ケアンズからグレート・インランド・ウェイ経由ブリスベンへ進む(Cairns ~ Great Inland Way ~ Brisbane) 2,000km(4/25 ~ 5/5 )
(要約)
ケアンズの後はオーストラリア東海岸沿いに南下する計画だった。
ケアンズから約350km 南のタウンズビル(Townsville )まで海岸沿いの国道(Bruce Highway)を進んだ。
対面通行の国道は交通量が多く、絶えず後方に続く車が当方に迫ってくる。
当方は後ろに続く車の邪魔にならないようにスピードをあげるが、自分の走行ペースが乱れて居心地が悪い。
タウンズビルで訪れた博物館の職員に19 世紀にゴールドラッシュで栄えて、今も当時の面影を残す内陸にあるチャーターズ・タワーズ(Charters Towers )への観光を勧められた。
また、チャーターズ・タワーズから東部海岸と並行して内陸部を1000km 以上南下するグレート・インランド・ウェイ=Great Inland Way がクイーンズランド州の観光地図に車で旅をする人たちへ推奨ドライブルートとして載っているのを見つけた。
ルートの途中には絶景の渓谷があるカルナルボン国立公園があることを知った。
この場所をぜひ訪れようと走行ルートを急遽内陸ルートにした。
タウンズビル~ゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズ~クレモント(Clermont )~カルナルボン国立公園(Carnarvon National Park )~ミルズ(Miles )~ブリスベンへと約1 週間かけて
走行した。
見どころはアメリカ映画の西部劇に出てくるようなゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズの街並みと各種の観光ツアーだ。
当方は金を含む原石から金を摘出する元作業所(Gold Battery )のツアーに参加したが、元作業所が半分朽ちた廃屋とは知らず、少しがっかりした。
チャーターズ・タワーズの夜の墓のツアーや金の幽霊ツアー等の有料の観光ツアーもあった。
それからカルナルボン国立公園の渓谷だろう。枯れ川の谷底から見上げる川の両側に立った崖は見ごたえがあった。
この国立公園に至る農道ではカンガルーやディンゴが目の前で道路を横切るのを見た。野生の動物が身近に感じられた。
詳細は以下に記述する。
(19世紀の面影が残るチャーターズ・タワーズの中心部)
(カルナルボン国立公園内の枯れ川の谷底)
(オーストラリア東海岸のケアンズから内陸路=グレート・インランド・ウェイを進んでブリスベンまでの走行ルート(ピンク色の線)。赤丸印が宿泊地。写真のデジタルサイズを専用アプリで縮小したら縦が圧縮してしまった。海岸沿いの地図右上がケアンズ。右下がブリスベンの位置)
(オーストラリア東半分の地図。本来は右側が北になる。赤線はメルボルンの近くコラックからブリスベンまでの走行ルート。走行距離は8千kmに達した。)
4/25 ~ 4/27 ケアンズ 3 泊
ケアンズの3 泊はあっという間だった。
ケアンズ滞在中の一番の目的はブログの更新と携帯電話のSIM カードの更新だった。
ブログを更新している合間に市内を散策して、南国リゾートの雰囲気を味わったり、オートバイで
約160km 走行してイチジクの根のカーテン(Curtain Fig Tree )を見に行った。
ケアンズでは南国らしい熱帯雨林の木々が街路樹や遊歩道に植えられ、熱帯の雰囲気を醸し出す。
しかしながら、ハワイのように一目で観光客と思われる人々の姿は多くないと感じた。
街並みは1980 年代のような2 ~3 階建ての建物と歩道をすべて覆うアーケードの屋根だった。
日本の地方都市の昔の商店街を彷彿させるような街並みだった。
観光客はケアンズには留まらず、ここを起点にグレート・バリアー・リーフの観光を楽しむだろう。
この町にはワーキング・ホリデーの制度を利用してアルバイトをしながらオーストラリア旅行を経験する海外の若者が、ビザの更新のためケアンズで仕事を探すと聞いた。
