といろいろ楽しませてくれる風景もあるが、一日中500km600kmの距離を走行してもほぼ真っすぐな一直線には飽きる。

 

この人口希薄地帯で困ったことがあった。 当方の携帯電話(携帯電話ではオーストラリア第二位のOptsuSIM利用)の電波が届かないのだ。

 

一週間の内4日間電波が全く届かないロードハウスや集落のキャンプ場に泊まったため、電話はおろかインターネット回線にも繋がらない。 

 

アラフラ海(ニューギニア島)に面するクランバ(Karumba)の町や内陸のジョージタウン(Georgetown)では唯一繋がる携帯電話はオーストラリアNo.1の携帯電話会社テレストラ(Telestra)だと住民に言われた。

 

銅、銀、亜鉛等を採掘する世界最大規模の地下鉱山のマウント・アイサ(Mount Isa)では鉱山見学ツツアーに参加した。 鉱山と言っても既に閉山となった地下坑道を元鉱夫のガイドに案内されて坑道を歩いて、鉱山の説明を受けるという単純なツアーだ。

 

当方が走行したノーザンテリトリー州やクイーンズランド州にはクリーク(Creek)の名前がつく地名が多い。 雨が降ると川になったり、水が溜まる場所に19世紀のイギリス移民が定住し始めたからだろう。

 

クリーク(川や水たまり)に掛かる橋には欄干が無いことに気が付いた。 降雨で川が氾濫した祭、流木等が橋の欄干に引っかからないようにするためだろう。

 

ツーリングの詳細は以下に記載した。

(メルボルン近くのコラックからケアンズまでの走行ルートは赤線。地図右下はメルボルン、右上はケアンズの位置。コラックからケアンズまで約5,800km)

 

(オーストラリア中部を東に結ぶバークレイ・ハイウェイ=Barkely Highwayは草原が多かった。)

 

(デビルズ・マーブルズ=Devils Marblesの丸みを帯びた直径3m~5mの花崗岩の巨岩群)

 

(テナント・クリーク=Tennant Creek付近の蟻塚)

 

(鉱山の町マウント・アイサ=Mount Isaでは地下鉱山見学。鉱山用重機で記念撮影)


(カーペンタリア湾に面するカルンバ=Karumba。ニューギニア島へと海が続く)


(ノルマントン=Normantonので過去に捕らえられた世界最大のワニのレプリカ。体長8.5m 推定体重2トン)

 

 

4/19アリス・スプリングス~ワーチョプ(Wauchope) 400km

 

アリス・スプリングスに3連泊中にブログの更新をしようと思っていたが、スマホで撮った写真をSDカードへ移行するとき誤って写真データを消去してしまった。 半日かかっても消去した写真データを復元することが出来きなかった。

 

ブログの原稿は書き終えていたため、写真をブログに載せるだけの更新作業だったが、この先数日間はこの作業さえ出来なかった。

 

それはオーストラリアがあまりに大きくて人口が希薄な地域や場所では携帯電話の電波が届かないからだ。

 

アリス・スプリングスからスチュワート・ハイウェイをひたすら北上するが、ほとんど直線道路で景色が単調のため、どのぐらいの距離を進んだかも判らなくなってきた。 

 

既に南回帰線を越えて亜熱帯地域に入ったためか、道路わきの樹木が今までより高くなっている。

 

この付近の見どころとして数千万年の風雨で浸食され、丸みを帯びている花崗岩の大きな岩がごろごろある場所がある。

 

デビルズ・マーブルス(Devils Marbles)という場所だ。

 

その日はデビルズ・マーブルズに近いワーチョップ(Wauchope)のホテルに宿泊することにした。

ホテルとは名ばかりで、実態は災害時の緊急避難所のようなプレハブ建ての部屋だった。

この付近で請負工事をする作業員が利用するようだ。

 

宿泊はDevils Marbles Hotel(一泊77豪ドル=7,700円)。

ここでは携帯電話の電波が受信圏外だった。 ホテルにはWiFi設備は無い。

 

(旅人や家畜の喉を潤したスチュアート・ハイウェイ沿いの19世紀の井戸。地下28mの深さから地下水をラクダや馬を使って汲み上げていた。)
 

(デビルズ・マーブルズの奇岩群)



(ワーチョープのデビルズ・マーブルズ・ホテルの外観)

 

(デビルズ・マーブルズ・ホテルの部屋はプレハブ建ての避難所のように簡素だった)

 

 

4/20 ワーチョップ(Wauchope)~カモウィール(Camooweal600km

 

ワーチョップ(Wauchope)から120km北上するとテナント・クリーク(Tenannt Creek)に到着する。

このスチュアート・ハイウェイ沿いではアリス・プリングスに次ぐ規模の町らしい雰囲気がある。

 

この先数キロでスチュワートハイウェイから進路をオーストラリア東部方向へと変えバークリーハイウェイ(Barkley Highway)へ転換する。

 

バークリー・ハイウェイを東へ約2km進むと太平洋を臨むタウンズ・ビル(Towns Ville)に出る。

この地域にはクリーク(Creek)のが付く地名が多い。クリークとは水がある淵や入り江を指すが、

この地域では降雨の後、低地には水が溜まった状態でクリークのようになる。

 

バークリーハイウェイを走行中に一カ所だけ道路が降雨後冠水したままの状況だった。

 

直径と高さが3m位ある巨大な蟻塚を見つけた。 蟻の巣が洪水被害を受け難くするため、アリは蟻塚をつくるのだろう。

 

バークリーハイウェイを東方向に進むに従い、景色も変わってきた。緑が多い森や草に覆われた草原になってきた。牛を放牧する牧場もある。

 

夕日を背に浴び、今日の目的地まで先を急いでいると道路わきにペットボトルを片手にあげて手を振っている男がいた。 男を少し通り過ぎ、オートバイを止めると、その男が飲み水を求めているのが判った。

 

その男はポーランド人の67歳のサイクリストで飲み水がなく、近くでブッシュキャンプをするつもりだという。

 

67歳で自転車でオーストラリアの旅は大変だろうと飲み水を差し上げた。

 

このあたりの区間は約260km何も無い無人地帯だった。サイクリストは水と食糧の補給が大変だろうと当方と同年のサイクリストに敬服した。

 

この日は約600km走行後、カモウィール(Camooweal)という集落の有料キャンプ場(Camooweal Post Office Hotel Caravan Park)に日没と同時にたどり着いた。

 

キャラバンパーク横のパブにスマホのデータ通信が可能な唯一のWiFiスポットがある。しかしパブは午後の9時には店じまいだ。

(高さと直径が3m位の巨大蟻塚)

(蟻塚を至近距離でカメラに収めようとして、幹線道路から100mくらいブッシュの荒れ地に入ると方向感を失う。どこを見てもこのような風景だ。蟻塚の周囲を回っていたら、道路に戻れなくなり、しばらくあたりをさまよった。)

(道路が一部冠水した状態のバークリー・ハイウェイ=Barkely Highway)

 

(雨季にはBarkely Highway沿いの荒れ地が湖の様になる)

 

(バークリー・ハイウェイを東に進み、ノーザンテリトリー州からクイーンズランド州へ入る)

(バークリー・ハイウェイで出会ったシニアのポーランド人のサイクリスト)

 

(コモウェール=Comoowealの街並み。と言っても幹線道路沿い300m位にガソリンスタンド、パブと雑貨店があるぐらい)

 

 

4/21 カモウィール(Camooweal)~マウント・アイサ(Mount Isa) 約200km

 

前夜のキャンプ場には当方以外のキャンパーはいなかった。

この集落の唯一のビストロ(カジュアルなレストラン)は既に当日の営業を終了して、食事ができる場所が無かった。

 

