悩める20代に送ります
人類共通の悩み、「恋と仕事、人生&運命」
でも実は、星座によってその悩みの中身は違う?
「リアル蠍座に答える3つの質問」
第十六回・蠍座後編:人生の相談
「常に“最悪”に備え、疑うことを止められない蠍座」
占いにおける一番ポピュラーで、かつ深い三問にお答えする連載。
毎回実際に各星座のみなさんからお寄せいただいた内容をもとに、質問を構成。
それに、“その星座の方のためにお返事する視点で”…まーさがお返事を出します!
蠍座の人生のご相談代表
「明るくて幸福な未来。どうしたら信じられる?」
蠍座は疑り深いとよく占いでありますが、逆にどうしたら信じられるでしょうか? どうしても最悪にも耐えねばという心理が働いて、恋人でも家族でも未来でも「いい方向を無条件に信じられる」というのが信じられません。「信じられるようになる」、が人生の課題ではないかと思う程、難題だと感じていています。どういう心構えで、何から取り掛かればいいでしょうか?
まーさからのお返事)
こんにちは。まーさです。
今回は蠍座の後編。前回は恋愛スペシャル、今回は人生スペシャルというお約束ですが、
改めて蠍座のみなさんの人生の相談…を見直してみると、根源の部分の疑問、悩みはこれに尽きるのでは…?という気がしてきて、やはりご相談を一個に絞ることに変更しました。
というか、蠍座のみなさんから来たご相談の中で、最も多かったのがこの手の話なのです!
(背景が恋愛にしろ仕事にしろ人生にしろ)
占いでは確かに蠍座を「疑り深い」と評していますが。
それの別表現と言ってもいいと思われる、
「人生がいい方向に行く、というのが信じられない」「幸せすぎると不安になってくる」
「心配なことはないか、積極的に探してしまう」
更にこれにアレンジをかけた…延長線上にあるようなこと、
「(この辺に留まれば幸せなのだろうに)どんどん重い方向に進み、自分も苦しくなるような方向へ自ら追い込んでしまう」
など。
こういうキーワードが、相談内に…いっぱいです!!!!(汗)
う~む、やはりこれが、蠍座の一番典型的な性格ということになるのだろうか…
(いろいろ特徴がある中でも)。
でも、今回この手のご相談を何回も読んでいて、ふと思ったのですが。
少なくともこのご相談を下さった蠍座のみなさんは、
「誰かのせいで、状況のせいで、私は疑うはめになっている!」と思っているのではなく、
「何に対しても私は疑ってかかる性格だ」と、すでに気づいているということですよね。
これね、まずとても素晴らしいことだと思います。
先にしっかりほめておきたい気持ちですね(僭越ながら)。
だって、これもし相手がいる中で起こる感情だったら、
その矛先はしばしば相手に向きがちですよ。
まあ、確かに過去にはそれで何度も相手を責め、激突してきた経緯があってこその、この“気づいた状態”かもしれませんが(非常にご苦労様でした双方…)。
でも、わかっているということは尊いです。
そう、この性格に限らず、自分で自覚する&程度の深い、重い、激しい性格というのは、
大体原因は自分の方にあります。
あ、これは「つまりお前がダメなんだ!」という意味ではなく、「そういう風になってしまう理由は、何にかしら、自分の深い部分にある」というニュアンスの話ですね。
だからこの件に関しても、「相手が私に疑わせるようなことばかりするから!」と思っている間は治らないし、いい状況にはなかなか向かないけれど、
「これは私の考え方のくせ…? 傾向?」みたいに気づきだしたら、
それはもう、次なる変化の道に進みだしたということになります。だからほめます!
