摂津 巨鰲山 海清寺② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①山門②山門内側③本堂④境内⑤南天棒供養碑⑥大クス

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:兵庫県西宮市

 

 南天棒の異名で知られる臨済宗の僧・中原鄧州(1839-1925)が、64歳となった明治35年(1902)古刹ながらも衰微していた海清寺の住職となり、寺の再興と居士(在家の信者)の育成に邁進した。

 

 鄧州からは、子爵・山岡鉄舟(1836-88)、日露戦争(1904-05)の英雄である陸軍大将・乃木希典(1849-1912)や満州軍総参謀長・児玉源太郎(1852-1906)らが影響を受けたという。

 

 明治41年(1908)東京禅学堂に赴いた時、22歳の平塚明(はる1886-1971)という女性が鄧州を訪ねる。当時、彼女は森田草平という文学青年と心中未遂事件を起こし、世間のバッシングに晒されていた。

 

 草平は師匠である夏目漱石の推薦で、明治42年(1909)1月から5月にかけ、これを題材とした小説『煤煙』の連載をした。これが実質的に彼の出世作となる。

 

 同年、明は海清寺まで出向き、 12月1日から8日の1週間にわたる臘八接心という厳しい修行に臨み、参禅者の中で唯一やり遂げた明は、鄧州から見性の証として「全明」という大姉号を授けられた。

 

 明治44年(1911)明をはじめ女性5人を発起人とする女性だけの文芸誌『青鞜』を創刊する。明は「元始女性は太陽であった」に始まる創刊の辞にて初めて「らいてう」の筆名を使う。

 

 なお、創刊号の表紙絵は長沼智恵子(1886-1938、後の高村光太郎夫人)が描き、賛助員の一人・与謝野晶子(1878-1942)の詩が巻頭を飾っている。明の鄧州との接心はこの頃まで続いた。

 

 大正7年(1918)80歳の鄧州は海清寺にて自らの入定式(生前葬)及び海清寺開山(無因宗因)五百年遠忌を盛大に執り行った。そして大正14年(1925)87歳にて遷化している。

 

 明(平塚らいてう)は晩年の自伝『元始、女性は太陽であった』にて、鄧州や、鄧州の養子で当時浅からぬ関係にあったという浅草・海禅寺住職・中原秀嶽について触れている。

 

 

以下、現地案内板より

 

兵庫県指定文化財 天然記念物

 海清寺の大クス 県指定 昭和41年3月22日

 

 海清寺の大クスは、同寺開創の応永初年(1394)に植えられたと伝えられるもので、樹齢約600年と推定されています。根廻り約9.2m、幹の目通り周約5.83m、樹高約35mです。枝張りは、東へ約15.5m、西へ約19m、南へ約14m、北へ約19mです。本樹は、昭和39年および昭和40年の台風により若干枝の損傷がありましたが大方回復しています。クスノキは、従来南方の植物で台湾および中国南部まで分布し、数百年の樹齢を保つものといわれています。本樹も周辺部の環境条件に顕著な変化がない限り、今後とも旺盛な樹勢を保つものと思われます。

 

西宮市教育委員会