ガソリンスタンドで買ったカップヌードルを誰もいないキャンプ場でお湯を沸かして夕食とした。

夜間風が少し強くてテントが揺れ、テントが吹き飛ばされるのではと心配した。

 

エアーズ・ロックがある砂漠地帯のキャンプ場では朝夕は冷え込んだが、このあたりまで北上すると

朝方でもさほど冷え込まず、心地良い気温になってくる。

 

マウント・アイサまでは約200kmしかないので、今日はのんびりした気持ちで、キャンプ場を出発した。日曜日の午前9時台でも、幹線道路(バークリー・ハイウェイ)の交通量は皆無だ。もちろん人もいない。

 

マウント・アイサに近づくと地肌が見える程度に木々が立つ山がある地形となる。山の裾沿いのワインディング道路となり、オートバイのライダーとしてうれしい走行だ。

 

午後1時ごろに当日朝に確保した宿(CitySide Accomodation=一泊80豪ドル=8千円)に到着した。やはりキャンプ泊の後、ベッドに横になれるのはうれしい)

 

(マウント・アイサ=Mt. Isaに近づくと周囲は小高い山がある起伏した大地になった。)

 

(マウント・アイサのライダー達)

 

(操業中マウント・アイサ鉱山=Mount Isa Minesの正面。地下で採掘した銅、銀、亜鉛等の原石を製錬しているようだ)

 

4/22 マウント・アイサ連泊で鉱山見学

 

宿泊したモーテルの経営者に鉱山見学を勧められた。 マウント・アイサには銅、銀、亜鉛や鉛等を産出する世界最大規模の地下鉱山がある。

 

マウント・アイサの町の地下には深さ1.3kmの坑道が縦横無尽に広がっているという。人口2.5万人町にしてマウント・アイサ鉱山の従業員数は4,700名と鉱山の町だ。

 

操業中の地下鉱山の見学が可能と思ったが、実際は既に廃坑となったハード・タイムズ鉱山(Hard Times Mines)という会社の坑道跡と博物館だった。 

 

元鉱夫がガイド役となり参加者のグループを地下の坑道へとエレペーターに乗り案内する。

 

この鉱山は地下21階レベルまで坑道があったと言う。 

 

更に坑道専用のトロッコに乗り採掘が行われた現場へ連れて行ってくれる。

 

本来は写真の撮影は案内の邪魔になるので禁止されているが、ガイドが所々で当時の採掘工事を参加者に体験させてくれる。 この時の様子を写真に撮せてくれた。

 

地下鉱山は坑道での出水と高い気温が一番の敵だという。雨季になると地下水脈から坑道に流れ出る水をポンプでくみ上げるが、ポンプの排水では追いつかずに、多くの坑道が水没するという。

 

鉱山の事故対策には十分気を使い、鉱夫がどこ坑道のどの現場にいるか等リアルタイムで判るような装置を鉱夫一人ひとりが持っていたという。 操業していた当時は24時間3交代で働いていたという。

 

入場料は大人85ドル(約8,500円)だった。

 

ところが当方が、<オーストラリア人のガイドの英語説明は分かり難かった>とクーパー・ペディーでのオパール鉱山ツアーでの当方の経験を受付の女性に言ったら、受付の女性は<そうね。オーストラリア英語は外国人には分かりにくいかもね>と同情して、当方にシニア割引の料金68ドル(6,800円)を適用してくれた。 

 

シニア割引(Concessionと呼ぶ)は本来、シニア証明書が必要でありオーストラリア人とニュージーランド人に発行されているという。


(ハード・タイムズ鉱山=Hard Times Minesのエレベータータワー)

 

(坑道で岩盤を空圧削岩機で掘る模擬体験)


 

4/22 マウント・アイサ~カルンバ(Karunba)590km(アラフラ海に出る)

 

マウント・イサから更に東の方向へ進んだ。地形が今までと違う。 高くはないが、山あり、丘や谷ありで道路はアップダウンの繰り返しとワインディング(曲がるが続く)道路だ。 しかしこの地形も長くは続かず、100km程度走行すると、また単調な直線道路となる。 

 

クローンカレー(Cloncurrey)から北上してノルマントン(Normanton)を目指した。

その日はノルマントンあたりで宿泊しようと考えていたが、ノルマントンから約70km更に北上すれば、それより先に進めない海に面したカルンバ(Karumba)に行き着く。

 

せっかくここまで来たのだから、行けるところまで行こうと夕日の中をカルンバまで急いだ。

 

カルンバはアラフラ海(ニューギニア島)につながるカーペンタリア湾(Gulf of Carpentaria)に面した漁業が盛んな町だ。

 

この辺りは、クイーンズランドでも熱帯地域に属するため、高温多湿の気候だ。ライダーズジャケットを着用してのバイク走行は、蒸し風呂状態に近く大変暑く感じる。その日からTシャツ姿で走行する。

 

道路で見かける動物の交通事故跡も蛇やトカゲといった熱帯の動物に変わっていた。

この辺りのクリークにはワニが多いと聞いた。

 

ノルマントンの町で過去に捕らえられた体長8.5m推定体重2トンの世界最大ワニのレプリカが町のシンボルとして公園に展示してあった。 

 

カルンバでの宿の予約は無いため、カルンバのガソリンスタンド(Karumba Point Service Station)で<清潔で安い宿を教えてほしい>と親切そうなシニアの経営者に聞いた。その経営者が心当たりあるホテルに電話してくれて、部屋の値段と空き状況を聞いてくれた。

 

 

ガソリンスタンドの経営者は、<本来のところ130豪ドル=1.3万円とのことだが、親戚の知人が経営しているとのことで110豪ドル(1.1万円)でいいよと言っているけどどうする?>とホテルと交渉までしてくれた。

 

当方は<110豪ドルは高いな>と決断を渋っていると、 ガソリンスタンド(Karunba Point Service Station)の横に釣り客用の簡易宿泊施設があるという。

 

温水シャワー・トイレとキッチン付きだが、4人部屋となっている。そのガソリンスタンドの経営者が<ここでよかったら、一泊5千円でいいよ>と言ってくれたので、当方はそこに宿泊することにした。

 

田舎の町には午後6時を過ぎれば、開店している雑貨店が無いので、その日は持っていたカップヌードルやパン等で簡単に夕食を済ませた。 オーストラリアの地方や田舎を旅するには食糧や飲料水は常時携帯する必要がある。 

(マウント・アイサからしばらくは起伏がある風景だった)

 

(マウント・アイサから100km程度東へ進めば平原となる)

 

(カルンバ=Karunbaへ行く途中の草原の中の一軒家=ロードハウスを兼ねたカフェ・レストラン)

 


(カルンバへ向かう平原は熱帯雨林となっている)

(カルンバへ向かう途中の道路。暑くてTシャツ姿になる)

 

(カルンバの70km手前のノルマントンの世界最大ワニの大きさに注目してほしい。横に立っている人が小さく見える)

カルンバ付近にはワラビーが多いようだ。夕方になると道路沿いに集団でたたずんでいた。)

(ノルマントンとカルンバの間70kmは湿原が広がっている)

(カルンバで一泊した釣り客用の簡易宿泊所は写真左手の建物)

 

4/23 カルンバ~ジョージタウン(Georgetown400km

 

カルンバは小さな町だった。 

この町が栄えたのはナイル・パーチと似た種類の大型魚(体長1.4m 体重は20kgにもなる)のお陰だった。

 

カルンバの町が位置するノルマントン川河口と沿岸部でこの大型魚が捕れ、マウント・アイサまで空輸されるという。 現地ではバラムンディ(Baramundi)と呼ばれている。 最近は卵のふ化から養殖されているものもあると言う。

 

前日通った道路をノルマントンまで引き返して、サバンナ道路(Savanah way)と呼ばれるオーストラリア北部を横断する道路をケアンズ方向へ向かう。

 