で、遠回りせず、なるべくこれに直球でお返事…いえ、アドバイスさせていただくとするとですね。
多分、「とても疑り深い。何でも悪い方に考えがち」を治したいとすると、
蠍座はきっとその反対、「いつも前向きで人や明るい未来をすぐに信じられる」にいくのを◎、と考えそうな気がしますが。
でも、実際のところ、それはベクトルの端から端に行く行為に近いではないですか。
こっちじゃないから反対方向に行く。
ちょっと感情的で、極端な反応のようにも感じます。少なくとも私には。
そもそも蠍座じゃない、そのほかの12星座にだって、あなたほどではないにしても(笑)何かを疑う気持ちはありますし、何ならあなた以上に慎重な性格の人もいます。
また比較的人を信じやすい人でも、常に明るい未来を胸に抱いてばかりはいられない…。しばしば揺れて大騒ぎ…。人間ってそもそもそんなものですからね。
それに蠍座がもし少々?ネガティブ傾向で疑り深いのだとしても、
それもまたこの世界には必要な性格、人員です。
だからこそ正反対の人間になる必要はないし、「そうしなきゃ幸せになれない!」みたいに単純に考えてしまうのも、何とな~く危険な発想に、私には思えるんですよね。
それが自然な形でなく、何かに対する極端な否定から入る動きって、必ず反動がありますから。
で、じゃあどうしたらいいのかというと。
おすすめしたいのは、信じすぎず、かつ疑りすぎない、
言い方を変えれば信じることも疑うこともできる、ニュートラルな“中庸”な状態を目指すことです。
たとえばですね。この世の中が何かのアドベンチャーゲームのようなものである…と、少し想像してみて下さい。プレイヤーはあなたで、そのほかの人や状況は、全てあなたのした判断、アクションに対して反応しているだけだと。
もしこの世がこういう世界なら、どうでしょうか。
そこで起こる出来事、展開はすべてあなたの成果だし、そこで起こる問題、エラーもすべてあなたに起因します。
それはまあ自然にそう考えますよね。
「あのキャラクターがあそこであんなこと言うからいけないんだ!」とは思わないでしょう。多分。
でもこれ、比喩のようでいて、実は実際の世界ともかなり似た部分があると思います。
生きている中で起こるすべてのことに対し、自分がどう反応し、時に行動するかは
実はすべて、このくらいのレベルで私たちにゆだねられています。
もちろん、どうにもならないことはやまほどありますよ。
私たち次第というのは、そこで万能でいられるという意味ではありません。
が、私たちは等しく、「自分はどう生きるか」に対し、このゲームのたとえ並みに「能動的に向き合う」ことが許された存在なのですよ。
おそらく、「疑う」という気持ちが強いとき、人はその状況に対し“受け身”な姿勢になっていると想像できます(このゲームのたとえで言えば、自分以外の人がコントローラーを握っていると感じている状態?)。
何か外側から物事が降りかかってきていて、それを見たままには受け入れられなく感じるから、疑うのですよね。
ある意味、「状況への抵抗感が、疑念という形となって本人の心を防御している」みたいにも見えます。
これ自体は、危険察知のアラームのようなものですし、直感力の強い蠍座が疑う心が強くても、それは不思議ではないし、問題ないとも感じます。無暗に消す必要もありません。
が、アラームはしょせんアラームでしかないのではないか?というのも事実です。
「疑う気持ちが生まれているが、では私はどうする?」と、その気付きを使っていくために起こる反応なのだから、それをどう生かすかが、本来重要な点なのだと思います。
そこでとどまっているんじゃ、あまり意味(生産性)がないですよね。
何だかまどろっこしく感じるかもしれませんが、
疑う=×、信じる=◎という構図を、私はまず解除してほしいのです。
「時に疑うこともできるし、信じることもできる。自分がそれを必要と感じれば」
これこそが正解ではありませんか。
そういう、「いかなる局面が起ころうと、私は私自身の判断を信じて、先に進むことができる。
あるときは素直に信じ、あるとき疑念が起これば、それにも素直に従う」というような、
自分自身へのシンプルな信頼感が、過度の疑惑からも何かへの盲信からも、私たちを自由にしてくれるのだと、私自身は考えています。
必要なのは、自分に対し“客観的になる”こと。
同時に主体的に生きること、
つまり「この局面は、私に『さあどうする?』と選択する自由を常に与えている」と、理解しながら進むことではないかと、私は考えます。
そしてこれと全く反対のことを突然言うようですが(笑)。
無条件に良い未来を信じるというのは、…別の意味で確かに正解です!
