UK(英国前半)London~Scotland~Belfast 2,000km(8/10~20) | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

UK(イギリス前半) LondonScotlandBelfast 2,000km (8/1020)

 

イギリスではまずロンドンがあるブリテン島の最北端まで行く計画を立てた。 途中宿泊したり、立ち寄る場所はイギリスの友人や知り合った人達からのアドバイスを参考にした。

 

以下がイギリス前半のツーリングルートだ。

 

ロンドンは一泊したのみでオックスフォード(3泊)~415km~ウィットビー(キャプテン・クックの町2泊)~300km~エジンバラ(スコットランドの第一都市で1泊)~230km~アバディーン(北海油田のベース都市で1泊)~350kmkThurso(最北端に一番近い町で1泊)~Dunnet Head(ブリテン島最北端)~Lock Ness(ネス湖)~450kmGlasgow(スコットランド第2都市 2泊)~150kmCairnrayn(北アイルランドへフェリーで渡る出発港)~フェリーで2時間~イギリス領北アイルランドBelfast(1泊)

(イギリスのツーリングルート。矢印の方向に走行した。赤丸印のところは宿泊した場所。)

 

オックスフォード(Oxford

 

オックスフォード(Oxford)で3泊したのは当方が大学生時代に知り合ったイギリス人に35年ぶりに会うためだった。 当方がスペインのマドリッドで留学中に同じ学生寮にイギリスからの若者がいた。

 

その若者は高校を飛び級で卒業して、オックスフォード大学に入学が決まっていると言いい、大学入学までの半年をスペインのマドリッドにある銀行でインターンの研修をすると言うのだ。

 

半年同じ寮生活をした仲間であったので、その後も交信が続いていた。最後に会ったのが1990年だった。

 

当方が湾岸危機(イラクのサダム・フセイン大統領がクウェートに軍事侵攻して引き起こした軍事危機)のため当時当方が駐在していたバーレンからロンドンへ一時的に数カ月避難していた時だった。 それから35年たった。

 

イギリス人の友人は大学卒業後、ロンドンのシティーにある投資銀行に就職したが、2年足らずで退職して東アフリカ諸国との貿易を行う小さな会社に職を見つけた。

 

その延長でザンビア(アフリカ)の首都ルサカに十数年前まで暮らし、そこでパートナーと出会い、結婚した。 十数年前に子供の教育のため、イギリスに戻って来ていた。 しかしながら、当方はそれとは知らず、6年前のアフリカツーリング時にその友人を訪ねるためザンビアに寄ったが、会えずじまいだった。

 

オクスフォードは数万人の学生が暮らす大学の町だ。 町は小さいが、観光客が多い。 そのため夏には宿泊料金がかなり高くなる。 ドミトリー式のホステルでも一泊9千円だ。 安いホテルでも2万円する。

 

現在の天皇が皇太子時代にオクスフォード大学のマートン校(Merton College)に留学している。

(イギリス人の友人とオクスフォード郊外のオタマジャクシ橋=Tadpole bridgeで撮影。35年前はスマートだった友人は100㎏近い体重になっていた。)

(かってオクスフォードの交通の要所の見張り塔だったCar Fax Tower)

 

(令和天皇が皇太子時代に留学したオクスフォード大学Mertin College。大学構内へ見学できる。)

 

(Car Fax Towerから眺めたオクスフォードの町と郊外。オクスフォードの町は小さい。町の外には牧歌的な風景が広がっている。)

 

地方道

 

高速道路はなるべく避けて一般道を走行するようにしたのだが、一般道路でも制限速度は100km近い時速60マイル(イギリスは距離はマイルで表示)が主流だ。 そのうえ片側一車線の対面通行だから、当方がもたつくと後続車両が詰まってしまう。

 

当方は時速80km程度でゆっくり地方の景色を楽しみながら走行したいのだが・・・。 更に路側帯が無いのでオートバイでさえ道路に停止するスペースが無い。景色が良い場所で写真を取りたくてもオートバイを停める場所がないのが難点である。

 

(whitby手前の高原道路。遠くにはヒース=低木のブッシュが広がる荒れ地になっている。 道路には路肩がない。)

 

(パッチワークのようなWhitby近くの畑風景)

 

(エジンバラからアバディーン途中の牧草地と黄金色になった小麦畑)

(大型コンバインで小麦を刈り取る。アバディーン近くの農地)

 

(小麦刈り取り後の藁は家畜の餌として直径1.5m~2mの円形の束にする。)