一日でケアンズに到着できる距離ではないので、途中のジョージ・タウン(Georgetown)というかっては金で栄えた町に宿泊するつもりだった。 この道路では20分~30分走行しても一台の車ともすれ違わない超閑散とした道路だった。

 

そのためか、所々で道路が整備されていない状態の旧道の状態だった。 旧道は車一台分の舗装しかしていないく、対向車がくると大きな車に舗装面を譲る。

 

カーナビにはロードハウスをはじめ数軒のホテルやモーテルがあることになっているのだが、一軒のモーテルを除き廃業していた。

 

 

モーテルで一泊しようと訪ねたが、家族用の広い部屋しか空きがなく一泊150豪ドル(約1.5万円)とのことだった。 田舎町で1.5万円出すのは惜しいと思い、結局キャンプ泊をすることにした。

 

宿泊地はゴールド・フィールズ・キャラバンパーク(Goldfields Caravan Park)一泊テントサイト20豪ドル(2千円)

 

テントの設営後に食糧を求めて、ロードハウスが経営の唯一の雑貨店へ行った。夕方の6時を回ったばかりなのに既にガソリンスタンドと雑貨店は閉まっていた。(町と言っても住人350名程度の集落)

 

キャンプ場の管理人に唯一のパブが夕方6時過ぎでも営業していると教えてもらい、そこで食事することにした。

(交通量が少ないため、道路中央部分のみ舗装。多分昔は道路幅は一車両分しかなく、その後拡張したが

全面舗装までに至っていないようだ)

(ノルマントンからケアンズ方面へと東へ向かう道路はサバンナ道=Savanah wayと呼ばれている)

 

(カルンバが面するカーペンタリア湾で釣りをする人)

(カーペンタリア湾のペリカン)

(ノルマントン川河口やカーペンタリア湾でとれるバラムンディ=Barramundiと呼ばれる大型魚)

 

(大型魚バラムンディの展示施設)


(ジョージタウンのキャンプ場)

 

4/25 ジョージタウン~ケアンズ(Cairns420km

 

この日は祭日(オーストラリアの日=ANAC day)のためか、ロードハウスは朝方も営業していなかった。

前夜までにすべての飲料水を飲み切ったため、まずは朝一番で飲料水を確保せねばと思っていたのだが。

 

この熱帯地方での走行では、ライディングジャケットは着用せず、Tシャツのみの姿だった。  昼頃やっとマウント・サプライズの集落に到着して飲料水を買い求めることが出来た。

 

当方は400kmの走行を楽観視していたが、ケアンズの手前150km位からスピードが出せないようなくねくね道になりだした。日本の箱根や伊豆半島の道路の様にくねくねしたカーブがあり、時速50km60kmの制限速度が設けられている。

 

ずっと暑い場所を走行してきたが、ケアンズに近くなると寒くなり始めた。 

大陸横断道路の最後区間は熱帯雨林地帯と乾燥地帯の分水嶺にあたるアセルトン(Atherton Tablelands

)高原となっていた。 この高原が寒さの原因らしい。 

 

天気が曇ったり、ところどころ降雨の跡がある。 

 

天気が変わりやすく、降雨が頻繁にあるため、道路沿いの牧場の草が緑色のジュータンの様に奇麗だった。

 

ケアンズに到着するとムッとするような湿った空気を感じたが、思ったより暑く無い。夕方になり、涼風が吹けば、Tシャツ姿では少し寒く感じた。

 

ケアンズでは夜間には少し雨も降ってきた。

 

宿泊はYHA Cairns Centralというドミトリー方式のホステル(一泊35ドルと駐車料金10ドル)

 

(クリークに架かる橋は欄干が無い)

 

(ケアンズ西部に位置する高原)このあたりが乾燥地帯と熱帯雨林地帯との分水嶺)

 

(ケアンズ市内は熱帯雨林の樹木が大きく育ち、トロピカルな雰囲気を醸し出していた。)

(ケアンズのウオーターフロントは渡り鳥の大きな干潟になっている。)

 

以上

 

 

 

ポート・オーガスタ(Port Augusta)~エアーズロック(Ayers Rock)~アリス・スプリングス(Alice Springs) (2,000km) 4/114/18

 

概略

 

ポート・オーガスタ(Port Augusta)で風邪のため2泊した後、アウトバックと呼ばれるオーストラリア中央部に位置する巨大な一枚岩でできたエアーズ・ロック(Ayers Rock)へ向かい赤土の不毛地帯へ進みだす。

 

ポート・オーガスタはオーストラリア南部のアウトバックの入口の町。アウトバックとは手つかずの自然が残る広大な内陸部のこと指す。

 

そのアウトバックにはポート・オーガスタからティモール海に面する北部のダーウィン(Darwin)までオーストラリアを縦断する約3,200kmの長さのスチュワート・ハイウェイ(Stuart Highway)が通っている。

 

ハイウェイと言っても片側一車線で対面通行の普通の道路だ。 と言っても砂漠とブッシュ地帯の中の交通量が少ない直線的な道路なので、普通ではないかもしれない。

 

途中の見どころはクーバー・ペディー(Coober Pedy)と言うオパール鉱石の採掘が盛んな町と

オーストラリアのへそとも言われる巨大な一枚岩のエアーズ・ロックだった。

 

このルートの約一週間(8日間)では6日連続キャンプ場でのテント泊をした。テントの高さが約90㎝位しかない一人用の超小型テントでは、立ち上がって腰を伸ばすことが出来ず、窮屈をした。

 

キャンプ場でのテント泊は一泊20豪ドル(2千円)~40豪ドル(約4千円)とホテルやホステルの個室に比較すれば安く済む。 

 

ロードハウス(Roadhouse)と呼ばれる砂漠道のガソリンスタンドやカフェ併設の宿泊所(災害時のプレハブ建て簡易避難所に似ている)のような個室でも一泊1.5万円の料金だ。

 

観光客に人気のエアーズロックではこのような宿泊所でも一泊2.5万円位と高い。

アリス・スプリングスの町ではBooking.Comのホテル予約サイト上では当方が行く前日には一泊5万円のホテルの部屋しか空きがなかった。

 

当日はそのホテルの空室もBooking.Comのサイトから消えて、文字通りアリス・スプリングスには空室がない状態だった。

 

当方はアリス・スプリングで3軒のホステルとホテルを訪れて空き部屋があるかどうが尋ねたが、やはり空き部屋無かった。 

 

後でわかったことだが、その日までアリス・スプリングスではフェスティバルがあり、宿泊客でにぎわっていたようだ。

 

この時はキャンプ用品を持ち合わせていて良かったと感じた。

キャンプ場でテントを張れば宿泊は何とかなるからだ。

 

話が長い詳細は以下に続く。

(ポート・オーガスタから北はアウト・バックと呼ばれるオーストラリア内陸部だ)

 

(カンガルーの交通事故は多い)

 

(メルボルンからアリス・スプリングスまでは赤線が引いてある。メルボルン海に面する地図右下。アリス・スプリングスは地図左側中央部。約3,300kmの距離だ)
 

(エアーズロックを背景に三脚で撮影を試みた。三脚上のスマホの位置が低すぎて、エアーズロックが大きく写っていない)
 

4/114/12 ポート・オーガスタからクーバー・ペディーへの移動 580kmとオパール鉱山等の観光

 

日の出とともにポート・オーガスタのモーテルを出発。今日の目的地は約600km先のオパール鉱山の町と知られるクーバー・ペディー(Coober Pedy)だ。 オーストラリアをほぼ直線的に縦断する一本道を進むだけだ。

 

ポート・オーガスタを数キロ離れると道路横に建てられた<ようこそアウトバック>の看板が目に付く。

180km先のピンバ(Pimba) ロードハウスまで住む人がいない荒野の道を進むと道路脇にカンガルーの死体が目立つ。

 

