新入社員が入ってくる季節。

そして異動の内示がある季節……。


変化があるから春が好きという人、

だからこそ春はそわそわしてキライという人

がいると思うのですが、

私はどちらかというと後者のほう。

変化は嫌いじゃないけれど、

適応するまでに時間とエネルギーがかかるから

やっぱりどこか落ち着かなくなります。


そんな季節だからこそ気になったのが

会社の新入社員の男女比率、そして

各部署への男女配置ぐあいです。


というのもつい最近のどこかの新聞記事

を読んでいたら、

「各会社は女性の雇用を減らす方向で進んでいる」

という内容の恐ろしい記事が目にとまったから。

 記事の出所が気になるところだけど、きっと

大手企業の採用に携わる人からそういう声が

もれてきて、部分部分が全体により集まったんだろうな

と思います。


 確かに「男より女のほうが今は優秀だから、男に

下駄をはかせて採用している」というような声は前から

もれ聞いていたし、実際人事採用に携わる人から

まさしくそうだ、と聞いていたこともあるけれど、

さすがに女性を登用しない方向に向かってるというのは

もっとそれに拍車をかけることなわけで、

しかも採用段階ではそれが見えないように

人数調整されるんだろうからほんと怖い。

というかひどい!の一言に尽きます。


翻って自分のいるところを見てみても、

そういうバイアスが採用段階でかかっている

というのはよくわかる。

どの期を見ても男女比はほぼ同じ。

もちろん男性のほうが多いわけで。

最初から席数は決められている。


単に実力不足で落とされるなら仕方ないけれど、

女性だから男性より優秀でも落とされる。

しかもその女性枠があらかじめ各企業で決まっている

んだとしたら(たぶん大体のところがそうなんだろうけど)

しかもそれが、それとわからないように操作されているんだろう

としたら、

すごくひどいことだし、

しかも

それは女性差別だ!

とかこっち側は正面きって言えない。

批判する可能性すら封印されちゃうわけです。

普通にしてれば気づくことすらできないかもしれない。



入社してからの男女の働く機会がいかに平等に

設けられているとしても、

入り口の段階でシャットアウトされてしまったら

なんにも全然平等じゃない。




今日話を聞いたアメリカの文化人類学者の人に

文化人類学のアプローチ方法とは何かを聞いた。


「内部の、その場にいる人の合理的な考え方を

内部に分け入ってつかみとり、でもあくまで

外部から見る視点を忘れずに観察、紹介すること」

というのがその答え。


これって、まあ、ドキュメンタリー制作と同じ手法

なのかもなーと思いつつ、ふんふんと聞いていた。


外部から侵入した人は内部の人から外部の人だと

警戒される。でも、何度も足を運んで、何度も言葉

を交わして、内部の人と同一化するところまで

時間と対話を重ねる。完全に警戒をといてもらった

状態で、はじめてその内部の人の感じ方なり

考え方なりを同じようにキャッチできる。

 でも、あくまでそこで外からの観察の視点を

まじえて客観的に伝わる形で言語化するということ、

それが文化人類学のアプローチなんですよー

ということだった。


そしてそこでは、少し困ったことも起きると言っていた。

つまり、「内部に入れば入るほど(カメラでいう)

しぼりが狭くなっていくから、ポイントヴューが

あいまいになっていく」のだと。

 たえず自分の頭の中でそこの境界線をみきわめて、

平衡感覚を保つ作業を意識的にしなければならない、

そこが難しいんだそう。


 これってよくわかるし、粘着性をもってして

関係性を築いたり分析したりする作業とかは

学問とか報道とか全般に共通するところがあるかも、

と思って聞いていたけれど、その逆を考えてみた。

 思いっきり外に、わっと飛び出してみること。

その瞬発力と身軽さのようなもの。


 またもやマザーハウスの山口さんのブログを

読んでいたりしたら、ほんとにそれが持つ力を

実感する。学問とビジネスっていう対照性ゆえに

生まれてくる違いっていうのももちろんあるんだろう

けれど、やっぱり何かを変えるときに大切なのは

瞬発力に他ならないんじゃないかなー。


 

