訪問日:2024年6月
所在地:大阪府枚方市
惟喬親王は、承和11年(844)皇太子・道康親王の第1皇子として生まれた。母は紀名虎の娘・紀静子。同母弟妹に第二皇子・惟条親王、斎宮・恬子内親王、斎院・述子内親王、珍子内親王がいる。
嘉祥3年(850)父の践祚直後に藤原良房の娘・明子が第四皇子・惟仁親王(清和天皇)を産む。同年、生後8ヶ月の惟仁親王が3人の兄を退けて立太子する。
父帝は、幼い惟仁親王が成長するまでの間、惟喬親王を立てることを望んだが、惟喬親王の身を案じた源信が反対したため断念したという。天安元年(857)惟喬親王は元服、四品に叙せられる。
天安2年(858)父帝が32歳で崩御し、惟仁親王が9歳で即位した。惟喬親王は同年、大宰権帥を経て大宰帥に任ぜられる。渚院に滞在したとすればこの頃だろうか。
貞観5年(863)弾正尹、貞観6年(864)常陸太守、貞観14年(872)上野太守を歴任し、同年に出家して素覚と号し、比叡山麓の小野(近江説と大原説あり)に隠棲する。
その後、鴨川源流域の雲ヶ畑の金峯寺に宮を建てて移り、在原業平や伯父・紀有常らと交流したようだ。『伊勢物語』では業平の惟喬親王の交流や、恬子内親王との禁忌の恋が語られている。
世の中のたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しがるべし(紀有常)
また、日本の国歌「君が代」は一説によると、惟喬親王に仕える木地師(轆轤師)が親王のために詠んだという
我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで (『古今和歌集』読人知らず)
隠棲した惟喬親王が綱引轆轤を考案し、杣人に椀や盆などの木工技術を伝授し、日本各地に広まったという伝説があり、木地師には惟喬親王を祖とする伝承は全国的に見られる。
病に斃れ、死期を悟った親王は、御所の上流にあたる金峯寺を避け、さらに北の小野郷大森に移り、寛平9年(897)54歳で薨去したという。
以下、現地案内板より
渚院跡
平安時代の初め、交野ヶ原には惟喬親王(844〜897)の別荘である渚院があったとされています。
惟喬親王は、文徳天皇(850〜858在位)の第一皇子でしたが、立太子争いに敗れ、その憂さをはらすためにしばしば渚院を訪れたようです。「伊勢物語」には、交野ヶ原に遊猟に来たものの、渚院で桜を愛で酒宴に興じ歌を詠むことばかりに熱中する親王達の姿が描かれています。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
この歌は、この時同行した右馬頭(在原業平)が詠んだものですが、失意のうちにあって「のどか」でない惟喬親王の心境を詠んだともされています。
渚院跡に建立されたという観音寺は、十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。本尊は、渚の西雲寺に移されましたが、鐘楼と梵鐘は当地に残りました。今も残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で、枚方村の鋳物師田中家の作です。鐘楼と梵鐘は、平成8年に市の有形文化財に指定しています。
2023年3月 枚方市