夜間に道路を渡ろうとして交通事故に遭ったのだろう。180kmの区間にまだ比較的新しいカンガルーの死体が二十数個あった。

 

地元の人はカンガルーよりダチョウのように飛べない大型の鳥類エミューの方が危ないという。

荒野で野生のカンガルーは見なかったが、エミューは所々で道路脇に集団でたむろしてたり、道路を横断しているのを見た。

 

スチュワート・ハイウェイの交通量は少ないが、34車両を連結したトラック・レインが曲者だ。

対向車線を時速110kmで走行するトラックトレインとのすれ違い時の風が台風のように強く、強風でオートバイがふらつく。

 

ピンバ(Pimba)で給油したのみで、その後は昼食なしで、15時位までひたすら走り続ける。

クーバー・ペディーの町が近づくと道路の左右に掘削用重機が無造作におかれ、高さ4~5m程の土を積み上げた多数の小山が目につく。 後で知ったが、地下に坑道を堀り、オパール鉱石を採掘しているのだ。

 

 

クーバー・ペディーの町にはオパール鉱山の廃坑跡をモーテルやホテルに利用した宿泊施設がある。

当方は廃坑の地下空間(洞窟)を有料キャンプ場としている場所を知人から聞いていた。

 

クーバー・ペディーの町から6km程離れた荒野の丘にあるRibas Underground Campの洞窟内にテントを張って二泊した。  一泊18豪ドル(約1,800円)でお湯がでるシャワーや自炊設備があるキッチンも備わっている。

 

日が沈むとあたり一帯は真っ暗闇に包まれる。夜空に光る星座がきれいで印象的だった。

洞窟内は快適だった。 砂漠の気候は日中には30℃と暑く(陽射しが強いため、炎天下では温度計以上に暑く感じられる)、夜間は10℃程度まで冷えるが、洞窟内は気温18℃20℃と一定だ。

 

 

(ポート・オーガスタから北のアウトバックの始まりはこんな風景)

 

(クバー・ペディー=Coober Pedyの入口付近)

 

(クーバー・ペディーの洞窟キャンプ場の入口)

 

(洞窟キャンプ場の一区画にテントを張った)

 

翌日(4/12)のオパール鉱山ツアー

 

翌日はオパール鉱山の見学や月面のような景色の砂漠へ行くツアーに参加した。大型トラックを改造したアドベンチャーバスに乗って地元ガイドが案内してくれる。

 

ガイドがいろいろ説明してくれるが、分かりにくい英語だ。アメリカや欧州でも英語ガイド付きのツアーには参加しているが、オーストラリアのガイドの説明ほど分かりにくい国は無かった。

 

クーバー・ペディーは国内のオパール産出量の9割を占めるオーストラリアで最大のオパール産地だ。

 

人が入れるくらいの穴を深さ1020m位掘り、そのあと横に坑道を堀る単純な採掘現場だ。

 

そもそもオパールは、2千万年前~7千万年前の海中生物が砂岩の中で鉱石化したものだ。化学元素は知らないが、光を充てると反射板の様に光る鉱石がオパールの原石だ。

 

重機で横穴を掘りながら出る土砂を大型掃除機のようなもので地下から吸いだして鉱石か土か区分けする。

 

色が黒いほどオパールとして価値が高いという。白いオパールはあまり価値が高くないので、そのまま土と一緒に捨てるものもあるという。

(オパール原石の採掘様子をイラストに描くとこんな感じだ)

 

(オパール採掘現場では壁を機械で削り取った砕石をこの管で地上へと吸い上げる

 

(磨き上げる前のオパール原石)

 

 

 

(磨き上げたオパール。色が黒っぽいほど価値があると言う)

 

その後、月面のような砂漠地帯へ向かうが、ツアーバスが途中で故障して動かない。 バッテリーにトラブルが発生した。急遽、救助車に助けを求めた。

 

後でわかったことだが、バッテリーへ充電する発電機(オールタネーター)が故障したとのことで、一番楽しみにしていた月面のような荒れた小山までツアーバスは行けず、数十km離れたクーバー・ペディーの町へ引き返すことになった。

 

ツアー行程の8割は終了していたが、驚いたことにツアー翌日にツアー会社は参加費110豪ドル(約1.1万円)を全額払い戻してくれた。

 

(視界を遮るものが何もない砂漠)

 

 

(長さ3,000km以上に続くディンゴ・フェンス(柵)。ディンゴ(イヌ科の動物)が大陸を移動できないようしてある)

(ディンゴ・フェンスの向こうに水場があるとかぎつけたエミューはフェンスに遮られて先へ進められない)

 

(ツアーバスのエンジンがかからなくなり、四駆の救援車両とバッテリーを繋げる)

 

(砂漠の中を駆けつける四駆の救援車両)

 

(ツアーバスから偶然見えたカンガルーの親子。後にも先にも生きたカンガルーは一回しか見なかった)

 

4/134/14 Coober PedyErldundaYulura(Ayers Rock) 750km

 

2日間かけてクーバー・ペディーからエアーズ・ロック(Ayers Rock)国立公園内にある

エアーズ・ロック・リゾート内のキャンプ場(Ayers Rock Campground)へ進んだ。

 

クーバー・ペディーから最初の宿泊所のエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)まで約500kmだった。途中で南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へと州境を越える。

 

エルデュンダ・ロードハウスは砂漠の中の一軒家のようなガソリンスタンドとバーを備えた宿泊設備だった。有料のキャンピング場も備えている。

 

このあたりに来るとガソリン価格が今までの1リットル2豪ドル(200円)から3豪ドル(300円)と高くなる。 競争相手のガソリンスタンドがないため、強気の価格でもガソリンは売れる。

 

食糧品の価格も高い。 1.5Lのペットボトル入りのミネラルウオーターが6豪ドル(600円)だ。 ただし2本買えば8豪ドル(約800円)だと店員が言うので、当方は荷物になるが2本買った。

 

エルデュンダでもErldunda Roadhouse Campにテント泊する。一泊18豪ドル(約1,800円)

温水シャワーや電気湯沸ポット,ガスコンロ等の自炊設備も備わっているキッチン施設もある。

(全長53mのトラックトレイン)

 

(ガソリンスタンド・レストラン併設の宿泊施設があるカデニー・ロードハウス=Cadeny Roadhouse)

 

(南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へ入った)

 

 

翌日はエルデュンダ(Erldunda)~エアーズロック・キャンプグランド(Ayers Rock Campground)への道を250km進む。

 

ノーザンテリトリー州に入って気が付いたことがあった。 砂漠というより低木(ブッシュ)が多い荒野で、道路わきには草が青々と茂っている。雨が降るのだろう。

 

道路の路肩には豪雨が降った場合の洪水の深さを示す柱が立っていた。

一番深かった洪水は道路から1.4mほどあったという。こんな広大な大地が洪水になるとは信じがたい。

 

エアーズ・ロックが位置する辺りは広大な国立公園となっている。公園内ではキャンプが禁止されている。

 

エアーズ・ロック・リゾートという小さな町のような宿泊施設の中にキャンプ場を含めてホテル等の宿泊施設が充実している。スーパーマーケットもある。

 

当方はここでもエアーズ・ロック・キャンプグランドにテントを設営して2泊した。一泊35豪ドル(約3,500円)とキャンプ場としては高いが、ホテルやキャンプ場内のキャビン(一棟貸し)より安い。

(洪水の場合の水の深さを測る測量計)

 

4/15 エアーズ・ロック(Ayers Rock)観光

 

前夜キャンプ場で知り合ったオランダ人旅行者から日の出と日没のエアーズロックの姿がとても美しいと聞いた。 当方はその日の出のエアーズロックを見るため、まだ暗いうちにキャンプ場から約25km先のエアーズロックの日の出を見る場所へ行った。

 

