Ireland &UK(イギリス後半)2,300m(8/21~9/3)
北アイルランドとアイルランド1,100km(8/21~8/26)
アイルランド島のツーリングは北アイルランド(イギリス領)の州都ベルファーストからスタートした。
30年ぐらい前まではベルファーストの名前は北アイルランドでの政治問題が先鋭化してテロ活動が頻繁発生した頃にニュースで報道されていた。
現在は過去のそんな面影も無い静か都市だ。ベルファーストで宿泊したユースホステルの受付係のアルバイト青年がオートバイライダーであったので、その青年からアイルランドのツーリングルート教えてもらった。また、アイルランドの首都ダブリンのスズキの認定ディーラーのブラジル人営業担当者からもアイルランドのツーリングストスポットを教えてもらった。両氏に感謝したい。
青年は物静なデザイン工学を専攻するベルファースト大学の学生だった。オートバイの話になると目を
輝かせて地図に描いたツーリングのルートを説明してくれた。
(ベルファーストの市庁舎は歴史的建造物で立派だった)
(ベルファーストの高台に位置するベルファースト城から海が眺められる)
(ベルファーストの観光アトラクションの一つ刑務所。1960年代まで使用されていた。)
(刑務所で使われていたむち打ち台)
アイルランド島では以下の順に回った。
ベルファースト(Belfast)(1泊)~170km~アイルランド入国後首都ダブリン(Dublin)で1泊~280km~コーク(Cork)で1泊~半島ツーリング270km~キラニー(Killanery)で1泊~モヘーの断崖(Cliff of Moher)220km~ガルウェイ(Galway)で1泊~途中の半島ツーリングを中止して250km~レターケニー(Letterkenny)1泊~イギリス領北アイルランドへ入国150km~ベルファーストへ戻る。
(アイルランド島。島の北部=地図上部の灰色部分はイギリス領の北アイルランド。アイルランドは白い部分。地図右側上部ベルファーストから時計回りに赤線に沿って走行した。赤丸は宿泊地。地元のライダー達に勧められたのが、ピンク色と緑色の線のルートだ。)
アイルランドは人々が親切で、国土も風光明媚だから是非ツーリングしたらよいと複数の人達からアドバイスを頂いた。 確かに大西洋に面するアイルランド島西部は風光明媚だった。
しかし特別に親切な人々との出会いは無かった。普通の人々だった。もっとも当方が接する人達は宿、ガソリンスタンドや食料品等を買うスーパーや雑貨店の人達に限定されているので多くの人達と話す機会がなかったのも事実だ。
アイルランドは北海道と同程度の広さだ。人口500万人だが、一人当たりの国民所得(GDP)は世界第二(10万米ドル=約1500万円)だ。 何故一人当たりの国民所得が多いか最後まで分からなかった。
アイルランド国外への移民が多い国
アイルランドから外国へ移住する人は過去の時代から多い。1845年~1850年の大飢饉の時期にはアメリカへ150万人、カナダへ34万人のアイルランド人がそれぞれ移住している。
現在でもより良い仕事を求めて若者を中心に年間数万人がアイルランドから外国へ移り住んでいると言う。
アイルランド国外にはアイルランド人の祖先を持つ人々が3000万人いると言われている。 1960年代前半に米国の大統領だったジョンFケネディーも曾祖父がアイルランド移民だった。
一人当たりの国民所得が高いノルウェーのようにBMWやメルセデスベンツ等の高級車が普及車の様に当たり前に道路を走っているわけでは無い。 見た目上は、一人当たりの国民所得が世界2位には見えないのが不思議である。
(カナダの農場へ移住を進めるポスター)
(独身女性へオーストラリア及びニュージーランドへの船賃を無料とする広告。当時オーストラリアでは独身男性8名に対して独身女性は1人だけだったと言う。)
英国領北アイルランドとアイルランド間の入出国の手続きは無い
イギリス領の北アイルランドのベルファーストからカーナビの誘導に従ってアイルランドの首都ダブリンへと向かった。
イギリスがEUを離脱後もイギリス領北アイルランドからアイルランドへの入国手続きは無かった。いつ国境を越えたのかも気が付かなかった。 アイルランドからダブリンへ戻った際も同様だった。