ワーキングホリデーでは1 年のビザが付与されるが、ビザの更新が可能だ。 ビザの更新には地方である一定期間働く必要があるようだ。 ケアンズにはアルバイト先を探したり、アルバイトしている外国の若者が多くいる。
投宿先のホステルで、当方はそのようなビザ更新のためケアンズにアルバイトををしながら滞在している日本人女性と話す機会があった。
(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Treeがある熱帯雨林。手摺がある歩道デッキの奥にカーテン・イチジクの木があった)
(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Tree。高さ15mぐらいある。)
(カーテン・イチジクの木は当初、他の大木の枝に芽生え、イチジクの根が地に降りるように成長して大木を倒し、大木に寄生するように成長した過程を説明した案内図)
4/28 ~ 4/29 タウンズビル( Townsville )に 2 泊
ケアンズからタウンズビルへブルース・ハイウェイ(Bruce Highway )を海岸沿いに約350km 南下する。
移動した日はケアンズを出発するときから雨だった。 350km を走行しても、時々曇ることはあっても終日ほとんど雨だった。
時々豪雨となり、前方を走行する車の姿が見えなくなる。レインウェアに当たる雨水の粒が大きくて、
腕に雨水の衝撃を感じる。 レインウェイを着ていても、豪雨には勝てず、水が衣服にしみてきて寒くなる。
途中のロードハウスで、暖をとるため熱いカプチーノを買い求めた。そして着ていた長袖のT シャツを脱ぎ、それまで着用していなかった厚手のライディングウェアをレインウェアの下に着用して暖を取った。
やはり、雨天のオートバイ走行はいやだ。
走行中に、反対車線の車に驚いた小鳥が飛び出してきた。 足元でカーンと何かが金属に当たる衝撃音が聞こえた。
路肩にバイクを止めると、小鳥がエンジンの鉄製のアンダーガードに衝突した跡があった。
小鳥は、即死したようだ。
小鳥が当方の足に当たっていたら、当方は足にけがをしていたかも知れないとぞっとする。足に当たればそれなりの衝撃を受ける。
そうなれば、ハンドル操作を誤って、オートバイと一緒に転倒する危険性もあった。 そんなことにはならず、無事で何よりだった。
ブルース・ハイウェイは交通量はそれなりにあるが、やはり対面通行の道路のため
当方の後方から車が近づいて車間距離が短くなると威圧感を感じる。
そのため、タウンズビルから先は幹線道路を避けて南下するルートを検討した。
タウンズビルでは町の中に高さ260m の砦のような丘がある。その丘の上からタウンズビル周辺が一望できるとガイドブックに書いてあった。 興味をそそった。
その丘から周囲の地形をみると、海岸沿いに平地が広がり、その奥( 内陸側)) には大分水嶺山脈(Great Dividing Range) が南北に連なっているのが良く判る。
タウンズビルではサンゴ関連の研究所を備えた水族館(Tropical Aquarium )があると旅行書にかいてあったので、グレート・バリアー・リーフの実物の代わりに水族館でその気分を味わおうと出かけた。
しかしながら、水族館は壁が壊れて2019 年に取り壊したままで、再建の目途が立っていないと
水族館横のタウンズビル博物館の受付の館員が教えてくれた。
この受付の館員は暇なのか、当方が水族館を見たくて残念がっていると、タウンズビルの歴史をとうとうと30 分ぐらい説明してくれる。
タウンズビルはその昔、オーストラリア東海岸ではシドニーに次いで2 番目に栄えていたという。内陸から集積される金、銀、銅や家畜等をタウンズビルから輸出したという。
アジアから入る貿易船はオーストラリアで最初にタウンズビルに寄港したという。 当時の栄えた様子が、港があった川沿いの街並みに残っているという。当時の銀行や商社、ホテルや飲み屋の建物が確かにある。