朝日を浴びると日の出前の黒色のエアーズ・ロックが赤い色に変化する。

 

エアーズ・ロックは高さ360m強、周囲9.4kmと近づくとその大きさが実感できる。アボリジニの聖地といことで現在はエアーズ・ロックには登れない。また、落石の危険性からか、エアーズロックのそばには近づけず、巨大な岩山の周囲を回る遊歩道しか歩けない。

 

エアーズ・ロックの西側約45kmに位置する奇妙な姿の岩山が当方の目を引いた。

 

人間の頭のよう形をした巨大な岩山が複数ある。 アボリジニ言葉で<たくさんの人の頭の山>という意味のカタ・クジュータ(Kata Kjuta)と名の岩山の山脈のようだ。

一番高い岩山は地上から500m以上の高さがあるという。

 

この奇妙の形の岩山と岩山の間の谷を岩壁に沿って奥に入れる。

ニューヨーク・マンハッタンの巨大な超高層ビル群の谷間に入る感じだ。もちろん高層ビル群より迫力がある。

 

この周囲をオートバイで約5時間程駆け回った。国立公園が広いため、2つの聖地の山を往復したりするだけで約200kmの距離を走行した。

 

日中は暑さを避けてキャンプ場の日陰で涼む。

空気が乾燥しているため、日当たりでは汗がでる暑さだが、日陰に入れば涼しくて気持ちが良い。

(エアーズ・ロック=Ayers Rockの約150km手前にあるマウント・コナー=Mt. Conner 高さ約500m)

 

(ハエが大群が襲ってくるのでハエ除けネットは必需品だ)

 

(朝日を浴びるエアーズ・ロック=Sunrise)

 

(日没前の夕日を浴びるエアーズロック)

 

(カタ・クジュータ=Kata Kjutaと呼ばれる人の頭をした岩山)

 

(カタ・クジュータの岩山と岩山の谷間をぬうような散歩道)

 

(エアーズ・ロック・キャンプ場=Ayers Rock Campground)

 

(蚊帳を木につっただけのテントでキャンプする人もいた)

 

4/164/18 Ayers Rock ResortYulara)~Alice Springs 470km (アリス・スプリングス3泊)

 

Ayers Rockから2日前に泊まったエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)へ引き返し、再度スチューワート・ハイウェイーを北上してアリス・スプリングス(Alice Springs)まで進む。

 

一日の走行距離としては長くないが、30分走行するかしないかのうちに強烈な睡魔が襲ってくる。

連日のテント泊で疲れているのか、出国前の蓄膿炎が全快せず睡眠時に呼吸が乱れて睡眠が浅いためか判らないが、30分毎に小休止していてはなかなか先に進めない。

 

250km走行した後、エルデュンダ・ロードハウスのカフェで30分ほどカプチーノを飲みながら休息後は体も楽になった。

 

その後は頻繁に眠くならなかったので、16時頃には宿泊地のアリス・スプリングスに到着した。

 

アリス・スプリングスではキャンプ泊は避けたかった。

 

到着前日にはBooking.Comのホテル予約のサイト上で唯一の空き部屋の料金は500豪ドル(約5万円)だった。 当日Booking.Com上では空き部屋があるホテルは無くなっていた。

 

現地でホテルかホステル探せば何とかなるだろうと考えていた。

3軒ホステルとホテルを回ったが、すべて満室だった。

 

後で判ったことだが、アリス・スプリングスではフェスティバルが当日まで催されて観光客でにぎわっていたようだ。

 

こんな時オートバイに積んでいるキャンプ道具が役立った。行きついた先は有料のキャンプ場だった。

このキャンプ場(Alice Springs Tourist Park)に当方がチェックインした際、テントが張れる最後の一区画を残すだけだった。キャンプ場の料金は一泊37豪ドル(約3700円)

(緑の木々が多くなったエルデュンダ(Erldunda)から

アリス・スプリングスへ向かうスチュアート・ハイウェイ)

 

(スチュアートハイウェーを最高速度110km~130kmで疾走するトラック・トレイン。

州によって最高速度は異なる。南オーストラリア州の制限速度は時速110kmだが、ノーザン・テリトリー州は時速130kmだ)

 

 

(小さなコミュティーと都市を結ぶ定期飛行機の滑走路は赤土を固めただけだった)

 

(ハイウェイ沿いの無人の休憩所)

 

(休憩所の中にはトイレがあったりする場合もある)

 

翌日はアリス・スプリングス観光

 

アリス・スプリングスはこの砂漠の中では人口約2.5万人の一番大きな都市だった。

1870年~1872年にかけて南のポート・オーガスタと北部のダーウィン(Darwin)の3,200kmを電信線でつなぐ一大事業を行った。

 

この時の電信ケーブル敷設の監督役(Superintendent)がチャールス・トッド(Charles Todd)で、その夫人がアリスだったことから、アリス・スプリングス(泉)と命名した。

 

実際に電信施設跡の横には150年前と同じところに泉のような池があった。実際は泉ではなく、降雨が川の一角に溜まったものを泉に勘違いしたらしい。

 

ここでは町を一望できるアンザックの丘(Anzac Hill)、 1872年に完成した電信施設を復元した施設跡と約50年前から遠隔地の牧場や観光施設等で働く家族の子供たち向け通信遠隔小学校(Alice Springs School of the Air)を見学した。 

 

コロナ禍でリモートワークやリモートで学校の授業を受けることができるようになったが、オーストラリアでは50年前からリモート授業を行っている実績がある。このリモートでの学校は日本の4倍の広さの校区をカバーするという。毎年約120名程度の小学生がリモートで授業を受けている。

 

この日ドミトリー形式だが、やっとベットがあるホステルに投宿した。

Alice’s Secret Travellers Inn (3人部屋で一泊38豪ドル=3,800円)

 

ブログの更新には手間がかかった。ブログ用の写真を撮っていたカメラが壊れてしまい、スマホ写真を使いだした。

 

そのスマホから写真をSDカードに移行する際に、誤ってSDカードを初期化(データが消える処置)してしまった。

 

半日かかっても写真データは復元できず、結局ライン等のSNSに残した数少ない写真で対応することにした。 

 

記念になるような場所や物を撮影したが、データが無くなってしまったのは残念だった。

 

 

 

(アリス・スプリングの町。最高温度は45℃、最低はマイナス7.5℃を記録したことがあると言う。

写真は背後のMt.Gillenには雪が積もったこともある。

アリス・スプリングスは南回帰線のちょっと南に位置する。北半球に当てはめると台湾の台北市あたりの緯度だろう)

 

(1872年に完成したアリス・スプリングスの通信施設=Telegragh Station。北のダーウィンと南のポート・オーガスタ間の約3,200kmが通信線で結ばれ、インド洋やインドネシア等の一部の海底ケーブルの区間を含め英国とオーストラリアのポート・オーガスタ間が電信でつながった。)

 

(19世紀の電信・郵便事務所のカウンター)

 

(19世紀のアリス・スプリングスの泉は通信施設の横にあった)

 

(現在も19世紀と同じ場所にある泉。実際は泉では無く、雨水がたまった場所だ)

 

(19世紀に南のダーウィン付近で通信用の海底ケーブルを敷設する作業)

 

(19世紀の原住民の生活風景)

 


(19世紀後半の泉とアボリジニの人々風景)

 

 

以上

 

ツーリングルートの概略

 

メルボルンに到着後、オートバイツーリングを開始するメルボルンの南東約150kmに位置するコラック(Colac)へ電車で向かう。 コラックからオートバイを乗り出し、風光明媚なグレート・オシャーン・ロードを走りぬけ、ウオーナンブール(Warrnambool)~ナラコーテ(Naracoorte=世界遺産の数十万年前の哺乳類化石群洞窟)~南オーストラリア州の州都アデレード~中央砂漠地帯への入口の町ポート・オーガスタへと進んだ。


