大和 飛鳥京③(飛鳥池工房遺跡/飛鳥水落遺跡) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①飛鳥池工房遺跡②石組方形池跡③導水路⑤水落遺跡⑥水落遺跡

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:奈良県高市郡明日香村

 

 斉明天皇元年(655)正月、62歳で重祚した斉明天皇だったが、同年冬、板蓋宮が火災に遭ったため川原宮に遷り、翌斉明天皇2年(656)には(後)岡本宮を整備して遷る。

 

 しかし同年、その岡本宮も火災に遭う。当時天皇は多くの公共事業を実施しており、動員される民衆には不評であった。斉明天皇4年(658)先帝・孝徳天皇の皇子・有間皇子の変が起こる。

 

 有間皇子を唆した上で密告した蘇我赤兄は、これらの公共工事を天皇や皇太子・中大兄皇子の失政として挙げた。19歳の皇子はこれに騙され、謀反の罪で紀伊国で絞首刑に処された。

 

 対外的には、阿倍比羅夫を三度にわたり蝦夷平定に派遣、比羅夫は幣賄弁島(へろべのしま、樺太説・奥尻島説など)まで進出し、粛慎(みしはせ=オホーツク文化人説など)と戦っている。

 

 また朝鮮半島諸国(高句麗・新羅・百済)や唐と使者の交流を図り、情報の収集に努める。斉明天皇6年(660)百済が唐・新羅により滅亡したという情報が入る。

 

 百済の遺民らは復興のための援軍と、人質として日本にあった皇子・豊璋の帰国を要請、天皇はこれを認めて豊璋を帰国させ、軍船と武器などを準備するため難波に遷る。

 

 斉明天皇7年(661)正月、中大兄皇子らとともに西へ向け出航し、5月に筑紫の朝倉橘広庭宮に入る。同月、第一派日本軍が大陸へ向け出航した。しかし天皇は体調を崩して7月に同地にて崩御した(68歳)。

 

 中大兄皇子が称制し、天智天皇元年(662)主力の第二派日本軍が出航、天智天皇2年(663)白村江の戦いに挑むが、唐・新羅連合軍に大敗を喫する。

 

 なお、中大兄皇子は皇太子時代の斉明天皇6年(660)に日本初の水時計を作り、即位後の天智天皇10年(671)新たに漏刻を整備したとされ、水落遺跡はその遺構といわれている。

 

 

以下、現地案内板より

 

石組方形池跡

 

この石組方形池跡は、この場所で発掘調査により確認された遺構を、その直上において、復原的・立体的に整備したものです。実際の遺構は地下約2メートルのところで保存されていますが、その位置や平面的な大きさ、石組の状況などを再現しています。方形池は東辺が少し長い台形に近い形で、規模は東西約7.9メートル、南北約8.6メートルです。池の底にはまばらに砂利を敷いていました。この池には、工房群から排出された炭や灰などの廃棄物を水溜で沈殿させ、濾過された上澄み水が注ぎ込み、北東方向に延びる石組溝から水を排出していました。

人工の池というと、これまでは宮殿や邸宅の宴遊施設と考えられていましたが、飛鳥池工房遺跡では、汚水処理システムの一環として利用されていたと考えられます。

 

 

建物跡・塀跡

 

飛鳥池工房遺跡では、数多くの建物跡や塀跡が確認されていますが、これらの建物や塀は、いく度か建て替えられています。この場所で表示した3棟の建物跡と堀跡は、その方向などから考えて、ほぼ同時代に建っていたものと考えられます。

ここではその建物跡の方向や規模、塀跡の位置を表現しています。塀跡Aは東西方向の塀で、柱は8尺(約2.4メートル)間隔で建っています。塀跡Bの柱間も8尺等間で堀跡Aに直交する南北方向で建てられており、塀跡A・Bにより区画が構成されています。

建物跡Aは南北方向に棟をもつ建物で桁行6間、梁間2間で約78平方メートルの規模をもち、他の建物と比べて大きく、管理や収納のための建物と思われます。

建物跡Bは桁行、梁間とも2間の建物で、また建物跡Cは桁行4間、 梁間2間の建物で、比較的小規模な工房ではないかと思われます。

 

 

飛鳥寺瓦窯

 

 飛鳥寺瓦窯は、昭和28年に飛鳥寺の東南にある丘陵斜面 で発見された。現在、2基が確認されている。瓦窯は丘陵の裾に焚口を置き、岩盤中に燃焼室と階段状の焼成室、煙道を設けた登窯である。全長10.1m、幅1.5m、高さ90cmで、天井をアーチ形に削りだしている。窯の勾配は22〜25度である。出土する瓦が、飛鳥寺の瓦と同じであることから、飛鳥寺の瓦を焼いた窯であることが判明している。

 

明日香村大字飛鳥

 

 

史跡 飛鳥水落遺跡

 史跡指定 昭和51年2月20日

 

 斉明天皇6年(660年)5月、皇太子中大兄皇子 (のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と「日本書紀」に書かれています。「日本書紀」はその場所について何も語っていません。1981年その水時計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出されたのです。

 ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかりました。水時計建物を中心にして、 水を利用したさまざまな施設があることもわかりま した。

 

 当時の日本は、中国の先進文明を積極的にとりいれて、律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速にととのえつつありました。中大兄皇子は、中国にならい政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序づけようとしたのです。

 時計装置の製作と運用は、当時の、最新かつ最高の科学技術を結集した国家的な大事業であったことでしょう。その意味において、飛鳥水落遺跡は律令国家確立への記念碑といえるでしょう。

 

 

古代の迎賓館〜石神遺跡〜  令和3年3月 明日香村教育委員会

 

 1902年・1903年、明日香村大字飛鳥の「石神」と 呼ばれる水田から須弥山石と石人像が出土しました。1936年には石田茂作氏によって発掘調査が実施され、石組溝や石敷が見つかり、飛鳥時代の遺跡の存在が明らかとなりました。この遺跡は「石神遺跡」と名付けられ、1981年から奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)によって本格的な調査が実施されることになりました。その結果、飛鳥時代全般にわたる遺構が見つかり、度重なる改造が行われていたことが判明しました。最も整備されたのは斉明女帝の時代 (655年〜661年)で、長大な建物で囲まれた長方形の区画が東西に2つならび、大規模な掘立柱建物群や方形石組池がつくられました。東北地方や朝鮮半島の新羅からもたらされた土器が出土していることから、『日本書紀』に記載のある「飛鳥寺西」に設けられた外国使節に対応するための饗宴の場、いわゆる「迎賓館」であったことが想定されます。

 すぐ南には時による支配の象徴とされ、日本で初めての時を告げる水時計台跡と考えられる飛鳥水落遺跡が位置することから、日本(倭国)の威厳を示し、外国使節に対して服属を確認するための施設であったと考えられます。