近江 伊庭御茶屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①石垣②石垣③石垣④郭内⑤御茶之水址⑥妙啓寺

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:滋賀県東近江市

 

 寛永11年(1634)6月2日、仙台藩主・伊達政宗(68)ら先発隊が江戸城を発し、6月20日には3代将軍・徳川家光(31)も江戸城を発った。家光自身は3度目の上洛で、その総勢は30万人といわれている。

 

 名目は家光の姪でもある明正天皇(12)の即位祝賀だが、寛永4年(1627)の紫衣事件、寛永6年(1629)無位無冠の春日局の参内から、同年の後水尾天皇(39)の譲位で悪化した朝幕間の関係改善にあったという。

 

 7月7日、大政参与・井伊直孝(45)の彦根城に宿泊、7月8日、次の宿泊先でGoogleMapによると32km先(徒歩7時間26分)の永原御殿に向かった。伊庭御茶屋はちょうどその中間にあたる。

 

 伊庭御茶屋は、御殿に比べて台所が大きいという特徴があり、食事や休憩のための施設であった。その作事には、建築家、作庭家などとして知られる小堀政一(56)が携わった。

 

 当時の政一(遠州)は、近江小堀藩12,460石の藩主(現・滋賀県長浜市)であり、初代伏見奉行(1624〜)であり、同年からは畿内近国8ヶ国を総監する上方郡代に任ぜられていた。

 

 7月9日、10日と膳所城に連泊した家光は、11日に二条城に到着し、閏7月を過ぎた8月5日に京を発ち、江戸への帰途に着いた。膳所城からは水口城や亀山城など東海道を利用した。

 

 慶安4年(1651)家光が薨去すると、11歳の嫡男・徳川家綱は、上洛することなく江戸城にて勅使を迎えて将軍宣下を受け、以降これが恒例となった(15代慶喜を除く)。

 

 この時の家光の上洛以来、将軍の上洛はその後しばらく途絶え、14代将軍・徳川家茂が、文久3年(1863)朝廷から攘夷の要請を受け、3000人の供とともに上洛したのは、実に229年ぶりのことであった。

 

 永原御殿が、貞享2年(1685)に廃止されているので、伊庭御茶屋も同時に廃止となったと考えられている。地元では御殿地と呼ばれるが、道路沿いに石垣が残るのみで、内部の立入は禁じられていた。

 

 

以下、現地案内板より

 

国史跡 伊庭御殿跡

 指定日 令和2年3月10日

 所在地 東近江市能登川町372 ほか

 

 伊庭御殿跡は、江戸時代の初めに徳川将軍家が朝鮮人街道を通って上洛する途中に利用した休憩所施設跡です。宿泊に利用した彦根城と永原御殿跡(野洲市)の中間に位置しており、徳川家康、秀忠、家光らが将軍宣下や慶長19年(1614)から元和元年(1615)にかけての大坂冬の陣・夏の陣、寛永3年(1626)の後水尾天皇二条城行幸に際して、通行した際の食事や休憩に利用しています。

 伊庭御殿は、江戸幕府大工頭の中井家史料 「寛永十一年甲戌年 一伊庭御茶屋御作事之時 小堀遠江守」 に記載されている内容や「江州伊庭御茶屋御指図」と書かれた設計図が残されています。発掘調査で見つかった石垣や石列、井戸の位置と設計図が一致し、どのような間取りであったかがわかります。

 伊庭御殿跡は、幕藩制確立期に将軍の権威を示すために行われた上洛の実態を示す全国的に見ても貴重な遺跡です。

 

東近江市