(Melbourne=メルボルンは地図の一番右側。ピンク色の線はツーリングルート。ただしメルボルンからコラックは電車で移動。地図の左上はPort Augusta=ポートオーガスタの位置)

 

 

詳細は以下の記する。

 

43日メルボルン到着

 

成田空港を4/2に夜8時過ぎに出発してケアンズ経由メルボルン空港の国内線ターミナルへ翌日午前11時過ぎに到着した。

 

空港に到着してまずやらねばならないことはオーストラリアの携帯電話のSIMカードを買うことだった。

国際線のターミナルへ移動してオーストラリア国内ではNo.2Optusという携帯電話会社のSIMカードを買った。

 

28日間有効で60Gのデータ通信と国内電話かけ放題と日本も含む海外十数ヶ国へは400分の通話が可能なパッケージで25豪ドル(約2500円)とかなりお得だ。

 

テレストラ(Telestra)が国内最大の携帯電話会社だったが、SIMカードを販売するブースは空港には見当たらなった。

 

メルボルンの約150km南東に位置するコラック(Colac)という町で日本人の若者Mさんがメカニックとして地元のオートバイ店で働いている。

 

当方が借りる知人のオートバイはその日本人のMさんが整備を行ってくれている関係で、当方は翌日コラックへ電車で向かい、同オートバイ店からツーリングをスタートした。

 

借りたオートバイはスズキVストローム250。水冷250ccエンジン搭載のロードタイプのオートバイだ。

当方はBMW F700GS(800ccエンジン)とヤマハ・セロー250(250ccエンジン)を所有するが、Vストロームは250ccエンジン搭載モデルの割には重量感があり当方のBMW F700GSに似た感じだ。 足場が悪かったり、停車時にバランスを崩すと車体重量が重いため、立ちごけしそうな感じがする。

 

メルボルンの宿はサザンクロス駅から徒歩20分程度に位置するThe Village Melbourneというドミトリー形式のホステル(一泊42豪ドル=約4,200円)4人部屋ながら当日は当方一人で部屋を占有した。

(メルボルンのサザンクロス駅=中央駅付近。高層ビルと庶民感覚の下町が共存する)

 

202444日(木)ColacからGreat Ocean Road 経由Warrnamboolまで160km

 

心配したほど寒くもなく、気温20℃程度の薄曇りの中、海沿いを通るグレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所に立ち寄りながらコラックから160km程先のワナンブール(Warrnambool)を目指す。

 

なだらかな牧草地の丘が広がる風景は、北海道の富良野の似ていると思った。

海側に出ると断崖絶壁で風光明媚な観光名所が数多くある。メルボルンから日帰りで訪れるには丁度良い場所故、中国、韓国等のアジア人観光客が多く訪れていた。

 

その日はWarrnambool(ワナンブール)市内のThe Cally Hotelという一階がパブになっている歴史がありそうな木造のホテルに宿泊した。木製の廊下を歩くとギシギシと音が出て、年代物だと感じられた。宿泊料は素泊まりで80豪ドル(約8千円)と当地では一番安いクラスだ。

 

人口数千人位の小さな町故、まだ明るい夕方6時台でも通りを歩く人々はほとんど見かけない。

 

(Colac=コラックのオートバイ店からオートバイツーリングを開始した)

 


(Colac=コラックからグレート・オーシャン・ロードへ向かう丘陵地)

(グレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所の12Apostels=12人の使徒)

 

(アジア系観光客が多かった12Apostelsの展望台)

 

(グレート・オーシャン・ロード沿いのギブソン・ステップス=Gibson Stepsの断崖)

 

(Warrnambool=ワナンブールの町)

 

(Warrnamboolで宿泊したThe Cally Hotel)

 

 

45日(金)Warrnambool(ワナンブール)からNaracoorte(ナラコーテ) 290km、翌日は世界遺産のナラコーテ化石群洞窟を見学

 

Naracoorte(ナラコーテ)は1994年に世界遺産に登録された。

50万年前から数十万年前の哺乳類の先祖の化石群が洞窟内で大量に発見された場所である。

 

化石に興味があるわけでも無いが、世界遺産という言葉に惹かれての訪問だった。ここでは管理事務所(Vistor Center)で入場料を払い、ガイド付きの見学だった。

 

ワナンブールからナラコーテまでのルートは幹線道路もあったが、道幅が3m程度と車一台しか通れない狭い道もあった。スマホカーナビのMaps.Meでは道幅に関係なく最短距離を示すので、たびたびこのようなことがある。

 

当方は田舎道をのんびり(と言っても時速80km)でツーリングをするのが好きなのでちょうど心地よいツーリングとなった。

 

ビクトリア州から州境を超えて南オーストラリア州には入ると一面ブドウ畑が広がる。このあたりから

南オーストラリア州の州都であるアデレード(Adelade)までブドウ畑が広がり、オーストラリアワインの一大産地となっている。

 

(牧場や牧草地の間をぬう農道)

 

 


(並木道の地方道)

 

(Victoria=ビクトリア州からSouth Austraria=南オーストラリア州へ入る)

 

 

 

(南オーストラリア州に入ると広大なブドウ畑が広がっていた)

 

(ナルコーテの町中心部)

 


(ナラコーテの不動産屋の農地の売り物件。2000ヘクタールの農地が1億数千万円)

 

コロナ禍が発生した時、オーストラリアの当時の首相がコロナ禍の原因を調査すべきと国際社会に訴えた。それに激怒した中国政府はオーストラリア産ワインに高率の関税をかけ、中国へのワイン輸出がほとんど止まったことがあった。

 

これだけ豊富なワインはオーストラリアだけでは消費出来ない。

日本や欧米へも輸出しているが、消費量が多い中国への輸出が止まれば、ワイン生産者は大きな打撃を被っただろう。

 

現在のアルバニージー首相になってから中国との関係が改善され、オーストラリアワインの関税率も引き下げられたと聞く。

 

ナラコーテではキャラバンパーク(Big 4 Naracoorte Holiday Park)という大型キャンピングカーでも駐車でき、シャーワーやキッチン(夏にはプールもある)等の設備が整ったキャンプ場で2泊した。

 

日中の気温は25℃程度だが、日差しが強い。そのため、汗だくとなってオーストラリアツーリング直前に購入した一人用テントを設営した。キャンプ場使用料は一泊31豪ドル(3100円)。

(ナルコーテのキャンプ場で一人用テントを設営)

 

夜キャンプ場で南半球の星座が見れると期待したが、キャンプ場の街灯が夜空を明るくして、ほとんど星座は確認することが出来なかった。

 

昼間は25℃程度と汗ばんだが、早朝の気温はダウンジャケットが必要なくらいの6℃7℃位まで冷え込んだ。

 

ナラコーテ化石群は洞窟内で発見された50万年前から十数万年前の数百種類の哺乳類の先祖の骨格や骨だった。

 

50万年前から数十万年前という長い期間に当時の動物が落とし穴の様に植物等で隠れた地面の小さな穴から洞窟内に転落して、洞窟内で死に絶え、その骨が保存が良い状態で発見されたという。

 

その洞窟周辺にハイキングコースがあった。一人でブッシュの中を歩いたが、落とし穴のように隠れた穴があるようだ。

(Narcoorte Caves Park=ナルコーテ洞窟公園のビジターセンター)

 

(ビジターセンター内の数十万年前の絶滅した哺乳類の先祖。写真左側は鼻が短いカンガルー。右側はオーストラリア大陸の食物連鎖の頂上に立っていた肉食獣のライオンの一種)

 


(骨格や骨の発掘が一番多いビクトリア洞窟の出口)

 

(ビクトリア洞窟で見つかった鼻が短いカンガルーの骨格)

 

 