この館員がタウンズビルから150km 程度内陸にあるチャーターズ・タワーズ=Charters Towers を訪れることを勧めてくれた。 チャーターズ・タワーズは19 世紀後半ゴールドラッシュで栄えた町で、今でもその面影が残るという。
当方は交通量が多い東海岸沿いのハイウェイを南下するのは乗る気で無かったので、これ幸いと
この話に乗り、翌日からの走行ルートを内陸のグレート・インランド道(Great Inland way )沿いに南下することにした。
(ケアンズからタウンズビルの国道沿いの広大なサトウキビ畑)
(タウンズビルのランドマーク的なキャッスル・ヒル=Castle Hill。高さ260m)
(キャッスル・ヒルからタウンズビルの町を見下ろす)
(キャッスル・ヒルから西側=内陸方向を見るとグレート・ディバイディング・レンジ=大分水嶺山脈が望める)
(キャッスル・ヒルズから北側=ケアンズ方向の海岸線を臨む)
(タウンズビル川河口にはかっては港があった。)
(貿易で栄えたころの建物が残るタウンズビルの街並み)
(昼間は人通りが少ない)
(タウンズビルのビーチ)
4/30 タウンズビル~チャーターズ・タワーズ (150km )
タウンズビルから真西に内陸へ入るオーバーランダーズ道(Overlanders way )をマウント・アイサ方面へ進む。
チャーターズ・タワーズで1871 年に金が発見された話が一気に伝えられ、一攫千金を狙う男たちが
チャーターズ・タワーに集まり、町ができたという。
19 世紀の面影が残る街並みは、道路に自動車がなかったら西部劇を見ているような感じの街並みだ。
この町には東海岸で最初に証券取引所が設立され、金鉱会社やその関連の株式が取引されたという。
また金地金の相場も立っていたという。
当方は鉱物資源には関心ある。 かって使われていた金を含んだ原石から金を取り出す作業所( 工場)のツアーがあると言うので、早速そのツアーに申し込みをした。
チャーターズ・タワーズでのモーテルとホテルが100 豪ドル未満なら宿泊したいと思っていたが、100 豪ドル未満の宿は無いので、町はずれのキャンプ場でテント泊になってしまった。
宿泊したキャンプ場はDalrymple Tourist Van Park (30 豪ドル)。
翌日、金を原石から取り出す元作業所ツアーに参加すると、元作業所は建物が崩れんばかりの廃屋だった。
そこにジーパン姿でカーボイハットをかぶったひげ面の中年の男がピックアップトラックで乗りつけてきた。
この男が、元作業所の説明をするというのだ。
1872 年から約100 年使われた金摘出の作業所では、金を含む原石を採掘者が荷車で持ち込み、原石の重量を計測して、原石を小石に粉砕するとこから始まる。
19 世紀の作業所故、簡単な機械装置の設備だ。
粉砕した金を含む原石を更に細かく砕き、水銀を加えて金を分離させるが、工場が出来た頃は化学的に金を分離する方法が発明される前のため、原石の半分は捨てていたという。
十数年後に化学的分離方法が発明された後には、廃棄された原石からも金が摘出されたという。
この作業所はあくまでも個人の採掘者が利用するもので、作用所の使用料が最終的に摘出された金の半分もしたと言う。すなわち採掘者と作業所経営者が金を折半したことになる。
金の分離には水銀を多量に使用した。その水銀を含む汚染水はそのまま廃棄されたため、後に井戸水を汚染することになり、住民の健康を害することになったという。
当時の住民の平均寿命は40 歳程度と言われていた。
この廃屋見学がガイドの説明付きとは言え、30 豪ドル(約3 千円)では高いと思った。
この程度の見学では観光客は満足しないのではないかと思った。
(チャールズ・タワーズの金が発見された丘=タワーズ・ヒルから町を臨む。 町の向こうには大平原が広がる。)
(チャールズ・タワーズの町の中心部は19世紀の面影が残る)
(19世紀のチャールズ・タワーズの町)
(チャールズ・タワーズの元株式取引所建物。現在はカフェやレストランに使用されている。)
(金の原石から金を取り出す元作業所=Gold Battery内の金を含む原石を粉砕する19世紀の機械装置)
