大和 仏塔山 橘寺② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②観音堂③廻廊跡④五重塔跡⑤往生院格天井⑥東門

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:奈良県高市郡明日香村

 

 穴穂部間人皇女は、第29代・欽明天皇の第3皇女で、母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母兄弟に茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子(?-587)、泊瀬部皇子(553?-592、第32代・崇峻天皇)がいる。

 

 異母兄である橘豊日皇子(第31代・用明天皇、?-587、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛)の妃となり、敏達天皇3年(574)第2皇子・厩戸皇子の他、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子を産む。

 

 当時の橘寺の地は、欽明天皇の別宮(橘の宮)で、散策中の皇女が厩戸の前で産気づき、出産したのが厩戸皇子であったといい、橘寺は「聖徳太子生誕の地」とされている。

 

 敏達天皇14年(585)第30代・敏達天皇の崩御により異母弟の橘豊日皇子が即位、穴穂部間人皇女は皇后となる。この頃から、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の対立が激しくなる。

 

 用明天皇2年(587)用明天皇が崩御、皇位をめぐり馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を、守屋は穴穂部皇子を推し、穴穂部間人皇女にとっては同母弟同士の争いとなる。

 

 同年、馬子は敏達天皇の皇后・額田部皇女の詔を得て穴穂部皇子を殺害、守屋打倒の兵を挙げ、厩戸皇子もこれに加わり、守屋は討死して物部氏は没落、崇峻天皇が即位した。

 

 その崇峻天皇も政務の実権を握る馬子や額田部皇女と対立し、崇峻天皇5年(592)暗殺された。馬子は額田部皇女を日本史上初の女帝(第33代・推古天皇)に立て、厩戸皇子が皇太子として政務に加わった。

 

 なお、穴穂部間人皇女は亡き夫・用明天皇の第1皇子・田名皇子に再嫁し佐富女王を産んだ。佐富女王は後に甥であり、従兄弟でもある厩戸皇子の次男・泊瀬王に嫁いでいる。

 

 穴穂部間人皇女は、推古天皇29年12月(622年2月)に死去している。また厩戸皇子も2ヶ月後の推古天皇30年2月(622年4月)皇太子の身分のまま天皇に先立ち死去している。

 

 

以下、現地案内板より

 

橘寺

 

 発掘調査によって、伽藍は四天王寺式伽藍配置であるが、当時の寺院は、南向きのものが多い中、この寺院はめずらしく東向きで、中門・塔・金堂・講堂が一直線に東から西へ並んでいたことが確認された。中でも、塔心礎の柱穴は、心柱の三方に添木を当てる特殊な形式で法隆寺若草伽藍の心礎と似ている。

 寺院の創建年代は定かではないが、「聖徳太子伝暦」によれば太子がこの寺で、勝鬘経を講ぜられたとき、瑞祥があって、それによって仏堂を建立したとある。太子建立の七ヶ寺の一つと伝えられている。発掘調査で出土した瓦の文様から、7世紀前半には小規模な堂(金堂?)が建てられ、7世紀後半に大規模な整備がなされたことがわかる。