 そして、内から外を見ると外のことはよくわかる。

ある意味単純化した形でも、はっきりとした構図で

捉えられる。よくも悪くも複雑性が排除された形で。

例えば、「発展途上国」「最貧国」とかは一番わかり

やすい例だと思う。

 

ああ、助けなければいけない、何かためになること

ができないだろうか、とかそれは問題だ、とか

意識が喚起されやすいし、クリアーに問題が目に映る。

 もっと現地に足を運んで、それこそ内部で生活して

みれば問題の根っこにあることとかを肌で感じるんだろうし、

一口に「発展途上国の問題」と言えない何かがそこには

あるんだろうということもよくわかる。

 だから実際に現地に足を運んで援助活動に携わる人とか、

国際支援に関わる人たちのことは尊敬もするし、

素直に偉いと思う。


 でも、やっぱり内の、つまり日本の中も同時に見ないと

という気がしてしまう。自分が立っているところの複雑性

基盤の脆弱さ、今ある問題にも目を向けないと。

 外の貧しい人たちの支援ももちろん大事。でも、

自分たちのよって立つ基盤すら危ういのだから、

こっちのこともちゃんと見ないと!


 もちろん外にいくから内のこともよく見えるしわかるようになる。

そんなプラスの側面もあるとは思う。

 でもでも、例えば女性のエンパワーメント指数は世界的に

見てどうなのよ、思いっきり発展途上だよ、と

ぼそっとつぶやきたくなる。もちろんつぶやいているだけじゃ

だめだけど。


単純性と複雑性。内と外。

そこを行ったり来たりできるのがやっぱ理想です。




 




 



今度アメリカの大学病院に研修に

行くという高校時代の友人に久しぶりに会った。


 毎度毎度、彼女のエネルギーと情熱と活躍ぶり

には頭が下がる思いで、会うたびに刺激をもらっている。


 そんな彼女と何気なくお互いの関心あることを

話していたら、ぴたり一致!

 日本の中での生きにくさに話が及んだけれど、

それは

「なんでこんなにも女性であるだけでその役割から

自由になれないのか、どうして女性性の中に押し込

まれなければならないのか」

という、正に日本のジェンダー概念のなさ、不自由さ

からくるものだった。


 例えば、彼女は医学生として学生生活を送ってきた中で、

「女性が医者になった時点で、お嫁のもらい手は

少なくなるよ」

という内容の発言を教授からされたとか。


 それに彼女の友人(女性)が

「外科医になりたい」という発言をしたら

男性の医学生が

「体力的にきついから考え直したほうがいいのでは」

と返したらしい。


 私の友人は、小さい頃からアメリカやスイスで生活を

してきただけに、特にそういう発言に違和感と怒りを

感じていたと言っていた。

 

アメリカの医学生の男女比は今は6対4で女性のほう

が多いのに、翻って日本を見てみると圧倒的に

男性のほうが多い。そんな数字になっているのは

ひとつには現場での女性の医師に対する考え方が

やっぱり関係している気がしてならない。

「女医」という言葉がなくならないわけだし!

 

教授が彼女に対して言った言葉は十分に差別的だし、

彼女に言ったくらいなら他の女性にも言っているだろうし、

そうやって日常的に繰り返される発言で

女性が嫌な思いをするばかりか、もっと

悩ましいのはそれが

「そうなのか、じゃあ早くに私も結婚しなければ」

という思いを人によってはうえつけかねないことだと思う。

これって普通に罪じゃないの?


それに教授がそういう発言していれば

男性の学生だって、そういうもんだと認識するようになるの

かもしれないし。(もちろん個々人でそれが差別的発言

だと認識していれば別だけど)。

そうやってぐるぐるぐるぐる断ち切られないままに

女性に女性の役割分担をおしつける考えや発言が

くりかえされていくんだろうなーと

実感しました。


 彼女はそこから自由になりたい

と言っていた。とてもよくわかる。