(金を含む原石を採掘現場から作業所=Gold Batteryまで運んだ荷車)
(元作業所=Gold Batteryは現在廃屋だ。 屋根の上には蒸気を動力とするためのボイラーがあった。)
(キャンプ場に2年住み、地域で水関連の仕事をするウェーン氏からツーリング情報を教えてもらった。)
5/1 チャーターズ・タワーズ~クレモント( Clermont ) 約 380km
グレート・インランド・ウェイ=Great Inland Way を南下した。
クレモント=Clermont の町を観光しようと寄ったのではなく、このルートの先にカルナルボン国立公園=Carnarvon National Park へ行くために途中で宿泊したのみだった。
交通量が少ない。
先に走行したクイーンズランド北部と同様に、5 分~10 分程度に対向車とすれ違うぐらいだ。
マイペースで進める道路だ。
カンガルーが2 匹いきなり道路に飛び出してきた。危ないと思いオートバイにブレーキをかけ減速すると、更にまた2 匹飛び出してきた。 4 匹の集団だったが、5m ~10m 程度のまじかでカンガルーがジャンプしながら道路を横切る姿を初めて見た。
陸上競技の三段飛びでホップ・ステップ・ジャンプのようなリズムの走り方だから、ゆっくりとしたスピードだ。カンガルーが交通事故にあう理由が分かったような気がする。
クレモントの約200km手前のベルヤンド交差路(Belyand Crossing )の原野の一軒宿(ロードハウス)で一泊することを当初考えていた。
しかしながら、ロードハウスの設備が良くないため、約200km 先の次の町のクレモントのキャンプ場で宿泊することにした。
この地域もガソリンスタンドがある集落や町が各々200km 位は離れている。
クレモント・カラバン・パーク(Clermont Caravan Park ) テント泊30 豪ドル(3 千円)
(内陸部には高床式の家が多い)
(地方道では交通量は極端に少ないが、直線道路が続く)
(当初一泊しようとした道路横のロードハウス=Belyanndo Crossing Road Houseは文字通り一軒家だった。)
(クレモントのキャンプ場でテント泊)
(クレモントの小さな郵便局)
5/2 クレモント~カルナルボン国立公園( Carnarvon National Park ) 360km
クイーンズランド州政府の観光パンフレットでカルナルボン国立公園の大きな崖の写真を見た。この崖を近くで見てみたいと思って、急遽カルナルボン国立公園に寄り道することにした。
チャーターズ・タワーズのキャンプ場で当方に声をかけてくれた中年の男がいた。
自らもオートバイに乗るライダーと言う。 親切にも当方がこれから通るグレート・インランド・ウェイ沿いの見どころやカルナルボン国立公園についても教えてくれる。
国立公園内にキャンプ場があることを知り、そこを目指して行くことにした。
グレート・インランド・ウェイから逸れて40km 程度牧場と林に囲まれた農道のような田舎道を奥へ入るとキャンプ場(Big 4 Breeze Holiday Camp) があった。
ここに2 泊することにした。2 泊で105 豪ドル(10,500 円)と当方が泊まったキャンプ場で一番高かった。
(テーブル・マウンテンのような山。平原から山がある景色になる。)
(畑の井戸水を汲む水車。内陸部は荒れ地が多かったが、このあたりから大規模農地を見かけるようになった。)
(道路沿いには松の木ような細長い葉をつけた木があった。松の木の一種と思う。)
(カルナルボン国立公園のキャンプ場に現れるカンガルーの親子)
その翌日 (5/3 )、朝 8 時から行動を開始した。
キャンプ場から5km 程離れたトレッキング出発地までオートバイで乗りつけ、そこから片道約10km の森の中や渓谷沿いの小路を歩く。
国立公園内故、小川やクリークには橋がない。
川の中の飛び石を頼りに合計17 カ所の小川や瀬を渡る。 小川の中の飛び石を踏み外して小川の中に足を落とす人もいる。
森の中で他のハイカーの姿を見失うと少し心細くなる。