なぜかというと、「人は眼で見ている方向に自然と進んでしまうから」。
車を運転する人などはよく御存じでしょうが、
人間は目でとらえているものの方に、自然と動いて行ってしまうものです。
それだけ視覚の持つ情報量、影響力は強いし、そっちにひっぱられてしまうんですよね。体全体の意識も(自然とハンドルをそっちに切ってしまうのだな)。
これは、人生全体にも同じことが言える気がします。
>「いい方向を無条件に信じられる」
とまではいかないにしても、人間は漠然とでもそうなるんじゃないか…?と感じている方向に、
実際に動いていく存在のようです。
言い方を変えれば、「自分が信じていることを、現実にしようと努力する生き物」ということでしょうか。
これは非常にいろいろなところで言われている理念ですが、
「きっとうまくいくな」と思っている人は、それを本当にするための努力をし、
「絶対うまく行くはずがない」と思っている人も、それを本当にするために努力するという。
それだけ、「自分がそういう風に“信じている”」ということは、本人にとって重要な意味を持つってことなのでしょうね。
そう、無意識にそっちに向かってハンドルを切ってしまう…。
この無意識以上に、おそろしく、時に頼もしいものはないということです。
で、この理屈から言えば、「何としても…前向きな未来を信じよう!(滝汗)」という話につながるわけですが。
私が感じるに、無意識のレベルで納得いくまでには、なかなか手間暇…時間がかかります。
特に「本当にそれがいい、そうしたい、それが納得いく」というところまでしみこまないと、意味がないですからね。
ご相談者さんが書いておられるように、
>「信じられるようになる」が人生の課題ではないかと思う…
というのは、まさにそうだと思います。
でも、その人の本質たる性質が少しずつ変化していくというのは、そのくらい簡単でなくて当たり前だし、
それが自分にとって本当に必要である!と痛感しなくては、
もしくはきらっきらにひらめいて「はっ!」とすることでもなくては、気安く変わってなんて欲しくない。神様からもらった、大事なあなたの資質だもの…。
私はそういう風にも思いますね。
でも、そこはあなた自身がこの世界の主人公なのだから、必要だと思えば、スキル、性質は、いついかなる段階からでも身につけることができる。
これもゲームと全く同じです。
まずは、何かが起こって即疑いの気持ちが芽生えたら、
「一歩引いて客観的な視点から、それに疑いの気持ちを持つのが妥当かどうか、考えてみる」。
と同時に、
「過去に抱いた疑念が、本当に正しかったかどうか、確認してみる。
疑った結果どうなったのかも、思い出してみる」。
この二つを、お勧めいたします。
おそらく、何かを疑うというのは感覚的な領域ですから、それに理由は見つけにくいでしょう。
だからそれにイエスノーを言うのも、難しいですね。
とはいいつつ、疑念がわくときには、実際に何かの背景に反応して起こっているはずだとも思います。
何もそれらしいことがないのに、疑っている…のだとしたら、残念ながらそれは妄想かもしれませんが、改めて見直してみると「疑うに値する出来事が確かにあった」とわかる場合もあるのでは?
いわゆる刑事捜査みたいなものと同じですね(笑)。
あいつあやしい!で逮捕するわけにはいきません、証拠を集めなくちゃ。
といいつつ、長年の勘や人としての感覚で、「何かがおかしいぞ」と先に気づいてしまうこともあるでしょう。
直感と事実、この両方が、こういう場合でもやはり必要だと思います。
かつ、過去の事例なら、その後の結果も見えているでしょうから、この検証もやりやすいはずです。
そこで「残念ながら…私の疑念は当たる!」と思うのであれば、それはもう疑り深い人、の領域ではなく「私の直感は大層鋭い!」ということでいいと思います。
あ、あとこれをフォローしなくては。
今回のご相談の中に
>どうしても最悪にも耐えねばという心理が働いて、
というセンテンスがあったので、これにお答えしたいのですが。
つまりは「最悪の事態が起こったときのために(正確にはそのときにも耐えうるように)…」
お気持ちはわかりますが、つまり…これはある意味、“準備している”、ってことですよね?
少しここまで書いてきたこととかぶる部分もありますが、
大事なところなので、もう一度お伝えしておくと、
これは私が思うに、三つの理由からいただけません。
その1は、「不幸な未来のために準備していることで、その未来をいっそう呼びよせてしまう」
これさっきお話したことですが、…本当に本当にそういうことってありますから。
こういう言い方で受け入れやすい人、そうでない人、両方いると思いますが、敢えて書いておくと、
「神様は物事をひねった形で解釈しない(できない)ので、
いつもいつも考えていることをそのまま、その人の“願い”だと思って叶えてしまう」
という風にも言いますね。
「失恋したらどうしよう…」「貧乏になったらどうしよう…」みたいな不安のセンテンスを、
=「ぜひとも失恋したい」「貧乏になることを希望している」と、聞き取ってしまうということです。
こ、こわい!!!
