近江 伊庭集落 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①堀割と田舟②カワト③カワト④堀割⑤伊庭内湖⑥金刀比羅神社

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:滋賀県東近江市

 

 幕末まで神崎郡伊庭村は、旗本・三枝氏が知行していた(一部に寺社除地)。明治3年(1870)神崎郡の旗本領は大津県の管轄となり、明治5年(1872)大津県は改称して滋賀県となった。

 

 明治7年(1874)梅安新田が伊庭村に併合された一方で、明治13年(1880)には、伊庭村から能登川村・北須田村が分立する。この時まで「能登川」は伊庭村の一小字であった。

 

 明治22年(1889)町村制の施行により、この3村と、佐生村・佐野村・猪子村・南須田村・山路村・林村の9村をもって神崎郡八条村が成立する。

 

 同年、八条村字林(旧林村)と八幡村大字垣見にまたがる地に東海道線の駅が開業する。駅名は両村の争いを避けるため、当初予定地(1km京都寄り)であった「能登川」がそのまま採用されたという。

 

 明治27年(1894)八条村は、伊庭村(旧伊庭村)・能登川村(能登川村・北須田村・南須田村)・五峰村(佐生村・佐野村・猪子村・山路村・林村)に3分割される。

 

 昭和17年(1942)この3村と、八幡村・栗見村の5村が合併し、能登川町が発足した。これにより、ようやく駅名と自治体名が一致することとなる一方、「伊庭」は能登川町の一部となった。

 

 さて琵琶湖には、かつて40数ヶ所の内湖があり、中でも大中湖は最大で、諏訪湖(長野県)よりも大きかったという。南に隣接して小中湖(伊庭内湖・安土内湖・西ノ湖の総称)があった。

 

 江戸時代後期にはすでに小中湖周縁部の干拓は行われていたが、昭和17年頃に本格的に干拓が始まり、昭和22年(1947)には完成した。西ノ湖はほとんど干拓されず、安土城の西側に現存する。

 

 大中湖の干拓計画も昭和27年(1952)に承認され、昭和32年(1957)干拓が始まり、昭和39年(1964)干陸、昭和41年(1966)入植が始まり現在に至る。なお現在の伊庭内湖は、大中湖の一部である。

 

 大中湖の干拓時、南東部の湖底から弥生時代の水田を含む、縄文〜鎌倉時代にかけての遺物が発見された。平安時代末期から鎌倉時代に水没し、近代に至るまで水の底であった。

 

 琵琶湖の内湖は23個に減り、その総面積は29k㎡から4.25k㎡まで縮小した。平成18年(2006)能登川町は東近江市に編入され、廃止となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

 

●日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」構成資産

 伊庭湊と金刀比羅さん

 

 現在、伊庭集落の西に広がる伊庭内湖は、昭和43年に干拓される以前は、琵琶湖最大の内湖「大中ノ湖」の一部で、伊庭集落の西端には湊があった。

 関ヶ原の戦いに際し、伊庭庄を治めていた徳永寿昌はこの伊庭湊から三男昌純を大津城に遣わし、大津城の京極高次を支援した。その功により徳永寿昌は美濃高須5万6百石の大名となった。 

 伊庭庄では、湖上交通の安全、漁業の繁栄を祈って、安政4年(1857)中村金四郎らが四国の金刀比羅宮より、分霊を勧請し、伊庭蛇塚の地に小祠を迎えた。

 元治元年(1864)7月に建立された鳥居は、麻織物で財を成した近江商人の阿部市郎兵衛の寄進による。

 かつてこのあたりには漁港と魚の販売所があり、伊庭内湖をはじめ、沖島周辺から琵琶湖の魚介類が集められ、セリが行われていた。

 

日本遺産「水の文化」東近江市地域協議会

 

 

日本遺産 滋賀・びわ湖

琵琶湖とその水辺景観一祈りと暮らしの水遺産

 

 人々は、琵琶湖の水や山からの湧き水を生活の中に巧みに取り入れ、水を汚さないように工夫をしながら生活を営んできました。また、水を神として敬い、信仰の対象としてきました。さらに、湖辺の集落では、湖魚を用いた独自の食生活や伝統的な漁法が育まれ、独自の景観を生み出てきました。滋賀では、このような水と人との関わりが今も息づき、大切に受け継がれています。

 

伊庭の水辺景観

 

伊庭川から集落内に導かれた水は、隅々まで水路に導かれ、人々の生活とともにあります。かつては船が行きかっていましたが、船が見られなくなった現在も、水路沿いに設けられたカワトやイケスと呼ばれる、生活に水を上手く利用する施設からその結びつきの深さを感じます。伊庭祭りでは、繖山から3基の神輿を引き下ろす「坂下し」が勇壮に行われ、里を経て湖に神を迎えます。水が育み、祈りが顕れる伊庭集落です。