大和 飛鳥京②(飛鳥宮内郭) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①正殿(右上方)を望む②内郭北東隅③同北から見る④同東から⑤同東を見る⑥正殿跡

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:奈良県高市郡明日香村

 

 寶女王は、推古天皇2年(594)第34代・舒明天皇(在位628-641)の異母兄にあたる茅渟王の第1王女として生まれた。母は吉備姫王(第29代・欽明天皇の孫)、同母弟に軽王(後の第36代・孝徳天皇)。

 

 第31代・用明天皇の孫・高向王に嫁ぎ、漢皇子(生没年不詳)を産む。その後の高向王との離別の理由は不明だが、叔父にあたる舒明天皇の皇后となる。

 

 舒明天皇との間に、中大兄皇子(第38代・天智天皇、626-672)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第40代・天武天皇、?-686)が生まれたとされる。

 

 舒明天皇13年(641)継嗣が定まらぬまま舒明天皇が崩御すると、中継ぎとして皇后である49歳の寶皇女が、推古天皇に次ぐ2人目の女帝として皇極天皇元年(642)に即位した(第35代・皇極天皇)。

 

 政務は大臣である蘇我蝦夷に代わり、子の蘇我入鹿(?-645)が掌握した。皇極天皇2年(643)4月、板蓋宮に遷幸する。同年11月、入鹿は皇位継承の候補者で蘇我氏の血を引く山背大兄王を討つ。

 

 皇極天皇4年(645)6月12日、板蓋宮中で中大兄皇子が母帝の目の前で入鹿を討つ。13日には蝦夷も自害して蘇我氏宗家は滅ぶ。14日、天皇は孝徳天皇に(日本初とされる)譲位し、皇祖母尊の称号が奉られた。

 

 孝徳天皇は、間もなく日本初の元号を立てて大化元年とし、中大兄皇子を皇太子とした。大化6年(650)改元して白雉元年とし、白雉3年(652)には難波長柄豊碕宮に遷都した。

 

 しかし孝徳天皇は中大兄皇子と対立し,白雉4年(653)皇子は皇祖母尊や皇后・間人皇女らとともに天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸する。孝徳天皇は白雉5年(654)崩御した。

 

 翌斉明天皇元年(655)正月、62歳となった皇祖母尊が板蓋宮で再び皇位についた(第37代・斉明天皇)。日本初の重祚で、中大兄皇子はなぜか皇位に就かず、引き続き皇太子として政務の実権を握った。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 飛鳥宮跡

 昭和47年4月10日指定

 (旧称 史跡 伝飛鳥板蓋宮跡  平成28年10月3日 名称変更)

 

 日本書記などには、推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、歴代天皇の宮がつぎつぎと飛鳥の地に造営されたことが記されています。昭和34年以来、この地ではおもに奈良県立橿原考古学研究所により発掘調査が続けられ、宮殿遺跡の様相が 明らかとなってきました。

 宮の中心部分は、塀で囲まれた東西約158メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)で、区画の内側では、大規撰な掘立柱建物や石敦き広場などが見つかっています。ここでは、内郭の北東隅で見つかった建物の柱配置や井戸などを表示・復元しています。 

 内郭を囲むようにして、建物や柱列、石組溝などの施設が営まれており、それらを外郭と呼んでいます。また、内郭の東南には、エビノコ大殿と呼称される大規模な掘立柱建物を中心とする一区画があることも明らかとなっています。

 これらの遺構は、木簡や土器などの出土遺物をもとに、日本書紀に記された斉明天皇の後飛鳥岡本宮、および 天武・持統の飛鳥浄御原宮などに相当すると考えられています。 

 

令和3年3月 奈良県

 

 

飛鳥宮跡の変遷

 飛鳥宮跡では、3時期の宮殿遺構が重なって造られており、次のように考えられています。

 Ⅰ期遺構 舒明天皇の飛鳥岡本宮

 Ⅱ期遺構 皇極天皇の飛鳥板蓋宮

 Ⅲ期遺構(前半)斉明天皇の後飛鳥岡本宮

 Ⅲ期遺構(後半))天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮

 Ⅰ期遺構は、北で西に傾く特徴があり、II期遺構から正方位を向くようになります。I・II期遺構は、最後に造られ たⅢ期遺構を保護しながら調査されるため、その構造はまだよくわかっていません。

 Ⅲ期遺構は斉明朝に造られた宮であり、改築されながら天武・持統朝にも引き継がれています。令和4(2022)年の時点で、天皇の住まいである内裏の構造がわかる最古の王宮です。

 なお、この地域には板蓋宮跡地という伝承がありました。 昭和47(1972)年に史跡指定された時には、板蓋宮という確証がなかったため、「伝飛鳥板蓋宮跡」とされましたが、その後の調査・研究成果を踏まえて、「飛鳥宮跡」 に名称変更されています。

 

 

飛鳥宮跡の内郭北東部

 

 飛鳥宮跡では、3時期の宮殿遺構が重なって造られています。ここに復元されているのは最後に造られたⅢ期遺構 (斉明・天武・持統天皇の宮)で、王宮の中枢部である内郭の北東隅にあたります。大型の井戸と、その南側と西側で掘立柱建物が見つかっており、地面は石敷きで舗装されていました。復元整備では、石敷き舗装と、内郭を囲む掘立柱塀および建物2棟の柱位置を円柱で表示しています。

 井戸枠はヒノキの角材で一辺1.75mあり、内法は約1.28m四方になります。井戸枠の周囲には、石組みの排水溝が廻る一辺約10mの区画があり、井戸の北辺から北側に延びる排水溝は、内郭北辺の一本柱塀の下を通って、北の雨落ち溝につながっています。

 

 

飛鳥宮跡の正殿

 

 内裏にあたる内郭は、南門を入ってすぐの南区画と、その奥(北側)の北区画に分けられています。南区画は公的な儀式空間であり、北区画は天皇の私的な空間だと考えられます。

 ここは北区画のほぼ中心部であり、大型の正殿がみつかっています。正殿は、東西8間(約24m)、南北3間(約12m)の建物を中央に置き、その東・西には小型建物が廊下でつながっています。正殿の周りは、人の頭よりも大きな石で舗装されています。東西の総長は約53mで、道路を挟んだ北側にも、まったく同じ構造の正殿がもう1棟見つかっています。