①城跡碑と石垣②陣屋跡の謹節館③橋名標識保存庭園④掘割⑤掘割⑥掘割
訪問日:2024年6月
所在地:滋賀県東近江市
伊庭氏は、近江源氏佐々木氏の支流で、佐々木行実(佐々木定綱らの父・秀義の従兄弟)の4男・実高が、建久年間(1190-99)に伊庭城を築き、伊庭氏を称したのが始まりとされる。
宗家は、近江守護・六角氏の守護代を務めた伊庭満隆・貞隆父子らがいたが、貞隆は六角高頼に叛旗を翻し、永正17年(1520)没落した。貞隆については長命寺を参照。
伊庭氏の別流はその後も六角氏に仕えたようで、伊庭貞勝という人は蒲生郡桐原郷に身を寄せ、慶長12年(1607)に没し、その子・貞家は武蔵国野本藩初代藩主・渡辺吉綱に仕えたという。
元禄11年(1698)野本藩3代藩主・渡辺基綱は、武蔵の所領3500石を近江国に移されたのを機に、陣屋を和泉国大庭寺に移し、和泉大庭寺藩を立藩した(のち同国伯太に移転)。
この時から、近江における飛び地(西宿・虫生・峰前・竹村等5ヶ村)3千石を、伊庭氏が代々代官として支配するようになった。
実高から25代の裔にあたる伊庭貞剛は、弘化4年(1847)伯太藩代官・伊庭正人の長男として西宿村に生まれた。母は野洲郡八夫村の旧家の娘・北脇田鶴子。
貞剛は、明治11年(1878)大阪上等裁判所を辞職し、翌年に母方の叔父で初代住友総理事・広瀬宰平の勧めで住友に入社、明治33年(1900)第2代住友総理事となった。
以下、現地案内板よりより
●日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」構成資産
伊庭城址
昔この地は、崇徳上皇の御願寺である成勝寺領でした。
保元元年(1156)、源為義が崇徳上皇から賜ったことが保元物語に記されています。
建久年間(1190~98)に近江源氏八代目佐々木行實の三男實高がこの地に居館を建て、伊庭氏を名乗り、代々この地一帯を領していました。
室町時代には、伊庭氏は守護代となり、琵琶湖の湖上権を握ったこともあり大いに栄えましたが、近江守護六角高頼との対立により、永正17年(1520)、13代 320年間続いた伊庭氏はついに没落しました。
伊庭氏の重臣だった徳永昌利の子、寿昌(法印)が、元亀・天正の兵乱によって荒廃した伊庭庄の復興に努めました。
元禄11年(1698)、旗本三枝氏が領主となり、伊庭城址に陣屋を構え、明治維新まで8代にわたりこの地を領しました。
明治12年(1879)、陣屋跡に伊庭小学校を建て、そして昭和23年に老朽化した小学校跡に建てたのが 現在謹節館です。
伊庭町・日本遺産「水の文化」 東近江市地域協議会