(もう根拠とかはいいから、とにかく縁起のいいことを唱え、悲しいことをわざわざ考えるのはよした方がいい…ということです)
その2は、「事前に最悪の事態を予測していたからと言って、傷が浅くなるというようなことは別段ない!」
これですね。
たとえば、誰か愛する人の死が恐ろしく、
今現在はとてもお元気なのに、「これだけ大事な人が明日にもなくなったらどうしよう…」と
ついつい考えてしまうとします。
でね?
そういうことを考えすぎていると、「今その人と一緒にいられる喜び」というのが
どうしても阻害されますし、思い切り幸福を味わいきれないですよね。
この時点で、せっかく「死を心から恐れるくらい、大事な人と巡り合え、一緒にいる」という事実が
十分に甘受できていないわけですよ(マイナスポイント、もったいない)。
かつ。
そこまで用心していても、いつか訪れるのが死ですよね。
実際にそれが起こったとき、「その人と思い切り楽しい経験をしきっている」人と「その人を失う恐れに気を取られ、貴重な時間を十分に味わいきれなかった人」と、
どちらがその事実を受け入れ、昇華し、この出会いを前向きなものに変えやすいと思いますか。
疑うことで身を守っていたつもりで、本当は失うものの方が多くはないですか。
ちょっとここを、本当に真面目に考えてみて下さい。
確かにね、たとえば無防備な状態で突然攻撃されるのと、ある程度身構えていて攻撃を受けるのとでは、後者の方が傷は浅くて済むような気がします。
でもそれは、自分が「攻撃されるかもしれないものに、明らかに身をさらしている局面」(=戦場)の場合ですよね。ここでの話は、ちょっと違うでしょう?
確かに、大事なものを失うのは誰にとっても恐ろしいですよ。
だから、それが恐ろしすぎて、何とかして早めに手を打ちたくて…つまりは“自分を守りたくて”?
蠍座は「過剰に疑う」という手段を取るのかもしれません。
でもならば、同じ動機でも別のことができるんじゃないですか。
それは「願う」ということです。
大好きな彼が浮気するのではないか…と疑うなら、「彼がずっと私を愛してくれますように。私もまた、彼をずっと大事に思い続けられますように」と。
家族に健康の問題が起こるのが心配なら、「いつまでもごく自然な形で、健やかにその人らしく、過ごせますように。一緒に笑顔でいられますように」と。
自分自身に対しての不安が強いのなら、
「いついかなる場合でも、私らしさを失わず、元気でたくましく進んでいけますように」と、
疑うのと同じくらい強い力で、願いをかければいいのではないですか。
そう、このことこそ、言いたいことの最後。その3です。
なんでそんなに「最悪のこと」を怖がっているのに、「耐えねば」(完全なる受け身)なのでしょう。
最悪になるまで待っていないで、
早々に疑念を抱くくらい早く察知したのなら、
「そうはさせないぞ!」と、早々にその“悪”に向かって飛び出していって、撃破してしまえばいいのではないですか。
この世の多くのトラブルは、早めに気づけば防げ、軽くて済み、
積極策を取れば、解決し、解消し、時に「問題が起こる以前よりもよくなった」にもっていけるものも、少なくありません。
もちろんすべてではないですね、それはしかたがないことです。
が、自分さえそれに立ち向かっていけば、あなたは多くの場合、自分を守ることができるし、
何なら何も起こらなかったときよりもよい状況さえ、作り上げることができるんですよ。
そう、中には例に挙げたように、誰かの死のように逃れられない種類の出来事もあります。
が、それさえも「その人と幸福な思い出をたくさん作る」ことで、大いに緩和され、生涯の素晴らしい思い出として心を温め、守り続けてくれる宝にすることも可能ですよね。
それは「自分にできることはやった」人だけに贈られる喜びで、強さです。
そしてそういう経験が増えて行けば、「自分なりに前向きに生きることは、とてもとても素晴らしい」と信じることも…まったく難しくなくなっていくでしょう。
ええ、その人の人生は常にその人自身のもので、どのように作り上げるのも自由です。
ただもし、蠍座。あなたが「疑い深い自分」を持てあましているのなら。
そのエネルギーをもって、一歩前に自分から出て行ってみる必要はあるのではないでしょうか?