摂津 安治川台場②(天保山砲台) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①台場跡②天保山三角点③天保山渡船場④安治川⑤海上保安庁船⑥実測図(明治19年)より

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:大阪市港区

 

 土屋寅直は、文政3年(1820)常陸土浦藩9代藩主・土屋彦直の長男として生まれた。母は7代藩主・土屋英直の娘(8代藩主・土屋寛直の養女)の充子。

 

 父・彦直は、常陸水戸藩6代藩主・徳川治保の実子(3男)であり、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(1800-60)は従兄にあたる。天保9年(1838)父の隠居により土浦藩10代藩主となる。

 

 天保14年(1843)奏者番、嘉永元年(1848)寺社奉行を経て、嘉永3年(1850)大坂城代に任ぜられる。嘉永7年(1854)プチャーチン率いるロシア帝国海軍のディアナ号が大坂沖に現れる。

 

 寅直は、プチャーチンに下田への回航を要請し、翌年天保山の台場構築に着手したとされるが、その稜堡式縄張については、文久3年(1863)勝海舟の摂津派遣以降との説もある。

 

 なお、土浦藩は泉南に淡輪など4ヶ村を領しており、淡輪村大藪の海防陣屋、谷川台場(豊国崎・観音崎)は寅直によるものと考えられている。

 

 寅直は、斉昭の影響を受けてか、安政5年(1858)大坂・兵庫の開港については反対の立場であった。同年、大坂城代を退任し、後任には丹波亀山藩主・松平信義(井伊直弼正室・貞鏡院の義兄)が就いた。

 

 また、元治元年(1864)水戸藩で天狗党の乱が起きた際には、鎮圧に消極的な立場であった。同年、奏者番兼寺社奉行に再任され、慶応4年(1868)3月、退任して明治新政府の命で謹慎する。

 

 その後、新政府に恭順して江戸城警備を務め、同年5月、養子で斉昭の17男(徳川慶喜の異母弟)の土屋挙直に家督を譲って隠居、明治28年(1895)76歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

大阪市顕彰史跡第215号

 天保山台場跡 (港区築港3丁目)

 

嘉永6(1853)年のペリーの浦賀来航以後、幕府は天保山台場を中心とした大阪湾岸の防備が大坂市中や京都御所を守衛する上からも重要と考え、安政3(1856)年7月に、この地の砲台建造に着手した。

 

大阪市教育委員会

 

 

天保山台場跡(港区築港3丁目) 【大阪市顕彰史跡第215号】

 

 天保山はその名の通り、天保2(1831)年から始まった安治川河口の浚渫で出た土砂を盛り上げてできた人工の山で、造山直後から行楽地として賑わっていた。嘉永6(1853)年7月にペリーが浦賀沖に来航するや、同年9月に、幕府は品川沖や大阪湾などに砲台(台場)を建設する方針を決定した。嘉永7(安政元・1854)年には天保山沖にロシア船ディアナ号が出現するという事件が起こり、安政3(1856)年7月、幕府は大坂城代・土屋寅直に命じて天保山に台場を築造することになった。この建設に際しては、品川沖の台場建造の経験をもつ川路聖談(としあきら)・岩瀬忠震 (ただなり)らが参画した。

 台場には大砲が据え付けられ、艦船も配備された。現在、大阪城小天守台にある「お城のドン」と呼ばれる青銅製大砲(大阪市指定文化財)はこの時のものとされる。

 天保山台場はそれまでの天保山の外形を大きく改変し、いぴつな星形の輪郭を呈していたが、現在はその北東の突出部周辺に痕跡をとどめるのみとなっている。