河内 道明寺天満宮/蓮土山道明寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①天満宮拝殿②元宮・土師社③天満宮神門④道明寺現本堂と礎石⑤五重塔礎石⑥蓮池

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:大阪府藤井寺市

 

 道明寺の寺伝によると、推古天皇2年(594)聖徳太子が尼寺建立の建立を発願し、野見宿禰の子孫である土師連八嶋が自邸を寄進し、土師神社(道明寺天満宮)の南に土師寺を建立したという。

 

 延喜元年(901)土師氏の裔である菅原道真が大宰府に左遷されるに及び、土師寺にいた叔母の覚寿尼を訪ねて別れを惜しんだ。道真の死後、その号である道明に因み、道明寺と改められた。

 

 道真が去った後、覚寿尼は毎日九州に向けて米飯を供えるようになった。そのおさがりを分け与えたところ、これをいただくと病気が治るという評判がたつ。

 

 これを求める希望者が多くなったため、あらかじめ蒸したもち米を天日で乾燥・貯蔵するようになったのが、道明寺糒(ほしい)の始まりといい、その後も代々の住尼が引き継いで作った。

 

 江戸時代において道明寺糒と並び最佳とされた仙台糒も、伊達政宗が慶長年間(1598-1615)に、道明寺糒を参考に保存食(兵糧)として使用するため、上方の技術を導入して作らせたのが始まりという。

 

 道明寺糒を粗く挽いたのが道明寺粉で、西日本で主流の関西風桜餅など和菓子の生地として使用される。東日本でも仙台藩があった宮城県や、北海道などでは関西風桜餅が主流のようだ。

 

 道明寺オリジナルの道明寺糒は現在も販売されており、その包装紙に印刷された「ほしいひ」の文字は、豊臣秀吉の直筆とされている。

 

 

以下、現地案内板より

 

道明寺天満宮

 

 菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したとも考えられる。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公の遺品として銀装革帯 (ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。

 広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。

 

藤井寺市教育委員会

 

 

道明寺天満宮

 御祭神  菅原道真公 天穂日命 覚寿尼公

 由緒

 垂仁天皇の32年(西曆3)、野見宿称が埴輪を創り殉死に代えた功績により 「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜って以来、遠祖天穂日命をお祀りし、 土師神社と称した。 

 推古天皇2年(594)には、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺を建立。 

 土師氏は「菅原」へと改姓し、菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、 道真公は当地を度々訪問される。 

 昌泰四年(901)道真公筑紫へ下向の時、

  世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき

と詠まれ、 道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり、

  鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな

との御歌を残されて西海に赴かれた。

 その後、天暦元年(947)に遺し置かれた木像を北丘にお祀し、 ご遺品をご神宝(国宝)として安置し天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。

 明治5年(1872)神仏分界により、尼寺は西に移転し現在に至る。

 

 

道明寺

 道明寺は、古墳造営に携わった土師氏の氏寺(土師寺)として7世紀代に建立されたと考えられます。土師氏の子孫の菅原道真公ゆかりの寺で、道真公の別名道明から道明寺と呼ばれるようになりました。

 当寺はもとは道明寺天満宮の南側にありましたが、明治時代の神仏分離により天満宮と分離され、現在地に移転しました。

 江戸時代の境内図から、四天王寺式伽藍配置であったことが知られます。

 本尊の十一面観音菩薩立像は、檜の一木造で、細部にいたるまで緻密な彫技が施された、代表的な檀像彫刻として国宝に指定されています。

 

藤井寺市 藤井寺市教育委員会

 

 

道明寺略縁起

 

 当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を本尊とする、古義真言宗の尼寺です。仏法に帰依される処深かった聖徳太子がこの地に尼僧の寺院を建立されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し東西320米南北640米の広大な境内に五重の塔金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。

これが当寺の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるでき、叔母の覚寿尼を訪れて当寺に立寄られ一首を残されています。 

 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の 鳴からむ里の暁もかな

 戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の庇護によって復興成り朱印地に認められました。明治5年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大正8年には本堂の落成をみ多宝塔を加え建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺として現在に至っております。

 

道明寺

 

 

蓮池

 

 古墳時代このあたりの豪族土師氏により、土師神社(現道明寺天満宮)を、又、推古天皇時代聖徳太子により土師寺(現道明寺)が建立された。

 古絵図では南大門前、参道に接して左右の2ヶ所の蓮池が描かれており、今では往時を偲ぶ数少ない遺構である。

 この蓮池を地元の要望を受けて門前町等の歴史的雰囲気を活かしつつ、消防水利施設として機能転換を図ったものである。

 

藤井寺市

 

 

謠曲「道明寺」と木槵樹

 

 謠曲「道明寺」は、菅原道真公の氏寺道明寺の縁起を述べ、木槵樹珠数の効験を説いた曲である。

 元慶8年(884)、道明寺天満宮御祭神菅原道真公は、この地で五部の大乗経を書写され埋められたが、不思議にもその経塚から経巻の形をした胚芽の木槵樹が成育した。

 相州鎌倉の田代寺の尊性上人、信州善光寺て17日参籠の時、霊夢を蒙り、「河内国土師寺は天神の御在所である。そこの木槵樹の実を108個採って珠数とし、念仏百万遍を修行せよ、必らず極楽に生まれん」 との効験を告げられた。それを脚色したのが謠曲「道明寺」である。 

 今、この木槵樹は数代目で、府の天然記念物に指定されている。

 

謠曲史跡保存会