河内 国分寺/片山神社(片山廃寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①国分寺塔跡②国分寺塔跡③国分寺案内板より④片山神社⑤片山廃寺塔礎石⑥片山廃寺塔礎石

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:大阪府柏原市

 

 古代の河内国安宿郡(あすかべぐん)は、現在の柏原市南部(大和川=龍田道以南)と羽曳野市南東部の駒ヶ谷・飛鳥(竹内街道以北)、東は大和との国境、西は石川の範囲であったと考えられている。

 

 安宿郡には賀美(かみ)・尾張(おわり)・資母(しも)の3つの郷があり、近世の片山村の地は尾張郷であったことから、片山廃寺の創建は尾張氏によるものという説が有力とされるが確証はない。

 

 尾張氏は、津守氏・海部氏などとともに天火明命を祖神とする天孫系で、その祖・奥津余曾の妹である余曾多本毘売命は、第5代・孝昭天皇の皇后として、第6代・孝安天皇を生んだという。

 

 また、第10代・崇神天皇の妃の一人に尾張大海媛がおり、第12代・景行天皇の皇子である日本武尊の東征には、尾張国造・乎止与命の子・建稲種命が副将軍として従い、功を挙げたとされる。

 

 さらに、妹の宮簀媛は東征から帰還した日本武尊の妃となり、預かった草薙剣を奉納して熱田社を創建したという。建稲種命の外孫・仲姫命は、第15代・応神天皇の皇后で、第16代・仁徳天皇の母。

 

 そして、応神天皇5世の来孫という立場から第26代天皇となった継体天皇の即位前の妃が、尾張(連)草香の娘・目子媛で、第27代・安閑天皇、第28代・宣化天皇の母、、、といった具合だ。

 

 越前(近江とも)を治めていたという継体天皇の即位に尾張氏が果たした役割は大きいと思われる。さて、片山廃寺が創建されたという西暦700年前後に活躍していたのが、尾張大隅という人である。

 

 尾張氏同族の海部一族・凡海(おおあま)氏に養育された大海人皇子(第40代・天武天皇)は、天武天皇元年(672)吉野宮に挙兵、大友皇子(第39代・弘文天皇)との壬申の乱が勃発する。

 

 大隅は、吉野を脱出して東国に赴いた大海人皇子に行宮として私邸(美濃国か)と軍資金を提供し、天武天皇13年(684)大隅ら尾張連に宿禰の姓が与えられた。

 

 持統天皇10年(696)尾張(宿禰)大隅は、冠位四十八階の直大肆(15番目)の位と水田40町を与えられる。霊亀2年(716)従五位上を追贈されているので、それまでに死去している。

 

 尾張氏が河内国安宿郡にいたという根拠は郷名のみだが、尾張郷が大和川・石川の合流点に存在し,「海人族」とされる尾張氏がいたとしても不思議ではないとのことである。

 

 

以下、現地案内板より

 

河内国分寺塔跡  柏原市国分東条

 

 当地では昔から古代の瓦が発見されており、地名、塔跡の規模などから河内国分寺と推定されています。

 国分寺とは、奈良時代に建てられた官寺のことで、国分尼寺とともに旧国に一対ずつ建立し、国の平安を祈ったものです。

 昭和45年に発掘調査がおこなわれ、塔の基壇と、中門の一部が確認されました。奈良時代の瓦と共に、それ以前の瓦も出土しています。白風時代(7世紀末)の寺を改築・整備したようです。

 〔基壇〕 土をつきかため、凝灰岩で表面を整え、礎石を置いて柱を受け、重い建物をささえました。

   一辺 19.2m  高さ1.6m (階段の巾 4.5m)

 近くには鳥坂寺・土師寺などの寺院群や、河内国府など著名な古代の遺跡が密集しています。大和川をはさんだ北東の山には、大和と河内を結ぶ古代の主要路「龍田越(立田越)」がとおり、古くは桜・紅葉の名所として知られていました。

  雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣  立田の山は もみち始めたり(万葉集)

 

平成2年3月  大阪府教育委員会 柏原市教育委員会

 

 

河内国分寺塔跡

 柏原市国分東条町3872番地の2

 

 天平13年(西曆741年)聖武天皇は、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を詔しました。この詔をうけて河内国に建てられた寺院が、河内国分寺です。

 河内国分寺は大和川を望むすばらしい景観の位置に建てられ、東西2町(216m)・南北2.5町(270m)の範囲を寺城としています。西側の丘陵には、南大門・中門・金堂・講堂などが、また東側丘陵上には、塔院のほか、寺院に付属する施設が建てられていたと考えられます。 

 塔は、一辺63尺(18.9m)高さ5尺(1.54m)の基檀のうえに建てられていた七重塔と推定されます。基檀は、周囲に凝灰岩の切石を積んだ壇上積み基檀とよばれるものであり、基檀上面には凝灰岩の切石を敷きつめ、枘の出た礎石を配しています。

 その規模は河内国分寺にふさわしいものであり、往来する人々はその姿を驚きをもって眺めたことでしょう。

 

平成6年3月  大阪府教育委員会 柏原市教育委員会

 

 

片山廃寺塔跡

 

 片山廃寺は北に大和川、西に石川をのぞむ玉手山丘陵北端に位置し、塔心礎の存在や屋瓦の散布により、古くから寺跡とされてきました。

 昭和57年4月の発掘調査によって、一辺の長さ11.7mの塔の基壇が確認されました。凝灰岩切石を組み合わせた壇上積基壇で、一部は瓦積みに補修され、 南・西縁には階段も残っていました。基壇の大きさから小型の五重塔と推定されます。

 出土した軒瓦は飛鳥の藤原宮で使用されたものと同じ瓦型から作られたもので、塔の創建が7世紀末〜8世紀初頭であったことがわかります。

 

1989年3月 柏原市教育委員会