47(日)ナラコーテ(Naracoorte)から南オーストラリア州の州都アデレード(Adelaide)340km

 

4/7からオーストラリアは冬時間となり、ナラコーテ出発前に1時間時計の針を遅らせた。

 

夜露でテントが濡れているので朝日を浴びテントが乾くまで撤収を待つ。

この日は曇天後、晴天となったが、風は冷たい。ライディングジャケットの下にはダウンのベストを着込む。

 

本日のルートは幹線道路が多いため、快適なツーリングではない。片側一車線の道路の制限速度は時速110km

 

当方が遅いと、後続車が列をつくるので他の車にあわせて高速走行となる。 非力の250ccエンジンのオートバイではつらい。また、オートバイには申し訳程度の大きさのウインドシールドがついているが、風よけには不十分である。高速走行では上半身に強い走行風を受けるため疲れる。

 

当方は出国前から鼻のアレルギー(花粉症)をこじらして、蓄膿症(ちくのうしょう)を患ってしまった。かかりつけ医に薬を出してもらったが、頭痛と喉の痛みのためオートバイの運転時は辛かった。

早くアデレードに到着して休憩したい思いで先を急いだ。

 

アデレードでもモーテルやホテルは最低でも一泊100豪ドル(約一万円)するため、ドミトリー形式の

宿(Adelaide Travellers Inn Backpakkers Hostel)に2泊することにした。

 

利用客はバックパッカー姿で旅行する欧州からの若者がほとんどだ。オーストラリアには中高年は宿泊できない若者専用のドミトリー形式のホステルが多いと聞くが、この宿には年齢制限がなかった。

 

欧米のドミトリーは男女共有の部屋となっているタイプが多いので、同室の女性客が着替える際には目のやり場に困る。もっとも宿泊客はそんなことは全く気にしない。

 

この宿で祖父の代にインドからフィジー島へサトウキビ畑の労働者として移民してきたニュージーランド国籍のインド系の初老の男と身の上話をした。

 

その男はニュージーランドのオークランドに在住だが、職を求めてアデレードへ一人で来たという。 宿に滞在中にアデレードにある工場で採用面接を受けることになっていると言う。

 

処遇は時給30豪ドル(約3千円)という。ニュージーランドよりアデレードのほうが給与(時給が)が高いようだ。ちなみに

ニュージーランドの最低賃金は時給24.75ドル(約2,475円)とその男から聞いた。

 

日本人の感覚では、ニュージーランドからわざわざアデレードまで求職に来るのかと不思議に思ったが、ニュージーランドとオーストラリアではEUのように両国間で移動の自由と求職の自由が相互に認められているという。ちょうど日本で地方在住の人が、職を求めて東京や大阪へ行くような感覚だろう。

 

翌日は散歩しながらアデレード街の雰囲気と博物館や美術館巡りで楽しむ。

 

(国道沿いの休憩所)

 

(アデレード博物館の外観)

(アデレード博物館には原住民だったアボリジニの展示品が充実していた)

(アデレード美術館の展示品。1799年のシドニー湾の風景)

 

(アデレードのメインショッピング街ランドル通り。左側にユニクロの店舗があった)

 

(アデレードのビジネス街。写真中央のビルの建物上部にはオーストラリア最大の時価総額の資源鉱物企業BHPの看板が見える)

 

49日(火)アデレード(Adelaide)からポート・オーガスタ(Port Augusta)360km

 

この日も幹線道路を避けてほとんどB級国道を通行する。300km以上に渡り、道路沿いの風景は単調だった。牧草を刈り取った農地が見渡す限り広がっている。

(刈り取った後の牧草地の景色が続く)

 

 

ポート・オーガスタ付近には銀、亜鉛、鉛等の地下資源が豊富で鉱山が多いと前日のアデレード博物館で知った。 

 

その鉱物を約500km東のブロークン・ヒル(Broken Hill)の町から運搬する数百両連結の列車を途中の町で目撃することができたのラッキーだった。

 

アフリカのモーリタニアで見た石炭運搬の2百両連結の列車が今まで見た中で最長の列車だったが、オーストラリアの鉱物運搬列車はそれを凌駕する長さだった。

 

ポート・オーガスタが近づくに従い風が強くなる。曇天で気温が低いので、ダウンベストをライディングジャケットの下に着込んでいても寒かった。頭痛と悪寒がするため、ポート・オーガスタの市内へ入る直前のモーテルで一泊することにした。 宿泊はHighway One Motel 一泊90豪ドル(9千円)。

 

夜中に体温が38度以上になり、風邪の症状が出てきたため、翌日はモーテルで静養して体力の回復を図った。

(途中の寄ったGladstoneという名の小さな町の歴史的なホテル。1880年立てられ現在も使用されている

Commercial Hotel)

 

 

(Gladstoneは午後2時ごろ(昼食休み)とあって人通りは無かった)

(Gladstoneの町で見かけたブロークン・ヒルから鉱石を運ぶな貨物列車)

 

(ポート・オーガスタが近づくと風が強くなってきた。寒さを我慢して走行していたら風邪を引いてしまった)

 

(ポート・オーガスタ手前ののHighway One Motel)

(Highway One Motelの室内。やはり一人でゆったりできる部屋が有難い)

 

以上

 

オーストラリアツーリング計画 (2024329記)

 

昨年7月にオートバイでのアジア・中近東ツーリングはスペインで終了した。

そのツーリングを計画した当初は開始から1年以内にオーストラリアでツーリングを終了できればいいなと希望的な考えを抱いていた。

 

しかしながら、マレーシアからスタートしたツーリングはタイからミャンマーを陸路を走破してインドへ進むことができなかった。ミャンマーの国境が外国人旅行者にはコロナ発生以来ずっと閉鎖中だったからである。

そのため、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

その海上輸送の準備やインド亜大陸の周回ツーリングは考えていたより時間がかかった。

そのため、ツーリング期間の後半には中近東からオーストラリアへ渡りることは時間的に余裕がないと判断して、オーストラリアツーリングを諦めた経緯があった。

 

当方は、今回のオーストラリアツーリングの計画は前回のアジア・中近東ツーリングの続きだと位置づけている。

 

今回のオーストラリアツーリングは20244月初旬にメルボルンの南西約100km程に位置するコラック(Colac)という小さな町からスタートして、オーストラリアのほぼ中央部にある世界最大の一枚岩で出来たエアーズロックを進む。

そしてオーストラリア中央部を更に北上後、オーストラリア北東の沿岸部のケアンズへと走行する。

 

ケアンズからオーストラリアの東海岸に沿ってタウンズビル~ブリスベン~シドニーへと南下して、その後メルボルンへと時計回りにオーストラリアの東半分を周回する計画だ。想定走行距離は約1km1.2万kmだろう。 

 

 

(上下の地図の赤線が計画しているツーリングルートだ。時計回りにオーストラリアの東側を周回する計画だ。下の地図は日本の中学生用の社会科の地図帳からコピーしたものだ。地図上には仮に日本が南半球にあった場合の緯度と大きさを表示している。)

 

ツーリング期間は2ヶ月前後を想定している。ビクトリア州やニューウェールズ州等の南部地域の気候次第ではツーリングを切り上げる可能性もある。北のケアンズから東海岸沿いに南下するに従い気温が下がり、5月になればオーストラリア南部のビクトリア州やニュサウスウェールズ州の寒さが増すからだ。

 

 

南半球のオーストラリアは北半球に位置する日本と季節は逆だ。

オーストラリアの南部州(シドニーが位置するニューサウスウェールズ州やメルボルンがあるビクトリア州)は既に秋に入り、4月には日本の東京の10月下旬~11月のように寒くなりつつある聞く。5月に入れば更に寒くなる。

 

他方ケアンズが位置する北部のクイーンズランド州は年中を通して常夏の熱帯・亜熱帯性の気候だ。日本の約20倍の面積があるオーストラリアならではの変化に富む気候帯が広がっている。