唯一気が付いたのは、道路の制限速度がマイル表示からキロメートル表示に変わっていたことだった。
EU域内の国境を越える時と同様に、何もすることが無いのだ。
イギリスはシェンゲン条約からも脱退しているので、滞在期間は6カ月となっている。アイルランドもシェンゲン条約に加盟していない。独自に3カ月の滞在期間がある。
当方が不思議に思ったのは、アイルランドやイギリスは外国人の滞在期間をどのように管理しているのだろうかと。
(ダブリンの繁華街)
(ダブリンの中心部を流れる川沿いの風景)
(ダブリンのスズキ認定のディーラー。エンジンオイルの交換をしてもらった。料金は70ユーロ=約12,000円)
アイルランド西側の海岸線は絶好のツーリングルート
海岸線や海岸に近い道路周囲の風景を見渡すと北海道に似た風景に出くわした。 丘陵地の畑は北海道の富良野に似ていると思った。岬を周回していた時には海と陸の風景が網走あたりに似ていると思った。
ただし、あっと驚くのは大断崖だろう。 一部の高さ200mに及ぶ断崖の海岸が観光名所としてある。 モヘーの断崖(Cliff of Moher)としてユネスコ世界遺産の一つとして登録されている。
(アイルランド地方の並木道はトラックの障害にならないように木々の高い場所まで枝が刈り上げられていた。)
(のどかな農道)
(岬の高台道路。)
(岬の高台の道路からの見晴らしは良かった。)
(岬の小さなビーチで海水浴楽しむ人々。当方では寒くて海水浴をする気にならない。)
(小さなフェリーで海の入り江を渡った。)
(場所によっては海面からの高さが200mあるモヘーの大断崖。安全対策のため崖の近くには寄れず、迫力に少し欠けた。)
アイルランド北部にはこんな城の形の山があった。今にも雨が降り出しそうな空模様。)
(アイルランドでは他のヨーロッパ諸国では見かけなかったスズキの車を比較的多く見た。小さな町のスズキの車の販売店)
あきれたゲストハウスの管理人
レターケニー(Letterkenny)で宿泊した際のゲストハウスの管理人には呆れた。
その日は雨が降り出しそうな空模様だったので風光明媚な北西部の海岸ルートのツーリングを諦めて、ゲストハウスへ直行した。 チェックイン時間の前だったので、当方は荷物だけでも預かってもらえればと思っていた。
予約したゲストハウスに到着すると女の管理人は<まだチェックイン時間前だから、チェックイン時間になったら来なさい>と追い払うような口調で言う。
予約時の規定ではそうようになっているので、荷物を預かってもらうことは諦めて出直すことにした。 その間にやはり雨が降り出してきた。
定刻のチェックイン時間にゲストハウスへ行くと、ドアが開かない。 そこで初めて当方は宿がセルフチェックインになっていることに気が付いた。 問い合わせ用の電話番号がドアの横に書いてあった。 その電話番号へ電話しても誰も出ない。
そこで予約元のオンライン・ネットサイトのBooking.Comへ管理者と連絡が取れないのでどうすべきか問い合わせをした。 1時間後、当方のSNS(WhatsApp)へ管理人からセルフチェックインの手引きが送付されてきた。
セルフチェックインの場合は、ゲストハウスの管理者は事前にチェックイン方法を知らせてくるべきだった。
しかしながら、この宿はチェックインしようするゲストが宿に到着後に、管理人へ電話連絡してから、管理人がゲストへセルフチェックインの方法をSNSで知らせているようだ。
待っている間、隣人の人達は、<こんな宿に泊まらず、もっとしっかりしたB&B(Bed&Breakfast)に泊まった方がいいぞ>とアドバイスしてくれるが、当方は既に宿泊料金は前払いしている。
その後ゲストハウスの設備について管理人にSNSで問い合わせるも返答は無し。 これ以上の問い合わせは無駄だと当方は諦めた。
翌朝チェックアウト時に管理人は宿にいたが、当方の顔を見ない。言葉も無い。この女は客商売に向いていないと思ったが、隣人の一人がこっそり教えてくれた。管理人は以前は男だったが、いつの間にか女になってしまったと。
(レターケニーで宿泊したゲストハウス)
