訪問日:2024年5月
所在地:神戸市灘区
摂津国高羽村(たこうむら)は六甲山南麓に位置し、現在の神戸市灘区楠丘町・高羽町(たかはちょう)・寺口町・一王山町・桜ヶ丘町・土山町・六甲台町・弓木町5丁目・高徳町4〜6丁目・高羽(たかは)に該当する。
六甲台町は、昭和27年(1952)旧高羽村の楠本嘉太夫が拓いた高羽字嘉太夫新田と、篠原字籠池山、八幡字中新田・勘太郎、水車新田字大土ケ平・蛙石・宮坂から成立した。
話は遡り、明治41年(1908)高羽村嘉太夫新田の山中で、建物の遺構や石垣跡が検出され、郷土歴史家らはこれが『太平記』に登場する「赤松城」に間違いないとした。
なお、昭和4年(1929)神戸高等商業学校が大学昇格に伴い、キャンパスが遺構が発見された灘区高羽嘉太夫新田に移転され、現在の国立神戸大学の前身である神戸商業大学が設立されている。
昭和7年(1932)には嘉太夫新田南側の八幡字岨・勘太郎・西ノ川・山田、高羽字楠岡の一部を併せて「赤松町」と名付け、昭和20年(1945)頃にはその北寄りに「赤松城之址」の碑が建てられた。
しかしその後の研究で「赤松城」は播磨国の苔縄城(佐用町)であることがほぼ確実となり、前述の遺構は最盛期には73の僧房と七堂伽藍を擁したという十善寺の遺構の一部に過ぎないとされた。
こうして摂津の「赤松城」は否定され、いつしか「赤松城之址」碑もなくなり、今は国宝指定された銅鐸・銅戈が発見された桜ヶ丘町(旧高羽字小坂田・墓ヶ平)の方が注目されているようだ。
しかししかし、元弘3年(1333)赤松円心が摩耶山城に拠ったのは間違いなく、ここがかつての十善寺であったとしても、円心が出城として活用したようなので、城跡と考えることもできる。
また十善寺は、かつての十善寺を油コブシ付近(灘区六甲山町)としており、六甲台町および赤松町とは少し離れており、かの遺構については謎のままとなっている。
以下、現地案内板より
臨済宗永源寺派
一王山 十善寺縁起
当山は後冷泉天皇の御宇、天喜5年(1057年)に信覚大師の手によって創建されたもので往時には73の僧房と七堂伽藍を擁し、又、景勝の地の利も得て、まことに壮観であったと伝えられています。その後、兵火に遭遇し、総てを灰儘に帰するところとなりましたが、禅宗の高僧、宇光寂室禅師はこれをたいそう惜しまれ、諸堂や十三院を造営されました。
ところが、天正年中(1573~92)織田信長の兵火でまた堂宇は焼失の憂き目にあい現在の寺観は、元禄の高僧、永源寺・仙霊祖竺禅師の志を継いだ、高羽の楠本三左衛門高重によって寛文5年(1665年)に再建され、宝暦11年(1761年)に呑海禅師が来てから完成されたものであります。御本尊には十一面千手観音菩薩を安置し、脇仏として弘法大師を、又、諸天皇を祠っております。
最初の兵火と伝えられるのは、元弘3年(1333年)赤松円心(則村)が播磨国から攻め上がり摩耶山城によって京都の北条軍を悩ました時で、円心が十善寺を戦いに利用したため、この地方は戦場となり寺が焼かれたのであります。それ以後、寺はもとの地(六甲ケーブル山頂駅東南、油コブシ付近)から現在の地へ移ったと言われています。
一王山と言う山号は、もと寺の南の地名であった一の尾から由来しています。この一の尾を一の王にとって山号とし「王は十善、神は九善」という所から寺号を十善寺と称しました。
背山には八十八ヶ所の霊場があり、毎月21日にはお大師様の日としてお供養しております。
合掌