 

今回のツーリングで一番気になるのは5月に入ってからのビクトリア州等の寒温帯気候のオーストラリア南部地域でのツーリングだろう。

 

寒さ対策の準備はしているものの、冷たい風を切て走行するオートバイツーリングはきついし、体にこたえる。 我慢できない寒さなら、計画より早くツーリングを終了するかもと弱気になるだろう。

 

更に、オーストラリアの物価高(円換算)も気になる。日本の2倍以上のの物価水準だろう。

20229月~20237月のアジア・中近東ツーリング時でも円安のため、現地の物価は10年以上前までの円高時代のような割安感が無くなっていた。

 

物価対策として従来の海外ツーリングでは全く行わなかったキャンピング場等でのテント泊を、特に安価な宿泊施設が無いアウトバックと呼ばれるオーストラリア中央の砂漠地帯で試してみるつもりだ。

どのような体験になるだろうかと覚悟と楽しみがまじわった気分である。

 

尚、オーストラリアの中心的産業である石炭や鉄鉱石等の地下資源の開発や鉱山事業の現場はオーストラリアの
西部地域に多い。

 

今回のツーリングでは西部地域へは行かないので、当方が興味を持つ鉱山事業の現場見学ができないのが少し残念だ。

 

(オーストラリアでは上の写真と同一のスズキ・Vストローム250を知人から借りる予定。250ccエンジンのオートバイの割には車重は約180kgと重い。

 

下の写真のライディングジャケットの上腕の部分にはオーストラリアと日本の国旗ワッペンを付けた。

海外ツーリングでは現地の人たちに当方がどこから来たのかとよく聞かれるため、口で答えるより国旗ワッペンを見せて分かりやすくする工夫をした。

 

以上

 

 

単独のオートバイツーリングはユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断を初回として、2回目のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断、そして3回目のアジア・中近東ルート(最終地点はスペイン)だった。

走行ルートと走行した国々は以下の地図と記述を参照してほしい。

 

 

初回 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 2017年5月~2018年7月 14ヶ月 走行距離約76,000km=世界地図上の紫色の線)

 

2017年5月に鳥取県境港市からオートバイとともに韓国DBS社のフェリー船に乗り、船上2泊3日でロシアのウラジオストックへ渡り、ウラジオストックからロシアをヨーロッパ方向に向けてユーラシア大陸横断をスタート。

 

途中モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア(現北マケドニア)~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツェゴヴィナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア(ナポリでバイクの盗難に遭う)~フランス~スペイン~ポルトガル(ユーラシア大陸最西端のロカ岬)~再度スペイン。

 

 

 

2017年10月にスペインのマドリッドからオートバイを空路にてアルゼンチンのブエノスアイレスへ運ぶ。

 

南北アメリカ大陸縦断スタート)南米ではアルゼンチン・ブエノスアイレスから北上してブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン(最南端のフエゴ島ウシュアイア目指す)~チリ~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア。

 

そしてコロンビアのボゴタから中米パナマのパナマ・シティーまでオートバイを空輸後~コスタリカ~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーズ~メキシコ(メキシコ・カンクンにオートバイを置きキューバをバックパックで旅行)~アメリカ~カナダ~アラスカ~再度アメリカ。

 

2018年7月にツーリングをアメリカのロサンゼルスで終了して同地からオートバイを日本へ海上輸送で送り返す。

 

2回目 アフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 2019年5月~同年11月 6ヶ月 走行距離約34,000km=世界地図のブルー色の線)

 

日本からスペインのバロセロナへオートバイを海上輸送後、2019年5月にスペインのバロセロナからツーリングを開始した。

 

スペイン~(アフリカ西ルートのスタート)モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~(ナイジェリアとカメルーン間は海路で国境を超える)カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ(飛び地)~コンゴ民主共和国~再度アンゴラ~ナミビア~南アフリカ(アフリカ東ルートのスタート)~ボツワナ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン

 

スーダンのサワキン(Sawakin)から紅海をサウジアラビア船籍のフェリー船でオートバイと一緒にサウジアラビアのジェッダへ渡航。

 

アラビア半島横断スタート)サウジアラビア~バーレン~再度サウジアラビア~2019年11月にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了して同地からオートバイを海上輸送にて日本へ送り返す。

 

3回目 アジア・中近東ルート(最終地点はスペイン) 2022年10月~2023年7月 10ヶ月 走行距離39,000km=世界地図赤色の線

 

東南アジア6カ国

日本からマレーシアのポート・ケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送後、2022年9月にマレーシアからツーリングをスタートする。

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイクを使用)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ。タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送。インドへオートバイを輸送期間中にベトナムでレンタルバイクを使用してツーリング。

 

インド亜大陸=インド・ネパール・パキスタンと中近東=イラン・トルコ

2023年1月末にインド・ムンバイでオートバイを引き取り、インドア亜大陸のツーリングをスタート~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~オートバイを日本へ海上輸送するためスペインのマドリッドまで走行(トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン)。

 

2023年7月にスペインのマドリッドから海上輸送にてオートバイは日本へ送り返す。

 

ツーリングに使用したオートバイはBMW F700GS(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断)とヤマハ・セロー250(アフリカ3/4周とアラビア半島横断及びアジア・中近東ルート)。

 

アジア・中近東ルートのインドネシアとベトナムではレンタル・バイク(小型スクーター)を使用した。

 

BMW F700GS(ツーリング出発前の日本にて)

 

(南米ペルーを走行時のBMW F700GS)

 

(ヤマハ・セロー250 アフリカ・ツーリング出発前の日本にて)

 

(アフリカ・コンゴ共和国を走行時のヤマハ・セロー250)

 

 

(イランを走行時のヤマハ・セロー250)

 

(インドネシア・バリ島を走行時のレンタルバイク=ホンダ・ビート125)

 

(ベトナムを走行時のレンタルバイク=ヤマハのスクーター エンジン130cc)

 

以上

 

 

テーマ別一覧にて過去の投稿記事の検索が容易

 

従来、当方ブログ(Ameblo)の過去の投稿記事の検索がし難くかった。

 

そのため、例えば、2019年に行ったアフリカ3/4周とアラビア半島横断ツーリングの投稿記事に関心があっても、その投稿記事を探すのが容易ではなかった。

 

今回、当方が2017年の最初の海外ツーリング、<ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断>から投稿した記事を以下のテーマ別にも区分けした。

 

ブログを読む時間があまり無い人は総集編を読んでもらえれば、各ルートのツーリングのハイライトが判るようになっている。

 

また、各国、各ルートの詳しい状況が知りたいのであれば<ユーラシア大陸横断>や<南北アメリカ縦断>等の各ツーリングルート別(テーマ別)に表示されている詳細な投稿記事を参照することができる。

 

特に今後、海外ツーリングを行いたいライダーには各ルート別(テーマ別)に表示されている個別の投稿記事の国境通過の情報が参考になると思う。

 

 

テーマ別一覧

 

総集編(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ)

総集編(アフリカとアラビア半島横断)

総集編(アジア・中近東ルート)

海外バイク・ツーリング計画

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ユーラシア大陸横断(ロシア・モンゴル)

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南北アメリカ大陸縦断(南米)

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アジア・中近東ルート(インド亜大陸等)

アジア・中近東ルート(イラン・トルコ)

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尚、パソコンでブログを閲覧する場合は、当方ブログ<インベストメントライダーふるさんのブログ>画面の左側横をスクロールすると<最新の記事>の下に<テーマ>別の一覧が表示されている。

 

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(ブログ画面中央のテーマをクリックするとテーマ一覧が表示される)

 

 

(上記テーマ一覧の各テーマ(ルート)をクリックすると各投稿記事が表示される)

 

以上