(アイルランド北部の小さな町レターケニーの長屋風の3ベッドルームの家は約20万ユーロ=約3400万円で販売されていた。)
イギリス(後半編)ベルファーストからリバプール経由ニューヘブン(Newhaven)1,200km (8/27~9/3)
イギリス後半は連日のように雨に見舞われた。 オートバイツーリングで一番やる気を失くすのが雨天の走行である。
トルコで雨天走行中に後続車両に追突され転倒してから、当方は雨天走行には後続車両の位置確認に特に注意を払っている。周囲の景色をみている余裕はない。
ベルファーストからフェリーでリバプールへ向かった。 フェリーは途中オートバイレースで有名なマン島の島影を見る。
フェリーの航海時間は8時間と比較的長い。フェリーの乗客は少なく、テーブルや椅子はがらがらに空いていた。 当方は航海時間を利用して、まったく手つかずだったイギリス前半編をブログに書き上げた。
(ベルファーストからリバプールへ向かう途中のマン島)
イギリス後半のツーリングルートは以下の通りだ。
リバプール=Liverpool(2泊)~310km~バス=Bath(1泊)~350km~ペンザンス=Penzance(2泊)~イギリス最南西端 =End of Road~360km~サザンプトン=Southampton(1泊)~160km~ニューヘブン=Newhaven(イギリスツーリング終了)~フェリーでフランスのディエッペ(Dieppe)へ向かう予定。
(イギリスとアイルランドのツーリングルート=赤線。赤丸印は宿泊した場所。リバプールはイギリス本土=ブリテン島の西側=左側中央部だ。 ニューヘブンの位置はイギリス本土の南=地図最下部の右側部分)
リバプール(Liverpool)
リバプールはビートルズ発祥の地だ。 当方はビートルズ世代より少し若いぐらいだが、中学時代に初めて聞いたポップスはビートルズのイエスタデイーだった。
ビートルズ博物館、ビートルズが有名になる前に歌っていたクラブ(カラバン・クラブ)等ビートルズ関連の場所には今でもたくさんの観光客が訪れている。
18世紀にはアフリカからアメリカへ多くの黒人奴隷を運んだイギリス船の船主の多くはリバプールに住んでいたと言う。
巨万の富を築いたのだろう。港湾地区には立派な歴史的な建物が多い。
造船業や貿易が盛んだったリバプールの港湾地区は横浜市の桜木町付近の海に面した公園地区に似ていた。 過去使われていたドック(船舶修理用)、倉庫や船が往時の姿のまま残されている。
(海上から見たリバプールの街)
(ビートルズがヒットチャートのトップになった旨を伝える1962年の業界紙。ビートルズは当時革ジャン姿だった。ポール・マッカトニー=写真右はの髪はリーゼントスタイル。 その後マッシュルームの髪型と学生服のようなユニホームに変えたら好感度が上昇したと言う。)
(ビートルズが当初演奏していたリバプール市マシュー通りのカラバン・クラブ)
(旧港湾地区の過去の施設。鉄道駅横の倉庫や船舶修理用のドックが保存されている。)
バス(Bath)
次に訪れたバス(Bath)は地名通りかってはローマ風呂があり、温泉保養地として知られていたと言う。歴史がありそうな落ち着いた町だった。 当方は歴史的背景は知らずに、イギリス最南西のペンザンスへ行くための途中宿泊地として泊まっただけであった。
(橋の上部が家になっている世界でも珍しい橋。イギリスのバスとイタリアのフィレンツ及びベネチア以外しかない造りだと言う。)
(橋の上の家々=商店になっている。)
(200mほどの長い住居が2棟続いている。これほど長い建物は珍しい。)
ペンザンス(Penzance)
ペンザンス(Penzance)にはフランスのモン・サン・ミッシェルとそっくりの島があることを旅行書で知った。
その名もモント・セイント・マイケル(Mount St. Micheal)だ。 もともとはフランスモン・サン・ミッシェルのモンサが保有していた施設だったが、時代とともに持ち主が変わってしまったようだ。
ペンザンスでは、モント・セイント・マイケルを訪れる計画をしていたのだが、この島へ渡るボートが荒海のため運休していた。そのため、モント・セイント・マイケルは臨時休業となってしまった。当方は事前にオンラインで島の見学を予約していたのだが、残念ながら中止となった。