 

ウイットビー(Whitby)

 

イギリス東海岸沿いのロンドンとスコットランドの州都エジンバラの中間地点の位置する小さな港町だ。

イギリス人の友人に勧められた町だった。

 

この町は18世紀にオーストラリア大陸や南極海を探検航海したキャプテン・クックが船乗りとして修業した場所だった。同氏が修行していた当時の建物をクック博物館として公開されている。

 

またブラム・ストーカー作のホラー小説<ドラキュラ=Dracula>のインスピレーションが沸いた町として知られている。 同氏は城壁に囲まれた荒廃した修道院跡やその横にあるセント・マリー教会の墓場等を小説の舞台としている。

 

ドラキュラの映画では海岸にドラキュラが動物姿で海岸に上陸して、セント・マリー教会の墓場に通じる階段道を上る場面がある、その階段坂が観光名所となっている。

 

この小さな港町を当方は気に入った。港と坂がある小さな町は旅情を盛り上げる。

 

 

(観光名所となっているウィットビーの199段の階段坂。映画ではドラキュラがこの階段を上る設定になっている。)

(199段の階段坂の頂上には聖マリー教会の墓場がある。)

(廃墟となっているウィットビーの修道院跡=Whitby Abby)

(高台から眺めるウィットビーの街並み)

 

(ウィットビーの港近くの街並み)

(キャプテンクック博物館)

(18世紀当時の太平洋の島々には人を食べる風習があったとキャプテンクックが報告している。キャプテンクックは原住民との戦闘で殺されて、当時の原住民の習慣で遺体はばらばらにされたと記録されている。)

 

エジンバラ(Edinburgh)

 

スコットランドの州都であるエジンバラはイギリスでもロンドンに次ぐ巨大都市である。毎年8月には音楽祭が開催されるため、観光客や音楽ファンが多く集まる。 

 

当方は観光名所のエジンバラ城を見学しようとしたのだが、入場者の人数制限をおこなっているため当日券は売り切れだった。2日後まで入場できないと言う。

 

エジンバラ城の見学を楽しみにしていた当方は、城の見学のため、2泊延泊するのは時間がもったいないと考え、次の目的地へ進むことにした。

(エジンバラの旧市街)

 

(エジンバラの旧市街のスカイライン。高台のカルトン・ヒル=Calton Hillから撮影)

 

(イギリスにはこのように長い集合住宅が多いが、長さ200mぐらいはある集合住宅は珍しい。エジンバラにて)

 

(入場できなかったエジンバラ城。エジンバラ城は旧市街の高台に位置しているので、城から眺めがよいと聞いていたが・・・)

 

アバディーン(Aberdeen

 

スコットランドでは3番目に人口が多い都市だ。 1970年代に北海油田が開発され、石油関連で潤った都市だった。

 

この町には幕末に薩摩藩の留学生が来ていた。

 

幕末の歴史に登場するイギリス人商人トーマス・グラバーの出身地であった。グラバーは薩摩藩へ武器の供給を仲介したり、薩摩藩と長州藩が留学生をイギリスへ派遣する手助もしていた。

 

その関係で薩摩藩の19名の留学生のうち一番若い14歳の留学生がアバディーンの私立学校で学んでいる。

 

現在アバディーン市と長崎市は姉妹都市になっている。

(洋上で原油を生産する海上リグ)


 

(写真右側の黄色い部分が原油の掘削が許可されている海上。ピンク色の線は原油を輸送するパイプライン。左側のオレンジ部分がスコットランド=イギリス北部。アバディーンは一番下のピンク色のパイプラインが結ぶイギリス東海岸に位置する)

 

 

(アバディーンの港には洋上リグへ機器等をサプライする船が係留されていた。)


(1905年に岩崎邸でのレセプション写真。写真の丸枠はグラバー氏、東郷元帥、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助氏。グラバー氏は岩崎氏=三菱グループ創始者のアドバイザーとしても活躍した。)

 

 

(アバディーンの海洋博物館にはグラバー氏と日本のつながりを紹介するコーナーがあった。グラバー氏がイギリス製の船舶を日本へ売却する際に船のイギリス人船長宛に、日本での雇用を保証する旨の手紙)

 

(アバディーンの海洋博物館=Maritime Museum)

 

 

ブリテン島最北端の町トルソ(Thurso)と最北端ドネット・ヘッド(Dunnet Head

 