案内看板がある一本道のトレイル故、道に迷うことはないだろうと3 時間ほど歩くと終点になる。鉄砲水の勢いで削られている高さ30m ~50m の大きな崖が現れる。
乾季に枯れ川となっている谷底を進むと、枯れ川の両側が垂直に切り立った崖になっている。
もし突然、鉄砲水が出てきたら、岩の壁に叩きつけられオダブツだろうという恐怖感が湧くような場所だ。
往復で約20km 歩くと、足が棒の様になり、その日は疲れて早めに寝入ってしまった。
(カルナルボン国立公園内の森の中のトレイル=小路)
(飛び石沿いに小川を渡るハイカー達)
(砂岩の崖)
(崖には数千年前からアボリジニの壁画が描かれている。)
(枯れ川の底を歩くハイカー達。長い年月の水流れで川の両壁が削られている。)
(枯れ川の谷底)
(カルナルボン渓谷の立体イラスト図。奥まで片道10km=約3時間の歩行距離)
5/4 カルナルボン国立公園~ミレス( Miles ) 400km
グレート・インランド・ウェイを約1,000 km走行後(南下後)、クイーンズランド州の州都ブリスベンを目指すことにした。
ブリスベンはカルナルボン公園から約700km と2 日間で到達する距離だ。
一泊目は中間地点のミレス(Miles )まで進んだ。
カルナルボン公園近くの牧場に囲まれた農道でカンガルー8 匹とディンゴ一匹を見かけた。それぞれ当方が走行する道の前方を横切るのだ。
自然の中で遭遇する動物には感動を思える。カンガルーとの距離は5m ~10m 程とほぼ至近距離だった。
放し飼いの牛はオートバイの姿に驚き、逃げ出す。
勇猛なそうな雄牛は当方に突進するような構えをするが、結局逃げ出した。オートバイを見知らぬ危険な生き物と勘違いしているのだろう。
走行しているうちに景色も変わり、山があったり、広い農耕地になったりと変化に富んでくる。
17 時にはキャンプ場の受付が閉まってしまうので、17 時までに到達できるミレス(Miles )でキャンプ泊
Miles Caravan Camp (一泊35 豪ドル=3,500 円)をすることにした。
(カルナルボン国立公園へ至る農道でカンガルーやディンゴを見かけた。)
(小麦が刈り取られた畑と穀物サイロ。5月はオーストラリアでは秋の季節だが、雲はまだ夏のようだ。)
5/5 ミレス~ブリスベン( Brisbane ) 340km
ミレスのキャンプ場は国道沿いだった。 夜間でも通行するトラック等のエンジン音で安眠は出来なかった。
朝から曇り空だ。雨が降らなければいいなと思っていると、霧雨が降り出した。 霧雨の中でテントの撤収作業を行う。 こんなことなら前夜はモーテル泊にしておけば良かったと後悔する。
霧雨は当方がキャンプ場を出発する頃には止み、その後晴れ間が出てきた。
走行ルート上には忘れ去られたような寒村があった。
トタン屋根のいかにも年代物とわかる雑貨屋が営業していた。その横には今は使われていない古めかしい平屋建ての集会場(Town Hall )があった。 建物の正面には1929 年(昭和4 年)~2004 年まで使用されたとが表示されている。
古くなったらからと言って、取り壊すのでは無く、この村の歴史を伝えるために保存しているようだ。
当方はこの村の歴史(いつ教会が建てられたとか、郵便局がいつ開設された等)や主な産業を記した看板が立てかけられていたことに感心した。
この村にたまたま立ち寄った当方のような外人でも、この村についてガイドブックに載っていない知識を得られるからだ。
ブリスベンでは6 日ぶりにベットで寝付ける。
Breeze Lodge (一泊55 豪ドルのドミトリー式のホステル)
(トタン屋根の寒村=ブリガローの雑貨店)
(2004年まで使用されていたブリガロー集落のタウンホール=公民館。電信柱は原木だ。)
(ブリガロー集落の歴史や産業を伝える案内看板)
(砂地でも栽培可能な綿花が広がっていた。)
(1910年=明治末期から大正初期のToowoomba=ブリスベンの約100km西にある中規模の都市の街並み。途中立ち寄った寒村のガソリンスタンドの壁に掛かっていた写真)
以上