イギリスの地図をみるとこの地はイギリスの最も南西端に近い。余った時間を利用して、最南西端の<地の果て=End of the road>まで行くことにした。 最果ての地の海は荒れていた。
(マウント・セイント・マイケルの城がある島。干潮時には歩いて島まで渡れる。)
(イギリスの最南西端=End of Road。海上1km先の岩場には灯台が建っている。写真では白波が建っている場所に灯台がある。)
サザンプトン(Southampton)
サザンプトン(Southampton)はロンドンに近い貿易港として栄えた。
タイタニック号やメイフラワー号がアメリカへ向け出航した港でもあった。
サザンプトン自体はイギリスらしからぬ無味乾燥としたコンクリートの建物や家具のIKEA、スポーツ用品のデカスロン 等の大型商業施設が駅近くの港湾埋め立て地に集中していて街に似合わないと思った。
当方はタイタニック号についての展示があるシティーシー博物館(Citysea Museum)を見学した。
博物館にはタイタニック号の事故の責任をめぐる裁判に臨席しているような雰囲気が味わえる工夫があった。大人には一番人気がある場所だろう。
タイタニック号の沈没の責任は誰も取らないままで終わってしまった。 当時は霧が出ていて視界が良くなかった、イギリスとニューヨーク間の最速記録を目指して全速力で航行していたり、見張り番が双眼鏡を持っておらず氷山の発見が遅れてしまった等の悪いことが重なり、最悪の自体となったようだ。
しかし、船主側はタイタニック号は絶対に沈まない大型船として認識し、船に十分の数の救命ボートを装備しなかったと言う。
東京電力の福島原子力発電所の事故を思い起こすような船会社の対応だった。
(タイタニック号。1912年4月14日に氷山に衝突後、船内に海水が浸水して沈没した。)
(タイタニック号の2等寝室。暖房が無く寒かったと言う。)
(タイタニック号の沈没から2週間後に事故の海域を航行した船が撮影。海面には氷が浮いている。下の写真ではニューヨークへ向かう移民がタイタニック号が沈没した洋上を見ていたと言う。)
ニューヘブン(NewHevan)
ニューヘブンは偶然見つけた港だった。 イギリス一周後には再度英仏間のドーバー海峡をフェリーで渡ることを考えていた。しかしながら、ニューヘブンからフランスのデェッペ(Dieppe)へ渡るフェリーがあることに偶然気が付いた。
ディエッペは当方がフランスで走行するフランス北西部のノルマンディーへ行くにはちょうどよい場所に位置している。
(白い色の断崖。イギリス南部のNewhaven近く。Seven Sisters=7姉妹と呼ばれている場所)
(海岸まで階段を使っておりると断崖はそんなに高くない。この辺りは高さは20m~40m程度の断崖)
(断崖の上には柵がないので誤って落ちる危険性がある。)
イギリスのエコノミーなツーリングにはユースホステルが最適
どこの国にもユースホステル協会の組織があると思うが、イギリスの組織はしっかりしている。 当方はイギリスの7ヶ所でユースホステルに宿泊した。
ドミトリー形式なら料金は1泊20ポンド(4千円)から30ポンド(6千円)とイギリスの物価では超エコノミーだ。
また家族用やグループ用のプライベートルームもある。 レストラン、バー、ラウンジ、庭園等の設備のほかに自炊用のキッチンも整っている。
交通の便利な場所や歴史的な建物を利用している物件が多く、オンラインでの予約も可能だ。WiFiがほとんど使い物にならないぐらい遅いのが欠点である。
当方は殆ど日本人の旅行者には会うことが無いが、ペンザンスのユースホステルでは当方と同年輩の元中学校の英語教師と出会った。
職業柄イギリスには造詣が深い様子で、ペンザンスのような日本人旅行者が来ないような場所をバックパックで歩いて旅行しているのには驚いた。
(バースのユースホステル=YHA Bathは林の中の静かな場所にあった。)
(ニューヘブン近くのユースホステルYHA South Downsは農場を改造したような作りの建物だった。)
(イングランドのユースホステル所在地を示す地図。詳細はインターネットyha.org.ukで閲覧できる。スコットランドは別の組織が運営する。)
以上