トルソは小さな忘れ去られたような小さな町だった。 人通りがほとんどなく、さびれた商店やファーストフート店がある程度だった。曇天が町の様子を更に寂しく感じさせた。

 

そのトルソから約20kmに進むとブリテン島最北端のドネット・ヘッドに到着する。北緯58℃に位置する。カムチャッカ半島の付け根当たりだろう。

 

思ったより寒くない。 岬から1km程度離れた断崖の上には集落や牧草地も見える。 1カ月前に訪れたヨーロッパ最北端のノールカップ(北緯71℃)に比較したら、まだ人が住める環境だ。

 

スコットランドはブリテン島の北部に位置しているため、夏でも肌寒い。つまり夏がないところだ。不思議なことにスコットランドをオートバイで北上するに従い、道路沿いにはより多くの耕作地が広がっていた。 

 

大規模ないちごのハウス栽培、路地でのカリフラワー等の畑を見た時には驚いた。< こんな北の地で農作物がで

きるのか!>と。

(ブリテン島最北端のDunnet Headは崖だった。)

 

(最北端の記念碑前でオートバイと一緒に記念撮影)

 

(最北端から見える耕作地と集落)

 

(イチゴのハウス栽培。 アバディーン付近)

 

ネス湖(Lock Ness

怪物ネッシーの話で有名になった湖であるが、ネス湖を一目見て怪物はいないと思った。 あまりにも小さいからだ。 長さは37kmあるようだが、幅は23km程度しかない。湖というより大河のような感じだ。

 

怪獣ネッシーは作り話だったのだが、それでも観光客が訪れる観光名所の一つだ。

 

(ネス湖はこのように細長い。ネス湖中央付近)

 

(ネス湖の北。水は冷たかった。)

 

(ネス湖周囲の道路。地形が斜面になっているので、駐車スペースは限られている。)

 

スコットランドの絶景

 

ネス湖に沿って走行したおかげで、思いがけずにU字谷の風景が見ることができた。

フォート・ウイリアム(Fort William)とグラスゴー(Galasgow)を結ぶ区間にある谷間の道路を走行した。

 

この道路を進むと大きなU字谷の中に入っていく。

道路の左右には大きな壁のような氷河が削った山肌が続く。まるでノルウェーのフィヨルド谷を走行しているようだ。 更に進むと、湿地の高原が続く。地平線上邪魔するものが無い見渡す限りの湿原だ。 全く予想していなかった絶景だった。

 

(U字谷のような風景。写真を縮小したため、山が低く斜面が実際よりなだらかになっている。)

(高さ1000m程度の山だが、木々が生えておらず、迫力があった。)

(湿原道路)

 

 

グラスゴー(Glasgow)

 

19世紀のグラスゴー(Glasgow)はロンドンに次ぐイギリス第二の産業都市だった。グラスゴーは19世紀に万国博覧会を開催するだけの繁栄を謳歌していた。 

 

インド植民地経営を行ったイギリス・東インド会社にはグラスゴー商人が多く出資していたと言う。

 

当方がグラスゴーで訪れたカルビングローブ博物館(Kelbingrove Museum)にはアジアやアフリカにイギリスが植民地を造った過ちや人種差別を啓蒙した当時の教育制度を反省した言葉が掲示されていた。

 

(20世紀初頭グラスゴーの紡績工場で働く女性。平均週給20シリング=240ペンス=1ポンドで一部屋(当時は住宅不足で庶民は家族単位一部屋に住んでいたと言う)に住む家族を養えたと言う。 パン一個の値段は6ペンスだった。 つまり平均的な週給でパンが40個が買えたことになる。)

 

 

(グラスゴーの繁華街ブキャナン通り)

 

(グラスゴー駅の近くのSt. Vicente Placeという一等地でもビル一棟貸の物件があった。地方都市は地盤沈下気味だろう。)

 

グラスゴーから140km程度南下した西海岸沿いのカイルンライアン(Cairnryan)からフェリー船でアイルランド島の英国領北アイルランドのベルファーストへ渡る。 ブリテン島とアイルランド島はフェリーで約2時間ほど結ばれている。フェリー料金はオートバイ料金を含め55ポンド(約11,000円)

 

フェリーは乗船の前日にオンラインで予約をしておいた。

(アイルランド島へのフェリー発着港があるCairnryanのフェリーふ頭)

 

(アイルランド島へ向かうフェリー船上)

 

(アイルランド島ベルファースト付近は崖地だった。)

 

以上